第61話―― 誰がためになる
(リーネ視点)
王都の門をくぐった瞬間、リーネは無意識に背筋を伸ばしていた。
石畳は均され、建物は整列し、通りを行き交う人々の足取りには無駄がない。港町のような雑踏も、村のような緩さもない。すべてが「正しく配置されている」空間だった。
(……息が詰まりそう)
そう感じるのは、単に人が多いからではない。
王都という場所そのものが、人の流れや物の価値を、あらかじめ決められた枠に押し込めている――そんな圧を、リーネは肌で感じていた。
隣を歩くアジムは、相変わらず無口だ。
だが村にいた頃のような、周囲への無関心ではない。視線は低く、歩調は一定で、まるで足元の石畳の一枚一枚を数えているかのようだった。
(……考えている)
それも、作り物のことではない。
もっと厄介な何かを。
目的地は王都商会の本部。
港町にある支店とは比べものにならないほど大きく、三階建ての石造りで、正面には商会の紋章が大きく掲げられている。
出入りする人々の服装を見て、リーネは小さく息を飲んだ。
(商人だけじゃない……)
上等な外套を羽織った者、書類を抱えた者、そして――明らかに「役人」とわかる人間もいる。
商会というより、官庁の出先のようだ。
中に入ると、すぐに受付の若い男が顔を上げた。
「ご用件は?」
「ラグス・ディーン様にお取り次ぎを。 オルガ村より参りました、リーネと申します」
一瞬だけ、男の表情が変わった。
それは驚きでも警戒でもない。「確認が取れた」という顔だった。
「少々お待ちください」
そう言って奥へ消えるまでが、あまりにも早い。
(……通るのね)
それも、迷いなく。
しばらくして現れたのは、案内係ではなく、執務室用の扉だった。
重い木扉が開かれ、男は言う。
「ラグス様がお待ちです。どうぞ」
アジムと顔を見合わせ、リーネは一歩踏み出した。
執務室は広く、整っていた。
壁一面に並ぶ書架、整然と積まれた書類、そして中央の机。
その向こうに立っていた男を見て、リーネは一瞬、言葉を失った。
「……ラグス?」
彼は確かにラグスだった。
だが、港町で見慣れていた姿とはどこか違う。
服は上等だ。
体つきも変わっていない。
けれど――目だ。
落ち着かないほど忙しく、常に何かを計算している目。
「来たか」
第一声は、喜びでも驚きでもなかった。
「……正直に言うと、来ないでほしかった」
リーネの胸が、ひくりと鳴る。
「それは、随分なご挨拶ですわね」
冗談めかして返したつもりだったが、声が少し硬かった。
ラグスは短く息を吐き、椅子を勧めた。
「座ってくれ。長くなる」
アジムは無言で椅子に腰を下ろす。
リーネもそれに倣った。
しばらく、沈黙。
先に口を開いたのはラグスだった。
「サスペンション馬車は……成功した」
その言葉に、リーネは頷く。
「ええ。港町でも評判でしたわ」
「評判どころじゃない。 正式な実演で、数字が出た」
「……数字?」
ラグスは机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
そこには細かい文字と、見慣れない線が引かれている。
「荷を満載した状態で、悪路を通常の倍以上の速度で走破。 揺れによる破損、ほぼゼロ」
淡々とした説明。
だが、その指先はわずかに震えていた。
「商会は喜んだ。 輸送効率が変わる。損失が減る。利益が跳ね上がる」
「……それなら、良いことでは?」
リーネが言うと、ラグスは苦く笑った。
「“商会”にとってはな」
彼は視線を上げ、低い声で続ける。
「同席していた官僚が、気づいた」
「何に?」
「この数値は、“魔法補助なしでは成立しない”ってな」
室内の空気が、ひやりと冷えた気がした。
「計測官が呼ばれた。軍属のな」
リーネは、はっきりと理解した。
(……商売の話じゃない)
「報告書にはこう書かれた」
ラグスは紙を指で叩く。
「――これは単なる移動手段ではない。 兵站タスクの向上技術である」
アジムが、初めて顔を上げた。
「……戦の話か」
「直接じゃない。 だが、“戦になった時に差が出る技術”だ」
ラグスは一度、言葉を切った。
