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第一話


 高校一年生の時、最初で最後の恋をした。


 彼と出会ったのは、父が再婚して、家に新しい母と弟妹がやってきた頃だった。義母も義弟妹も良い人たちだったのに、私が勝手に家に居づらいと感じてしまって、いつまでも学校に残っていた時のことだ。


「まだ残ってたのか。部活ないなら帰りなさい」


 部活動が始まって少し。もう薄暗くなり始めた、肌寒い日だった。

 麻倉あさくら先生はいつものように、表情を変えないままでそう言った。私はただ見つからないだろうと思っていた空き教室で、時間になれば窓から出て行こうと一人、丸くなって座っていた。

「……あ、はい、すみません」

 その時はまだ、先生のことをよく知らなかった。突然休みに入った先生の代わりにやってきた穴埋めの教員、というイメージで、授業以外では話したこともない。そもそも麻倉先生は生徒と仲良く話すようなタイプでもなければ、表情は常に固く、自分の話もしないし隙もないような人で、生徒の間では謎の多い人として噂されていた。

 だから、そんな人に怒られたと思って、その時はとても恐ろしかった。大人になって思えば「怒られたって死ぬわけでもないし」と開き直ることもできるのだが、「学校」という狭い世界の中でしか生きたことのない当時は「怒られることは悪」という認識が頭の中にこびり付いていたのだ。

 少し寄り道して帰ったらちょうど良い時間かもしれない。そんなことを考えながら、何を考えているのかも分からない麻倉先生の視線を受け流して、早足に教室を後にする。


 次は隠れる場所を変えたらいい。

 そう思いながらも残っていた翌日。

 なんとまたしても、麻倉先生に見つかった。


「まだ残ってたのか。部活ないなら帰りなさい」


 まるでロボットのように、一言一句違わず昨日と同じ言葉を吐き出した。


 それからも麻倉先生は、私がどこに隠れていても絶対に私のところにやってきた。どうして見つけることが出来たのかは分からない。毎回バレないようにと隠れるたびに難易度は上がっていたはずなのだけど、先生は絶対に私を見つけだす。そうしてやはりロボットのように、同じ言葉を繰り返すのだ。


 そんなことが、ひと月ほど続いた頃。

 無表情な上に何に対しても無関心そうな先生でもさすがに気になったのか、ようやく、テンプレートとなっていた言葉とは違う言葉を発した。


「どうしていつも残っている?」


 特別親しくなったのは、この頃からだった。

 そしておそらく、「先生」としてではなく、男の人として惹かれ始めたのもこの頃である。



 高校一年生の頃だった。

 恋に恋する年頃だったということもあり、一生に一度とも思えるくらいには、一生懸命に恋をしていた。



   *


「将吾さん、起きてください! 朝ですよ!」

 ジリジリとうるさく鳴る目覚ましを止めたのは私だった。目覚ましをセットした張本人はううんと唸った程度で、起きるには至らなかったらしい。

 同棲生活ももう四年目。彼の目覚めの悪さにも慣れたものである。

「将吾さん!」

「……ん、起きてる……」

「寝てますよそれ」

 彼はとてもシンプルな、決められた色しかない部屋で暮らしている。だいたい濃色で、ぐるりと見渡しても五色程度しか目に入らない。彼はとても気難しくてとても神経質だから、こうなってしまったのかもしれない。

「……今日、大学は?」

「これからです。将吾さんは学校でしょ」

「んー……」

「起きてください!」

 ぐいぐいと強引に引っ張っていればようやく彼も諦めたのか、不満そうにしながらものっそりと体を持ち上げた。


 ――高校一年生の時からしっかりと一年温めた恋心は、二年の時に見事に砕け散った。

 今思い返せば、教師が生徒に告白されてオーケーなんてするわけがない。それでもあの時は何も考えていなくて、一年間も片思いをしたものだから我慢もできなくて、つい勢いで告白してしまったのだ。


『すまない。考えられない』


 そのたった一言で終わった。

 のちに聞けば「告白なんてされたことがなかったから答え方も分からなくて」と言っていたけど、たぶんあの時は「面倒くさいことになった」とでも思っていたのだろう。そんな顔をしていた。

 だけどもちろん諦められるわけもなく、高校生という若さもあり、押して押して押し続けて、卒業して少しした頃に「恋人」という称号を得た。大学に入学しても学校に通い詰めていた甲斐があったというものだ。先生は押しに弱かったらしく、半ば諦めるように折れてくれた。今でこそ同棲なんてことをしているけれど、ここに来るまでにもずいぶん粘ったものだ。


 そんな私ももう、今年で二十二歳になる。先生はいつまで経っても私を子どもとしてしか見てくれないのか、キスはおろか手を繋いでくれることもないけれど……就職を機に何かが変わらないかなと、そんな期待を抱いている現在である。




「それじゃあ、行ってらっしゃい」

 ピシッとスーツを来た彼が、革靴を履きながら「おー」と気の抜けた声を出す。無表情は相変わらず。最近ではそこに眠たそうな様子もプラスして、すっかりやる気のなさそうな教師になってしまった。

 玄関がパタンと静かに閉じた。彼はいつも、振り返ることもなく、名残惜しさを感じさせることもなく、躊躇いなく仕事に向かう。それが寂しいとは思わない。だって、彼はシャイなのだ。


