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第二話


 求められることはなくても、まったく気にならなかった。

 愛の言葉も必要ない。ただ、彼の帰る場所が私の隣であればそれだけで良い。贅沢なことは言わない。彼の心もいらない。キラキラとしていた私の恋心はすでに、手に届かないほど遠くにまで行ってしまった。


「明日、大学は」

 お風呂から上がってシンプルなパジャマを着た彼が、リビングでテレビを見ていた私の元へとやってきた。髪はしっかりと乾いている。体調管理の一環として、彼は常に小さなところから気をつけている。

「ありません。必修科目は今日で終わりました」

「それなら明日は、卒論を見るよ」

「……学校は?」

「明日は創立記念日だから、休み」

 それじゃあ、おやすみ。そう付け足して、特に触れ合うこともなく彼はささっと寝室に引っ込んだ。

 カレンダーを見れば、確かに母校はこの日が休みだったかなと思い出す。思い出すまで待ってもくれないくせに卒論を見てくれる優しさはあるなんて、おかしくて笑ってしまいそうだった。

 彼が寝室に入って少し、ようやくテレビの電源を落とす。そうして彼の寝室の隣の部屋に入り、私もそこで一日を終えた。



 卒論を見る、とは言ってくれたけど、いったいいつ起きるのだろうか。

 気になったのは翌朝だった。彼は起こさない限りは起きてこないし、休日は休みたいだろうからといつもなんとなく放置している。今回も仕事というわけではないし、ただ私の卒論に付き合うだけなために、彼の睡眠の邪魔をするのは忍びなくて起こすことにも気が引けた。


 そのため結局放置して、リビングで一人作業していた。途中、お昼を迎えて場所をカフェに移す。彼がお昼まで起きない時はだいたい「今食べたら夕飯が入らないからいい」と昼食を抜くために、自分だけの時はいつも外で済ませるのだ。

 帰ったのは午後二時をすぎていた。家に入ると「おかえり」と聞こえて、彼が起きていると知る。

「帰りました」

 彼は少し前に起きたのか、スウェットのままでソファに座っていた。興味もなさそうにテレビを観ていたその目が、私がリビングに入ると同時に振り返る。

「昼飯?」

「はい。何か食べますか?」

「……今食べると夕飯入らないからいいや」

 思ったとおりの返事には特に何も言わず、そうですか、とだけ返しておいた。

 そうして彼の側に座ってテーブルにパソコンを開くと、彼は当然のように覗き込む。スラスラと画面に目を滑らせて、ようやくそこから約束の時間が始まった。


 真剣に画面と向き合って一時間。休憩を挟んだ時に、彼は「起こしてくれたら良かったのに」と何気なく呟いた。飲んでいたコーヒーをテーブルに戻して、大きなあくびを一つもらす。特にどうとも思っていないけれど起こしてくれたら良かったのになあと、本当にそう思っているだけなのだろう。無関心さは、声音からも伝わった。

「だって将吾さん、疲れてそうだったから」

 ありていに言えば、彼は少しばかり間を置いた。

「そう? うーん、そっか。……言われてみれば、あまり疲れが取れていない気もする」

 それって、私が一緒に暮らしてるからですかね。そんな言葉が思い浮かんで、だけど吐き出すことなんてできないまま。結局「ほら、寝てないと」と軽く笑うことしかできなかった。


 少しだけ和らいだ空気を裂くように、彼の携帯が鳴りだした。音はない。ブルブルと震えるだけで、テーブルの上で騒がしく震えている。

 ディスプレイに表示された名前に、高島、と見えた。その後には「教授」と続いていたから、高島先生からではないらしい。


「ごめん、少し」

「あ、はい。私は続けてますね」

 彼が寝室に向かう。それを見送って、私もパソコンのスリープを解除した。

 何を言っているかは分からないけれど、話しているのは遠くで聞こえた。最初は気にならなかったそれも、少し聞いていれば「何を話しているんだろう」と意識がそちらに向き始める。

 なにせ、高島先生がうちに訪れた後の今である。彼が博士号の取得についてどう思っているのかも、その専門について突き詰めたいのかも、本心が何も分からないから余計に気になって仕方がない。


