第26話 ── 影の船の使者と、アジムの選択
昨日の進水式での鮮烈な成功と、心臓が止まるような失敗。
それらはアジムの身体に、心地よい疲労と消えない緊張感を残していた。
朝の静寂の中、アジムは一人、波打ち際に係留された海燕号の甲板に立っていた。
「……ここだな」
アジムが、昨夜のうちに仮修復しておいたメイン・トラスの接合部に、そっと手を触れる。
指先から微細な魔力を流し込むと、鉄の芋虫たちが微かに震えて応えた。
彼らは、昨日の衝撃を記憶しているかのようだった。
過剰な硬化が船体を自ら破壊しかけた。
アジムは、衝撃を逃がすための工夫を感じた。
そのため「遊び」を持たせた新しい関節構造を、一つ一つ丁寧に編み込んでいった。
「アジムさん、早いですね」
背後から涼やかな声がした。リーネだ。
その手には、古い海図と昨日書き留めたと思われる計算式が並んだ羊皮紙が握られていた。
「リーネか。……昨日のこと、考えてたんだ。
俺の魔法とお前の風を、もっと確実に繋ぐ方法を」
「私もです。……アジムさん、これを見てください」
リーネが広げた海図の端を指差す。
「ここは、私たちが住むこの島の近海です。ここから北へ半日ほど進んだ場所に、『千の針』と呼ばれる岩礁地帯があります。海流が複雑で、魔獣の幼体が集まりやすい危険な場所ですが……」
「そこへ行くのか?」
「はい。あそこなら、波の複雑さも魔獣の不規則な動きも、テストするには最適です。
……そして、これを使いたいんです」
リーネが懐から、二つの小さな鉄の輪を取り出した。
以前アジムが端材で作ったものだが、今のそれにはリーネの手によって、風の術式が刻まれていた。
「これは、二つの輪を風の共鳴で繋ぎます。一つは私が持ち、一つはアジムさんの手首に。
私が風で感じた『波の予感』を、言葉ではなく振動として、直接アジムさんの肌に伝えます。
そうすれば、声が届かない荒波でも、私たちは一つになれる」
アジムはその鉄の輪を受け取った。
リーネの知識と魔法を融合させる姿勢は、いつ見ても合理的で、そして献身的だった。
やがてバルじいとトマルも合流した。
村人たちに見送られながら、海燕号は再び滑るように港を出た。
今回の目的地は、昨日とは比較にならない難所だ。
船が島の影を抜け、外海に出た瞬間、海の色が濃い藍色に変わった。
風が強まり、海燕号がその身をしならせる。
「アジムさん、繋ぎます!」
リーネが呪文を唱えると、アジムの手首にある鉄の輪が、微かに熱を持ち震え始めた。
(……来る)
アジムの脳内に、直接イメージが流れ込んできた。
それは言葉ではない。
風が海面を撫でる時のざわつき。
波の底にある巨大なエネルギーの塊。
リーネが見ている「世界の流れ」が、アジムの感覚と重なった。
「……見える、見えるぞ、リーネ!」
アジムは、自分の目ではなくリーネの風を通じて海を視ていた。
前方三〇〇メートル先、鋭い岩礁が牙のように突き出している。
その下を流れる強い反転流を、アジムははっきりと感知した。
「船底、右側三分の一を流動化!波の力を推進力に変える!」
アジムが魔法を放つ。
海燕号のトラスが、リーネの予感に導かれるように、波の斜面に合わせて完璧な角度で折れ曲がる。
衝撃はゼロだった。
船は岩に叩きつけられるどころか、波の力を後ろへ受け流し、弾かれたように加速した。
「うおおっ!今の岩、掠りもしなかったぞ!」
トマルが叫び、バルじいも「まるで海が道を開けておるようじゃ」
と驚嘆の声を上げた。
だが、真の試練は『千の針』の中心部で待ち構えていた。
海面が急に不気味なほど静まり返り、潮の香りが生臭く変化する。
「アジムさん、気をつけて。下から……巨大な、負の振動が来ます」
リーネの声が震えていた。
鉄の輪を通じて伝わる彼女の鼓動が、急激に早まる。
海底から地鳴りのような音が響いた次の瞬間、海燕号の周囲の海面が、山のように盛り上がった。
それは島一つを飲み込みかねない、巨大な魔獣の「背中」だった。
「……大禍か!」
バルじいの顔から血の気が引いた。
それはこの近海では伝説上の存在とされる、深海の主だった。
魔獣の浮上に伴い、周囲の海水が巨大なすり鉢状の渦を形成し始める。
「アジムさん、私の風を全部渡します!」
リーネがアジムの背中にしがみついた。
彼女の全魔力が、鉄の輪を通じてアジムへと流れ込む。
アジムの視界が一気に白濁し、次の瞬間、彼は「海燕号」そのものになった。
(……ここだ。力の中心を突く!)
アジムは、荒れ狂う潮の中に唯一「静止している点」を見つけ出した。
それは、渦の回転と逆方向の力が衝突して打ち消し合っている、針の穴のような隙間だった。
「トマル、帆を捨てろ!マストを倒せ!この船を一本の針にするんだ!」
アジムの咆哮とともに、海燕号は渦の壁へと突っ込んだ。
アジムは船全体のトラス構造を、極限まで細長く鋭く再構成した。
リーネが示した「理の隙間」を、アジムの圧倒的な出力が貫く。
船体全体が赤熱するほどの摩擦に晒された。
だが芋虫鉄は耐え、リーネの風が水の抵抗を極限まで減らした。
次の瞬間、視界がパッと開けた。
海燕号は魔獣の渦を突き抜け、静かな外海へと放り出されていた。
振り返ると、遥か後方で巨大な魔獣が再びゆっくりと深海へと沈んでいくのが見えた。
彼らは自らの知恵と力で、世界の主の気まぐれを生き延びたのだ。
「やったな、リーネ。お前のおかげだ」
「……アジムさんのおかげですよ。あんな無茶な操船、私一人じゃ思いつきもしません」
リーネが力なく微笑んだが、バルじいの顔は険しいままだった。
「アジム。お前さんたちは今日、海の理を一つ書き換えた。……だが、この船の力は目立ちすぎるかもしれん」
その予感は正しかった。
水平線の彼方、ヴァッサリア王国の船の望遠鏡が、海面を飛ぶように脱出した銀色の影を捉えていた。
「報告せよ。北の辺境海域に、所属不明の高速魔導艇を確認。とな」
冷徹な声が軍艦の甲板に響く。
アジムたちの小さな成功は、巨大な時代の波を引き寄せようとしていた。
夕日に照らされながら、海燕号は誇らしげに、そして静かに村へと向かっていった。




