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第五話


 私を見て、彼はゆっくりと立ち上がる。近くに座っていた父もこちらに振り返ると、おいでおいでと手招きをした。

 それにつられてついフラフラと歩み寄る。彼とは話し合うつもりではあった。だけど今日はもう寝るつもりだったから、この不意打ちには一気に緊張感が高まった。

 まずは何から、とか、そんなことを何も考えていない。


「千晴、麻倉くんと一度帰りなさい」


 父が楽しそうに言って、笑いかける。

「ここに帰ってくるのかは、二人でしっかりと話し合った後に決めてくれ」

 父に押されて、家を出た。香苗さんも、最後には和泉くんや玲那ちゃんも出てきてくれて、みんなでお見送りをしてくれた。

 そうして、車庫に停まっていた彼の車に乗り込む。いつも座っていたはずの助手席が、なんだか今は重苦しかった。


「……ごめん」

 最初の信号に引っかかったところで、彼が呟く。

 何から言おうかとぐるぐる考えていたのだけど、どうやら先を越されたらしい。

「え、と……何がですか」

「いや……その、いろいろと……」

 話題を切り出すくせに、深く掘り返す勇気はないのだろう。

 恩人の娘だから押し切られたとか、恋人ではなく妹みたいに思っているとか。そう言われて、そしてそれが図星だったからこそ、きっと謝ってくれている。

 ――分かっていても、胸は痛むものだ。見越していた別れが思っていたよりもうんと近くにあったことが、何よりも辛いと思えた。

「……私こそすみません。あんな癇癪みたいなこと起こすから、子どもにしか見られないのに……先生とお父さんのことを聞いて、あーなんだそうなんだって、ちょっと自棄になっちゃった部分もあって」

「僕と、理事長のこと?」

「……知られたくなかったのかもしれないんですけど、ご家族のこととか、高島教授のこととか、聞きました」

 彼は前を向いたまま、こちらに視線を寄越さない。運転中だからかもしれないけれど、それだけではないようにも見えた。

「……そっか。格好悪いことを知られたね」

「いえ、そんなふうには思いませんでした。……ただ、私たちはお互いのことを知ろうともしていなかったなと、そんな寂しい現実を思い知っただけです」

 冷静になれば寂しいとは思えるくせに、とっさの場面では怒りが先立つのだからどうしようもない。

 彼が私に話せなかったのも、私が子どもすぎたからだろうか。あるいは、ただ単に信頼関係が築けていなかったからというだけかもしれない。


 実家からマンションはそう遠くない。そのためすぐに駐車場に入って、いつもの場所で停車した。

 彼は降車の準備を始める。だけど私が動かなかったからか、彼は不思議そうに「杉原?」と言葉をこぼした。

「……実は、家に上がるのはやめようかなと思っていて」

 話し合おうと決めた時、同時にそんなことも決めていた。

 二人で暮らした家には、もう入らないでおこうと。

 そうでもしなければ決心が揺らいで、また「見ないふり」を続けてしまうだろう。

 私のことは、私が一番分かっている。禁断の恋に溺れていたあの頃とはもう違う。綺麗な恋なんてどこにもない。私はすっかり薄汚れて、自分勝手に押し付けることしかしないのだ。

 だからきっと、今のままもう一度あの家に入ろうものなら、彼が何を言おうとも何もかもを正当化して、私は彼の側に居続ける選択をするだろう。そんなことはもう嫌だった。香苗さんと父の時間を随分無駄にさせてしまった罪悪感が、彼に対しても浮かぶのかもしれない。

 これ以上の浪費は必要ないと。なぜか今は、しっかりとそう思えた。

「どうして」

「ここで話したいです。……すみません、迎えにきてくれたのに」

 彼が私をじっと見つめて、いつものように間が落ちる。以前は「なんで何も言わないの?」と思っていたそれも、今ではきちんと「最善を考えてくれているのかな」と思えるために、心に余裕が生まれていた。