 たとえば今の電話が、教授本人からの「戻っておいで」という連絡だったならどうだろう。

 彼は、戻りたいと思うのではないだろうか。


 好奇心は猫をも殺す。そんな言葉は、もしかしたら今のような状況のためにあるのかもしれない。

 分かっているのに、体が動いた。どうしても、彼の本心が気になってしまったのだ。


「はい。分かってます、はい」

 言葉が聞き取れるくらいには扉に近づいて、耳を澄ませる。彼は油断しているのか、いつもと変わりない声のトーンで落ち着いた様子を見せていた。

「そうですね。高島先生はなぜ自分にあんなにもこだわるのか……やめてくださいよ、僕には結婚なんてまだまだ。高島先生にも失礼ですよ」

 聞き流せない単語に、自然と体が固まった。

「ええ、どうですかね……いえ、恋人なんていません。だからといって高島先生とは……教授。あまりからかわないでください」

 声を潜めたように、彼が笑う。

 彼が笑うなんて珍しい。それなのに私は頭の中が真っ白になって、何を思うこともできない。

(あ。ダメだ。これ以上、聞いてたら……)

 もっともっと、傷つく結果になってしまう。

 ひとまず離れなければと、そっと一歩を踏み出した。きっと聞いていたことなんて気付かれていない。だって彼は私に興味がなく、関心さえ持ってくれたことはないのだから。


「はい。結婚はしますよ、そのうち。今はまだプライベートが忙しいので考えられなくて。……ですから、僕は教授とは親子になるつもりはありませんよ」


 ――ほら、やっぱり。

 聞いていたっていいことはない。聞くべきではなかった。好奇心は身を滅ぼすと、分かっていたくせに。

(ううん。もしかしたら、終わらせたかったのかもしれない)

 そのための、決定打が欲しかったのか。

(……そっか。もう疲れたのかな)

 先生が好きでずっと追いかけて、私の立場もチラつかせて断れないような空気を作っていた。そこに愛はない。愛なんて、一度も生じたことはない。だから先生が戻ってきた時、私が一言「同棲やめましょうか」なんて気さくに言えば関係は終わる。恋人のように「別れよう」と言いたいけれど、先生の認識がそうでないのなら、そんなことを言えるはずもない。

(終わったら、どうするんだろう)

 そのあとの自分がまったく思い浮かばなくて、自嘲気味に笑みが漏れた。


 そこで不意に、悪魔がささやく。

 だけど、知らないふりをしていればこれまでと変わらない日常だよ、なんて。


(私が聞いてたなんて、先生は知らないから……)

 今更終わらせるって? 四年間も一緒に過ごしたのに? 綺麗事言うのはやめなよ、ここまで縛ってたんだから、もうどこまで縛ってもおんなじじゃないか。

 悪魔は実に悪魔らしく、これまでと同じように私の決意を揺るがせる。

 そうしてまたしても、思ってしまうのだ。


 そうだ。私に興味関心を持たなかった先生が悪い。先生はこんな関係終わらせたくて仕方がないのかもしれないけど、私は違う。あえて聞かせたにしても、浅はかな作戦だった。そんなことで離れる私じゃない。


「……そうだよ、私は悪くない」

 本当に嫌なら、あの時私を拒否していれば良かっただけである。私の父のことで断れない理由があったにしても、私はそこで聞き分けもなく脅すような、子どものようなことをするつもりはなかった。最後の最後でフラれたなら、きちんと引くつもりだった。それでも頷いたのは彼の方だ。

「進んだかな」

 普段と変わらない様子で戻ってきた彼からは、先ほどのことに関する悪気なんて一切感じられない。それはつまり、あれが彼の本音であり、後ろめたいと思うような感情ではなかったということである。


 ――それなら、私たちはいったい、何のために一緒にいるのか。


 恋人じゃない。結婚なんて考えられない。誰にも堂々と紹介しない。触れるわけでもない。ただ一緒に暮らして、時間の浪費をしているだけ。

 何一つ互いのためになんかなっていないのに、私たちはいったいどうして。


「少しだけ、進みました」

「見せて」

 彼がソファに座る。そうして画面を見つめる真剣な表情からは、こういった仕事が好きなのだろうと、そんなことがなんとなく伝わった。

 それなら彼は、教授の元に戻りたいのかもしれない。恩師自身から誘われたのなら尚更だ。そして戻ったなら宣言どおり、娘である高島先生と結婚でもするのだろうか。

 そんな未来が、なんだかしっくり来てしまった。私みたいな十七も年下の女より、いくらかお似合いだと素直に思えた。

「悪くないね。あんまりアドバイスするとあれだから控えるけど……今のところ、このままでいい」

「あ、はい。大丈夫です。進めますね」


 私たちは、時間の浪費を繰り返す。

 禁断の恋から、七年目。それは、今日も変わらない。


 

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