表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編

 この世界には剣と魔法が存在しているし、勇者と魔王が戦ったりもしているが、この物語において、それらは端役以外の何者でもない。




 ここ最近、タイタス・ライドが目を覚ますのは、朝の冷たい風を感じてからである。

 風が肌を突き刺す様に冷たい。家は雨と風さえ凌げれば良いとは誰かが言っていたが、きっとそれは贅沢を言葉にしたものだろうとタイタスは常々思っている。

 観念した後に目を開ければ、映るのは何時の間にか天井に開いた小さな穴からの光であり、上半身を起こして見えるのは、組んだはずの木材がズレ、隙間が空いた壁である。

 タイタスはまだ若いつもりであったし、実際、体力はある方ではあるが、それでも、このオンボロ小屋での朝はキツいものがあった。

「……何時も通りさ。こんなのは何時も通りだ」

 タイタスは自分に言い聞かせ、体の上にある毛布を取り払うと、ベッドと呼びたくも無い藁とシーツと木の骨組みで出来た何かから立ち上がる。

 もう少し眠っていたいと思わないところが、この小屋の数少ない利点であろう。睡眠欲を容易く奪い去ってしまう場所。この小屋はそんな場所なのだ。

 あばら家だ。雨も風も凌げないし、修理したと思っても、どこかしらに不備が出る。そんな小屋が、自分の寝泊りする場所だと思うと、一日の始まりから気がめいって来る。

(大工ならいるんだけどな……頼める時期でも無いよな。冬までには何とかするべきだろうよ。何とかなるかな?)

 頭を掻きながら、小屋の端に置いた水瓶から手で水を掬って顔にぶつける。こんな小屋で始まる朝にとって、必要なのはこの行動と、服を着替えるという動作だけ。

 後は小屋から出て外の景色を見つめれば、本日の仕事の始まりだった。

「さて、今日は何から手を付けるかね」

 タイタスは小屋の扉を開き、幾つか、自分が住んでいる場所と同じ様な小屋が存在する広場を目に映す。

 広場には既に何人かの人影があり、朝がやってきた事を教えてくれた。

 その他には何も無い。人と人の住む場所と、その他は自然が広がっている。開拓地ロードリンクスはそんな場所である。




 マレステンという国がある。国王と、その部下たちが治めるこの国は、大陸の中央付近に存在し、10年ほどまでは周辺国家と戦争を繰り返していた。

 戦争の原因はいろいろである。領土が欲しいと言うものであったり、領土をくれと言うものでもあった。分かり易く表現するなら戦国時代であったのだろう。

 だが、それも過去となる。戦争は終わる。人間、そう長い間戦い続けるわけには行かない。その次を考える時代が来たのだ。

 もっと露骨な言い方をするならば、戦争が終わった後に残る労働力をどう扱うかだ。

 兵士として徴用した者、傭兵として雇い入れた者。それらに代わりの職業を与えなければ、治安をすぐにでも悪くなってしまう。戦争以外の、新しい仕事を作る段階が来てしまったわけである。

 マレステン王国が選んだのは、戦後賠償で手に入れる事になった未開拓地や、戦争によって荒れ果てた土地に、幾らかの労働力を送り込むという事であった。

「詐欺に遭ったって思う人間が過半数である以上、やっぱ詐欺だったんじゃねえかな?」

「……詐欺だと言うなら、訴えれば勝てる」

「じゃあ詐欺じゃないか……」

 タイタスは近くの木にもたれ掛かりながら、目の前で作業を続ける女を見つめる。女は20代の半ばから後半……タイタスと同じくらいの年齢だ。

 黒い髪で目付きが悪いのも同じであり、タイタスの方が男性らしく髪が短いくらいしか、違いらしい違いが無い。一応、体格も身長もタイタスの方が大きい。これも一応であるが、やはり女性らしい体格をマフはしている。

「暇なら開拓村の見回りでもすればどうだ? こっちは見ての通り忙しい」

 彼女、マフ・ノールはこの開拓地における工作役だ。木々を切り倒し、木材を資材へと変え、それを組み立てて家や道具を作り出す事が出来る。ロードリンクスの開拓者達の中では、とても重要な位置にいる人間であった。

「それが本当に残念な事に、俺も暇じゃなくてね。セイリングの家の近くの囲いなんだが、どうにも獣に襲われて壊れかけている。出来れば、早めに直して欲しい」

 もたれていた木から背を離し、タイタスはマフを見つめた。真っ直ぐにではない。そんな面と向かって誰かと話し合えるほど、今は気力が湧いて来ない。

「別に構わないが、頼まれているお前の家の修理については、さらに先延ばしになるぞ?」

「ああ、分かってる。くそったれな話だが、よりクソみたいな事態になるのだけは避けないとな」

 開拓地にとって、敵は幾らでも存在しているのであるが、その内の代表的なものの一つが獣だろう。

 それまで人がいなかった土地だからこそ開拓するのであり、つまり獣も人を恐れない。むしろ好奇心から近づいてくる場合もあった。

 畑や建築物が荒らされる場合もあれば、もっと直接的に人が襲われる時もあるのだ。

「……大変だな」

「それが俺への慰めの言葉なら、もう何度か聞いたな。いや、それでも、資材が足りないとか、故郷に帰りたいとか、大空を自由に飛び回りたいとか言う文句より大分マシか」

「最後のは何だ?」

「いや、何か鳥の羽を集めて手で握れば空を飛べるようにならなきゃ嘘だと断言してきたんだよ」

 開拓地ロードリンクスへと送り込まれた開拓者は100人規模だ。色んな人間がいるし、色んな関わりたくも無い問題が山積している。

 一番嘆くべきは、それらの問題を無視できない立場にタイタスがいる事だった。

「つくづく大変だな。管理官なんて立場は」

 マフの言う通り、タイタスはこの開拓地の管理官だった。開拓は国の後援により行われる事業であり、国家の管理も当然入って来る。その取り決めが形になったものこそ、タイタスという存在だった。率直に言えば、タイタスは国に雇われている身分なのだ。

 もっとも、偉そうに出来るだけの立場では無い。国は開拓事業が成功してくれないと困るから、むしろ、頭の痛い問題が発生すれば、真っ先に挑まなければならない立場だと言うだけ。

「同情してくれる奴ばかりなら、それでも冥利が尽きるってもんなんだが……兎に角、セイリングの件は頼んだぞ。出来れば今日中にでも取り掛かってくれた方が、文句が一つ減って助かる」

