第39話 ── 錆びた罠と、算盤の咆哮
港務事務所での書類審査を前に、主任検査官フラウスは、表情一つ変えずに内心で舌打ちしていた。
(……想像以上だ)
港の構造。 荷役動線。 人員配置と安全導線。
どれを見ても、「辺境の村が思いつきで作った施設」ではない。
だが――完璧すぎる。
それが、フラウスには逆に不気味だった。
彼は会長の直属ではない。
ルーン商会内部で、水面下で勢力を拡大する「副会長派」。
その一員として、この港の“検分”を任されている。
(潰せ。潰して、管理権を本部に戻せ)
投資が成功すれば、功績は会長のもの。
失敗すれば、その尻拭いと再編は副会長派が握れる。
理屈は単純だった。
「……この荷役橋ですが」
フラウスは、わざとらしく首を傾げた。
「軸受け部の素材強度が、規格上、やや曖昧ですね。 基準値を“満たしている”とも、“満たしていない”とも取れる」
随行の「技術顧問」が、すぐに頷く。
小太りで、いかにも凡庸そうな男。
だが、その袖口には、禁忌指定の薬品が忍ばされていた。
――魔導酸。
鉄のに極めて緩慢に作用する。即座に崩壊はしない。
だが、数時間後には“疲労破壊の兆候”を示す。
検分という名の場で使えば、
「施工不良の疑い」
「経年劣化の想定不足」
「安全基準未達」
いくらでも、合法的に潰せる。
男が、何気ない仕草で、荷役橋の可動接合部に近づいた。
瓶の栓が、わずかに緩められる。
その瞬間――
ガチリ、と。油の差し忘れた歯車が噛み合うような、嫌な金属音が響いた。
「……っ!?」
荷役橋の軸受けが、唐突に跳ねた。
いや、正確には――逃げた。
指先が触れる寸前、鉄のパーツがわずかに角度を変え、男の指を鋼の縁で弾き飛ばしたのだ。
「ぐ、ぎゃああっ!?」
小瓶が床に転がり、乾いた音を立てる。
周囲が凍りついた。
影の中から、アジムが歩み出る。
怒鳴らない。
詰め寄らない。
ただ、その目が――冷たい。
「……その酸」
低い声だった。
「鉄を腐らせる」
アジムは、床に落ちた小瓶を一瞥する。
「即死性はない。だが、“欠陥”として扱うには、ちょうどいい毒だ」
指先が、わずかに動く。
床を這った鉄の糸が、顧問の足首を絡め取り、逃げ道を塞いだ。
「……俺の港で、俺の鉄に、不純物を混ぜる理由を聞こうか」
フラウスの喉が、ひくりと鳴った。
これは、事故ではない。
だが、アジムは「破壊未遂」とは言わない。
――言えば、相手は制度で逃げる。
だから、言葉を選ぶ。
「不純物を混ぜ、時間差で“欠陥”を生む」
静かに、一語ずつ。
「それを“検分”と呼ぶなら…… 随分と、腐った仕事だな」
フラウスは、後退りした。
目の前の男は、職人ではない。
だが、権力者でもない。
それなのに――
逆らってはいけないものだと、本能が告げていた。
「さて、フラウス様」
空気を切り替えたのは、二階から降りてきたリーネだった。
彼女は、机の上に、小瓶を置く。
その隣に、別の書類を重ねる。
「こちらは、ハバスが傍受していた通信記録の写しですわ」
副会長派。 管理権。 検分の“落とし所”。
逃げ道を塞ぐには、十分すぎる証拠。
「お父様の耳に入りましたら…… どうなるか、分かりますわね?」
算盤が、カン、と鳴る。
「ですから、提案です」
差し出されたのは、誓約書。
拒否すれば、地下牢。受け入れれば、静かな失脚。
「選択権は、検分主任であるあなたにあります」
一刻後。
震える手で、フラウスは公印を押した。
検分団は、
『構造上・運用上、非の打ち所がない港』
という報告書だけを残し、村を去った。
夕暮れ。
港務管理棟の入口に、新しい看板が掲げられる。
ルーン商会・オルガ村支店
アジムは無言で、看板の傾きを直した。
「……ようやく、静かになるな」
リーネは微笑む。
「いいえ、アジムさん。 これからが本番ですわ」
算盤を、胸に抱いて。
「この港を、世界の“逃げ場のない拠点”にして差し上げます」
鋼と算盤で掴んだ独立。
それは誰にも奪えない形で、オルガ村を次の段階へ押し上げていた。




