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第1話 ── 目覚めたら知らない天井と知らない老人と湿った藁だった

最初に感じたのは、湿った藁の匂いだった。


鼻の奥に刺さる、乾ききっていない草の匂い。雨に打たれ、十分に干されないまま積み上げられた藁特有の、生ぬるさを含んだ匂いだ。意識の底に沈んでいたはずの感覚が、その匂いをきっかけに、ゆっくりと浮かび上がってくる。


次に、背中に伝わるざらついた布の感触。厚くもなく、柔らかくもない。長く使われ、何度も洗われ、繊維が痩せきった布が、体の重みをそのまま受け止めている。


そして──鼻先にかかる、誰かの荒い息。


(……近い)


考えるより先に、身体が反応した。


アジムは反射的に目を開けた。


視界いっぱいに、しわだらけの顔があった。


「……おおっ、生きちょる!」


驚いたような、心底ほっとしたような声だった。


「っ……!」


起き上がろうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。筋肉の奥が悲鳴を上げ、喉の奥で息が詰まる。視界が一瞬、白く弾けた。


(……やめとけ)


本能的にそう判断し、動きを止める。


骨が折れている感触はない。内臓に致命的な違和感もない。ただ、冷え切った身体が、急激に現実へ引き戻される途中のような、だるさと重さがあった。


(腕は動く。足も……大丈夫そうだな)


「動くな動くな。まだ冷えちょる」


老人はそう言うと、ぐっと距離を詰めてきた。 次の瞬間、肩に回された腕から、じんわりと体温が伝わってくる。


「……ちょ、ちょっと……」


抗議しかけたが、声に力が入らない。


「死ぬよりゃええじゃろ」


悪びれた様子もなく、老人はそのまま寄り添ってくる。 乾いた皮膚の感触と、確かな温もり。人の体温というものが、これほど心強く感じられたのは久しぶりだった。


(……体温で温めてるのか)


理解した途端、抵抗する気力が抜けた。


「浜に打ち上げられたとき、氷みてぇに冷たかったんじゃ。火ぃ焚いても追いつかんでな。こうするしかなかった」


淡々と語る口調には、迷いがなかった。命をつなぐための、当然の判断だったのだろう。


「……助けて、くれたんですね」


「気にすんな。ワシはこの村の村長、バルデンじゃ。バルじいでええ」


(村長……)


名乗られて、ようやく状況を整理する余裕が生まれた。


老人──バルじいの訛りに、微妙な違和感を覚える。


(帝国語じゃない。南方……いや、もっと海沿いの方言か)


「ここはヴァッサリア王国の端っこの村じゃよ」


その言葉で、アジムは完全に理解した。


(……流されたな。しかも、かなり)


海戦の記憶が、断片的に蘇る。嵐、破損した船、冷たい海水。 生き延びたのは、運が良かっただけだ。


◇◆◇◆


その日は、ほとんどを眠って過ごした。


熱が出ては引き、意識が浮かんでは沈む。その合間に、誰かが水を飲ませ、額を拭き、毛布をかけ直してくれる気配があった。


夜になり、ようやく意識がはっきりした頃、アジムは静かに呼吸を整えながら、天井を見上げていた。


木の梁。土壁の染み。隙間風で揺れる影。


(……敵地ではない、な)


拘束もない。武器を突きつけられてもいない。 警戒は必要だが、少なくとも今は、安全だ。


◇◆◇◆


翌日。


まだ身体は重かったが、歩けないほどではなかった。 外に出ると、朝の冷たい空気が肺に染みた。


村は小さかった。 家々は低く、屋根は藁葺き。壁は土と木を混ぜた簡素な造りで、ところどころに補修の跡がある。新しい木材はほとんど使われておらず、黒ずんだ古材ばかりだ。


(……貧しい)


人口は五十人前後。 行き交う顔ぶれは限られており、若者は少ない。


漁船は丸木舟が数艘だけ。それも、新しいものは一つもない。


(修理しながら、騙し騙し使ってるな)


村の端に干された網は、何度も繕われ、ところどころ糸が細くなっていた。


井戸のそばを通りかかったとき、小声の会話が耳に入った。


「でも、今年が最後かもしれんねぇ」


「船がもう三艘しか出せんって……」


「沖に魔獣が居ついたから、漁にも出られんし」


「この前の嵐で、網もまた破れた言うとった」


「若いもんも、町に出て戻らんしねぇ」


声は次第に小さくなり、やがて途切れた。


(……今年が、最後?)


その言葉が、胸の奥に沈んだまま、動かない。


「おーい、アジム!」


振り向くと、バルじいが畑の向こうから手を振っていた。


「どうじゃ、村は気に入ったか」


「……素朴で、いいところですね」


「はっはっは! 遠回しに貧乏言われたのは初めてじゃ!」


腹を抱えて笑う。 だがその笑顔は、ほんの一瞬だけ、海の方へ向けられた。


「まあ、なんとかなるじゃろ。ワシらはずっと、こうして生きてきたんじゃ」


一拍。


「……生きてきた、だけじゃがな」


その呟きは、独り言のように小さかった。


(……ああ)


アジムは悟った。


この村は、前に進んでいるわけじゃない。


ただ、崩れないように耐えているだけだ。


◇◆◇◆


夜。


藁の寝床に横になり、天井の隙間から覗く暗闇を見つめる。


(俺は……どうする)


流れ着いた旅人として、数日休んだあと、去ることもできる。

この村の事情に深入りせず、見なかったことにすることも。


だが、昼間に聞いた言葉が、何度も頭の中で反芻される。


――今年が最後かもしれん。


胸の奥で、小さな火が灯った。


それは、温かいだけのものじゃない。


消せば、楽になれる。 忘れれば、元の流れ者に戻れる。


助けられたときの体温を、思い出していた。


あの距離の近さ。 生きるために迷わない手つき。


(……知らなかったことには、できないな)


アジムは、ゆっくりと目を閉じた。


一度灯った火は、 もう、消し方が分からなかった。




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