「善処しよう」

 愛想があまり無いマフの言葉聞く。彼女は何時だって端的で、出会った当初こそ不愛想だと思ったし、今でもそうだと思えている。

 しかし、開拓生活を続ける中で、得難い才である事を理解する様にもなった。

 彼女は彼女自身の能力を客観視できており、出来る事はするし、出来ないことは出来ないと言ってくれる。これがどんなに有り難い事か。

「何かあったら、会議所まで来てくれ。昼からは夕方まではそこにいると思う。もしかしたら夜になるかも」

 仕事は何時だって存在している。キリが良いところで中断するのが一番良いのだが、その良いキリがあまり存在していないのは不公平だと思う。

「報告の件は了解だ。それで……本当に暇つぶしに来たわけじゃないな?」

「そりゃあそうだ。ちょっと気晴らしする事を、暇つぶしなんて言わねえからな」

 頭を掻いて、その後に出そうになった溜め息は飲み込む。少なくとも、マフに背を向けて、もう何歩か歩き出してからの方が、格好は付くだろう。

 ふと空を見上げれば、まだ日は出たばかり。会議が始まるまではもう少し時間がある。それまでは、まだ何かを自主的に出来る時間だった。




 ロードリンクスはお世辞にも良い土地とは言えない。土地こそ耕作に耐えうるものであるが、あちこちに森林が存在しており、土地を広げようとすればそれだけ土地を文字通り切り開かなければならない。

 開拓民が100人を超えるとは言え、全員分の労働力を開墾に当てられるはずも無い。結果、土地を広げる作業は遅々として進まず、最近になって、漸く形になってきたと言える段階であった。

 獣も近くに良く出るし、近隣の都市からの交通の便も悪い。そんな場所での管理官という仕事は、間違いなく貧乏くじだとタイタスは理解している。

(ただ、理解するのがくじを引いちまった後だった以上、今さら元に戻せないってのが難点だな)

 愚痴が続く。内心でだけなので勘弁して欲しいところだとタイタスは思う。それに、ここには他人もいない。何せ危険な森の中なのだから。

(いやだねぇ。人がいないってのが貴重だと思ってやがる)

 開拓地からは最も近い森林地帯。人以外の生物の領域でうろつくのは危険であるが、迷わない程度に深くは踏み込まない事を心得ていた。

(こういう事で安らぐってのは、俺も追い詰められてるって事か?)

 自分以外の人の気配が消える空間。風が吹けば枝だって揺れるため、静かという訳では無いが、それでも、どこか喧騒から離れた様な気分になる。

 一時的にとは言え、悩ましい問題から解放された様な感覚に浸れる。

 参ったことに、そんなのは幻想に過ぎない事に気が付き始めてはいる。むしろ、こんな森の中だと気が滅入るのが普通だろう。

(そうだな。人気の無い場所たって、もうちょい良い場所があるさ。何なら、今からそこに向かったって……あん?)

 自分以外はいないであろう森の中、何かが見えた気がした。いや、森の中は何だって溢れているから、何かが見えただけで気にはならない。

(ありゃあ……人か?)

 木々の間から人影が見えた。タイタスのいる場所からさらに森の深く。開拓民だとしたら、それ以上は危険な領域になってくる。

「おい。誰だ。あんまり森には入るなって普段から言ってるだろ」

 人であれば、話し掛ければ反応が返って来るはずだ。だがその人影は、こちらの声が聞こえないかの様にさらに森の奥の方へ。

「……人間のはず。だよな?」

 どうするかどうかを考える。森の奥は危険だ。飢えた動物だけで無く、気温、変化する景色、分からなくなる方向。いるだけで体力を奪われていく。

 それにここ最近に至っては、さらに恐ろしいモノまでうろつく様になっていた。

 タイタスとて、無暗に追えば自身が遭難者となってしまうが……。

「くそっ。これも仕事のうちだよな」

 自分の危険と、今後、開拓民の一人でも行方不明になった際の混乱を天秤に掛けて、前者を取った。

 一応、森の中での移動は他者より慣れているため、少し走れば追いけるはずだ。すぐに相手を止めれば、危険も無い段階で問題を事前に―――

「なっ……いない?」

 人影を追い、あと少しで追い付くと言ったタイミングで、その人影を見失った。正確に言えば、その姿が木に隠れたすぐ後、忽然と人影は姿を消したのだ。

 隠れたはずのその場所にはいないし、また、そこから移動した痕跡も周囲には無い。

「なんだ……? 上……でも無いか」

 そこには、風に揺れる枝があるのみ。周囲四方を見渡すが、やはり見当たらない。良く考えてみれば、追っている最中、どんどん距離を離されていた事を思い出す。

 森の地面は落ち葉や折れた枝ばかりのはずで、移動すればそれらが先へ進む事を妨害してくるはずなのに、その人影はタイタスより余程早く移動していた。

「……見ちゃいけないものでも見ちまったか?」

 気を紛らわせるはずが、むしろ頭を混乱させてしまった。その事が一番厄介かもしれないなとタイタスは考える。

「くそっ……悩ましい事なんてあってくれるなよ? この後、もっと頭をいたぶる会議があるってのに」




 開拓地において、開拓者達の情報共有は必要不可欠のものである。それぞれがそれぞれの仕事を続けるのが常のロードリンクスにおいて、それでも集団として行動する以上、意思は統一しておく必要がある。

 結果、一週間に一度くらいのペースで会議を開く。仕事を幾つかの分野ごとにまとめ、それぞれのリーダー格が集まるのである。

 勿論、ロードリンクスの開拓団を管理する立場のタイタスも出席しなければならない。

 例え妙な事を体験したとしても、会議には出なければならない。それがタイタスの立つ場所だった。

「聞いていますか? 管理官。以上が現状における備蓄物資の状況です。どうお考えで?」

 眼鏡がいる。言うほど広くない村中央の会議所にて、眼鏡の男が一人、こちらを向いていた。

 少し視線を変えれば、眼鏡だけで無く何人もの人間がタイタスを見ている。

 全員で円卓みたいな机(元は円卓だったのだが、会議所に運び込む際に、盛大に打ち付けて一部が欠けているのだ)を囲んでいるのであるが、その人間全員の目が、タイタスを見つめていた。

「どう考えてるって? 俺が? そうだな……そういえば君、幽霊とか信じる性質だったか?」

「は? 何を?」

 戸惑っているらしき眼鏡。数字に強いので物資関連の管理を任せている男であるが、そんな男に対してタイタスは話を続ける。

「いや、幽霊とかいるのかなと。最近、すごく気になり始めてる」

「何時も通り、話をはぐらかすつもりですか?」

「とんでも無い。今回はちゃんとした疑問さ。まあ? あと3ヶ月で食糧が尽きる見通しっていうのは差し迫った問題だな。幽霊よりも優先するべきかも。取り組むべき順番としては、上から3番目くらいじゃないかと思うね」

