第四話
突然家に帰ってきた私に、父は少しばかり驚いた様子を見せた。
けれど間も無く、義母の香苗さんが「お夕飯あるから」と準備を始める。義弟妹は年頃でもあるためか、それぞれ部屋に引っ込んでいた。
夕食を待つ間、リビングでぼんやりとテレビを見ていた私に、父だけが神妙な目を向けていた。彼のこともよく知っているからこそ、何かがあったと察しているのだ。同棲の挨拶に来た時にも昔話に花が咲いていたし、彼に対してはもはや家族という感覚すらあるのかもしれない。
「喧嘩でもしたか」
キッチンからは、皿が触れ合う音が聞こえた。温め直してくれているのか、電子レンジの音もする。
「まあ、うん。喧嘩、かな? 私が一方的に怒っただけかも」
「そうだろうな。だいたい、あの麻倉くんと喧嘩なんかできるわけがないか」
父はどこか納得したように、香苗さんが持ってきたコーヒーに手をつけた。
テーブルにお箸やお皿が揃っていく。それをなんとなく見つめながら、ふぅと短く息を吐く。
「だよねー。喧嘩するほど、仲良くなんかなかったし」
「ほお。ずいぶん荒れてるじゃないか」
「……お父さん、先生と知り合いだったって、なんで教えてくれなかったの」
香苗さんが夕飯を並べて終えた頃、いただきます、と伝えれば、香苗さんは嬉しそうにリビングから出て行った。気を遣ってくれたのだろう。二人きりになったリビングは、広いためか余計に静寂が目立っていた。
「……香苗さんがうちに来た時から、おまえ、家に寄り付かなくなっただろう」
その言葉に、皿に伸ばされた手がピタリと止まる。
「香苗さんと最初に顔を合わせた日、おまえの笑顔が引きつっていたことは知っていた。だけどおまえは『いい人そうだね』としか言わないし、私が知らないだけで人見知りだったのかもしれないと、そう思ってしまった。だから、再婚の話も進めた」
別に、香苗さんや弟妹たちが嫌いだったわけではない。もちろん、人見知りというわけでもない。ただなんとなく、今まで父と二人で暮らしていた広い家に突然知らない人たちがやってきて、少しばかり戸惑った。その戸惑いの間に変な遠慮が生まれて、普通にしようと思うほどどうやって接すればいいのかも分からなくて、そうして時間ばかりが経って――気がつけば「戸惑い」が、いつの間にか「居心地の悪さ」に変わっていた。
香苗さんは悪くない。父も、弟妹も悪くない。
私が勝手に臆病になって、逃げ出しただけである。
「何も言わないが、香苗さんもかなり気にしていてな。おまえが高校生の時には、今よりもっと気に病んでいた。やっぱり籍を入れるのはやめようとまで言われたんだ」
「……え? 籍って……すぐに入れたんでしょ?」
香苗さんたちがやってきたのは、当然ながら顔合わせの後のことである。すんなりと一緒に暮らし始めたから、早々に入籍は済ませたものと思っていた。
「今もまだ入れていないよ。……顔合わせの時のおまえの様子が引っかかったらしくてな。娘である千晴に認められてもいないのに戸籍上だけでも母親になるなんてできない、と、拒否された。出て行くという話も、実はもうずっとされている」
「え! ち、違う! 私別に、香苗さんのことも、和泉くんや玲那ちゃんのことも嫌いってわけじゃないの! 私が勝手に……」
「分かってるよ。だから私も、香苗さんを引き止めていられた」
父が苦笑を浮かべて、手を止めた私に「ひとまず食べなさい」と食事をすすめる。
「……香苗さんたちが家に来てから、おまえは明らかに帰りが遅くなった。当時私たちは、どうしようかといつも頭を悩ませていた。そんな時だ。麻倉くんが、おまえを見つけてくれた」
――まだ残ってたのか。部活ないなら帰りなさい。
今でもしっかりと思い出せる、気怠げな声音。一度見つかってからは頻繁に、まるで探しているのかとも思えるほどには、彼は私のことを見つけだした。
「麻倉くんがね、自分が見ているから遅くなっても大丈夫だと、何度も教えてくれてね」
