第47話 ── 胃痛と報告書と、逃げ場のない現実
辺境伯領・領主館。
朝の光が差し込む執務室で、アルヴェーンは机に突っ伏していた。
「……また、か」
呻くような声と同時に、胃の奥がきりりと締めつけられる。
昨夜は、ほとんど眠れていない。
横になれば報告書の文面が頭に浮かび、目を閉じれば地図上の一点――オルガ村が脈打つように主張してくる。
「……ただの廃村だったはずだろうが……」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
あの海沿いの村は、徴税もままならず、人口も減り、報告書では常に「保留」「様子見」「再調査予定」と書かれ続けてきた場所だ。
――見捨てたわけではない。
だが、優先順位の底に沈めていたことは否定できない。
その村が。
今や、王国商会と皇国商会を同時に動かし、中央の徴税官を“交渉”で帰らせ、そして、自分の胃をここまで痛めつけている。
「殿」
控えめな声が、執務室に響いた。
顔を上げると、補佐官が書類の束を抱えて立っている。
「……まだ、あるのか」
「はい」
即答だった。
アルヴェーンは、深く息を吐く。
「……聞こう」
補佐官は、一枚目の書類を差し出した。
「王国商会より正式照会です。 オルガ村港を起点とした物流について、“領主としての見解”を求めています」
「……逃げ道は?」
「ありません」
二枚目。
「中央徴税局からの追伸です。 免税特例について、“現地判断を尊重する”とのことですが……」
「だが、責任は私に回る、と」
「はい」
三枚目。
「皇国商会オルガ村支店からの通知です。 “港湾設備の追加工事に伴う周辺調整について、 領主権限との整合確認を希望する”と」
「……丁寧だな」
それが、余計に胃に悪い。
どれも、表向きは礼を尽くしている。
だが、裏を返せば――
(もう、無視できないと言っている)
アルヴェーンは、椅子に深く腰掛け直した。
怒りはない。恐怖も、ない。
あるのは、判断の遅れが積み重なった結果を、今まさに請求されている感覚だった。
「……私は、何を知らなかった?」
ぽつりと、漏れる。
補佐官は答えない。
答えられないのではない。
答えが、多すぎるのだ。
港の建設。
皇国商会の先行進出。
村の内部統治。
徴税官との交渉。
どれも、“本来なら領主が関与すべき案件”だった。
「……正式な使者を、出すべきか」
その言葉に、補佐官は慎重に頷いた。
「はい。 今度は、“確認”ではなく、“対話”として」
「……名代ではなく?」
「責任を負える者を」
胃が、きりりと鳴った。
先日の使者は、あくまで様子見だった。
失敗すれば切れる駒。
だが今回は違う。
出せば、こちらの意図が問われる。
引けば、領主権が形骸化する。
「……向こうは、どういう姿勢だ?」
補佐官は、少し間を置いて答えた。
「強硬ではありません。 ですが……」
「ですが?」
「“譲る気もない”ように見えます」
アルヴェーンは、目を閉じた。
頭の中に浮かぶのは、報告書の一文。
村長バルガス、住民を代表して、毅然と応対。
感情的反発はあるが、要求は一貫して合理的。
(……村長、か)
顔も思い出せない老人だ。
書類の片隅でしか見たことがない名前。
その男が、今や領主の判断を待たせている。
「……皮肉なものだな」
見捨てたわけではない。だが、見なかった。
見なかった場所が、今、最も厄介な存在になっている。
「殿」
補佐官が、静かに言った。
「この件、逃げれば逃げるほど、 主導権は現地に固定されます」
「……分かっている」
アルヴェーンは、机に置かれた地図を見る。
オルガ村。海と陸の結節点。
もはや、ただの辺境ではない。
「……ならば」
ゆっくりと、決断する。
「こちらから行く」
補佐官が、目を見開く。
「殿自ら、ですか」
「正式な使者だ。 礼を尽くし、話を聞く」
そして、低く続けた。
「……今度は、後出しで管理などと言わん」
胃が痛む。
だが、不思議と頭は冴えていた。
「準備しろ」
「は」
「これは、失地回復ではない」
アルヴェーンは、はっきりと言った。
「関係を、作り直す話だ」
補佐官は、深く頭を下げる。
執務室に、再び静寂が戻った。
アルヴェーンは、天井を見上げる。
「……まったく」
苦笑とも、溜息ともつかない声。
「なぜ私は、港ではなく―― “村”に、胃をやられているんだ」
だが、答えは分かっていた。
オルガ村は、もう“放っておける存在”ではない。
それだけの話だった。