 問題は山積みだ。何時だって無くならず、タイタスの頭を悩ませる。

 今回、森で見た物について、その問題に足すべきか迷うわけだが、自分を見つめる視線から、話題にするべきでは無かったと思いなおす。

「3ヶ月すれば我々が飢えて死ぬ。それが、もっとも優先すべき課題ではないと?」

「よし、じゃあこう考えよう。3ヶ月は先延ばしに出来る。その間に1番目と2番目を解決できる様に努められる。喜ばしい事だよな」

「で? その2番目はいったいどんな問題なので?」

 恐れず聞いて来る眼鏡の男だったが、恐れないと言うのならさらに言わせて貰う事にする。

「サラミー夫婦の子どもがそろそろ産まれそうだ。誰か産婆に知り合いは?」

 全員を見つめる。視線を逸らす人間もいた。一応、開拓者の中には医者もいるが、ちょっとした怪我に包帯を巻いたり薬を用意したりできる程度である。

 つまり、出産などと言う一大イベントは、もっとも差し迫った、なんとか対処しなければならない問題である。

「とりあえず、その件について話そう。開拓民全員に産婆経験があるかどうか聞いたわけじゃあない。で、誰もいなけりゃ街から呼び寄せるしか無くなるが……どうしたもんかね」

 全員が頭を悩ませる時間がやってくる。こういう時間だけは、会議中と言えども文句は出てこないのだ。そうして、幽霊云々の話は完全にはぐらかせた。

 2番目と3番目の問題については、頭痛の種である事に変わりこそしなかったものの。

(1番目について話題を出さないだけ、まだマシな会議なのか?)

 全員、この開拓地についてもっとも考えなければならない事について、目を逸らしていた。勿論、全員と言うからにはタイタスもだ。

 解決するための案が無い以上、黙る他無い。誰もがそう思っているのだろう。

 ただ、何時かは考えなければならない。なにせ一番目に置く以上、もっとも差し迫った事なのだから。

「ああそうだ、管理官。良いですか?」

 眼鏡の男とは違う男。こちらは小太りの男が手を上げた。誰もが黙り込む中、空気を変える事を真っ先に思い浮かべられるくらいには機知に富む男だ。

「なんだ? もしかして若い頃、世間の妊婦たちからモテにモテていた記憶でも思い出したか?」

「いえ、若い頃からこの様な体型でしたので、それほどは……っと、そうでなく、ほら、例の国側に要請していた増員の件」

「ああ、追加の労働力があれば欲しいと注文付けてた……おいおい。そっちが通ったのか? 食料その他の物資を寄越せのついでだったはずだぞ?」

 労働力はあればあるだけ欲しいものの、人が増えれば食い扶持が増える。その余裕がこの開拓地にあるかどうかは怪しい。

 そういう意図も含めて、人を寄越すなら食糧も一緒にという注文だったはずだが。

「新たな開拓民が、それ相応の支援物資と一緒に来るのを期待したいところですな……」

 そうだろうとも。何時だって開拓地には期待が溢れているし、それが裏切られる事も日常茶飯事だった。




 開拓地だからと言って、事務仕事が無いわけも無い。紙だって物資の一つだから貴重と言えば貴重なのであるが、書類の方はやはり無いはずも無い。

 予想通り昼過ぎまで続いた会議が終わった後は(これを幸運と思わなければならない日常なんて、さっさと捨てたいところであるが)、会議所はそのままタイタスの仕事部屋と変わる。

 もっとも、机を移動したりするわけでも無く、端の方に寄せていた書類の山を円卓にぶちまけるだけなのだが。

「……どこも不景気だね。まったく」

 書類の大半は国から開拓地へ向けての報告書だ。ロードリンクス開拓を主導しているのは国家であるから、国の方で方針の変更や変化があれば書類が送られてくる。

 それらに対しての返答や、今後の開拓をどうして行くかの案を考えるのもタイタスの仕事であった。

 慣れぬ作業であっても、それだけならばまだ我慢は出来る。むしろ、管理官としては最初から覚悟するべき事である。が、その報告書の内容の大半があまり良く無い情報ばかりとなれば、頭痛の種の一つとなっても仕方あるまい。

「さて……本格的に今後の不足物資についてどうするか……」

 今、タイタスが見ている書類には、要請していた食料支援について、近日中には難しいとの返答が書かれていた。

 机に散らばる報告書の方には、その他、家畜は無理、建築資材は予算が足りない、農具の貸し与えは生産が追い付かない等々の内容が書かれている。

 総合すると、何もかもが足りないから現地でなんとかしろと言う注文だ。

(だいたい、国が用意できないもんを開拓地がどう用意しろって?)

 文句はある。文句を書き綴って返書としたいところでもあるが、そうしたって無駄である事は目に見えていた。

 だいたいと言うのなら、マレステン王国は戦争を続けていたのだ。今でこそそうで無くなったが、ひたすらに物を消費し続ける戦争が終われば、物足らずの不景気がやってくるのみ。

 そんな中で開拓事業なんてものを続けていれば、どの方面でも順調には行かなくなる。

(だが、思考を放棄しちまえば、先に待つのは全員の飢え死にだわな)

 問題を先延ばしにこそすれ、解決案の模索をしないわけでは無かった。食糧に関してはすべてが手詰まりというわけでも無い。

 近隣の街から購入(代金は開拓した土地を担保とするため開拓民の文句が出る)、このままでは開拓そのものが失敗すると国を脅す(仕事はちゃんとしているはずだと開拓民から文句が出る)、開拓民の幾らかを本国へ帰す(開拓民から文句が出る)など、取り得るべき方法は幾らでもあった。

(その全部がろくでもないけどな。開拓民から文句が出る。聞くのは俺だ)

 手に持っていた報告書を円卓の上へと放り出す。ふらふらと宙で舞った後、円卓の上を滑る紙を見て、ほんの少しだけ心が健やかになる気がした。

 いや、こんな事で気が紛れると思っている時点で、どうにも自分は精神的に追い詰められている

(思考は放棄できない……そうだな。あの件に関しても、そろそろ答えを出せなきゃ本気でヤバい)

