第32話 ── 鋼の寿命、石の道
潮風が、湿り気を帯びて頬を撫でた。
オルガ村の港を見下ろす断崖の縁で、アジムは一人、鉄の支柱に手を置いていた。
ひんやりとした感触。その中に、わずかな違和感が混じっている。
(……錆び始めているな)
見た目には分からない。
だが、海の塩分は容赦ない。
芋虫鉄で編んだ構造体の表面が、確実に蝕まれ始めていた。
鉄の爪。 ワイヤー。 防波堤の芯。
今この港を支えているすべてが、永遠ではない。
(数年……早ければ、もっと短いか)
胸の奥に、小さな焦りが灯る。
鉄が朽ちる前に、この村を「鉄がなくても立つ場所」にしなければならない。
石だ。 本物の、石の港。
そのためには、もっと多くの荷を扱い、王国が無視できない物流拠点になる必要がある。
富を呼び、資材を呼び、時間を稼ぐ。
「……アジム、またそんな顔をしておるのか」
背後から声がした。
振り向くと、バルじいが湯気の立つ茶を手に立っていた。
「徴税官の件か?」
「ああ。一応、報告しておこうと思ってな」
バルじいは鼻で笑った。
「あやつを『利』で釣ったそうじゃな。リーネの嬢ちゃんらしい手並みだ」
だが、その目は鋭かった。
「……だが、急いでおる理由は、それだけではあるまい?」
アジムは黙って足元を指差した。
「鉄が、長持ちしない」
「ほう」
「数年で、ボロが出る。その前に、石で固めなきゃ港は死ぬ」
バルじいはゆっくりと茶を啜り、深く頷いた。
「なるほどの。じゃがな、アジム。一人で全部背負うな」
「……」
「そんな顔をしておると、若い衆まで不安になる」
その時だった。
「聞いたぞ、アジム!」
豪快な声と共に、ヴィントが岩陰から姿を現した。
「鉄が錆びるなら、その前に石で固めりゃいいんだろ? うちの山には、まだまだ使える石が山ほどある」
根拠はない。
だが、妙に頼もしい。
アジムは思わず、息を吐いた。
「……助かる」
「よし! じゃあ次だ次!」
今度は崖下から、トマルの声が飛んできた。
「次の石、吊るすぞー!」
休んでいる暇はない。
アジムは頷き、現場へと降りていった。
現在の港は、断崖の足元にあるわずかな平地を使っている。
荷揚げを始めれば、すぐに手狭になる場所だ。
「まずは横に広げましょう」
リーネが帳簿を開きながら言った。
「崖に沿って岸壁を延ばします。鉄の爪はそのまま使えますし、接岸できる船も増やせます」
「最低でも三隻、か」
「はい。本格的な交易を考えるなら、それが最低条件です」
作業は荒々しかった。
アジムは岩肌に手を当て、芋虫鉄を亀裂へと滑り込ませる。
内側から膨張させ、岩を砕く。
砕かれた石は、そのまま新しい岸壁の芯になる。
「セラン、そこ埋めて!」
「任せて!」
女性たちが砕石を網に詰め、隙間へ流し込む。
ヨランが重い籠を運び、汗を流す。
かつて怯えていた少年たちが、今は港を作っている。
アジムは石積みの内部に、細い鉄の骨組みを通していった。
(外に出すな。石の中に閉じ込める)
海水に触れなければ、寿命は延びる。
石と鉄を、内側から縫い合わせる。
鉄の爪が、次々と巨石を運んでくる。
「ゆっくりだ! ドラグ離すな!」
ラッチが規則正しい音を刻み、重力が制御される。
もはや、アジムの魔法がなくてもいい。
人の手と、仕組みが、港を作っていた。
数週間後。
岸壁は三十メートル以上、横へと広がっていた。
広くなった平地。
その上に敷かれた堅木の床。
「……次は、奥だな」
アジムは、新たに立ちはだかる絶壁を見上げる。
ここをくり抜き、岩盤倉庫を作る。
本当の拠点を。
夜。
焚き火を囲み、皆で港を眺めていた。
「すげえな……俺たちが作ったんだよな、これ」
ヨランが呟く。
「欲張りだよな、アジムさん。でもさ」
セランが笑う。
「付いていきたくなるんだよ。あの鉄の音、聞くと」
バルじいが、茶を差し出した。
「どうじゃ。港、少しは広く見えるか?」
「……ああ」
アジムは頷いた。
「一人じゃ、無理だった」
「かっかっか! 鋼が朽ちるなら、その前に強くなればいいだけじゃ」
その時。
「ところでアジムよ。土地神様の許可はもろたか?」
「……あっ」
一斉に笑いが起きた。
「神様はいるんだぞ!」
「いてっ!」
バルじいの杖が飛ぶ。
アジムは湯気の立つ茶を啜りながら、思った。
(見えなくても、信じる人がいる。 だから、俺はここにいられるんだ)
翌朝。
港には、いつもより力強い音が響いていた。
鉄の爪が朝陽を反射する。
いつか錆びるとしても、その意思は石に刻まれている。
水平線の向こうに、帆船の影が見えた。
招かれざる客か。 待ち望んだ富か。
石の道は、すべてを受け入れる準備を整えていた。




