第15話 ── 痛みの朝、揺れる心
霧が晴れ始めた海は、まるで戦いの痕跡を隠すように静まり返っていた。
波は穏やかで、昨日の荒れ狂う海が嘘のようだ。
だが、崖の上にはまだ、血の跡が残っている。
アジムはその血を見つめていた。
乾きかけた赤黒い染みが、朝日を浴びて鈍く光る。
(……ヨランの血だ)
胸の奥が、じわりと痛む。
痛みは、戦いの最中に感じたものとは違う。
もっと重く、もっと深く、もっと逃げ場がない。
背後から声がした。
「アジム! ヨランを運ぶぞ!」
トマルの声だ。
振り返ると、村人たちがヨランを抱え、崖の上を急いでいた。
ヨランの腕には布が巻かれているが、血が滲み出している。
アジムは一歩踏み出そうとした。
だが、足が動かなかった。
(……俺のせいだ)
胸の奥で、何かが重く沈む。
(俺が……あの瞬間…… “死ねばいい”なんて…… 思ったから……)
自分の心の醜さが、足を縫い付けていた。
「アジム! 来い!」
バルじいの声が飛ぶ。
アジムはようやく足を動かし、村人たちの後を追った。
■ ヨランの家へ
ヨランの家は、海に近い小さな木造の家だった。
漁具が壁に掛けられ、床には網が広げられている。
普段は穏やかな生活の匂いがする場所だが、今日は血と焦りの匂いが満ちていた。
ヨランの妻が泣きながら布を持ってくる。
「ヨラン! しっかりして!」
ヨランは歯を食いしばり、痛みに耐えていた。
「大丈夫だ……大丈夫だ……」
だが、その声は震えていた。
村の女たちが薬草を煎じ、布を煮沸し、男たちはヨランの体を押さえて治療を手伝う。
アジムは家の入口で立ち尽くしていた。
手が震えている。
足が震えている。
(……俺が……)
ヨランの妻が叫ぶ。
「誰か! もっと布を! 血が止まらない!」
アジムは思わず前に出た。
「俺が……!」
だが、手を伸ばした瞬間、自分の手が震えていることに気づいた。
(……触れない)
ヨランの血が、自分の罪悪感を形にしたように見えた。
バルじいがアジムの肩を掴む。
「アジム。 お前は……無理に手を出さんでいい。 今は、治療の邪魔になる」
アジムは唇を噛んだ。
「……すまん」
バルじい
「謝るな。 お前が悪いわけじゃない」
アジム
「……悪い。
俺は……あの瞬間…… ヨランが……死んでもいいと…… 思ってしまった」
バルじいは目を細めた。
「……それを言えるだけ、お前はまだ人間じゃ」
アジム
「……?」
「戦いの最中に、心が汚れるのは当たり前じゃ。 醜い自分が顔を出す。
それを“なかったこと”にする奴のほうが危ない。 お前は……ちゃんと向き合っとる」
アジムは目を伏せた。
(……向き合えているのか? 俺は……ただ怖いだけじゃないのか?)
■ 治療の終わり
ヨランの治療は長引いた。
腕の傷は深く、骨に届くほどだった。
だが、命に別状はない。
ヨランの妻が涙を拭いながら言う。
「……ありがとう。 アジム……あなたのおかげで…… ヨランは生きてる」
アジムは首を振った。
「……違う。 俺のせいで……ヨランは……」
ヨランが弱々しく笑った。
「アジム…… お前のせいじゃねぇよ…… 俺は……自分で前に出たんだ…… 港が……欲しかったからよ……」
アジム
「……ヨラン……」
「お前が……いなきゃ…… 村は……あの化け物に…… 飲まれてた…… だから……胸張れ……」
アジムは言葉を失った。
(……胸を張れ? 俺が……?)
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
だが、同時に痛みも増した。
(……俺は……ヨランを傷つけた)
その事実は消えない。
■ 村の反応
ヨランの家を出ると、村人たちがアジムを待っていた。
「アジム! ありがとう!」
「お前のおかげで助かった!」
「ソードザラシを追い払ったんだ! 村の英雄だ!」
アジムは苦笑した。
(……英雄? 俺が?)
だが、同時に別の声も聞こえた。
「アジムの魔法……すげぇな……」
「すげぇけど……怖ぇよな……」
「もしアジムが倒れたら……村はどうなる?」
「魔法って……あんなに危ないもんなのか……?」
感謝と畏怖が入り混じった視線。
アジムはそれを敏感に感じ取った。
(……俺は……村の外側に立っている)
そんな感覚が胸に刺さる。
■ 崖の上へ
アジムは一人、崖の上へ戻った。
海は静かで、昨日の戦いが嘘のようだ。
だが、海の底にはまだ、ソードザラシの影が潜んでいるような気がした。
アジム
「……俺は……何をしてるんだろうな」
風が吹き、髪を揺らす。
(俺は……人を守るために戦った。 でも……あの瞬間…… ヨランが死んでもいいと思った)
胸が痛む。
(そんな俺が…… 村を導いていいのか? 魔法を使って…… 人を守るなんて…… 思い上がりじゃないのか?)
だが、同時に別の声が胸に響く。
(……俺たちは勝った。 村は未来を掴んだ。 ヨランは命を賭けてくれた。 逃げちゃいけない)
アジムは拳を握った。
■ バルじいとの対話
バルじいが静かに近づいてきた。
「アジム。 ここにおったか」
アジム
「……バルじい」
「ヨランは助かった。 お前のおかげじゃ」
アジム
「……俺は……最低だ。 あの瞬間……ヨランが死んでもいいと思った」
バルじいは笑った。
「戦いとは……そういうもんじゃ。 心が汚れる。醜い自分が顔を出す。 それでも前に進む者だけが……村を守れる」
アジム
「……俺は……進めるか?」
バルじい
「進めるさ。 お前は……泣きながらでも、立っとる。 それで十分じゃ」
アジムは涙をこぼした。
■ 静かな決意
ヨランの家から、かすかな寝息が聞こえてくる。
アジムはその音を聞きながら、静かに呟いた。
「……俺は、逃げない。 この痛みを抱えたまま…… 村の未来を作る」
海は静かだった。
だが、その静けさの奥には、まだ何かが潜んでいる気配があった。
アジム
「……港を作ろう。 ヨランのためにも」
朝日が海を照らし、新しい一日が始まった。