 もっとも考えるべき事がある。何時だって考えているし、その件こそがここ最近、タイタスを追い詰め続けている事なのだから。

「やるんならいっそ……誰だ? ノックなんて、随分と礼儀が出来てるじゃないか」

 会議所の扉が叩かれた。会議所は公共の場所であるため、大半の人間はタイタスが仕事をしている時に構わず入って来る。そうでないと言うことは、何時だってイレギュラーだろう。

「あの……失礼します!」

 扉の先から少年の声が聞こえて来た。きっと少年だろう。女の子ではないが、かと言って大人でもない。気になるのは、聞き慣れない声であった事だろうか。

「あいよ。ええっと君は……誰だ?」

 円卓に肘を突いたまま、扉を開いて現れた少年を見つめる。少し茶色の入る髪を揺らし、幼さがやや残る顔立ちを固くしながら、緊張した面持ちをしている少年がそこにいた。

 背丈はタイタスより一回りと少し小さい。歳は14,5と言ったところか。大人びているのならばあと1、2歳は低いかもしれないし、子どもっぽいのならばその逆くらい。兎に角、大人という年齢でもあるまい。

 一番気になる点はと言えば、タイタスに見覚えが無い相手だと言うこと。

「本日より、この開拓地で働かせていただくことになったフォレノン・フェルナイトです。よろしくお願いします!」

 敬礼に似たポーズで少年、フォレノンが挨拶してくる。どうにも、会議で話題に出ていた、国から派遣されてくる予定の人員こそが彼であるらしい。

「なるほど。了解した。それで……君以外は?」

「は? いえ、僕だけですが……あの、ここ、ロードリンクス開拓地ってことで良いんですよね? 事前に連絡が……その……」

「分かった。実に分かった。つまりだ。本国は君を単身で送り込んできたって事か。よーく分かった」

 物資は余っていないが、人は余っているらしい。だからと言って少年一人送り込んでくるところを見るに、まともな労働力と言う意味では人も不足しているのだろう。

「あれ? もしかして歓迎されてません?」

「牛の一頭でも丸焼きにして歓迎パーティーなんて事をする雰囲気じゃあないな。違う理由で、家畜を焼く必要が出てくるかもしれないが……」

「なんですって?」

「何でもない。そう、俺の愚痴は何時だって何でもないものだ。この開拓地で働くのなら、学んで欲しい事の一つだよ」

「はあ……」

 困惑している様子のフォレノン。実際、彼の気持ちも分からなくはない。

 恐らく、開拓地には希望と働き口と明日の糧があるとでも欺かれてやってきたのだろう。大半の開拓民も似た様な境遇である。

 ならばタイタスが彼のためにしてやれる事は、現実を見せてやるという行動だと思われた。

「ふん? とりあえずフォレノン君。君は何が出来る?」

「えっと、開拓の仕事を……」

「君がしたい事ではなく出来る事の話だ。というか、いちいち遠回しに言うのも面倒だ。うちは何も出来ない奴を置ける余裕は無い。自分に価値があるってところを見せて貰わなくちゃ、先を考えてやる事もできないってことだ。分かったかい、フォレノン君?」

「な、なんか……思ってたのとは」

「大分違うな。想像は何時だって現実にそぐわないものだ。現実ってのは裏切り者なんだよ。この土地で学ぶ必要のある事その二だ。良かったな。君はどんどん賢くなってる」

 賢くなると言うことは、他人の嘘にも気づき安くなると言うこと。目の前の少年が、マレステン王国に謀れてやってきたのだと本人が気付くのに、数日も掛からないだろうと予想する。

「出来る具体的な事が無いなら、君自身の長所を言ってみろ。それで今後の指針くらいなら助言してやれる」

「あ、足腰なら自信があります。近くの街……アーサーラックスって街なんですが、そこからここまで2日程で来れましたし」

「あそこからか……よし、喜べ。君は役立たずじゃなくなった。確かに普通ならさらに一日は掛かる行程だし、そもそも、街から一人でここまで来れるくらいには頭がちゃんと回ってる」

「街からここまで一本道だったはずですけど」

「その一本道から外れる開拓民だっている。しかも一人や二人じゃあない。どうだ? 楽しくなってきたか?」

 返答など待たずとも、フォレノンが考えていそうな事なら分かる。どうせ、不安が増していると言ったところだろう。

 だが、一応は働けそうな人材であるから、逃がすつもりは無くなった。余計な人間を置く余裕は無いが、少しでも働ける人間を帰す理由も無い。

「じゃあさっそく、開拓地を案内しようか。新参者だろうと気負う必要はない。何せ大半の人間がこのロードリンクスでは新参者だ」

「え? えっ!?」

 困惑を続けているフォレノンであったが、それが続く内に、開拓地の現実をすべて叩き込んで置こうと思う。

 嫌な情報は一度にまとめての方がまだマシだ。良い話題が少ないこの土地でなら特に。




 彼女、マフ・ノールは寡黙な人間だと周囲から思われている。マフ自身、言葉が少ない人間であるとの自覚はあった。

 ただ、お喋りが嫌いかと言われればそうでも無いし、他人が近くで話をしていても気分が悪くなることも無い。

 単純に言葉足らずなのだろうと自分では思っていた。だからこそ、あまり言葉がいらない工作の技術を率先して学んだし、今でもそれは役に立っている。

 と言っても、錬金術師や魔法使いではないから、作れる物には限度があったが……。

(形だけは直せはするものの、次に大型の肉食獣でも現れたら、完全に壊されそうだな)

 自分が修理した、開拓地を囲む柵を見ながら考える。朝方に頼まれ、日が落ちてくる頃になって漸く修理できた柵であるが、あまり良い成果とは言えなかった。

 近くに家を建てているセイリング・ラックスからは頭を下げつつの感謝をされたが、実際、彼の危険がどれほど回避できるかと言えば、獣が再度、同じ場所を襲って来ない事を祈る他あるまい。

(そろそろ、タイタスの奴も限界だと判断するタイミングだな)

 柵一つ十分に修理できない開拓地の状況。この開拓地の管理官であるタイタス・ライドはきっと深刻に考えているはずだ。

 マフですら気付いているし、開拓民で聡い人間も同じく思っている。

 となれば、そろそろ、何かしら動きがあるのだろうなと覚悟もしておく。この開拓地において、マフは工作の仕事を担っている。だが、担った仕事はそれだけでは無いのだから……。

