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第七話


 ひとまず家に入りなさい。

 父はそう言って、彼に車を停めることをうながした。ずっと固まっていた彼は父の言葉で我に返ったのか、特に何を言うこともなく、いつもの位置に車を綺麗に停車させる。

 降りる時に、ふと気付く。

 そういえば少し前に彼が迎えに来てくれた時には、珍しく斜めに停まっていたな、なんて。


「それで? 私は『話し合いなさい』と帰したはずだが……」

 家に入ると、心配そうな顔をした香苗さんがコーヒーを出してくれた。まだ目が赤い。私たちが帰った後にも、もうひと泣きしたのかもしれない。

「話し合いは、した、んですが……」

「ほお」

 彼の言葉に、父の目が私に流れる。

「私が出てくって言ったら先生が『分かった』って言ったから、帰ってきただけ」

 それからいろいろ言い合ってうやむやになったことはあるけれど……それでもきっと父が知りたいのは「どうして家に帰ってきたのか」というところだろうから、その説明だけで充分である。

 なるほど、と呟いた父は、聞こえよがしに大きなため息を吐き出す。

「麻倉くん、よく知っていると思うが、娘は頑固で意地っ張りなところがある。はっきり、しっかりと話し合わないと分からない子なんだ。私と香苗さんは部屋に引っ込むことにするから、言いたいことは全部言いなさい」

「いえ、ですが……」

「千晴」

 不意に呼ばれて、立ち上がった父を見上げた。

「千晴と麻倉くんが同棲の挨拶に来る前にね、実は麻倉くんは一人で私の元に来たんだ。なんて言ったと思う?」

「理事長!」

「なんて言ったの?」

「それは麻倉くんに聞くといい。香苗さん、行こうか」

 あっさりと背を向けた父はダイニングに居た香苗さんを呼ぶと、二人で静かに出て行った。

 途端に、場が静まり返る。父が声をかける前の、車内の空気と同じような重さだった。


「なんて言ったんですか?」

 先ほどとまったく同じことを聞けば、彼は気まずそうにちらりと私に視線を寄越した。

 横顔が語っている。言いたくない、気まずい、そんな言葉が聞こえてくるようだ。

「お父さんに、一人で会いにきたんですか?」

 それでも、気になるのだから聞くしかない。

 少しだけ見えた彼の本心を、なかったことになんてしたくなかった。

「……いきなり杉原と挨拶になんか来たら驚かせると思って、事前に僕だけでここに来たんだよ」

 ため息まじりにそう言うと、諦めたように肩を落とす。そうして彼は膝に肘をついて、項垂れるままに俯いてしまった。

「説明だけした。理事長はそんなに驚かなかったよ。杉原の帰りが遅くなった頃……一応、心配させないために僕から理事長に話していたから、なんとなくこうなることは察してたらしい」

 彼はそこで間を置いて、何かを覚悟するように一度コーヒーを口に含む。香苗さんが用意してくれたそれは、彼が好む薄めのブラックだ。

 「その時に……理事長からは、僕の迷惑になるようなら遠慮なく断ってほしいと言われた」

 父はきっと、彼の負担になるのではないかと、私だけではなく、彼のことも心配だったに違いない。情に厚い父のことだ。もしかしたら、彼のことを本当の息子のようにさえ思っているのかもしれない。

(治療費の肩代わりなんかしてるんだからよっぽど……)


「だけど、僕は……杉原に救われていたから、離れることは、したくなくて……」


 うなだれたまま、両手で顔を隠す。隠しきれていない耳は、真っ赤だった。


「杉原が、僕に価値をくれたんだ。僕みたいな男に、自信をくれた。……在学中からずっと追いかけてくれて、何気なくくれる言葉とか、僕を受け入れてくれる態度とか、その笑顔に、本当に、救われたから」


 普段あまりしゃべらない彼が、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。ゆっくり考えながら、言葉を選んで、だけど顔だけは隠したまま。それが口下手な彼の、最大限の告白のように。


「――絶対に幸せにするから認めてほしいと、頭を下げた」


 かすれるような、小さな声だった。

「本当に情けないよ。本人にはそんなことを言い出せないくせに、父親には強気なことを言う。……だけど、杉原を前にすると、足がすくむんだよ」

「……恋人になるのも、一緒に暮らすのも、全部私からでしたもんね」

「……可哀想だったんだ。僕みたいな男に縛られるなんて。……だから逃げ道を用意していたのに、杉原はどれもこれも潰すから……しだいに、杉原が『禁断の恋』から覚めなければこのまま一緒に居られるかもしれないと、そんなふうに思ってしまった」

