はじまりってそんなもん【春】
彼は生きている。
彼はちゃんとこの世で生きている。
彼はこの生きづらい世の中の人間として、
そして私の恋人として、
カレは生きている。
井口愛、大学一年生。行きたかった大学に、ろくに勉強もせず入学した私。嫌味とかではない。面接だけの推薦入学で楽に入れてしまい、入学早々授業についていけていない、ただの落ちこぼれだ。
その授業には一切興味がない。私がこの大学に入った理由、それは、私が片思い中の彼、夢咲怜志君がいたから。彼は私の兄の友達で、一言も話したことがないくせに、いつのまにか目で追っていた。よく一途と言われる私。たしかに、好きな人ができればその人以外の異性は異性に見えなかった。そして彼以外を異性と思えなかった時点で、その気持ちに気付いていた。
目で追い続けて一年、私は今、彼の所属しているらしい演劇サークルの説明会の扉を開けようとしている。
『演劇サークル~GuiLt~』
と大きく書かれたボロボロの板が、ここには入るなと言わんばかりに扉をふさいでいた。どかそうとしても重くて動かない。どうしたものかと立ち尽くす。
「あれ、もしかして新入生?」
背後からthe・大人という雰囲気の女性が立っていた。雰囲気こそ大人だが、講師という感じでもない。おそらく先輩だろう。大学に入ると本当に年齢が読めない。
「あー、これ邪魔だよね、ごめんね、入って入って!」
そう言うと、その女性は素早く板をどけた。見た目とは反した怪力に少し驚きすぎてしまい、呼吸を忘れていた。
「どうぞ。とりあえずここに座って。」
「……あ、はい、すいません……。」
思わず謝ってしまった。中の綿が出たりしていて結構汚いソファだが、言われるままに恐る恐る座ると、サークルの説明が始まった。津田優子さんの話はとても分かりやすく、なにか引き込まれるものがある。説明の仕方から伝わるこの話のうまさは、演劇で養ったものなのだろうか。説明が終わるころにはソファの汚さなど気にしていなかった。
「——とまあこんな感じなんだけど、何か聞きたいこととかある?」
「……あの……」
「ん?」
「……夢咲怜志さん、いますか……?」
聞きたいことと言ったら、答えのわかりきったそのことしか頭になかった。
「今年卒業したクレさんのことかな?知り合い?」
「クレさん……え、卒業!?」
そうだった、兄は一年浪人していて、兄と同い年の彼は普通に入学していれば当然——。あからさまに肩を落としている私に、優子さんがニヤニヤしながら声をかけた。
「クレさんなら、社会人になっても劇団で演劇続けるって言ってたから、サークル入れば会えるかもよ?サークル、入らない?」
優子さんからすれば、ただの勧誘と面白半分の言葉だったかもしれないが、私はその言葉に背中を押され、『演劇サークル~GuiLt~』に所属することに決めた。
「クレさんとはどうして知り合いなの?」
所属願を書いている私に優子さんが聞いてきた。
「兄の友達で……」
「へえ~、それで好きになっちゃったんだ。」
「まあ……、え、いや、そんなんじゃないですよ!」
「ふ~ん……」
優子さんは相変わらずずっとニヤニヤしている。会って早々思い込みでズカズカ踏み込んできているが、どこか憎めない。
「そういえば、どうして怜志さんがクレさんなんですか?」
「あーそれね、クれいじー、だからクレさん。」
「え、クレイジー?」
あまりに安易なネーミングとド直球な意味に、反応に困った。
「あ、クレイジーって言っても、本当にヤバい人とかじゃなくて、クレイジーなくらい演技が上手ってことね。」
なんとなくそうだろうなとは思っていたが、名前しか知らない彼を少し疑ってしまった。
優子さん曰く、その演技力で観客を圧倒し、脚本や演出などで外部にも出ていたため、演劇界では結構名の知れた人物らしい。ただでさえ人数の少ないこのサークルでは、伝説の役者であり、最強の会長だったとか。そんなにすごい人物が、なぜ私の兄と友達だったのか。
所属願を書き終えると、優子さんに別の教室へ連れていかれた。そこでは三人の人間が動き回り、その状況を椅子に座った二人が真剣に眺めている光景があった。そしてその中には知っている顔もあり、また呼吸を忘れていた。
「みんな稽古お疲れさま!あ、来てたんですね!この子、新しく入った、井口愛ちゃんでーす!」
優子さんの紹介で挨拶をするつもりが、緊張で喉がつまる。稽古を止め、四人が私に礼をする中、一人椅子に座ったままこちらを見ている彼こそ、怜志君だ。
「クレさん!この子のお兄さん、クレさんのお友達なんだって!」
「お、お久しぶりです、怜志さん。井口愛です。」
優子さんに背中をポンと押されてやっと、呼吸ができたと同時に声が出た。
「……ごめん、覚えてない……。」
一気に顔が赤くなるのがわかった。その場から逃げ出そうと足を引いたが、優子さんに止められた。
「クレさんひどい!井口って苗字の友達は覚えてるでしょ!」
「……あ、イグッチの妹か!」
確かに兄はそんなあだ名だった。顔は覚えていなかったようだが、存在は覚えてくれていたようで、ほんの少しだけ顔の赤みが引いた気がする。
ずっと下に向けていた目線を上に向けると、今までは私を見たことがなかった彼の目が、私をまっすぐ見ている。いつも遠くからしか見ていなかった彼の背は、近くで見ると思っていたよりも高い。顔だちも、近くで見れば見るほど整っている。今まで声もかけられなかった私の想い人が、私を見ている。呼吸がまた止まる。視線をそらしたいが固まってしまって瞬きもできない。私の焦点が合っていないのを感じ取った優子さんが割って入る。
「よし、とりあえずみんな自己紹介して、稽古見せてあげよ!」