「お、いたいた。悪いな。さっそく仕事をしてくれたらしい」

 声を掛けられる。頭で考えるだけで噂もしていなかったのだが、タイタスがこちらに手を振って近づいて来ていた。彼の隣には、見知らぬ少年が一人。

「……彼は?」

 もうちょっと、気の利いた挨拶でも挟めないものかと自分でも思うが、出て来た言葉は、真っ先に気になった事柄への質問だった。

 開拓民の顔はすべて憶えている。見覚えの無い顔など、このロードリンクスでは珍しいのだ。

「前から要請していた国からの増員だよ。フォレノン……ええっと」

「フォレノン・フェルナイトです。いい加減、憶えてくださいよタイタスさん。出身地はタフリン。特技は手を使わずにあやとりが出来る事」

 新顔だと言うのに、両者はそれなりに打ち解けている様子。タイタスの付き合いが上手いのか、このフォレノンと言う少年が人見知りしない性質なのか。どちらにせよ、この開拓地には溶け込めそうな人間に見える。

「フォレノン・フェルナイトか。私は憶えた。記憶力はこのタイタスという男よりは良いと思ってる。マフ・ノールと言う。よろしく」

 言いつつ、マフはフォレノンに手を差し伸べる。無愛想だなんだ言われているが、別に挨拶が嫌いなわけではない。

「マフさんですね。工作仕事が得意って聞いてます。今日一日で、色々と得意がある人を紹介され続けてますよ」

 フォレノンが手を握り返して来た。ふと、その握り方に思うところがあったものの、マフは気にせず手を離した。

「見ての通り、柵を直せる。ちょっとした道具なら作れもするし、多少不恰好でも良いなら、小屋の一つでも作ってやれる。何か入用なら頼みに来い。時間があって妥当な意見なら聞きもする……」

 自己紹介はこれくらいで良いだろうかとマフは言葉を止めた。人付き合いは嫌いでは無いが、やはり言葉足らずなのだ。仕事の話が終われば、世間話でもとはいかない。

 止まりかけた会話であるが、有り難いことに、フォレノンの方が続けてくれた。

「よろしくお願いしますね、マフさん。って、タイタスさん。案内した側が何してるんです?」

 フォレノンの視線は、マフが修理した柵の方を向いた。どうにもタイタスはその周辺で柵をじろじろと観察している。

「やっぱり、完璧にとは行かねえか?」

 タイタスは柵を見た段階で、マフ側の事情をすぐに察したらしい。これくらい勘が良くなければ、管理官など出来ないのだろう。

「ああ。そろそろ手持ちの資材が尽きそうだ。木材は森から調達すればまだ何とかなるが、金具については厳しいだろうな」

 マフが今日、修理した柵であるが、壊れた柵からギリギリ使えそうな物を選んで、再度、組み立て直したものだ。勿論、一旦壊れた物であるから、新しい部品を合わせなければ壊れやすいままとなってしまう。

 だが、その新しい部品が無い以上、気休め程度の修理しかできない。

「え? ちゃんと直って無いんですか? 見た感じ、壊れてそうには見えないですけど」

 フォレノンはそう言うものの、重さがマフの何倍かある獣が体当たりでもすれば、無残に壊れてしまう程度の状態でしかない。工作役の仕事としては不十分なのだ。タイタスの方は、見てすぐに気が付いているらしい。

「まあ、仕方なくはあるさ。無い物ねだりは本当に出来ない土地柄だし、セイリングもこれ以上は望んで無かっただろ?」

「それはそうだな。しかし……」

 不満はあった。いや、不安と言った方が正しいかもしれない。その件について話そうとするも、近くにフォレノンがいる事が気になって、それ以上の言葉が止まる。

「そうだな。一通り、開拓地の案内は出来たし、そろそろ本題に移っても良い頃か」

 タイタスがそういうからには、ロードリンクス開拓地を襲っている一番の問題について、何か行動に移す事に決めたと言う事だろう。勿論、今日やってきた新顔にも、その問題を説明すると言う意味も含まれている。

「何です? 勿体ぶった感じに」

 フォレノンは訝しみ、タイタスとマフを見つめてくる。一方でマフは黙っている事にした。どうせ、タイタスがすべてを話してくれるだろうから。




 魔界と言うものが存在している。大層な名前であるが、どこか、タイタスが住む世界とは違う場所というわけでも無い。むしろ、地続きの場所にあるから厄介この上ない。端的に言えば、毒を持った土地みたいなものなのだ。

 魔界とされている領域に足を踏み入れると、すぐに気分が悪くなり、数日もそこにいれば、体のどこかが毒にやられて使い物にならなくなる。

 特に体の内側に関わってくる部分が厄介だ。一旦魔界に入り長期間を過ごせば、清浄な場所へ戻ったとしても、万全に戻る事は無いとされている。

「その……魔界がこの開拓地の近くに?」

 フォレノンがタイタスに尋ねてくる。場所は変わって会議所に戻っていた。あまり外で話したく無い内容であったのだ。もっとも、聞かれて困るというものでも無い。魔界の事は、ロードリンクス開拓地に住む誰もが知っているのだから。

「開拓地から街へ2日で来たと言っていたな? その道中。妙に遠回りをしているなと思わなかったか?」

「あ、そういえば、道が真っ直ぐ続かず、ぐるっと回る様な形でありましたね。地図で見ると、直線で進めば良いのにと思うところもあったと言うか。まさか……」

 気付いた様子のフォレノン。もっとも、彼と手開拓地に暮らす事になるのなら、遅かれ早かれ分かる事である。

 ロードリンクスは交通の便が悪い。何故、こんな場所に開拓地を指定したのかと疑問に思うのは確実だろう。

「丁度、街と開拓地の間に魔界がある。ある程度、開拓が進んでから気が付いたんだ。これが嫌になってくる事実でな。人が住めない土地ってだけならまだ良いんだが、素通りする事もできない。その理由は分かるか?」

「そりゃあそうでしょう。ちょっと入っただけでも体調を崩す場所ですし、何より―――

「魔物が出る。それが大きな問題だ」

 ずっと黙って聞いていたマフが口を開いた。その魔物とやらに、彼女も、直接的に害を被っている立場だからだろう。

「魔物って、その……」

「そうだ。魔界を生息域とする動物の総称だ。あの毒だらけの場所で暮らす以上、それなりに強靭な体を持った、厄介な存在でもある」

 何度か開拓地も襲われていた。兎に角デカい獣だとの報告があり、どうにも開拓地近くの魔界を縄張りにしているらしい。

 本日、マフに直してもらった開拓地の柵についても、もしかしたらその魔物が壊したのかもしれない。

「強大だと言っても、千差万別。積極的に人を襲わない魔物だって少なくは無いんだが……その魔物とやらは、明確に自分の縄張りだと考えている節がある」

 まさに獣のそれで、さらに人間を脅威と考えていないという部分が酷く悩ましかった。

「それって、大丈夫なんですか?」

「大丈夫じゃないな。まったく大丈夫じゃない」

 タイタスは頭を掻きながら答える。そうだ。開拓地が抱える第一の問題こそ、その魔物と魔物の縄張りである魔界についてであった。

「魔界を避けなきゃならない以上、街から開拓地は遠くなる。さらに魔物の害も加えるとなりゃあ、何かにつけて当初の予定から物資が足りなくなるんだよ。建築資材に食糧に、人材だってだ。魔界の近くにある開拓地なんて、あんまり住みたくないだろう?」

