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先生の話


 杉原は天真爛漫だ。学生の頃から変わらない。


 いつも笑顔で、何でも楽しもうとする傾向がある。自分にはないその感覚に、杉原が在学していた頃からもう数えきれないほどには救われてきた。


 僕は出来損ないだ。どうしようもなく情けない、小心者である。

 そんな僕が杉原みたいな子に好かれるなんて、本来ならありえないことだろう。それでも杉原はいつも僕のところに寄ってきて、いつも笑顔を向けてくれた。


 杉原が高校一年の時。教室に残っている姿を見かけて声をかけた。

 すぐに理事長の娘だと分かった。だから気になったというのもある。


「まだ残ってたのか。部活ないなら帰りなさい」


 そんなテンプレートのような言葉を吐き出すと、やや暗い顔をしていた杉原は、気まずそうに教室から出て行った。その背中を見送って、はたと気付く。

 教室に残らないだけで、もしかしたら外でフラフラとするようになるのではないか。

 僕はなんてことをしてしまったのかと、翌日も必死に彼女を探した。理事長が再婚を考えていることは知っていたし、それが理由で帰らないのであれば毎日残ることになるだろう。それなら今日もいるのではないかと、そんなふうに思ったからだ。

 必死に探して、なんとか見つけた。外をフラフラしていなかったと安堵して、だけど引き止める言葉を知らなかった僕は、結局同じ言葉を吐き出すしかできなかった。

「まだ残ってたのか。部活ないなら帰りなさい」

 ああ違う。これを言っては外に逃げる可能性がある……分かっていたのに言い方が分からなくて、その後も何度も同じことを繰り返してしまった。


 それがひと月ほど続いた頃だ。いいかげんこのままではいけないからと、毎日何度も練習した言葉をようやく投げかけた。

「どうしていつも残っている?」

 杉原が僕に懐いたのは、この頃からだった。彼女は存外繊細で、誰にも相談なんてできていなくて、だからきっと本当は、誰かに話を聞いてほしかったのだろう。

 その内容は、申し訳ないとは思いながらも、かいつまんで理事長には伝えておいた。理事長は杉原の帰りが遅いことを心配していたし、再婚相手の女性も、杉原に嫌われているのではないかと気に病んでいることを知っていたからだ。


「そうか。千晴がそんなことを……」


 理事長は寂しそうだった。そこで二人は、再婚を踏みとどまる決断をしたようだった。


 杉原から告白をされたのは、杉原が二年に進級した頃だった。

 もちろん、受け入れられるわけもない。なにせ相手は学生だ。そんな対象でもなければ、そもそも考えたことすらない。しかし杉原は諦めず、毎日毎日僕に声をかけた。


 いったい何が良かったのか。

 何を考えているのかが分からない、といつも言われるために、自分がどの程度のものかは誰よりも理解している。だからこそ、友達も多く、いつも楽しそうな杉原が僕に惹かれる理由がまったく分からなかった。

 杉原は人の心に入るのが得意だ。気がつけばするりと入り込んで、いつの間にか隣にいる。警戒なんてさせることもなく、強引なようで空気を読んで、いつも僕の先を歩く。


 やがて杉原は、よき理解者であり、いつも「正解」を教えてくれる、とても有難い存在になった。


 だけど、だからこそ不安になる。

 こんな女の子が、僕みたいな男の側にいてもいいのだろうか。

 幸せになれるのか。幸せにしてやれるのか。そんな自信もないなら、近づくべきではないのではないか。


 もうずっと悩んで、どうすればいいのか、突き放すべきだろう、そんなことばかりを考えて、だけど動き出す勇気も出ないまま。杉原と一緒にいる心地良さを手放すことも、だけど杉原を縛りつけるなんてことも選べずに、卒業式の日を迎えた。


「好きです、先生。私、今日から生徒じゃなくなります。……私と、恋人になってくれませんか」


 教師と生徒じゃなくなった。

 その現実を改めて言葉にされて、心がきゅっと苦しくなった。


 だって、それだけだった。

 僕と杉原を繋ぐものは、それしかなかった。

 それがその日、なくなったのだ。


 だけどどうだろう。ここで断れば、杉原を救うことができるのではないか。

 杉原はきっと錯覚をしているのだ。年上の男への憧れをはき違えている。教師と生徒という背徳感を、そんなスリルを「恋」だと思い込んでいる。

 それがなくなれば、目が覚めるはずだ。


 僕はそれを、目の当たりにできるのか。


「……すまない。考えられない」


 逃げることしか、できなかったのだ。

 杉原のためと言いながら、僕は保身のために逃げた。馬鹿らしい話だ。どうせ禁断の恋に酔っているだけだと思っていながら、杉原のことを憎からず思っていたのだから。

 いつからかは分からない。ただ、僕にとって必要な人だと、漠然とそんなことは思っていた。

 彼女と一緒なら僕は変われる。自信が持てる。まだまだ捨てたものではないと、また何かに専念できるかもしれない。そう思えるくらいには、杉原はいつの間にか僕の心の真ん中にいた。


