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第六話


 え、と。声が出たかは分からない。

 ただ、彼が私との生活に「価値」を見出していたと、そんなことが聞こえたから、動いていた手も思わず止まった。


「僕はもうおっさんなんだよ。そんなおっさんが、杉原みたいにまっすぐな子と一緒にいて、何も得られないと思うのか」


 ゆっくりと振り返る。

 彼は思った以上に、不機嫌そうな顔をしていた。

「……価値はあったよ。杉原のおかげで、自分に自信が持てた。高島教授のところには戻らないけど、高校教諭もそれなりにやりがいはあるんだ、辞めるつもりはない。だから……僕と杉原が一緒にいた時間を、価値がないとか、必要がないものだとか、そんなふうに言うのはやめてくれ」

 口下手な彼が、ゆっくりと、途中で言葉を止めながらでも、最後まで言い切った。ずっと一緒にいて初めてとも思えるそんなことに、ひどく胸を揺さぶられる。


 どうして、今だったのか。

 これがもう少し前だったなら、また違った未来が見えていたかもしれないのに。


「ありがとうございます。ただの邪魔者だったんじゃなくて、本当によかった」

 荷物を詰め込んだ鞄を閉めて、貴重品を入れたバッグを持つ。荷物はまだかなり残っているから、これからも取りに来なければならないだろう。

 だけど、彼と会うのはきっと今日が最後だ。

 荷物を持って立ち上がると、彼は躊躇いながらも部屋を出た。そうして一緒に玄関に向かって、同じように靴を履く。

「送っていく。もう暗いから」

 きっとそう言ってくれるだろうと思っていたために、特に抵抗もなく「お願いします」とだけ伝えておいた。


 車内はやっぱり無言だった。

 先ほどよりも沈黙が重たい。だけど居心地は悪くないから、悪い感情はないのだろう。そう遠くない距離なために、すぐに実家が見えてくる。

 彼の運転は丁寧だ。まるで彼自身の性質を表しているかのように、スピードも無駄に出すわけではない。とても優しくて、穏やかで、だから私は彼とのドライブの時間が大好きだった。

「……すみませんでした。四年間、お世話になりました」

「……こちらこそ」

 シートベルトを外す。足元に置いていたバッグを手にとって、扉を開くために手を伸ばした。

 はず、だった。


「これから僕は、少し、気持ちの悪いことを言うんだけど」


 不意打ちの言葉に、動けなくなる。

 彼にしては少し強く、固い声だった。

「……先生?」

「僕は、自分に自信がなくて……打たれ弱いし、過剰な期待も苦手だ。教師になったって、誰から慕われてるわけでもない。教え方がうまいわけでも無い。取り柄なんか何も無い。そんな、どうしようもない男なんだ」

 ――彼の授業は、生徒間では分かりやすいと評判だった。だから誰も彼に質問に行かなかった。そんな必要もなかったし、誰もが彼を尊敬していたから、気軽に話しかけてはいけないような気がしていたということもある。だけどそんな羨望がまさか彼にそんな誤解をさせていたなんて、考えたこともなかった。

「そんな僕が、たった一つ、自信を持てたことがある。……いつもつまらなそうに学校生活を送っていた女子生徒が、僕だけに、その悩みを話してくれた時だ」

「……私?」

「……ずっと、気にかけてはいたんだよ。理事長の娘さんだってことは知っていたし、理事長の再婚のことも分かっていたから、つまらなそうな様子とか、なんでだろうっていつも気になってて……でも杉原は誰かに相談するタイプでもなさそうに見えたし、気も強そうだったし、僕は苦手で……」

 声をかけてくれた時、それで表情が強張っていたのだろうか。

 一番最初、放課後に私を見つけ出してくれた時、彼はいつもより少し体に力が入っていた。

「でも、話してみると案外気さくな子だった。僕に、たくさん話してくれた。話を、聞いてくれた。たったそれだけのことで、自分もまだまだ捨てたものではないなと、そんな自信を持てた」

「それが、気持ち悪いこと?」

 聞くと、彼はふるふると首を横に振る。

「僕はね、何度も言うけど、もうおじさんなんだよ。杉原みたいに若くない。そんなエネルギーもない。全力でぶつかれるような気力も、体力もない」

「まだ三十九ですよ」

「もう三十九だよ。……歳をとるとね、考えることが増える。臆病になる。……簡単に、動けなくなる」

 少しずつ少しずつ吐き出される胸の内に、どうしてもう少し早く分かり合えなかったのかと、やっぱりそんなことが悔しく思える。

 ほんの少しでよかった。少し勇気を出すだけで、隔たりなんか消えていたはずだった。


(ううん。今で良かったのかも)

