第36話 ── 商人の試練
ブラムがオルガ村を去ってから、早いもので三週間の月日が流れていた。
かつては絶望と沈黙に支配されていたこの辺境の村は、今やかつてない活気に沸いている。
アジムが「芋虫鉄」を使い、岩盤を加工する。
それをトマルやヴィントたち村の男たちが総出で削り落とした。
自分たちの手で崖を切り拓き、垂直10メートルまで掘り下げて広げた新しい岸壁。
それは、アジムの計算が形となった、鋼の船を迎えるための完璧な「形」であった。
そして今日、ついにその時が訪れた。
水平線の向こうから、ルーン商会の紋章を掲げた大型貨物船『アルビオン号』が、その巨躯を現したのだ。
「……来ましたわ。私たちの、新しい時代の始まりですわ」
リーネが、愛用の算盤を胸元でぎゅっと握りしめ、高鳴る鼓動を抑えるように呟く。
アルビオン号は、その巨大な船体からは想像もつかないほど滑らかに港へと進入してきた。
船長は、ブラムから受け取った「新しい海図」を半信半疑で辿っていたが、目の前に現れた垂直の岸壁を見て、驚愕に目を見開いた。
「バカな……あんな断崖に、これほど完璧な接岸場所ができているだと?」
船は迷いなく岸壁へと滑り込み、衝撃一つなくぴたりと横付けされた。
船底が岩に触れる音すらない。
アジムと村人たちが、三週間、不眠不休に近い勢いで整え上げた仕事の成果だった。
だが、接岸して見上げると、現実的な課題がそこに立ちふさがった。
大型貨物船の甲板は、岸壁よりもはるかに高い位置にある。
そこには、家一軒分もありそうな資材の束が、うず高く山積みになっていた。
「……こりゃあ、人力だけで運ぼうと思ったら、日が暮れるどころか次の満月が来ちまうぞ」
トマルが首を鳴らしながら巨大な船体を見上げて息を吐く。
皇国の護衛官ゴーリキも、自慢の太い腕をさすりながら苦笑いを浮かべた。
「俺が死ぬ気で担いでも、この量は数日はかかる。大将、何かいい考えはあるのか?」
アジムは無言で、岸壁の端に据え付けてあった「鉄の柱」に歩み寄った。
「……トマル。すまないが、あの崖から切り出した岩の芯材をここまで運んでくれ。準備を始める」
アジムが用意していたのは、荷下ろしの常識を覆すための仕掛け──
天秤式揚重機であった。
崖を削り出す際に出た巨大な岩を重石にし、アジムが精錬した「芋虫鉄」の強靭な糸をワイヤー代わりにしたものだ。
アジムが静かに指を動かし、鉄の糸に魔力を通すと、巨大な鉄の腕がギチギチと低い音を立てて旋回し、船の真上へと伸びていった。
「……吊り上げよう。ゆっくり引いてくれ」
アジムの合図で、村人たちが一斉に滑車を引く。
数トンはある資材の束が、まるで羽毛のように軽々と宙に浮き、岸壁へと整然と下ろされていく。
「すげえ……大将、魔法ってのはこんな使い道もあったのか!」
村人たちの感嘆の声。
アジム流の、無駄を削ぎ落とした荷下ろしが始まった。
■商会の試練
荷下ろしが順調に進む中、船長が重厚な封筒を携えてタラップを下りてきた。
それは、ルーン商会の封蝋が押された、リーネの父──商会会長からの親書であった。
リーネは背筋を伸ばし、商会の代理人としての威厳をまといながら慎重に封を切る。
しかし、読み進めるうちに、その可憐な眉間には深い皺が刻まれていった。
「相変わらず、お小言ばかりですわ、あのお父様は!