「それって、僕を前にして言います?」

 自身を指差しているフォレノン。頬には見るからに冷や汗が浮かんでいた。そんな彼の表情を見て、タイタスは笑う。

「ここまで説明した以上、暫くは働いて貰うからな。絶対に逃がさん。地の果てだって探し出して、この開拓地へ連れて戻る」

「さ、詐欺だぁ!」

 今さら気づいても遅い。その言葉は、ずっと前にタイタスが叫んだ言葉でもあるのだ。だと言うのに、タイタス自身、未だこの開拓地で働き続けていた。

「だが、怖いだの厄介だの悠長に思っていられる時期も過ぎてな。そろそろ本気で、魔物の討伐を考えなきゃならん」

「討伐……魔界の方はどうもしないんですか?」

 不思議な事を聞いてくるなとタイタスは思った。目の前の少年は若いから、魔界の事についても良く知らないのかもしれない。

「魔界自体はどうしようも無い。魔界は魔界だ。そこはずっとそうで、そういうものだろう?」

 魔界であった土地が、人の住める土地になったと言うのは聞いた事が無かった。

 いや、聞いた事がまったくないわけでは無いのだが、それらはすべて、神様がどうこうしたや、伝説の英雄が魔界を払ったやら、そんな眉唾を過ぎて伝承になる類のそれだろう。

「つまり、魔界はどうしようも無いけど、それでも魔物の方は何とかしなければならないと、そういう状況なんですね」

 フォレノンの言葉に、タイタスとマフは同時に頷いた。話は単純なので、理解は容易いだろう。だが、問題が単純だからと言って、簡単に解決する話でも無かった。

「相手は魔物だからな。上手く狩れるかどうかは自信が無い。怪我人どころか死人が出る可能性もあるし……いや、それでも、普通の獣相手ならまだマシなんだ」

 魔物という存在の厄介なところは、そのまま、魔界に縄張りを持つという部分にこそある。大半の獣に対して、知恵と道具と社会性を持つ人間は優位に戦える。魔物に対しても、多くの場合がそうなのだ。

 だが、魔界に逃げ込まれるとどうしようも無い。捜索したって、捜索した側が体調を崩してどうしようも無くなる。そもそもそんな土地に、足を踏み込むなんて事は誰もしたがらない。

「これまではまだ耐えられるだろうからと先延ばしにしてきた。しかし、今後は会議の議題に上がってくる事にもなるだろう。管理官は分かっている事だとは思うが」

 マフの目つきは何時も鋭いが、今回ばかりは明確な意思をもって発言してくる。困難で厄介だろうとも、解決に当たらねば開拓民が飢えて死ぬか襲われて死ぬ。そういう状況になりつつあると告げているのだ。

「分かってる。若い連中を集めなきゃならねえな。その内の何人かには、付け焼刃だろうと狩りの訓練も……ああくそっ。囮役も選ばなきゃならない」

 普段、魔物は魔界にいる。それを狩る以上、その魔界から出て来たところを狙う必要がある。勿論、魔物や獣問わず、縄張りから出てくると言うのは、狩りを行う時だ。

 開拓地を襲ってきたところを狙うのが望ましいが、それはそのまま、開拓地が襲われる事でもある。それだけは何としても避けたかった。

「あの……僕もまあ若い男ですけど、駆り出されたり?」

「さすがに、開拓地に来たばかりの奴の命は賭けさせられないな。ただ、幾らかの労働はしてもらう事になる。頼めるか?」

「ぜ、善処します」

 大丈夫。任せてくださいとの言葉がフォレノンから出て来なかった分、まだマシだろう。

 まだ目の前の少年とは十分な関係性を築けていない以上、無用に自信満々な態度でも示されたら、本当に大丈夫かと疑って掛からなければならなかった。

「よし、じゃあ今日は一旦終わりだ。暗い話ばかりして悪かったな。明日からは、幾らかちょっとした仕事してもらう事になる。だから今日は休んでくれ」

「休めって、家とかはどうするんです?」

 聞かれて、すっかり忘れていた事を思い出す。フォレノンの来訪は開拓地にとって突然だったので、家を用意していなかった。

 簡易的な空き家は幾らかあれども、人が住める場所としては準備できていない。

「言っておくが、今からベッドを作れと言われても無理だぞ」

 マフの言葉が厳しい。ならばフォレノンには野宿をしてもらう……という事も出来ないだろう。いや、選択肢の一つに無いわけではないが……。

「分かった。今日は俺の小屋を貸そう。俺の方は、暫く会議所の方での寝泊まりさせてもらうさ」

 今朝、自分の小屋は随分な場所だと思っていたが、思えば贅沢な悩みだったかもしれない。タイタスは溜息を飲み込んだ。




「寒いなんてもんじゃないですよ! 何です? あの小屋は! 隙間風がどこからも吹き込むっていうか、風が壁から壁へ吹き抜けて行くんですけど!?」

 タイタスの会議所での目覚めは、怒鳴り込んできたフォレノンの声により始まる。ガタガタと震えながら会議所へやってきたフォレノンを見つめつつ、タイタスは目を擦った。

「春先だからな。そろそろ暖かくなってくるだろ」

「そういう問題じゃありませんよ!」

「そうだな。雨季までには雨漏りをなんとかしないとな」

「だからそうじゃなく! って、何時もあんな小屋で寝泊まりしてるんですか?」

 何を当たり前の事をとぼやきたくなる。あんな小屋であるが、タイタスにとっては我が家なのである。今回の開拓計画が成功した場合は、あの小屋とその周辺の土地はタイタス所有のものになる予定だ。無事、成功すればの話でしかないが。

