第10話──崖の前で見えたもの──
夜が明けても、高台の空気は重かった。
村人たちはほとんど眠れず、疲れ切った顔で海のほうを見下ろしている。
昨日の惨劇が、まだ身体の奥に残っているようだった。
壊れた家々。
吹き飛んだ屋根。
砂浜に散らばる木片。
破れた網の残骸。
そして、浅瀬の先に広がる海。
波は穏やかだった。
まるで昨日の暴れ狂った魔獣など存在しなかったかのように。
「……ここに戻れるんじゃろうか」
「家は直せても、また壊されるかもしれん」
「海から離れたら漁ができんぞ」
「でも海辺は危険じゃ……」
声は小さい。
怒鳴り合いにはならない。
ただ、疲れ切った人々の間で、静かに、しかし確実に不安が広がっていく。
アジムはその声を聞きながら、胸の奥が重くなるのを感じていた。
自分が何かできるわけではない。
だが、何もしないわけにもいかない。
そんなとき、バルじいがアジムの肩を軽く叩いた。
「アジム。崖を見に行こうや」
「崖……ですか?」
「住まいをどこに建てるか決めるには、まず地形を知らんといかん。 わしらは海のことは分かるが、崖のことはお前のほうが分かるじゃろ」
アジムは頷いた。
確かに、地形を知ることは必要だ。
そして、自分の能力がどこまで役に立つのかも確かめておきたい。
「行きましょう」
二人は高台から少し離れた崖の縁へ向かった。
■ 崖の前に立つ
崖は、海岸線の片側に寄っている。
滝の反対側だ。
岩盤がむき出しで、ところどころに苔が張り付いている。
波が打ち寄せるたびに、崖の下の岩が白く泡立つ。
アジムはまず、俯瞰で崖全体を見渡した。
「……思ったより高いですね」
「そうじゃ。昔からこの崖は崩れん。 だが、波で削られとる場所もある。 そこが弱いんじゃろうな」
バルじいは崖の縁を指差した。
確かに、岩の色が違う部分がある。
そこは水を含んでいるのか、少し黒ずんで見えた。
アジムはしゃがみ込み、岩に触れた。
「……硬い。でも、表面は少しもろいですね」
指でこすると、粉のようなものが落ちる。
風化が進んでいるのだろう。
「下まで同じ質なんですかね……」
「どうじゃろな。昔、崖の上に穴を掘ろうとしたことがあったが、深く掘ると硬い岩に当たったわい」
「じゃあ、表面だけが風化してるんですね」
アジムは頷いた。
まずは地質の確認。
これは生活者としての観察だ。
■ 満潮・干潮の確認
アジムは崖の下を見下ろした。
波が寄せては返す。
岩の色の境目が、潮の高さを示している。
「満潮のときは……ここまで来るんですね」
「そうじゃ。 干潮のときは、あの岩が全部見える」
バルじいが指差した先には、今は半分ほど海に沈んだ岩があった。
「じゃあ、崖の足元は……常に波に削られてるんですね」
「そういうこっちゃ」
アジムは考え込んだ。
崖の足元が削られているということは、将来的に崩れる可能性もある。
「……ここに家を建てるのは無理ですね」
「わしもそう思う」
二人は頷き合った。
■ 芋虫を試す
アジムは崖の表面に手を当てた。
魔力を少し流す。
岩に含まれる鉄分が、魔法に反応して微かに震えた。
「……やってみます」
アジムは小さく呟き、
米粒ほどの芋虫を数百匹、崖の表面に展開した。
「おお……これが芋虫か」
バルじいが目を丸くする。
アジムは芋虫たちに命じた。
「くっつけ」
芋虫たちは崖の表面にぴたりと張り付いた。
だが、芋虫が鉄を吸うわけではない。
アジムが魔力を流し、岩の鉄分を抽出する。
すると──
芋虫の身体がわずかに膨らむ
岩の表面が白っぽくなる
指で押すと、粉のように崩れる
「……鉄分が抜けましたね」
「ほんまか。こんな硬い岩からか」
「鉄分が抜けた部分だけですけどね。 深いところまでは無理みたいです」
アジムはさらに魔力を流し、芋虫を千匹規模に増やした。
頭が少し重くなる。
魔力の消費が増えている。
「これ以上は……長くは持たないですね」
「無理するなよ」
バルじいの声に、アジムは頷いた。
芋虫たちが鉄分を吸い出した部分は、表面だけがスカスカになっていた。
深部は硬いまま。
「……これなら、人の力で砕けますね」
アジムは脆くなった岩を手で崩して見せた。
「おお……これはすごいのう」
バルじいが感嘆の声を漏らす。
「でも、崖全体を加工するのは無理です。 魔力が持ちません」
アジムは息を整えながら言った。
そのとき──
胸の奥に、あの声がふっと蘇った。
『土地は沈む。沈むべきところは沈む。 抗えば、より大きく沈むぞ』
土地神の警告。
あの静かで、どこか冷たい声。
アジムは崖と海の境界を見下ろした。
沈む土地。
沈ませたい土地。
沈むことが“自然”である場所。
(……沈むべき土地がある。 なら、沈む土地と沈まない土地があるはずだ)
アジムは崖の上の地形を思い返した。
硬い岩盤。
風化した表面。
波の届かない高台。
そして、滝の位置。
(沈む土地と、沈まない土地…… その境界を、俺たちで決められるんじゃないか?)
鉄分を抜けば、岩は脆くなる。
人の力で砕ける。
必要な部分だけ弱らせることができる。
(削れないなら、削る必要のない形にすればいい。 自然の形をそのまま使って……
“港にできる形”に近づけることなら、俺たちでもできる)
胸の奥に、確かな手応えが生まれた。
まだ港とは言わない。
まだ形にもなっていない。
ただ──
「自分たちの手で、この地形を港にできる」
その確信だけは、はっきりと芽生えた。
■ 村へ戻る
アジムとバルじいが高台へ戻ると、村人たちは仮住まいの準備を始めていた。
木材を集める者。
水場を探す者。
子供をあやす者。
怪我人の手当てをする者。
皆、疲れている。
だが、動いていた。
「アジム、どうじゃった?」
バルじいが代わりに答えた。
「崖は硬いが、鉄分を抜けば脆くなる。 芋虫でそれができるらしい」
村人たちがアジムを見る。
アジムは少しだけ照れながら言った。
「……まだ分からないことだらけです。 でも……何かできるかもしれません」
その言葉に、
村人たちの表情がわずかに明るくなった。
「そうか……」
「何かできるなら、それで十分じゃ」
「今は生きることが先じゃ」
アジムは頷いた。
「まずは仮住まいを作りましょう。
それから……考えます」
村人たちは再び作業に戻った。
アジムは海を見下ろした。
昨日暴れた魔獣が潜む海。
壊れた村。
そして、崖。
「……何かできる。
きっと、何か」
アジムは小さく呟いた。
その声は誰にも届かなかったが、
彼自身の胸の奥に深く刻まれた。