 もしも少し前にこんなことを聞いていたら、彼にとっても私に価値があるんだからまだ一緒に居てもいいでしょ、なんて、正当化して変わらず彼を縛り付けていたかもしれない。


「僕が杉原の恋人なんて、名乗れると思うか。こんな萎れたおじさんが、まだ若い将来性もある女の子と恋人だなんて、そんなことを思うこともいけないんだよ」


 私は、いつまで経っても子ども扱いだった。それの理由がようやく知れて、何だそんなことだったのかと、思ったよりも落ち着いていられた。

 年の差がある限り、彼との溝は埋まらないからだろうか。どうしようもないからこそ、諦めることが出来るのかもしれない。

「煩わせてすみません」

「そうじゃなくて」

 間も無く、強い否定が返る。

「そうじゃなくて……みっともないんだよ、僕自身が。こんな僕が杉原みたいな子に好かれるなんて、それこそ『禁断の恋』に酔ってるくらいの理由なのに、間に受けて大真面目に『恋愛』なんてものをしようとしていることが」

 彼の言葉を、ゆっくりと理解していく。

「期待をして、このまま一緒にいられるのではないかと、馬鹿みたいに思ってしまうことが」

 まさか、もしかして、そんなこと。何度も期待して、何度も否定した。これ以上不毛なことを繰り返す必要はない。私はもう決めたのだ。それなのに、醜く縋り付く心が、彼の言葉を求めてしまう。

「だから、正解だ。離れていい。言ってくれて良かった。これ以上僕となんか、居ないほうがいい」

 彼の目は、私を映さない。前を向いて、俯いたまま、

「そう、思うのに」

 苦しそうに顔を歪めて、とうとう手で覆い隠してしまった。


「いざ本当に最後と思うと……苦しくて仕方がない」


 その声は、震えていた。かすれて弱々しく、いつもの自信なさげな音とも違う。胸の奥がぎゅうと締め付けられて、途端に心臓が早鐘を打つ。

「……私はもう、期待したらいけないんですよ」

 ピクリと、彼の顔を隠す手が揺れた。

「禁断の恋に酔ってただけって、言わないといけないんです。恩人の娘だから受け入れてくれたことも分かってるし、私と居ても先生は楽しそうなわけでもなくて、触れ合いもなければ、恋人らしいことなんか一つもない。……いい加減、綺麗な恋として終わらせないといけないんです」

「……そうだな」

「だけど、先生がそうじゃないなら、私たちは離れる必要なんかない」

 ようやく、彼の手が離れた。

 弾かれたように私を見る。驚いた顔は少し幼くて、初めて見た顔に少しばかりときめいた。


「私は別に、先生が年上だから一緒にいるわけでも、教師だから好きになったわけでもない。ただ、麻倉将吾という人を好きになっただけです。……どうして、そんなことも分からないんですか」


 シンと、静寂が訪れた。

 彼は何も言わない。私も何も言えなくて、ただ膝の上でぎゅうと手を固く握り締める。

 ――終われなかった。縋ってしまった。だけど、だって、彼があんなにも期待させるようなことを言うものだから、このままさようならなんて出来るわけがなかった。

(恋人じゃないって言ったのだって、自分がうんと年上だから、恋人を名乗ることに抵抗があったからで……)

 私のことを嫌っていたからとか、まったく眼中になかったからとか、そんな理由でもなかった。むしろまったく逆の気持ちがあったのなら、ますます離れられるわけもない。


 だけど、彼は何も言わない。

 それだけで、一気に不安が襲う。


 もしかしたら、期待なんかしない方が良かったのかもしれない。もしかしたら、ここでさようならをしていた方が、私は傷つかなかったかもしれない。

 ぐるぐるとそんな予感が巡って、この沈黙をどうしようかと焦り始めて来た頃だった。

 コンコン、と、私側の窓が軽く叩かれた。


「何してるんだ、二人とも」


 家の前に車が止まっていたから、気になったのだろう。

 呆れたような顔をして立っていたのは父だった。

 

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