「……先生が?」
「そう。おまえ、麻倉くんに相談していただろう。それもかいつまんで教えてくれたよ。それがあったから、香苗さんは今、気に病むことなく笑っていられるんだろう」
どうしていつも残っている、と。一番最初にそう聞かれた時、私はなんて答えたんだったか。
家族が増えて、どう接したらいいか分からなくて。話しかけるタイミングとか、見失っちゃって。そうしたらなんとなく、家にいるのが間違いなんじゃないかって思えてきて。
確か、そんな言葉を並べたような気がする。
「……おまえは単純だから、どうせ麻倉くんに懐いたんだろうとは思っていたが……卒業してまさか恋人にまでなったのは予想外だった」
「だって……」
「麻倉くんも相当悩んだみたいだぞ。元教え子なんだ、生半可な覚悟では恋人になんてなれるわけがない」
「でも先生は、私のこと恋人じゃないって言ってたよ。ゆくゆくは私じゃない人と結婚する、みたいなことも言ってたし」
乱暴に夕飯をかきこんで、ぐいっとお茶を飲む。
思い出すだけでも腹が立つ。一緒に住んでおきながら恋人と思わないなんて、いったいどういう了見なのか。
「ほお……それで、おまえは怒ってここに来たのか」
「うん。……お父さんに恩があるから断りきれなかった、とかさ、そういうのってなんか違うし」
「恩? ああ、治療費のことを言ってるのか? ……だけどなあ、修士課程で終わったのは結局麻倉くんの意思だったぞ」
「そうかもしれないけど……もー。お父さん全然分かってない」
「ああ、違う違う。……言いたかったのは、ご家族が病に罹る前から、麻倉くんは試験を受けるつもりはなかったということだ」
「……え。でも……」
私が聞いたのは、家族が患ったためにお金が必要でやむを得なく大学院を離れた、ということである。そうでもなければ、院に行ってまで学びたいことがあったのだから、途中で放り投げる必要もないはずだ。教授にも気に入られていたなら尚更、優秀だったなら余計に、残っていれば未来は広がっていただろう。
「プレッシャーに勝てなかったんだよ、麻倉くんは。彼はとても優秀だけど、同時に繊細でもあった。考えることは好きなんだろうね。だけど臆病で傷つきやすいから、いつも心が負けてしまう。……高島くんに気に入られていたから、というのもあるんだろう。期待されればされるほど、逃げ出したくて仕方なかったんだ」
だから彼は頑なに「戻らない」と話をつっぱねていたのかと、そこでようやく気がついた。
そうだ。そうだった。彼はとても繊細だ。私のことに踏み込んでくるのにも、ずいぶん時間をかけていた。
一緒に暮らし始めてもそうだ。彼は気になったことを何一つ言わない。ただじっくりと言い方を考えて、やり方を考えて、そうして私に声をかける。声も大きくはない。言い方も刺々しくはない。だけどきちんと伝わる優しい言葉で、少しずつ歩み寄ってくれる。
彼はとても優しくて、傷つきやすくて、臆病な人だから。
きっと言いたいことの半分も伝えられないまま、それでも私のペースに合わせようと頑張ってくれていた。
「……お父さん。今日、泊まってく」
「そうか、そうしなさい。……香苗さんも喜ぶだろう」
それからは二人でポツポツと会話をしながら、久しぶりの父娘の時間を過ごした。特別なことはない。だけどなんとなく特別だと思えたのは、うっすらとあった壁が無くなったからかもしれない。
食事を終えて少しすると、恐る恐るといった様子で香苗さんが戻ってきた。片付けをしに来てくれたのだろう。だけど私がまだ居たからか、少しだけぎこちなく笑って、再び出ようと踵を返す。
「香苗さん」
呼ぶと、逃げることもなく、しっかりと向き合ってくれた。
「ごちそうさまでした。美味しかった」
「口にあったのなら良かった。そうだ、お風呂には入って帰るかしら?」
「うん、泊まって帰ろうかなって」
パチパチと数度、目を瞬いた後。香苗さんはパッと笑顔を浮かべると、細かく何度も頷いた。