「あ、私も大学……!」

 卒業間近、就活も終わり、あとは卒論を仕上げるだけ。それでも休んでいた日の必修科目を取得する必要があるから、まだ少しだけは授業を受ける時間がある。授業の時間にはまだまだ早いけれど、それまでに調べておきたいことがあったのだと思い出して、彼の後を追うようにすぐに家を出た。



 ――禁断の恋から四年。片思いを含めれば、もう七年目に突入した。だけど私の気持ちは色あせることなく、今もまだキラキラと胸にある。



 大学を終えて家に戻った頃には、もう夕方になっていた。友人や教授とのんびりと楽しんでいたら、いつの間にか日が傾いていたのだ。それでも彼が帰ってくるにはまだ早いために、のんびりと食事の準備を進める。

 そうしてもうすぐで仕上がる、というところで、ガチャガチャと鍵の開く音がした。彼が帰ってきたのだ。相変わらず乱暴に開けるなあと微笑みながら玄関に向かうと、ちょうど扉を開いた彼と鉢合わせた。

 彼の背後には、スーツの女性が立っていた。見覚えがある。私が通っていた高校の養護教諭だった。

「……麻倉先生、まさか生徒と……?」

「はぁ。……卒業してから、いろいろありまして。杉原はわけあって一緒に住んでるだけですよ。もう帰ってください」

 養護教諭の高島先生は、整った顔立ちをしているけれど派手なわけではない。質素で清楚で、だからこそ男子生徒に人気があった。

「話は終わっていませんよ」

「終わりました。……僕はどれだけ、何を言われても戻りません。帰ってください」

 彼の拒絶に、高島先生が私をちらりと意味深に見つめる。しかし彼の態度があまりにも頑なであるためか、すぐにふうとわざとらしいため息を吐き出した。

「私はまだ諦めませんから」

 そうして、くるりと踵を返す。最後まで、少しも怒った様子はなかった。


「……あの、大丈夫ですか?」

「ああ、別に。……飯は」

「あ、はい、あります、ちょうど仕上がるところで……あの、スーツ脱いでてください」

 どことなく気まずい雰囲気。だけど私たちはお互いにそれに触れないまま、それぞれ別の場所に足を運ぶ。彼は寝室にスーツを脱ぎに向かった。私は当然、キッチンだ。

(……なんで、高島先生が家に……?)

 独身の女性が、どうして彼の家に押しかけるのだろうか。

 彼のことだから学校では「恋人がいる」なんて公言はしていないだろう。もしかしたらそれでフリーだと思い、交際を迫っている、とか。

(諦めないとか言ってたし)

 どうだろう。

 高島先生は三十歳で独身。私よりも彼と年齢が近く、大人で、男の人は結婚するならああいう人がいいはずだ。


 ――結婚。

 ポツポツと、小さな不安が広がる。しかしすぐに考えないようにと、軽く頭を横に振った。


「高島先生は、僕が世話になった教授の娘さんでね。赴任してきてからずっと、教授の側に戻るべきだとしつこく言ってくる」

 キッチンにやってきた彼は、セーターにスウェットと、なんだかちぐはぐな格好をしていた。

「……戻る? って、どうしてですか?」

「僕が、教授のところで修士課程を修了してるから」

「えっ!」

「教授も当然博士号を取るものだと思っていたらしくて、教師になったときにはずいぶん驚かれた」

 そういえば彼は教員免許を取ったのが遅かったと、前にちらりと言っていた。大学院に通っていて別のことを学んでいたのならそれにも納得だ。

 ――だけど確かに、修士号を取得したのなら、どうして突然……。

「いただきます」

「え、あ、はい。いただきます」

 そこに踏み込めないのは、私たちの間にまだまだ遠慮があるからかもしれない。


 本当は彼は、ゆくゆくは博士号を取得しようと思っていたけれど、私との関係がこんなことになってしまったからそちらにいけないだけなのではないか。もしかしたら、彼の未来の邪魔をしているのではないか。

 そんな予感が頭を過ぎって、やっぱり頭を振る。

 もしも本当にそうだったとして、それなら私は身を引きますと綺麗に別れられるほど、美しい人間というわけでもない。ここまで好き勝手に彼を引っ張ったせいで、我の強さに拍車がかかってしまったのだろうか。今更そちらには返してあげないぞと、そんなことさえ思ってしまう。

 なにせ私と彼は恋人だ。彼の人生に関して、多少は口を挟む権利もあるはずである。


 静かな食卓には、箸と皿が触れ合う音しか聞こえない。そんな関係でも、私は彼の「恋人」なのだ。


「ごちそうさまでした」


 丁寧に手を合わせて、彼はお風呂場へと向かう。今日は何があったとか、そんな会話もない。寝室も別々だ。彼の希望で、部屋の多いマンションの一室を借りた。

 愛の言葉もない。好みも知らない。彼自身のことなんて、今日初めて知ったくらいだ。

 だけど、私たちは「恋人」である。

 私が引かない限りは、ずっとずっと、十年後も二十年後も、彼と私は「恋人」をしているのだろう。


 前にも後ろにも進まない。現状維持のまま、無駄に歳を重ねるだけ。


(いい。いいの。受け入れてくれた。それが嫌なら、受け入れなければ良かったんだ。受け入れて同棲までしてるのはあっちなんだから、いいの。関係ない。私が側にいたいから、いる。それでいい)

 結婚して、なんて馬鹿なことは言わないから、どうかこのままで居てほしい。

 もう恋とも呼べないような、汚くて醜い感情。かつて美しかったそれはすっかり濁って、痛い苦しいと悲鳴を上げていた。

 

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