第33話 ── やってきた男
夜明け。
アジムは高台の端に鎮座する土地神の社の前に立っていた。
拡張工事で削り取っている崖の安寧を願うとともに、社の周囲を整える。それがアジムの流儀だった。
『……鉄の小僧よ。励んでおるな』
頭の中に直接響く、形のない、しかし力強い声。
「……崖を削らせてもらっている。港を広げないと、村が食っていけないからな」
『理よ。だが、心せよ。波の向こうから、お主が編んだ鉄の臭いを嗅ぎつけ、不浄の風が吹き寄せておる。……平穏は、ここまでよ』
「……風?」
問い返した時には、土地神の気配は消えていた。
アジムは胸に去来するざわつきを抑え、崖下の港へと視線を落とした。
そこには、昨日まで広げた「石の道」が、朝靄の中で鈍く光っている。
だが、その石積みのさらに先。
水平線の彼方から、朝日を遮るようにして、巨大な三本のマストを備えた船が姿を現した。
「……トマル! 船だ!」
アジムの声に、見張り台で交代を待っていたトマルが飛び起きた。
隣で網の手入れをしていたセランも、その影を見て目を見開く。
「アジムさん! あの帆、見たことねえぞ! 王国の船じゃねえ!」
船は、オルガ村の狭い入江など一顧だにしない速度で接近してきた。
港では、帳簿を抱えて朝の検品を始めようとしていたリーネが、その船影を捉えて凍りついていた。
「……っ、ああ……」
彼女の手から、愛用のペンが滑り落ちる。
石積みの岸壁に乾いた音が響いた。
「リーネ? どうした、知り合いか?」
駆け寄ったアジムの問いに、彼女は答えられない。
ただ、その顔は見たこともないほど白く、唇が小刻みに震えている。
彼女の視線の先――接近する船の帆には、精緻な装飾の「金色の天秤」が描かれていた。
「……ローザンヌ皇国……ルーン商会……。どうして、ここを……」
商船は接岸の合図も送らず、手際よく小型の移送船を下ろす。
まるで自分の庭に踏み込むかのような傲慢さで、アジムたちが広げたばかりの岸壁に乗り込んできた。
降りてきたのは、豪華な正装に身を包んだ船員たちだ。
先頭に立つ男は、手にした杖で石積みの床を叩き、鼻を鳴らした。
「……ふん。こんな地の果ての廃墟に、これほどの石積みと、不気味な鉄の腕か。おい、ここの責任者は誰だ」
アジムの隣で、ヴィントが肩に担いだ斧を地面に突き立てた。
「どこの馬の骨だか知らねえが、まずは名乗るのが筋だろ。それとも皇国の連中は、挨拶もできねえのか?」
「無礼な野蛮人が。貴様のような者に名乗る名などない。……答えろ。この半年以内、この付近で座礁したローザンヌ皇国の船はないか。そこから逃げ出した『ある品』を隠匿している者はいないか」
「知らねえな。漂流物なら海燕が全部喰っちまったよ。……とっとと失せろ」
ヴィントが喧嘩を吹っ掛けたその時。
背後にいたリーネが、震える足を叱咤するように一歩前へ出た。
「……おやめなさい、ヴィントさん。この方たちは、話の通じる相手ではありません」
リーネの声に、船員たちの目が一斉に向けられる。
先程まで傲慢に振る舞っていた男が、信じられないものを見たように絶句した。
「お……お、おお……! リーネ様!? リーネ・ド・ルーン様ではありませんか!」
男が弾かれたように石畳の上に膝をつく。それに続き、後ろの船員たちも次々と頭を垂れた。
「探しましたぞ! まさか、生きてこのような僻地においでだったとは……! 本国では、商会長が悲嘆に暮れておられました!」
「……悲嘆? 贅沢な品を一つ失った程度の感情でしょう。ブラム」
跪く男――ブラムと呼ばれた男の言葉に、港の空気が凍りついた。
見張り台から駆け下りてきたトマルが、あんぐりと口を開けて指を差す。
「……様? おい、なんだよ……あの金ピカの連中が、なんでリーネに土下座してんだ?」
「ルーン商会の……。あの船のマストの紋章、あいつらが言った名前……」
アジムの隣で、バルじいが「ふーむ」と短く唸り、トマルの疑問をなぞるように言葉を継いだ。
「あのおなごは、ルーン商会の……それも会長直系の末娘、ということか。道理で帳簿の扱いが並みの商売人ではなかったわけじゃな」
「ええっ!? 末娘!? リーネが、そんな大層な……!」
トマルの驚愕の声が、静まり返った港に響き渡った。
アジムは、跪く男たちを冷たく見下ろすリーネの横顔を見た。
彼女は、村人たちに向けていた穏やかな微笑みを消し、皇国の貴人としての冷徹な仮面を被っていた。
「……父はまだ、私を『品物』として探させているのですか?」
アジムは、リーネの背後にそびえる「鉄の爪」を仰ぎ見た。
自分たちが生きるために築いたこの場所が、今、巨大な利権の渦に飲み込まれようとしていた。