「そう、そうね、そうしましょう! やだ、にやけちゃって……もう、恥ずかしい」
顔を真っ赤にした香苗さんは、照れ臭そうにしながらも父のところに小走りでやってくると、よほど嬉しかったのかその肩をバシバシと軽く叩いていた。父もどこか嬉しそうに微笑んで、照れる香苗さんを見守っている。
当たり前のことを言っただけだ。それなのにこんな反応をさせてしまうのは、これまでの私の態度が悪かったからである。
悪気はなかった。だけどそれは私だけが知ることで、言い訳にしかならないのだ。
「香苗さん。籍、入れてないって聞いた」
ピタリと、香苗さんの動きが止まる。
「そ、そうなのよ。ほら、やっぱり……ねえ、みんながちゃんと成人するのを見届けてからかなー、なんて、勝手な線引きしちゃったりして」
「ごめんなさい。私、香苗さんのこと嫌いなわけじゃなくって、ただ、どうすればいいのかが分からなくなってただけで……そうしたらなんか、家に入りづらいとか、輪に溶け込めないとか、そんなふうに思っちゃって」
父は静かに聞いていた。今ばかりは香苗さんも父に助けを求めないのか、ただ驚いた顔をして、私の話に耳を傾けていた。思いもしなかった告白に、心が追いつかないのだろう。
「だから、別にみんなが嫌とかじゃなくて、むしろ二人のことは応援してるし……その……香苗さんがよければだけど、お父さんと籍を入れて、私のお母さんになってくれない、かな……」
戸惑いに揺れる瞳が、ゆっくりと父を見つめた。父は何も言わなかった。ただ香苗さんを見つめ返して、小さく「どうかな」と尋ねただけだった。
じわじわと涙がたまる。そうして真っ赤な顔を両手で隠すようにして、それでも香苗さんは何度も何度も深く頷いていた。
それからなんとなく居づらくて、父に香苗さんを任せてお風呂に向かった。もちろん片付けも済ませた。涙でぐしゃぐしゃの顔の香苗さんが片付けようと私のところにやってきたけど、力づくで父のところに押し返せば諦めたようだった。いや、父がしっかりと香苗さんを捕まえたからかもしれない。あの様子なら、近日中に入籍するだろう。
(……ほんの少し、言葉にするだけだった)
お湯に浸かりながら、なんとなく考える。
嫌いあっているわけでも、避けているつもりもなかったけれど、明確にあった家族との隔たり。それが一切無くなったのは、私の気持ちを素直に言葉にしたからだ。
言わなければ結局、互いに踏み込めないままで終わる。もしも今日何も聞かなかったなら、私は香苗さんに誤解をさせたまま、香苗さんは父とはずっと籍を入れなかったかもしれない。
――彼とのことだって。
(話し合わないと……)
ほんの少し言葉にするだけで、すっきりと終わることができるだろうか。
そんなことを考えて、つい自嘲が漏れた。話し合った先にある別れをすでに見越しているのが、なんだかおかしく思えたからだ。
私から押して、彼の押しに弱いところにつけ込んで始めた関係だったから、それも仕方がないのかもしれないけれど。情熱的に追いかけていた割には粘ることは考えていないんだなと、そんな矛盾に笑えるのもまた仕方がない。
――結局私も彼と同じ、臆病で傷つくのが怖くて、逃げ出すことしかできない人間というだけだ。
お風呂を出て着替えようと手を伸ばした先には、外出着が用意されていた。パジャマが用意されていると思っていただけにとても不思議だったけど、それを着るよりほかはない。いったいどうして、なんて思っていた矢先。脱衣所の扉がコンコンとノックされて、香苗さんの声が届く。
「しっかり髪を乾かして、リビングにきてね」
それだけを伝えにきたらしい。
(……なんで、そんなことを?)
不審に思いながらも言われたとおりに髪を乾かして、リビングに向かう。
話し声が聞こえた。聞き覚えのある、低くて小さな声だった。
「先生……?」
リビングのソファには、なぜか彼が座っていた。