 相手のことを少しでも思いやって考えていれば、きっと冷静に話して終わることが出来るだろう。そんなふうに私が落ち着いていたからか、降りようとしていた彼も再びシートに座り直して、私の提案を受け入れてくれたようだった。


「……高島先生が、うちに来たんです。恋人でもないのに一緒に暮らしてるのはお父さんも心配するし、何より私が先生の枷になってるんじゃないかって思ったみたいで……出ていくことも考えてみてって言われました」

「……枷? え、高島先生は、いつ……」

「この間ですよ。あ、でも別に意地悪言われたとかじゃないんです。だから嫌な気持ちにもなりませんでしたし……」

 彼が目を伏せて、黙りこんだ。何に引っかかっているのか、その表情はどこか険しい。

「ただ、私が家にいることで、先生は高島教授のところに戻れないのかなとか思ったりはしましたけど」

「そうじゃない。僕が戻らないことに、杉原は関係ない」

「はい。それも、父に聞きました」

 私の言葉に、彼が微かに肩を揺らす。しかしそれを誤魔化すように、すぐにシートに深く座り直していた。

「情けないな。そんなことばかりを知られて」

「いえ。……私も同じようなものです。逃げてばかりで……学校に無駄に残ったりとか」

 隣から、ふっと笑った気配がした。ほんの少し空気が緩む。私の緊張も少しだけ解けた気がした。


「……もう、いいですよ。先生は、私に縛られる必要なんかない」


 声は震えなかった。思ったより、落ち着いていられたからかもしれない。

「先生はもっと、主張した方がいいんです。流されるばかりではなくて、必要なものだけを選んで、そのほかは捨てればいい。一回きりの人生、誰かのために生きていたらもったいないですよ」

「……何が言いたい?」

「……家を出ます。この四年、私の勝手に付き合ってくれてありがとうございました」

 想像していたより、スラスラと話すことができた。いつも出てくる悪魔が邪魔することがなかったのは、香苗さんとのことが解決したからだろうか。

 あんなにも幸せそうな顔を見せられたら、自分勝手なことを繰り返すなんて出来そうにもなかった。

 ――私だけが、彼を幸せにしてあげられる。たとえその後結婚をして誰かと幸せになったとしても、その幸せを送ったのは私である。私が幸せにした、と、胸を張ってもいいだろう。


 そんな未来を選びたかった。最後の最後にはせめて美しく、失った綺麗な恋心を少しでも取り戻して終われたらと、そんなことを思ってしまった。


「……そうか。うん。分かった」

 彼はこちらを見なかった。ただ静かにそう言って、降車するのか扉を開く。

「荷物……ほら、せめて貴重品とか」

「あ、そっか、はい、それは取りに行きます」

 すんなり終わることなんて、分かりきっていたことだった。だけど実際目の当たりにしてしまえば、分かっていた、なんて強がっていた胸もズキズキと痛む。

 いつ好きになったとか、そんなことは分からない。一緒に過ごすうちに、話をじっくりと聞いてくれる姿勢に、その真面目で誠実な心に、気がつけばどうしようもなく惹かれていた。


 エレベーターの中でも会話はなかった。だけど気まずさは私にはなくて、案外すっきりとしていられた。

 部屋に入る。話は終わったために、揺らぐこともないだろう。まっすぐに自室に向かって、携帯や財布をバッグに詰め込んだ。そうして旅行鞄を引っ張り出して、今日持って帰れそうなものは持って行ってしまおうかなと、クローゼットの扉を開く。

「杉原」

 あまりにも遅かったから気になったのだろう。珍しいことに、これまで一度も近づこうとしなかった私の部屋に彼がやってきた。ノックは丁寧に三回。返事をすると、躊躇いながらもそこを開ける。

