第三話
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その姿が目に入った瞬間、無意識に肩が震えた。
キンコン、とドアベルが鳴ったのは平日の昼間だった。高校は授業中のはずで、まさかこの人が彼の居ない時間を狙ってわざわざうちに来るなんて、考えてもいなかった。
「少しいいかな、杉原さん」
高島先生はそう言って、とても上品に微笑んだ。
在学当時、高島先生と深く変わった記憶はない。私が健康的だったのもあるし、高校生にもなれば、運動部でもない限りは保健室を利用することもそうそうないだろう。
だから印象としてあるのは、男子生徒に人気だった、ということだけである。
女の私から見ても、綺麗な人だと思う。目立つほどではない。だけど、埋もれるわけでもない。堂々と咲き誇る薔薇というよりは、まさにひっそりと咲く百合とたとえるのがぴったりな人だ。
先生をリビングに案内して、お茶を出す。少し緊張気味だった先生も、そこでようやく「ありがとう」と笑ってくれた。
「この間はごめんなさい。突然来て……まさか麻倉先生の恋人が元教え子だとは思ってもいなかったから、失礼なこともあったと思う」
「あ、いえ、その……」
彼は高島先生に対して、私のことを恋人だとは言わなかった。いろいろと思うことはあるのだろうけれど、なにより体裁が気になったのかもしれない。
――ああ、それ以前に、私のことは恋人という認識ですらなかったんだっけ。
「……麻倉先生も言っていたとおり、私はわけあってお世話になってるだけなんです。だから、恋人とかでは……」
「そう? でも、少し思い出してみればね、杉原さんって在学中、よく麻倉先生と一緒にいたじゃない? だから納得できる部分もあるなって思ってね。……ずーっと父のところに戻ることに頷いてくれないのはきっと、結婚間近の恋人がいるからだろうって、私も父も思ってて」
先生の目が、困ったように私に向けられた。
「麻倉先生、実はすごい人なの。父が初めて右腕にしたいって、彼のことを認めていたくらい。……私が麻倉先生を知ったのもその頃なんだけど、専攻分野にとても真摯に向き合ってて、いつも楽しそうに父と話してた」
それで、何が言いたいんですか。そんな挑発的な言葉を吐き出せるほど、私は強くない。高島先生の目を見つめ返すこともできなくて、ただ小さく「そうなんですか」としか言えなかった。
「杉原さんからも、麻倉先生を説得してくれないかな。彼となら新しい分野に挑めるって、父はいつも楽しそうに言ってるの」
私が恋人だったら、先生はこんなことをお願いしなかったのだろうか。
居心地悪く、目を伏せたまま。そんな私をどう思ったのか、先生はやっぱり困った笑顔を浮かべていた。
「杉原さん、うちの理事長の娘さんよね? そのツテで麻倉先生と一緒に居るのかなぁとも思うけど、年頃の女の子が、いくら歳が離れてて大丈夫とはいえ家族でもない男の人のところにいるのは、ご家族もあまり良い気分にはならないと思う」
「……そう、ですかね」
「それに……。たぶん、杉原さんが側にいると、麻倉先生、余計に縛られちゃうと思うの。……高校教諭になったのは理事長に助けられたことがあるからだっていうのは、知ってる?」
「……え?」
聞いたことのないことばかりが、耳をすり抜けていく。
先生が教師になった理由なんて知るわけない。
どうして私は「恋人」なのに、それを今、この人から聞いているんだろう。
「そもそも博士号を取らなかったのも、在学を続けることができなかったからなの。……麻倉先生ね、ご家族が病に罹って、働かなきゃいけなくなって。すぐにお金がいるからって手っ取り早く夜の街に出たらしいんだけど、あの性格だからうまくいかなかったみたいでね。ボーイはダメだっていろいろ試したらしいけど、どれも続かなかったらしいわ」
そんなことは、一度も聞いたことがない。
だって、出会った頃から、彼は「先生」だった。そんな職についている人だからこそ、まさか過去に夜の街で働いていたことがあるなんて、想像できるわけもない。
高島先生の言葉に、何も言えなかった。ただろくなリアクションも返せないままで、その言葉しか知らないように「そうですか」と言うことしかできなかった。
「殴られて、蹴られてね。ボロボロになってたところを、理事長が見つけたらしいの。ほら、理事長ってとっても人がいいでしょう? 彼の境遇を聞いて、そんな若い才能を殺すわけにはいかない! って使命を感じちゃったみたいでね、返済はゆっくりでいいからって、治療費を肩代わりしたんですって」
「肩代わり……」
「で、あとは想像できるとおりよ。麻倉先生、理事長に恩を感じて先生になったの。理事長の学校に入れてくれってお願いして、すごくすごくお願いして、そこで今も働いてる」
――たとえば、恩人の娘から迫られたらどうするだろう。
彼はとても義理堅い。そんな彼が恩人の娘に告白なんかされたなら、どんな未来を選ぶのか。
ボロボロと、崩れ落ちていく。
見ないふりをしていたものが全部繋がって、優しくて楽しかったまやかしのような夢が薄らいで。
告白を受け入れてくれたのは。寝室を分けたのは。愛の言葉をくれなかったのは。私に興味も関心もないのは。
全部全部恩人の顔を立てていただけで、最初から私のことなんか見ていなかったからだ。
知っていた。分かっていた。そんな強がりをどれだけ重ねても、胸の痛みは治らない。
「麻倉先生と杉原さんの間にも何かがあったんだろうから、無理にとは言わないけどね。理事長も心配してるだろうし、何より麻倉先生が本当にやりたいことがあるのなら、応援してあげてほしい」