 だからこそ、見たくなかった。

 その熱が冷めるところを。ああやっぱり酔ってただけだったと、そんな現実に気付くところを。絶対に見たくなくて、突き放すことしかできなかった。







「私が思っていたまま落ち着いてくれて良かったよ」


 理事長がそう言って、出会った頃から変わらない笑顔を見せた。

 視線はそのままテラスに流れる。広いそこには、家庭菜園の手入れの手伝いをする杉原と、理事長の再婚相手の香苗さんの背中が見えた。

「ご迷惑をおかけしました」

「なに、この程度。……むしろ、あの子は元気で大変だろうから、きみの方が迷惑を被るよ」

「……そうですか」

 迷惑と思ったことはない。むしろ救われてばかりで、何かを返さなければと、毎日必死なほどである。

「……お母さんに挨拶には?」

「はい。おかげさまで調子も良くなったので、近々二人で行こうかと」

「そうか、そうか。それがいい。吉報はなによりの妙薬だ」

「……理事長には本当に、お世話になりっぱなしで」

 きっと理事長と出会っていなかったら母は死んでいたし、僕もろくな人生を歩めていなかっただろう。


 殴られ、蹴られ、役立たずだと罵られて、道路に捨てられたあの日。

 偶然通りかかった理事長が手当てをしてくれて、話を聞いてくれた。僕のことは論文を読んで知ってくれていたらしい。そのため、そんな才能を潰したくない、とまで言ってくれて、もともとの情の厚さもあってか、援助をしてくれるということになった。返済は今も続いている。この先も理事長のいる学校で働いて、確実に返していくつもりである。


「麻倉くんには、千晴の母親の話をしたんだったかな」

「……いえ、何も」

「千晴からも?」

「はい」

 そういえば、どうして居ないのか。彼女はそこに一度も触れたことはないし、話そうともしていない。

「亡くなったんだ。千晴がまだ小学生の頃にね。記憶があるんだろう、母親のことが大好きな子だったから、それ以来その傷には触れようとしない」

「……そう、ですか……すみません、その……」

「ああ、いいんだよ。私が勝手に言い出したことだ。家族になるのなら、言っておこうと思ってね。――病気だったよ。気付いた頃には手遅れで、そこからは早かった」

 幾分落ち着いた声音でそう言うと、彼女の背中を見つめる瞳が優しく変わり、微かに細められた。

 もしかしたら、重ねているのかもしれない。母娘二人でテラスで遊んでいたこともあったのだろう。懐かしいその日の思い出はきっと、今も理事長の中に鮮やかに残っているはずである。

「麻倉くんのお母さんと同じ病気だった。……救えて、本当に良かった」

 それからは、理事長は何も言わなかった。



「お父さんと何話してたんですか?」

 車に乗り込むと、シートベルトをつけてさっそく彼女が口を開く。

「よろしくお願いしますって、言ってただけだよ」

「うそ。お父さんちょっとしんみりしてた」

「娘を送り出す父親ってそんなものだからね」

 発進しても、どこか不審げだ。何がそんなに気になるのか、杉原はいつまで経っても僕を見つめたままだった。

 赤信号になっても、それが終わって進んでも。あまり見られると怖いのだけど、そちらを見る勇気もなく、ちらりと一瞬視線を送る。

「何?」

「いえ……格好いいなと思って」

 不意にそんなことを言われて、ついアクセルを強く踏みこみそうになった。

「……そんなこと言うの、杉原くらいだよ」

 幸い僕は顔に出にくいようだから、こういう時にはこの性質は重宝している。

 杉原は素直で、何もかもをストレートに口に出す。そのたび僕は心が乱されるのだけど、この性質のおかげできっとバレてはいないのだろう。


 今だってそうだ。

 本当は運転なんかやめてどこかに逃げ出したい。だけどそんな格好悪い動揺は、杉原には伝わっていない。


「杉原……今度、母に会ってほしい。病気でね、まだ入院してるんだけど、もうすぐ退院できそうなんだ。もしも病院にいい思い出がなくて、そんな姿の『母親』を見たくないのなら、無理にとは言わないんだけど……」

 その話題にだけは触れようとしなかった杉原の気持ちを思えば、無理に会ってくれとは言えなかった。

 それを、杉原はどう思ったのか。事情を知っていると悟ったのは間違いないだろう。だけど僕を責めることはなく、先ほどの理事長の様子を踏まえて理解したのか、落ち着いた様子は崩さなかった。

 そして、

「ぜひ、お会いしたいです」

 いつもと変わらない顔で、笑ってくれた。

 「……大丈夫?」

「はい。……私、嬉しいんです、お母さんができるの。あ! 香苗さんのことを否定してるとかじゃなくて! その……香苗さんはどちらかと言うと『お姉さん』って感覚なので」

「……それなら良かった」

 こういう時、僕はこの子に、気の利く言葉を送ってやれない。

 彼女が気に病むとき。悩んでいるとき。言葉を豊富に持たない僕は、彼女のためになる言葉をあげられたことなんか一度もない。本当なら僕が彼女を励まして、アドバイスをして、導いてやるべきだ。それなのに僕は何もできなくて、いつも彼女を見守っていることしかできなかった。

 それを思い知るたびに、さらに自信がなくなりそうになるのだけど、


「将吾さんはずっと、そうやって静かに受け入れてくれるので、すごく楽です」


 深く探らず、ただ受け止める姿勢が良いと、彼女だけは僕を認めてくれた。


 僕は出来損ないだ。どうしようもなく情けない、小心者である。

 だけど彼女の隣でなら、自分が思うよりももっと素晴らしい人間なのではないかと、そんなふうに思えるのだ。


 

読了ありがとうございました。


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