少年は弟子になるのか、ならないのか?(2)
老女の記憶が次第に鮮明になってくると、オルトの脳裏に息子・翔太の幼い頃の姿が浮かんだ。
学校から帰ってくると真っ先に母親に駆け寄り、今日あった出来事を嬉しそうに話す少年。
成績が悪くて落ち込む息子を、夜遅くまで励まし続けた母親。
二人だけの小さな世界は、父親を早くに亡くした悲しみを互いに癒し合う、かけがえのない絆で結ばれていた。
しかし、翔太が大学生になり母親が再婚した頃から、その関係に亀裂が生じ始めた。
母親は息子の将来を案じ、安定した職業に就くことを強く望んだ。
一方、翔太は芸術の道を志し、母親の理解を得られないまま家を出て行った。
「あの子は絵を描くのが好きで...でも私は心配で、心配で」
記憶の中の老女の声に震えが混じった。オルトの意識に、母親の深い後悔が流れ込んでくる。
あの時、なぜもっと息子の気持ちに寄り添えなかったのか。なぜ自分の不安ばかりを押し付けてしまったのか。
翔太は家を出る前の晩、母親にこう言った。
「新しい家族ができて母さんは嬉しいのかもしれない。僕にとっても父親と妹と呼べる人ができで世間的には幸せなんだと思う。でも・・母さんは僕の気持ちを聞いてくれたことはあった?」
その言葉が、二十年経った今でも母親の心に深い傷として残っていた。
美咲がそっと母親の手を握った。
「お母さん、お兄ちゃんはきっと分かってくれます。お母さんがどれだけお兄ちゃんを愛していたか」
老女は涙を流しながら続けた。
「翔太...お母さんはあなたの幸せを願っていたつもりが、あなたを分かっていたつもりになっていました。あなたを愛する気持ちは一日たりとも変わっていないのに。」
オルトの体に母親の深い愛情が波のように押し寄せた。
息子への想いは時間が経つにつれて後悔へと変わり、そして最期の瞬間に純粋な愛へと昇華されていく。
その感情の重さに、オルトの意識は揺らぎそうになった。
まもなく命を終える母親の記憶の中で、翔太は今も絵筆を握り続けていた。
小さなアパートで、母親との思い出を描き続けている。
母親が最後の命を振り絞るようにオルトに言った。
「オルトさん、人はそばにある大切なことやものほど価値を忘れてしまう時があって気づくはずなのに、また時間が経てば忘れてしまう。本当に愚かで、どうしようもありませんよね。」
「今までどれだけ素晴らしい想い出があっても一瞬の出来事でなかったことにもなってしまう。そんな儚さを抱えながら生きている私たちのような者を何人も見ているオルトさんには、私がどう見えていますか?」
オルトは母親の問いかけに複雑な顔をしながら、一言だけ応えた。
「儚くて、愛おしくて、悲しさが寄り添っているからこそ美しい。と僕は思います」
母親は、オルトの言葉に救われたような優しい顔になり、心の中でつぶやいた。
「翔太、お母さんはあなたが愛おしい。許されるなら、2人で住んでいたアパートの頃のようにゆっくり話せる時間が・・・」
老女の最後の言葉が、オルトの神経系を通って確実に記録された。
「お母さん、なんでそこまで・・・私には・・」
美咲の悲しさと少しの憎悪にも近い感情を含んだ声と、すすり泣く音がオルトにかすかに聞こえた。
母親のこの想いを翔太に届けることが、オルトに与えられた使命だ。
母と息子、二十年の断絶を埋める最後の橋渡しとして。