第66話 アーマゲドン接近
朝の港は、いつもと変わらなかった。
潮の匂い。濡れた桟橋。
夜明けとともに動き出す荷役の音と、男たちの掛け声。
沖合に“それ”が現れるまでは。
最初に気づいたのは、見張り台の若者ではなかった。
港の隅で、網の修繕をしていた一人の男が、ふと手を止めた。
年の頃は五十を越えている。
背は高くないが、背筋は真っ直ぐで、無駄な動きが一切ない。
視線は沖。
帆を一目見ただけで、男の中で何かが確定した。
白地。簡素な紋章。
過剰な装飾のない船体。
――ローザンヌ皇国、ルーン商会。
それだけで十分だった。
(……また来た、か)
だが、すぐに違和感が走る。
定期便ではない。視察でもない。
船は一隻ではなかった。
五隻。しかも、どれも大型。
(……一体、何を運んできた? いや――迎えか)
■
男は、港全体をゆっくりと見渡した。
双胴船は、いつもの位置に係留されたまま。
作業場には人の気配がある。
だが――港のどこにも、娘の姿がない。
それだけで、答えは出た。
そのうちの一隻が着岸し、甲板から人が降り始める。
先に現れたのは、上等な服を身にまとった商人風の男たち。数は多い。
続いて姿を現したのは――
海賊のような風体をしていながら、隠しきれない威圧を纏った一人の男。
その後ろには、騎士としか言いようのない集団。
揃った足並み。
革靴が桟橋を打つ音が、やけに重く響く。
(……商会の皮を被った、別の何かだな)
港の空気が、目に見えないほどゆっくりと変質していく。
男は歩き出した。
急がない。だが、迷いもない。
その背後で、王国側の監視を任されていた兵たちが慌ただしく動き出す。
想定外だ。彼らにとっても。
通りすがりの若い漁師が、不安そうに声をかける。
「親方、何か――」
男は足を止めず、短く言った。
「リーネはどこだ。どこにおる!」
問いではなかった。叱責でもない。
ただの確認。
漁師が言葉に詰まる、その一瞬で、男はすべてを理解した。
(……王城か)
港ではない。船でもない。
この時間、この規模で動く理由は、それしかない。
その時、港の奥からこちらも騎士のような姿が走り寄る。
そして片膝をつき、視線を下に落とす。
「お出迎え遅れて申し訳ございません」
他のゴーリキやハバスも無言ながら片膝をついた。
「おう、アステルか」
顎をしゃくって立たせるトラベリオン・ルーン会長。
額には血管が浮き出て今にもブチ切れそうだった。
「娘はどうした?」
「申し訳ございません、王国が来てからふいに村を出たようで」
その言葉を聞いて一瞬、男は目を見開く。
怒号が飛び交うかと思いきや、一呼吸おいてアステルに言葉をかけた。
「悪いのう、お転婆がひっかきまわして」
「いえ、けっして……」
男はその言葉を受けながら、沖を見た。
皇国の船は、完全に接岸態勢に入っている。
港の人間は、まだ騒がない。
王都の船が来ること自体には、慣れている。
だが今回は、違う。
(……間に合わなかったな)
拳を握る。
だが、それを叩きつけることはしない。
怒りではない。
これは――計算だ。
娘が動いた理由。
一緒にいるであろう男の判断。
そして、王都と皇国が何を欲しているのか。
すべて、もう見えている。
(……あの子は、逃げなかった)
だからこそ、ここにはいない。
トラベリオン会長は、ゆっくりと息を吐いた。
(馬鹿者が……だが、ならば親の責任だな)
皇国の船から、さらに人が降り始める。
だがトラベリオン会長は、そちらへは向かわなかった。
港の奥。
陸路へと続く道。
王城の方角を、一度だけ見やる。
「……ただで済むと思うなよ」
呟きは、潮風にさらわれた。
港は、相変わらずの朝を続けている。
だがこの場所にも、確かに届いていた。
――世界が、もう一段階、動き出したという余波が。