「寒けりゃ毛布でも重ねてくれ。修理するのしても、労力と物がどっちも足りないんだ」

 タイタスの返答に対して、ポカンとした表情になるフォレノン。どうにも彼は、表情が無駄に豊かなタイプらしい。

「その……街との間にある魔界のせいですか?」

「そうだよ。あの土地さえなければ、もうちょっとまっすぐ道を切り開けたんだが……道を作るにしたって距離が延びればそれだけ人が必要だからな。その分、他の仕事が疎かになった」

 現状、開拓民の大半には、遠回りであるはずの道を、それでも整備し続けて貰っている。将来的な物資不足が予想されている以上、その物資調達を出来るだけ迅速に行う状況作りこそが急務だったのだ。

「そちらの道の方は……上手く行ってるんですか?」

「まったく。だから魔物が出るんだよ、ここらは。きっちり柵で囲った場所から出て仕事をすれば、それだけ危険が近くなる。もっとも、囲う柵にしたって、万全じゃあ無くなってる」

 根本的な原因はやはり魔界。その部分が排除できないからこそ、種々様々な問題が発生していた。

「根を抜かないで雑草を刈ったところで、次の日には芽が生えてるってやつかね。まあ、だからこそ、動く時期なんだろうが……」

 タイタスは会議所の端にある並べた椅子(ベッド代わりにしていたのだ)から立ち上がり、こちらも会議所の端に用意していた道具類を手に取り始める。

「なんですか? それ」

「だから、昨日は魔物退治をそろそろしなきゃって話だったろ? これはその装備だ」

 リュックには2日分の保存食糧と野宿するための簡易テント。さらにナイフと剣が一本ずつ。クロスボウと数本の矢のセットがリュックの近くに立てかけられている。

「え? けど、討伐するにしてもその人員を集めないとって話だったんじゃあ……」

「人を動かすには人より先に行動しなきゃならなくてね。人間、怠け者には中々従ってくれないもんさ。とりあえず、俺が魔界周辺の土地を探索してくる。隙だらけの魔物がうろついていて、そのまま大人しく退治されてくれりゃあ問題無いんだが……そんな上手い話なんて無い。これだけは断言できるな」

 そもそも退治を念頭に置いた探索でもない。その前段階として、土地の最新の状況を知っておく。そのためにこそタイタスは動くのだ。

 魔物を退治するにしたところで、周辺の環境を十分に理解していなければ上手く動く事もできない。人間にとって、記憶力というのは獣に勝る大きな力なのだ。その利点を、活かさないでどうすると言う事である。

 勿論、こちらから森へと足を踏み入れる以上、危険はあった。

「なんというか……無駄に行動的だっていうか……大丈夫なんですか?」

「質問が多いな? 危ないに決まってるだろう。本音で言えばしたくも無いんだ。正直、ここで暫くごろごろしていたくもある。いや、待て、やっぱり椅子のベッドは嫌だな。背中が痛くなる」

「それはどうしようも無いんでしょうけど……つまり、誰かがしなくちゃならないし、するなら自分でする方が気楽って事です?」

「まあ、その通りだ。自分じゃなく他人が命を落として、その後に色々と追及されたらどうしようなんて考える時間よりかは、まだマシなんだろうな」

 諦めに近い考え方ではある。組織として見る場合、悪い選択をしているとは思う。

 もっとも、率先して自分の命を賭けているわけでも無い。単純に、自分なら生きて帰る可能性が高いと判断しての行動だった。用意した道具に関しても使い慣れた道具であり、フォレノンと話している間にも、次々とスムーズに装備していった。

「その……僕も手伝いましょうか?」

 気まずかったのだろうか、フォレノンはそんな提案をしてくるが、タイタスは首を横に振った。

「昨日も言っただろ。来たばかりの開拓民を危険に晒すほど落ちぶれたくはない。これは俺の意地の問題だな? で、これからは申し訳ない話になる」

「何か……この開拓地の状況以上に情けない話でもあるんですか?」

 嫌味を言う人間である。段々と、彼の性格が見えて来た気がした。

「昨日、開拓地の仕事を紹介すると言ったが、俺はこの通り、手が離せない状況になった。暫く帰って来れないかもしれないから、その間は、マフに工作の仕事を習ってくれないか?」

「ああ、マフさん、忙しそうでしたもんね」

 こちらの意図をすぐに理解してくれて助かる。忙しそうだから世話なんてさせて大丈夫かと言う話であるが、忙しいのはそもそも人が足りないからだ。

 多少苦労してでも、同じ仕事が出来る人間を増やした方が将来的には良くなる。

 フォレノンに工作の適正があればそれで良し。無ければ、タイタスが帰ってきた頃にまた別の仕事を習わせれば良い。この開拓地には、仕事と名のつくものが溢れ返っているのだから。

「何時もは開拓地の西側で木材の加工をしているはずだ。よろしく頼むぜ? 期待の新人は期待通りでさえ居てくれれば、この開拓地で久しぶりの朗報になれるんだからな」

「善処はします。まあ、任せていてくださいって」

 胸をドンと叩くフォレノンを見つめてから、期待もせずに会議所を出た。

 まだまだ、自分は彼の事について知らないのだから、頼もしく思えるまでは、ただ、見守っておく事にしたかった。

 もっとも、見守る以前に、タイタスは会議所を出る。さらに、そのままの足で他の開拓民に魔界周辺の探索を行う旨を伝えた後は、開拓地そのものから出て行く事になるだろう。




 開拓地の西側は森が接している。フォレノンが聞いた話では、この森のさらに奥こそ、魔界が存在しているのだそうだ。

「森の木々は資源だ。燃料にもなるし、獣は狂暴なのもいるが、肉は食糧に、毛皮は衣服にも使える。あって悪いものじゃあないはずだが、魔界のせいで、あまり人は近寄らない。私と管理官以外はな」

 そんな森の入口とも言える場所で、淡々と木の枝を柵用の木材に変えて行くマフは、どんな神経をしているのだろうか。フォレノンはかなり気になっていた。

「ここが開拓地の端になっているのも、やっぱり魔界があるからですか?」

 フォレノンは適当な切り株に座りながら、同じく、近くの切り株に座って作業を続けるマフに尋ねる。

「そうだ。本来はもっと森を切り開いているはずだった。管理官の言う通り、道を作る必要性もあるが、居住地や耕作地はあって損するものでも無い」

 マフの話を聞いている限り、魔界が無くとも、それはそれで大変なのではと思う。人がそれまで踏み入れた事が無い場所へ人の領域を作っていくというのは、そういう物なのかもしれないが。