『家を飛び出した末に、辺境の廃墟でドブ板掃除に勤しんでいる暇があるなら、すぐに戻って縁談の一つでも進めろ』……ですって!」
リーネは怒りに顔を赤く染め、手紙を握りしめた。
「おまけに、この資材は投資ではなく『貸付』。 次の船が来る三週間後までに、この港が拠点として機能している“証拠”を見せろ、という課題まで添えてありますわ」
アジムは作業の手を止めず、淡々と問いかけた。
「……具体的には? 数字か、あるいは形か」
「……両方ですわ」
『冬の荒天を想定し、大型船三隻が三ヶ月滞在しても余裕のある食料と真水の備蓄を確保しろ。
そして、それらを迅速に積み込める仕組みを完成させろ』。
「さらには、『村の者が誰の手でも、安全に荷役を完遂できる組織としての体裁を整えろ』と。要するに、アジムさんの腕一本に頼るのではなく、商売の拠点として自立できることを証明せよ、ということですわ」
アジムは、船から下ろされた荷物の一部を検分した。
中には皇国最新の「特殊合金」も混じっていたが、アジムは指先で触れてすぐに手を離した。
「……こいつは鉄じゃないな。俺のやり方が通らん。今回の役には立たん、その辺に置いておけ」
「えっ、捨ててよろしいの?」
「必要ないものは、持たない主義だ。それよりリーネ、親父さんの課題は、俺にとっても都合がいい」
備蓄を積み込み、魔獣からも港を守るための
── 『大型の鉄の爪』をこの岸壁に据え付ける。
「クレーンを複雑にするより、俺の手足の延長となる巨大な爪を常設したほうが、どんな重量物も一瞬で捌ける」
アジムは届いた良質な鉄材だけを選別し、すでに頭の中で「巨大な爪」の設計図を組み立てていた。
■鉄の価値と商談
アルビオン号の船倉が空になると、船長が商売人特有の目つきでリーネに歩み寄った。
「さて、リーネお嬢様。会長からの課題は伝えましたが、我ら商人が空船で帰るわけには参りません。
この村には、何か売れるものはございませんか?まあ、せいぜい二束三文の干魚くらいでしょうが……。積んでやらないこともありませんよ?」
その侮った言葉を遮るように、アジムが岸壁に一つの塊を置いた。
夕陽を浴びて鏡のように鈍く光る、無骨ながら神々しい銀色の塊──
高純度の鉄インゴットであった。
「なっ……これは!?」
船長が慌てて膝をつき、その塊を凝視する。
鑑定具を取り出すまでもない。
表面に一切の歪みがなく、不純物の濁りも存在しない。
皇国の名だたる鍛冶師ですら、一生に一度拝めるかどうかの極上品だった。
「アジムさんが岩盤を削る際、ついでに集めた砂鉄から不純物を抜き、練り上げたものですわ。
……船長、これがお父様への一番の『土産』になりませんこと?」
「……土産どころではありません!
これほどの純度、魔導回路の基盤や聖騎士の剣に喉から手が出るほど欲しがられる物だ。
「……リーネ様、これはおいくらで?」
「ふふ、インゴットは時価ですわ。ですが、今回はお安くお譲りしましょう。その代わり──三週間後の『検分』で私たちが課題をクリアした際、お父様には独占通商権だけでなく、村への『追加の工作機械』を無償で提供していただきますわ」
「……承知しました。必ずお伝えします」
アジムは揚重機を操作し、次々とインゴットを船倉へ積み込んでいく。
その流れるような荷役作業こそが、すでに会長の求める「迅速な物流」の答えだった。
「アジムさん。あんなに安く譲ってしまって、よろしいんですの?」
リーネの問いに、アジムは淡々と応えた。
「構わん。あれは俺にしか作れんし、あんなものはまだ練習だ。……それより、本番はこれからだぞ。
親父さんの課題は、このインゴットを『安定して』供給できる仕組みを作れと言っているんだ」
「ええ。三週間後、ここを世界で唯一の『純鉄の供給基地』にして見せますわ!」
夕暮れの港から、アルビオン号が重そうに、しかし確かな利益を腹に抱えて出航していった。
残されたのは、山積みの新しい鉄材と、アジムたちが描く新しい村の設計図。
オルガ村は、ただの「兵站基地」を超え、皇国の経済を揺るがす「鉄の心臓部」として動き出した。
「……トマル。明日からは、備蓄のための倉庫を建てる。お前たちの力が必要だ」
「おうよ、大将! 次の船が来る頃には、皇国の奴らを腰抜かさせてやろうぜ!」
焚き火の明かりが、新しくできた岸壁を赤く染める。
オルガ村の夜は、希望に満ちた喧騒と共に更けていった。




