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第54話 ── 揺れない馬車と、二日酔いの商人


翌朝。

オルガ村の入り口、まだ朝靄あさもやが立ち込める街道の入り口で、王国商会のラグスは死んでいた。


いや、正確には「死に体」だった。

青白い顔をして、自分の馬車の車輪に寄りかかり、ひどい吐き気と戦っている。


「……バル、じい……。あの、クソジジイ……ッ!」


昨夜の光景が、地獄の走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

バーザムが去り、不穏な空気の中で一泊することになったラグスを捕まえたのは、村の長老、バルだった。


『王国商会の旦那が、わざわざこんな僻地まで来てくれたんじゃ。もてなさんわけにはいかん』


その言葉を合図に、ラグスやほかの部下たちも村外れの焚き火へと引きずり込まれた。

断る間もなかった。

屈強な漁師たちが、笑顔で(しかし逃げられない力強さで)ラグスの両脇を固め、次々と酒を注いだのだ。


アジムが余興で作ったという「蒸留設備」から生み出された酒は、澄み切っているくせに、喉を通る瞬間に火を吹くような熱さを持っていた。

それが、干しただけの魚や、焼きたての貝という絶品の肴と共に、際限なく運ばれてくる。


気がつけば、ラグスは漁師たちと肩を組み、「王都の商売は、こう……理不尽でな!」と泥酔しながら愚痴をこぼしていた。


「……あぁ、気持ち悪い。世界が回っている。馬車が動く前から、俺の三半規管は限界だ……」


ラグスが再び込み上げるものを必死に飲み込んだその時、背後から無遠慮な足音が近づいてきた。


「生きてるか。ひどい顔だな」


振り返るまでもない。アジムだった。

その手には、昨夜遅くに作業場で叩き上げた、細長い鉄の板が数枚重なった「異質な物体」が握られている。


「アジム……。今は、話しかけないでくれ。声の振動すら、胃に響くんだ……」


「そう言うな。お前のために、一晩かけて作ったんだぞ」


アジムは、ラグスの弱音を完全に無視して、手際よく馬車の車輪付近に潜り込んだ。 鉄がぶつかる硬質な音が、ラグスの頭にガンガンと響く。


「おい、何を……っ、俺の馬車を勝手にいじるな!」


「昨夜、お前が泣きながら叫んでいただろう。『道が悪すぎて荷が割れる! 卵も酒も俺の心も、全部ガタガタだ!』とな」


「……言った記憶はない。だが、事実はその通りだ」


「だから、作った。解決策だ」


数分後。

アジムが地面を払って立ち上がった。

ラグスの馬車の車軸付近には、昨日まではなかった「鉄の積層板」が、重厚な輝きを放ちながら取り付けられていた。


「『衝撃吸収装置』だ。板バネ式サスという」


「サス……なんだと? また変な名前を……」


「鉄の『弾性』を利用して、路面からの衝撃を逃がす仕組みだ。ただの硬い鉄じゃない。しなり、戻る。その繰り返しで、揺れを殺す」


ラグスは呆れ果てたように吐き捨てた。


「馬鹿を言え。鉄だぞ? 鉄がしなるわけがない。そんなものを取り付けたら、余計に馬車が重くなって、振動がダイレクトに伝わるだけだ。……いいから外してくれ。俺は一刻も早く、揺れないベッドへ帰りたいんだ」