「すみません、今日持って帰れそうなものはもう持って行こうかなと思って……うちから持ってきた家具は後日業者さんにお願いしておきますね」

「ああ……うん。そうだな、うん」

 扉は開けたが、入ってくることはない。そんなところも律儀だなと、少しだけ笑みが漏れた。

 それにしても、いつそこを閉めるのか。彼は俯いて突っ立ったまま、動く気配すら感じられない。

(……まあ、別にいいけど)

 私に話があったように、彼にも言いたいことくらいあるだろう。恨み言、までは言わなくても、彼はこの四年ずっと振り回されていたのだ。それらしいことを言われるのも、私は受け入れなければならない。

 できればトゲの少ない言葉を選んでもらえたらいいなあ、とは思うけれど。そんなことをお願い出来るような立場でないと分かっているから、何も言えずにひたすら荷物を詰め込んでいた。


「……やっぱり……」


 それは、小さく震える声で。

 聞き間違いかと彼を振り返ると、いやに真剣な目で私を見ていた。

「……いや。その……僕は、杉原よりもひと回り以上年上で」

「え? はい」

「思春期には、年上の男に憧れる時期があるだろう。あの頃はちょうど映画で、教師と生徒の恋とかそういうものもやっていたし」

「……私が、高校生の頃ですか?」

 聞けば、彼は軽く頷いて肯定を示す。

「だから……杉原はただ、禁断の恋というか、そういうものに憧れていただけで、偶然近くにいて話を聞いただけの僕に恋をしてるなんて、錯覚をしているだけなんだと思ってた」

 錯覚だったつもりはない。だけど、彼の立場と年齢を思えば、そう思いたいものなのだろう。

(結局、最初っから相手にされてなかったんだ……)

 彼は私を「恋人ではない」と言った。そもそも、そんな認識ではなかったからだ。

 妹、ですらなかった。最初から私は彼にとって、ずっと「生徒」でしかなかった。


 それなら何もかも納得だ。

 部屋を分けたことも。無駄に踏み込んでこないことも。恋人ではないと言ったことも。

 彼が、他の人と結婚するような話をしていたことも。

(そりゃあ、『生徒』となんて無理だよね)

 最初から「女」として意識されていないのでは、何の意味もない。


 私たちは、不毛な時間を過ごしていた。

 学校生活の延長線上。彼はずっと、そう思っていたのだろう。

 それなら。


「そうです。錯覚だったんです」


 私がそれを押してやらなくて、どうするというのか。

 私が本気だったと知れば、真面目で誠実な彼はどうするだろう。同棲までした。私の父に挨拶もした。ここで私が「本気の相手に対して最低!」なんて罵れば、彼は気に病んで私に償おうとするかもしれない。


 ささやく悪魔はもう要らない。間違いは犯さない。最後くらいは私がしっかりと、彼の背中を押してあげよう。


「禁断の恋って憧れますよね。先生って実は人気あったの知ってました? しかも私、そんな先生に優しくなんかされちゃったから余計に気になって……でも今思えば、『禁断の恋』に酔ってただけなんだなあって」


 意外とツボが浅いところが好きだった。

 左利きだから文字を書きにくいのか、板書がいつも斜めに曲がっているのが好きだった。

 どんな些細なことでも真剣に話を聞いてくれるところも。考える時はじっと人のことを見つめるくせも。いつもちょっとだけ直っていない寝癖があることも。シャツのアイロン掛けが下手くそなところだって、会話が少し遅いところだって、長所も短所もひっくるめて彼の全部が好きだった。


 一つ一つ思い浮かべて、一つ一つ終わらせていく。


 綺麗だったかつての恋をなぞるように。綺麗なままで、宝箱にしまえるように。


「……先生と生徒じゃなくなったら、価値なんかありませんでした」


 あの三年間を過ごした学び舎で生まれた気持ちを、しっかりと終わらせなければ。


「……価値、か……」


 彼が呟く。これ以上はもういいかなと、そちらは見ないままで旅行鞄に洋服を詰め込んでいた。


「……価値と言うなら僕は、杉原が生徒でなくなってからの方が、価値を見出せたよ」


 

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