第三話 自称彼女はつきまとう。
起きたときには、真っ赤だった空も今では夜の闇と混ざり合い、鮮やかなセピア色になっていた。
しかし、それもつかの間のことで、数分も経てば一色に染まるだろう。
最寄りの駅から電車に乗り、一駅先の終点に向かう。
途中、空が反射して幻想的な姿をした川が目に入った。
綺麗だった。稔はその美しさにしばらく見入ってしまっていた。
電車の中は帰宅ラッシュということも混雑しており、終点では大勢の人が波になって改札口に向かった。
駅から出た稔は、自宅のある方角に向けて歩を進めた。
稔の家は閑静な住宅街の中にあった。午後6時半をちょっとすぎたぐらいなのに、すれ違う人は誰もいない。もしかしたら、周辺の家には誰も住んでいないのかもしれない。
稔は帰路を辿りながら、今日起こったことを頭の中で振り返った。
まず朝、これはもう忘れることができない浜ノ宮の挨拶だ。転校生で初対面であるはずの浜ノ宮が転校の挨拶で稔の彼女だと言い出したのだ。あれには稔も肝が冷えた。昔テレビであった屋上で告白される人ってああいう気持ちだったのかもしれない。
次に昼。普段なら昼食を食べて終わり程度の記憶しか残らないのだが、今日は違った。食堂の購買で謎の女性に会った。名前はレイチル・バームクーヘンのような名前だったはずだ。彼女はバームクーヘンを熱心に勧めてきた。正直言って変人である。
夕方、つまり数分前は、浜ノ宮に告白された。顔が可愛い女子に告白されたのだから二つ返事で返すべきだったのかもしれないが、稔は拒んだ。
……今になって後悔しても遅いよな。
稔は告白の返事を思い返し、もっと、マシな断り方があったんじゃないか。あれで、浜ノ宮が傷ついてしまったんじゃないか。教室で、あんだけのことをしておいて、これから彼女はどうしていくのか。様々な思いがこみ上げてくる。
浜ノ宮の立場を考えると少し胸が痛んだ。
「あぁっ、もう」
がむしゃらに頭を搔く。いつもそうだった。その瞬間に最良だと思った選択が後々になって振り返ってみると、もっとましな方法があったのじゃないかと思ってしまう。
全てが結果論だと判っていながら、過去を悔いる。それが稔という人間だった。
自宅が見えてくる。賃貸住宅の、マンションだった。
6階建ての建物には目立った黒染みなどはなく、正面には各世帯のベランダが並んでいる。
エントランスには誰もいない。静かだった。そのまま稔はポストの中を確認する。
「はぁ……。また、あいつか」
ポストの中は空っぽだった。ついでに隠していた合鍵もなくなっている。
ポストの状況を見た瞬間、稔には何が起こったのか理解することができた。
エレベータに乗り、稔が住んでいる5階に向かう。
ふわりと、体が浮く感覚がした。数秒後にまた同じ感覚がし、到着のチャイムが鳴った。
その足で稔は自宅である『502』と看板の張られたドアを開けた。鍵はかけられていなかった。
「あ、アニニ。お帰り」
「……おかえりなさい。稔君」
玄関に入るや否や二人の声が聞こえてくる。一人は稔の妹である秋元 麻友のものだ。すると、もう一人は誰だろう。玄関から今に入りもう一人の声の人物を確認する。
……浜ノ宮那智がそこにいた。
「何でいるの?」
思わず口にする。意味が分からない。どこまで引っ掻き回すのだろうかと思った。
居間の中央にあるL字型のソファーと机。そこから対面にある32型のテレビ。浜ノ宮は、静かにテレビを見つめ、麻友はソファーの上で寝転がっていた。
居間の様子を見て稔は瞠目する。
「アニ二。なっちゃんの事見てどうしたの」
「……なっちゃんっ!?」
いつの間に浜ノ宮は麻友とこんなに仲良くなったのだろうか。二人の間には長い年月をかけて構築してきた信頼関係のようなものが見えた。しかし、稔に交友関係を自慢してくる妹の麻友が浜ノ宮と友達という話はこれまで聞いたことが無かった。
麻友と浜ノ宮は今も、仲良く談笑している。その様子を見て稔は息をついた。
……何で今、懐かしいと感じたんだ?
初対面のはずの浜ノ宮と麻友が仲良く話している姿を見て、稔の胸に何か暖かいものが込み上げてくる。
「稔君には、言ってませんでしたね。私、秋元 麻友さんとお友達だったんですよ」
「もぉ~、なっちゃん。なんでフルネームで呼ぶのさ~。いつも通り、まーちゃんでいいよ」
「だから、まーちゃんのお兄さんの前だから、こうしてるんでしょっ!!」
「なに言ってんのさっ。私は、なっちゃんがなっちゃんらしくないから言ってるの!!」
「私らしいって何よっ!!」
稔の前で言い争いを始める二人。
どう見ても、小学生のじゃれ合いである。この光景をみていると、なんだか自分の悩みが馬鹿らしくなってくる。
「お前らな……」
毒気を抜かれて何も言えなくなった稔は、今もじゃれ合っている二人を無視し自室に行った。
「はぁ……」
自室に入るや否や、稔はベッドに潜る。マットレスが柔らかく意識を奪われそうになる。
稔の部屋は殺風景だった。引っ越ししてきたときに寝るのに必要なベッドと勉強に必要な机以外をもってこなかったからだ。
ベッドと机しかない部屋をぼんやり眺める。こうしていると、なんだか些細な問題なんてどうでもよくなる気がした。
徐々に目蓋が重くなってくる。
……もう、いいや。
扉の向こうで二人の騒がしい声が少量ながらも聞こえてくる。しかし、重くなった目蓋を支え切れずそのまま眠りについた。
――稔君……もう寝ました?
がさがさと物音が聞こえた。でも、眠い。そのまま寝てしまおう。
眠気に負けた稔は再び目蓋をゆっくりと落とす。
「……くん」
声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声だった。だが、眠い。やっぱり眠ろう。
心地よい眠りに意識が落ちていく。
「稔君……寝ました?」
……頼むから寝かせてくれ。
「……寝ましたよね?」
……寝た寝た。
「……えいっ!!」
誰かが抱き着いてくる。柔らかい感触がした。