 彼が私を恋人だと言わなかったのも、恋人らしく振る舞わなかったのも全部、彼いわくの「逃げ道」だったのかもしれない。

 彼はとても臆病だ。繊細で傷つきやすくて、大きすぎる期待からのプレッシャーに負けて挫折するような一面も持ち合わせているほどである。

 そんな彼が、うんと年下の私に負い目を感じるのも無理はない。

「先生……将吾さん。好きです。私、今も変わりません」

「……うん」

「離れないといけないのかなと思ったから出ていくつもりでしたけど、そうじゃないなら、離れたくない」

「……そうか」

 ゆっくりと、顔を隠していた手がおりる。そうして困ったように眉を下げて、弱々しく振り返った。

 顔はまだほんのり赤い。だけど彼は目をそらさずに、微かにきゅっと眉を寄せる。

「……僕はね、もう若くないんだよ。今は良くても、十年後、二十年後、きっと支障が出る。今離れなかったら、もうそんな機会は与えられないかもしれない。……もしも、それでもいいと、言ってくれるなら……」

 言葉尻が震えて、ゆるゆると視線も落ちていく。いつもの自信のなさが先立ったのだろう。揺らぐ目が、迷いを伝えているようだった。

 言おうか、言うまいか。悩むように、ただはくはくと口を開いては閉じて、しばらく言葉に音が乗らない。


 早く言ってと、気が急いた。だけど彼のペースを守りたくて、願うように待つしかできない。

 どうしようか。そればかりが頭をめぐる。

 もしもここで、また諦められたら。また身を引かれたら。私のためだと言いながら、自身の中にある臆病な心を肯定するように突き放されたら。

 ――その時私は、また頑張れるだろうか。

(言葉もなく、なんとなく『好かれてるんだろうなあ』と思うだけの関係なんて)

 そんなの、見ないふりをしてきたこれまでと何も変わらないのに。


 彼はしばらく躊躇って、やがて口を閉じた。

 結局何も言わなかった。そのことにはつい、体から力が抜けた。

 私ではダメだったのかな。高島先生みたいな大人な人なら良かったのかな。途方もないことばかりを考えて、どうにも思考がまとまらない。

 しんと、重たい沈黙の中。私たちは何も言わずに、ただ側にいるだけだった。


「……僕、と」


 声が聞こえた。

 それについ、つられるようにそちらを見た。


「……僕と……改めて、結婚を前提に、付き合ってほしい」


 彼は目を逸らしたままだった。こちらを見る勇気はなかったのだろう。だけどそんなことも気にならないほどには、心が震えて仕方がない。

 もう付き合ってたつもりだったのにそんなこと今更ですね、なんて茶化す言葉でさえ、今は吐き出せそうにもなかった。

「……嫌なら、嫌でいい。四年一緒にいて、言葉にする覚悟も決められなかったような男だ」

「いやです」

 彼の姿が霞んで見える。そんな私に気付いたのか、こちらを見て彼が驚いたのが分かった。

「もっと、強く言ってくれないと、いや」

「……け……っこん……して、ください」

「もっと」

「……して、ほしい」

「もっと!」

 瞳にたまった熱が溢れて、とうとう頬に流れだした。だけどそれを拭うなんてできないまま、今はひたすら彼の答えを待つ。彼からは、躊躇う様子がありありと伝わった。自信なさげに、何かを堪えるように私を見ている。

 早く言ってと、気が急いた。

 だけど先ほどとは違う。不安な気持ちは一切なくて、逸る気持ちでいっぱいだった。


「……結婚、しよう」


 いろいろな葛藤をのみ込んだ、ほんの少し震える声音だった。


 途端に、決壊でもしたようにさらに涙が溢れた。

 ――彼に初めて告白をしたのは、高校二年生の時だ。一年の時に抱いた恋心を一年間大切に温めて、思い切って本人に伝えた。もちろん玉砕したのだけど、それからも何度も何度も強く押して、卒業して「恋人」というポジションを手に入れた。

 同棲しても関係は変わらなかった。私たちはずっと、教師と生徒のままだった。どうして一緒にいるんだろうと、もう数えきれないくらいには考えたほどだ。


 踏み出すのも求めるのも、いつも私から。今回だって言わせたようなものである。

 それでも明確な変化をしたのだから、これまでの頑張りは無駄ではなかったのだろう。


 ――禁断の恋から、四年。

 ようやく今日、彼と本当の意味で繋がれた気がした。


  

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