「ゼノの訴えも、資料として回ってきた」
リーネは眉をひそめる。
「あの男の?」
「ああ。感情的で、信用はされてない。 だがな……」
ラグスは、別の紙束を示した。
「独楽の構造メモ。 あれが“理論補足資料”として綴じられた」
リーネは、背中をなぞる冷たい感覚を覚えた。
「王都では、もう結論が共有され始めてる」
「……どんな?」
ラグスは、言いにくそうに言った。
「村じゃない。“作り手個人”を精査すべきだ、ってな」
沈黙。
アジムは何も言わない。
ただ、机の木目を見つめている。
リーネは、その横顔を見て、はっきりと悟った。
(ここに来たのは、正解だった)
逃げるためではない。
交渉の席に立つためだ。
「……ラグス」
リーネは、静かに問いかけた。
「王城から、何か来ていますの?」
ラグスは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……正式には、まだだ」
その“まだ”が、何より雄弁だった。
「だがな」
彼は声を落とす。
「“技術者アジムの所在確認”は、もう来てる」
リーネは、胸の奥で何かがはっきりと形になるのを感じた。
(時間は、もうない)
アジムが作ったのは、船でも機関でもない。
“速さ”という、世界の均衡を崩す道具だ。
そして王都は、それを見逃すほど鈍くはなかった。
リーネは、そっと息を吸い、言った。
「……では、始めましょうか」
「何を?」
「“切り離す交渉”を」
ラグスは、苦笑とも安堵ともつかない表情で頷いた。
「やっぱり、君もそう考えたか」
しばらくの沈黙のあと、ラグスが椅子にもたれかかった。
「……で、どうするつもりだ?」
問いかけは、アジムではなくリーネに向けられていた。
「もう一度言うが」
ラグスは声を低くする。
「王都商会は、君たちを“売る”つもりはない。だが――隠すこともできなくなった」
「ええ」
リーネは即座に頷いた。
「ですから、相談に来たのですわ」
机の上に、彼女は一枚の紙を置いた。
それは、港町で使われていた商会ルートの一覧だった。
「この中で、今も“生きている”経路は?」
ラグスは一瞥し、首を横に振る。
「ほとんど死んだ。
人も、荷も、記録も……追跡が入っている」
「では」
リーネは、もう一枚を差し出す。
それは、王都内部――官庁街に近い区画の簡易地図だった。
「ここなら?」
ラグスの指が、止まった。
「……王城に行く気か?」
アジムが顔を上げる。
「王城?」
「正確には“城の前まで”だ」
ラグスは言った。
「商会として、正式な紹介はできない。 だが、“技術者個人が自ら出頭する”形なら、止める理由はない」
リーネは静かに息を吐いた。
「逃げた、とは言わせないための形ですわね」
「そうだ」
ラグスは苦笑した。
「それしか、村を切り離す方法が残っていない」
アジムは、少し考え込むように視線を落としたあと、言った。
「……俺が行けば、港は?」
「今すぐには手を出されない」
ラグスは断言した。
「少なくとも、“本人不在”の状態ではな。 技術の核心が君の頭にしかないことは、向こうも理解している」
それを聞いて、リーネは確信した。
(だからこそ、ここまで待った)
「では、条件を詰めましょう」
彼女は言う。
「“同行者”として、私も連名にします」
ラグスが目を見開く。
「正気か?」
「ええ」
リーネは微笑んだ。
「私がいれば、“技術者の単独暴走”ではなくなります」
「交渉になります」
しばし、沈黙。
やがてラグスは、深く息を吐いた。
「……やっぱり、商人だな。君は」
立ち上がり、扉の方へ視線を向ける。
「今夜は動くな。 明朝、最短で王城前に出る手配をする」
それが、限界だった。
執務室を出た二人は、並んで廊下を歩いた。
外では、王都の鐘が再び鳴り始めている。
だが今度は、リーネにははっきりと聞こえた。
これは歓迎でも、警告でもない。
逃げ道が閉じ、進むしかなくなった音だ。
二人は、言葉を交わさず、王城の方角へと歩き出した。
窓の外では、王都の鐘が鳴っていた。
規則正しく、無機質に。
それは、歓迎の音ではない。
新しい歯車が、回り始めた音だった。




