第63話―― 静かな夜、作れない朝
(リーネ視点)
宿の部屋は、王都にしては驚くほど静かだった。
通りに面していないせいか、外の音はほとんど届かない。聞こえるのは、壁の向こうの足音と、どこか遠くで鳴る鐘の残響だけだ。
簡素な部屋だった。
寝台が二つ、机が一つ、椅子が二脚。
余計な装飾も、商会の宿のような気配りもない。
(……十分ですわ)
リーネはそう思った。
今は快適さよりも、「誰にも邪魔されないこと」の方が重要だった。
アジムは窓際に立ち、外を見ている。
夜の王都は、昼間とは別の顔をしていた。灯りは多いが、動きは少ない。まるで街そのものが、息を潜めているようだ。
「……今日は、何も起きませんでしたね」
リーネが言うと、アジムは小さく頷いた。
「ああ。だからこそ、だ」
それ以上、説明はなかった。
だがリーネには分かる。
“何も起きない”という状態そのものが、すでに異常なのだ。
王城前でのやり取りは、穏便だった。
拘束もされず、詰問もない。
ただ、「確認」と「記録」と「保留」。
(制度は、すぐに牙を剥かない)
だからこそ、怖い。
夜は、静かに過ぎた。
互いに多くを語らなかった。
だが沈黙は重くなく、むしろ必要なものだった。
考えるための時間。
感情を整理するための余白。
いつの間にか灯りが落ち、
いつの間にか、夜が深くなっていた。
――そして、朝。
薄い光が、カーテンの隙間から差し込む。
王都の朝は早い。遠くで荷馬車の音がし始めている。
アジムが起き上がる気配がして、
リーネは一瞬だけそちらを見かけ――すぐに視線を逸らした。
理由を考える前に、身体が先に動いていた。
(……集中)
そう自分に言い聞かせ、寝台から起き上がる。
いつも通りの朝だ。
顔を洗い、髪を整え、外套を手に取る。
アジムは机の前に立ち、道具袋を確認していた。
革の留め具を留め、外し、もう一度留める。
意味のない動作だった。
それを見て、リーネは何も言わなかった。
(作れない時間)
彼にとって、今はそれが一番堪える。
材料も、設備もあるのに、手を動かせない。
いや――正確には、動かしてはいけない。
王都では、作るという行為そのものが「意思表示」になる。
作れば、要求される。
拒めば、理由を問われる。
準備が整い、二人は部屋を出た。
廊下を歩く足取りは、昨日と変わらない。
宿の主人に挨拶をし、外へ出る。
王城の方角には、すでに人の流れができ始めていた。
役人、商人、兵士。
それぞれが、それぞれの「役目」に向かって歩いている。
(……今日からが、本番)
昨日は様子見。
今日は、制度が動き始める日。
王国が欲しいのは、船でも機関でもない。
“作れる人間”だ。
リーネは歩きながら、頭の中で条件を並べていく。
どこまで譲れるか。
どこから譲れないか。
誰を盾にし、誰を表に出すか。
隣を歩くアジムは、前だけを見ている。
その横顔は、村にいた頃と変わらない。
だが置かれている状況は、まるで違う。
(守るべきものが、増えましたわね)
それが良いことかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも、戻れない地点は越えた。
二人は言葉を交わさず、王城へ向かう道を進んだ。
鐘の音が、遠くで鳴っている。
でも今朝の鐘の音は、昨日とは違った音に感じた。
それは二人にとっての"Marching signal"だった。




