第57話── 王都の影と、煮え立つ鍋
王都では、静かなざわめきが広がっていた。
発端は二つ。
ひとつは、王国商会が持ち帰った「揺れない馬車」。
もうひとつは、技師ギルドの重鎮ゼノが、怒りに任せて提出した報告書だった。
――辺境の村に、魔法を用いず理を歪める者がいる。
――鉄の性質のみで衝撃を制御し、既存の魔導理論を否定する危険人物だ。
文章は冗長で、感情が前に出すぎていた。
だが、それでも無視できない単語が、いくつも並んでいた。
「……で、どう見る?」
政府の役人は、机に並べられた書類に視線を落としたまま問う。
「ゼノの訴えは私怨が強すぎます」
「ですが、こちらは別です」
差し出されたのは、王国商会から提出された試験報告。
サスペンション馬車の走行記録。
荒れた街道を、通常の半分の時間で走破。
積み荷の破損率は激減。
「魔導馬車を使わずに、ここまでの成果……」
「物流が変わるな」
役人は、短くそう言った。
「軍部が、黙っていないだろう」
その言葉通り、王都ではすでに水面下で話が動き始めていた。
――この技術があれば、荒野を越えられる輸送馬車が作れる、と。
だが、まだ誰もオルガ村には来ていない。
役人たちは理解していた。
こうした技術は、拙速に触れれば壊れる。
「……まずは、様子を見る」
「視察の準備を整えろ」
歯車は、静かに噛み合い始めていた。
◆
その頃のオルガ村は、いつも通りの夕暮れだった。
港の隅。
古い石積みのそばで、焚き火が起こされている。
「今日はな、魚だけじゃねぇぞ」
バルじいが籠を掲げる。
「カニだ、エビだ! 潮が良かったんだろうな」
漁師たちの歓声が上がった。
石で囲った即席のかまど。
大鍋が据えられ、海水を少し薄めただけの湯が煮え始めている。
「漁師鍋じゃ!」
「切って、放り込んで、煮るだけだ!」
具材は豪快だった。
魚は骨ごと、野菜は形も揃えず、甲殻類は殻付きのまま。
酒も回り、笑い声が増えていく。
アジムも、誘われるまま輪の中にいた。
木の椀を手に、湯気の立つ鍋を眺める。
(……こういう時間も、悪くない)
鉄と理に向き合う日々の中で、こうして何も考えずに腹を満たす時間は、確かに必要だった。
「おい、アジム!」
誰かが声を上げる。
「双胴船はどうなった?」
「また折ったのか?」
どっと笑いが起きる。
「沈んではいない」
「折れただけだ」
ぶっきらぼうな返答に、さらに笑いが広がった。
そのときだった。
――カタ、カタ。
鍋の蓋が、小さく音を立てた。
誰も気に留めない。
煮え立てば、よくあることだ。
だが、音は次第に規則的になっていく。
カタ。……カタ。
アジムの視線が、鍋に向いた。
蓋が、まるで内側から叩かれているように、持ち上がっては戻る。
(……変だな)
次の瞬間。
――パァン!
鋭い破裂音が響いた。
かまどの一角の石が弾け飛ぶ。
「うおっ!?」
「何だ今の!?」
続けて、鍋が大きく傾き、煮汁と具材が一気に溢れ出す。
「誰だ! 水に浸かった石を使った奴は!」
怒号と悲鳴。
誰かが転び、誰かが酒をこぼし、誰かが笑う。
完全な大騒ぎだった。
だが、アジムだけは動かなかった。
視線は、割れた石と、傾いた鍋に固定されている。
(水に浸かった石、か)
石の内部に残った水分。
熱せられ、逃げ場を失い、一気に膨張した。
鍋。蓋。火。水。
(……閉じ込めた結果だ)
一度、閉じ込めれば。
逃げ場を塞げば。
そこには、確かな力が生まれる。
それは、ポンポン機関と同じ理だった。
水を熱する。蒸気が生まれる。
圧が溜まる。問題は――。
(制御だな)
誰かが言った。
「まあ、鍋は駄目になったが」
「腹は減ったままだ!」
笑い声が戻る。
新しい鍋が据えられ、今度は蓋を少しずらして。
アジムは、静かに息を吐いた。
(閉じ込めるだけじゃ、破壊になる)
なら、どうする。
答えは、すでに浮かんでいた。
「……だから、出口を作ればいいか」
圧を逃がすための通路。
溜めて、解放するための道。
ポンポン機関の鼓動が、脳裏で重なった。
宴は続く。
酒は進み、鍋は煮え、笑い声が夜に溶けていく。
だが、その片隅で、
また一つ、新しい理が芽吹いていた。
港の向こう、暗い海が静かに揺れている。
誰も知らないところで、
世界は、確実に次へ進んでいた。