いったいいつ、高島先生が帰ったのかは分からない。
気が付けば先生はいなくて、空いたグラスだけが取り残されていた。
(なんだっけ……)
私はこの数十分、いったいどんな時間を過ごしていたのだろう。
(……私は、何がしたいんだっけ)
ふと、思う。
私は、何がしたかったのか。
彼のことが好きだった。再婚した家から勝手に遠ざかって、拠り所になってくれた彼に恋をしていた。
彼と話せるだけで楽しくて、姿が見えるだけで嬉しくなった。そんな、まるで中学生の初恋みたいな青い気持ちを抱いていた。
いつから、見ないふりを始めたのか。
私たちはきっと、前にも後ろにも進まない。それをよく分かった上で、彼が何も言わないのをいいことに、縛り付けたままでいようと彼の心を無視していた。
嫌なら言えばいいんだ、なんて。理事長の娘になんて逆えるわけないと、心のどこかで驕っていたくせに。
「ただいま」
彼の声が聞こえた。
そこでようやくはたと我に返って、思考が戻る。
「お、おかえりなさい」
「……誰か来てた?」
私から離れた場所に置かれたコップを見て、彼が不思議そうに尋ねる。それでもあまり興味はないのか、スーツを脱ぐために寝室へと足を向けたようだった。
「別に、誰も」
コップを持って、流しに向かう。シンクにそれを置いたところで、彼が寝室から戻ってきた。
「今日は出前にしようか」
「え? あ、すみません、私、晩ご飯、」
「いや、顔色も悪いし、疲れているんだろう。いつも頑張ってくれてるんだから、今日くらい休んだらいい」
でも、だけど、それなら、私が側にいる意味なんて……。
(ああ、違う。最初から意味なんかなかった)
私がただ彼にぶら下がっているだけで、意味を覚えているのは私だけで、彼はそうじゃない。
分かっていたはずのそんなことを改めて突きつけられたようで、なんだかうまく笑えなかった。
「杉原?」
「いえ。……何食べますか」
近くにあったタブレットを開いて、近隣店舗の出前メニューを開く。彼は少しだけ私の様子を気にする素振りを見せたけれど、それでも結局何も言わずにすぐに画面に視線を移した。
「将吾さん。今日は一緒に寝てもいいですか」
出前を選びながら、彼の方に目も向けずに聞いてみた。
せめて体だけでも繋ぎ止めておかなければと、変に焦ってしまったのかもしれない。これまでそんな雰囲気になったこともないし、そもそもそんなことを意識したこともなかった私から突然おかしな言われて、彼が息をのんだのが分かった。
「……いいわけない。どうした?」
「お願いします」
強く押せば、これまでみたいに折れてくれるかもしれない。だって私は成人も過ぎているし、そういう関係になっても犯罪というわけでもない。私は彼に「好き」と言っているのだし、私が父に彼のことを悪く言うわけもない。どんな人にも性欲が溜まるということを思えば、彼にとっても悪い話ではないはずだ。
どうか頷いてほしい、と。そんな願いも虚しく、少し黙りこんだ彼はまるで聞き分けのない子どもをあやすように、私の頭を優しく撫でた。
「疲れてるのか? 先に風呂に入りなさい。飯は僕が適当に注文、」
「っ、疲れてなんかいません!」
どうして、いつまでも大人として見てくれない。
悔しさから襲った衝動に身を任せて、両手で彼の襟首をひっつかんだ。そんな乱暴なことをされるとも思わなかったのか、彼はただ驚いているだけである。それをいいことに、間を置かず強引に引き寄せる。
触れたことのない唇。それがぐんと近づいて、しかし触れ合う直前で彼の手が間に入る。
「やめろ!」
彼にしては珍しく、少々手荒に引き剥がされた。
強めに押されたために、前のめりになっていた体勢がひっくり返る。尻餅をついて、呆然としながらも彼を見つめると、彼は唇を拭うように手の甲で軽く擦っていた。
触れてもいなかったのに、その反応はあんまりだ。顔が近づくことすら拒否されたみたいである。
「……あ、すまない、大声を出して。……どこか、捻ったりしなかったか」
「……大丈夫です」
拒否されたみたい、ではない。
明確に、拒否をされたのだ。
「ひとまず飯を、」
「じゃあ、最初っから言っといてくださいよ」
悔しくて、声が震えた。
この四年、もしかしたらと何度も期待した。父と彼とのことなんか知らないから馬鹿みたいに浮かれて、私に触れないのは大切にしてくれているからだと思い込んで、見ないふりを続けて、気付かないようにと目をそらして、そうやって何度も何度も自分を騙して。
心のどこかで分かっていても、絶対にそちらだけは見ないようにとただかたくなに。
「あなたは僕の恩人の娘だから仕方なく受け入れるからねとか、恋人って言われて受け入れたけど僕の認識では妹くらいだからねとか! そうやって言ってくれてれば私だって最初っから期待なんかしませんでした!」
今回も、知らないふりをしてやればよかった。
何にも気付かなければ、私たちは変わらないままでいられたはずだ。
「……杉原? どこに……」
彼の方を見ないようにと意識して、大股で玄関に向かう。背後から彼が追いかけてくる気配がした。当然振り返ることはなかった。
「家に帰ります。もう一緒にいる必要はありません」
「……って、もう薄暗くなり始めているんだから、」
「放っといてください」
手順の多いブーツを手際良く履いて、立ち上がる。
「私が勝手に怒ってるだけです。先生は悪くない。でも今は一緒にいたくないんで、帰ります」
「杉は、」
まだ何か言いたげな彼を放置して、すぐさま外に出た。
顔を見れば決心が揺らぐ気がした。