「いいから乗れ。リーネ、お前もだ」


いつの間にか現れていたリーネが、面白そうに馬車に乗り込む。


「アジムさんが一晩寝ずに作ったんですもの。試す価値はありますわよ、ラグスさん」


「……万が一、俺が中で吐いたら、清掃代は村で持ってもらうからな」


ラグスは恨みがましい視線をアジムに向けながら、よろよろと座席に収まった。


「御者、出せ。村の出口まで、一番荒れている道を通れ」


アジムの合図で、馬車が動き出す。

御者は困惑した顔をしたが、アジムの指示通り、村で最も石が転がり、わだちが深い坂道へと馬車を向けた。


ラグスは身構えた。

あの場所を通れば、いつもの馬車なら突き上げるような衝撃が走り、腰が浮き、舌を噛む。

二日酔いの今なら、確実に胃の中身をすべてぶちまけることになる。


「来るぞ……。覚悟しろ、リーネさん……!」


馬車が、大きな石に乗り上げた。


 ──フワリ。


ラグスは、一瞬、自分の感覚が麻痺したのかと思った。

視界の中では、御者台が確かに上下に揺れている。車輪が石を乗り越えた感触も、かすかに伝わってくる。


だが、尻に伝わる「衝撃」がないのだ。

鋭い突き上げは、柔らかな波のような揺れへと変換され、座席を優しく押し上げるだけに留まっている。


「……え?」


ラグスは思わず、座席のクッションを触った。


「揺れない……。いや、揺れているんだが……痛くない。どういうことだ?」


「すごいですわ! ラグスさん、見てください! 膝の上に置いた算盤が、動いていませんわよ!」


リーネが興奮して声を上げる。

馬車はそのまま、いつもなら徐行しなければ車軸が折れるような悪路を、平然とした速度で走り抜けていく。


ラグスは窓から身を乗り出し、アジムが取り付けた「鉄の板」を見つめた。

地面の凸凹に合わせて、その鉄の重なりが生き物のように「しなり」、路面の衝撃を吸収している。


「これだ……。こういうものだよ。これだよ、アジム!」


ラグスは、さっきまでの二日酔いも、バーザムへの恐怖も、すべてを忘れたような顔で叫んだ。


「お前、自分が何をしたか分かっているのか!? この『板バネ式サス』があれば、輸送速度は倍になる。

いや、破損率を考えれば、利益は三倍、四倍に跳ね上がるぞ!」


馬車が止まると同時に、ラグスは飛び降りた。

地面に膝をつき、泥だらけになりながら、そのバネの構造を食い入るように見つめる。


「道が悪いから、石畳を敷く。誰もがそう考えた。だがお前は、車の方を変えちまった! こんな発想、王都中のどんな天才技師だって持っちゃいない!」


ラグスの目は、先ほどの死んだ魚のような色から一転、ギラギラとした商人の輝きを取り戻していた。


「独占だ! この技術、王国商会で、いや、俺の部署で独占させろ! 契約書は!? 今すぐ書く! ペンを持ってこい!」


はしゃぎ回るラグスの姿を見て、リーネがクスクスと笑いながらアジムの隣に並んだ。


「あら、ラグスさん。昨夜の接待代、そしてこの『歴史的発明』のライセンス料。……王国商会の予算、足りるかしら?」


「ぐっ……! それは……あぁ、もう! いくらでも計上してやるよ! このバネさえあれば、俺は商会のトップまで駆け上がれるんだからな!」


騒がしい。

だが、その騒がしさは、昨日までの、権力が衝突する「冷たい重苦しさ」とは全く違うものだった。


アジムは、自分の汚れた手のひらを見つめた。

鉄を叩き、形を変える。

これまでは、ただ「必要だから」やってきた。

敵から守るため。村を動かすため。


けれど──。


目の前で、たった数枚の鉄板に感動し、子供のように目を輝かせて「未来」を語るラグスの姿。

そして、その様子を誇らしげに、そして楽しそうに見つめるリーネの笑顔。


(ああ……)


アジムの胸の奥に、温かいものが宿った。

土地神に問われた答えが、ようやく分かった気がした。


(俺は、やっぱり……これが見たくて作ってるんだな)


誰かを驚かせ、誰かを助け、誰かを笑顔にする。

道具の本質は、そこにある。

武器だってそうだ。守るために作るのではない。

守った先の「笑顔」を見たいから、作るのだ。


アジムは、ふっと口角を上げた。


「ラグス。そんなに喜ぶなら、もう一つ提案がある」


「何だ!? まさか、空でも飛ぶ馬車か!?」


「いや、次は『船』だ。このバネの考え方を応用して、どんな荒波も切り裂いて進む、最高に速い船を作る。……リーネ、予算の準備をしておけ」


アジムの瞳に、迷いのない、職人としての強い光が宿った。

「進もう」と、心が決まった。


リーネは一瞬、呆気に取られたようにアジムを見つめたが、すぐに満面の笑みで頷いた。


「ええ! もちろんですわ、アジムさん。……ラグスさん、聞きました? あなたの商会、破産するまで投資してもらうことになりそうですわよ?」


「……望むところだ! 地獄の果てまで付き合ってやるよ、オルガ村!」


朝の光が、新しく打ち直されたサスペンションを鋭く照らし出していた。

それは、世界を塗り替える「技術革命」の、小さな、けれど確実な最初の一歩だった。


アジムは作業場へと歩き出す。

その背中は、昨日よりもずっと軽やかだった。


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