「……どうした。手が止まっているぞ」

「あ、はい。すみません」

 マフの仕事の手伝いというか、見よう見まねで枯れ枝を加工しているフォレノン。上手く出来ているか下手なのか。それすらも分からない。

 そういう状況ではあれど、マフに対して尋ねるのは、自分の仕事の評価では無く、他人についてであった。

「タイタスさんは……何だかいろいろと慣れた様子でしたが、経験でもあるんですか?」

「管理官としての仕事なら、まだまだ不慣れだ。まだ20代だと言うのに、曲がりなりにも100人の人間の上に立つというのは中々に慣れんものだろうさ。森の偵察に関して尋ねているというのなら……」

 重要な事なのか、マフは一呼吸置く。勿体ぶっているのかもしれない。もしくは、話にせめてもの起伏を用意してくれているのか。フォレノンが暫く黙っていると、彼女は再び話を始めた。

「世界を探せばもっと適任者がいるかもしれないが、私が知る限りでは最上の人間だな」

「……そこまで?」

「そこまでだ。適切な訓練と経験を積んで、技能として昇華出来ている。滅多にいるものではないな。国からの指示で手に入れた技能である以上、信頼性もある」

「国の指示で……?」

 言い方が妙だったと思う。考えてみれば、森の探索に適切な訓練と経験というのも、どこでどうやれば手に入るか、すぐには思い浮かばない。

「10年ほど前の戦争は知ってるな?」

「ええまあ。そりゃあ、僕だってその頃は生まれて物心はついてましたよ」

 長く続いた戦争だ。国同士が生きるために戦い合った。主義や主張があればまだ救いがあったのかもしれないが、大半の国が、国内に住む人間を生かすために、他国を蹴落とさなければならないという類のものであったのだ。

 今にして思えば、良く、戦争が終わってくれたと言ったところか。

「つまり……タイタスさんのそれは、あの戦争用の技能だったと?」

「そうだ。スカウトという役目があってな。敵地の偵察が主な任務だが、人が足を踏み入れない場所に踏み入って、新たな行軍ルートを探るなどということもしていたらしい。そうして、今は管理官となったあの男は、それらの才があった」

 少なくとも、国家から一定の評価を与えられるくらいにはだそうだ。だからこそ、戦争が終わった今においてすら、国から給金を受ける立場でいられるのだろう。

「スカウト……考えてみれば、平時じゃあ開拓事業の仕事に持って来いですね」

「だろうな。はっきり言ってしまえば、今の方が天職かもしれない。合わせて人員管理の仕事なんてものが無ければであるが」

 その点については苦笑で返す他無い。何時だって、自分の得意な事だけできれば暮らせるほど、この世界は優しく無い。

「それなりに信頼されてる人なわけですか。まあ、危険な仕事があって、まず自分が動くなんて選択できるなら、それなりに行動力はありますよね」

「それはそれで問題だが……なっ」

 手に持ったナイフで木を勢い良く削り、その具合を確かめているマフ。話しながらで、手際よく出来るのはさすがだった。

「問題って、何かタイタスさんにも問題が?」

「あいつが真っ先に動かなければならない。それが問題だ。管理官という役職は管理するためにあるんであって、有事の際に棍棒を持って突撃する事じゃあないはずだ」

「森の探索については、棍棒を振り回すよりかはまだ上等かもしれませんよ……」

 自分で言っておいて何だが、同じくらいの行動かもしれないと納得してしまった。開拓地と言えども、普通、そのトップが、いきなり魔物の縄張り近くで偵察するなんて事は愚行の類だ。

「人手が足りない。恐らく、原因はそれに尽きるのだろうが……何にせよ、万一にあいつが森の中で死体になって見つかったとして、我々は立ち直る事ができるか?」

「……さあ、僕にはその、こっちの事情は分からないので」

 こちらの言葉も、あまり意味のないものだったかもしれない。短い間だと言うのに、この開拓地が多くの問題を抱えている事は、フォレノンとて知る事ができている。

 さらにこの上に、管理官がいなくなるなんて事があれば、開拓計画そのものが潰えてしまう可能性も低くあるまい。

「管理官の仕事を幾らか誰かに任す事ができれば、幾らかは安定するのだろうが……」

「います? そんな人」

「いないな。いればとっくに秘書の一人でも作っているさ。新しくやってきた人材についても、多少なり期待しているかもしれない」

 手は止めずに、それでもマフはフォレノンへと視線を向けて来た。そんな視線を向けられて、焦らない程、フォレノンは肝が据わっていない。

「僕がですか? 無いですよ、そんなの。それこそ、開拓地が不安定だって証明じゃないですか」

 良く知らない人間を重要な立場に立たせる事ほど、馬鹿らしい事も無いだろう。マフの言葉にしても、からかい程度のものでしか無いはずだ。

「……かもしれないな。工作の仕事については向いていない事が確定したが」

 一旦目を閉じてから、マフは再び視線を向けてきた。というより、フォレノンが手に持った木の枝を。

「いやあ……やっぱり、ちゃんとした木材にするにしても、専門技術が必要ですって」

 真っすぐな棒を作る予定だったが、傷だらけかつ折れ曲がった何かとなった木の枝。フォレノンはそれを見て、苦笑を浮かべるしか出来なかった。




 森林という場所を歩くという行為について、タイタスは何時だって危険な行為だと考えている。いや、実感している。

「人は人が作った領域の中でしか暮らせない。それ以外の場所は、いるだけで体力が奪われる」

 言葉を零しながら、幾らか足を踏み入れた森の景色を見つめる。

 鬱蒼としている。人の手が入らない木々は好き勝手に伸びており、ただ天の光を目指して巨木となっていた。

 根は地面を覆う勢いで、足元がおぼつかない。一方で、落ちた葉はすぐに虫が消費するのか、意外な程に少なかった。

(比較的地面が固い分、歩きやすくはあるが転びやすくもあるか……足が疲れるのが早そうでもあるな)

 森深くへと進みながら、自分がどれだけやれるのかを確認していく。

 森を探索する際には大切な事だ。まだ自分で判断できる内に判断をすべて決めておく。体力を消耗している段階になると、そんな判断を間違える時が多くなるから、余裕のある内にやるべき事をやるのである。

(獣の数も少ないと見える。これについては予想外だな)

 獣道というものは探せば案外見当たるものだが、タイタスが探ったところでは、その数が少なかった。少なくとも大型の獣は思った以上にいないはずだ。

(元々少ないか、魔物にやられたかだろうな)

 後者の方だろうか。まだ決定するべきではないかもしれないが、恐らくそうだろうと思考を固定する。そうして、少ないながらも比較的大きな獣道を見つけたので、一旦、そこで膝を突いた。

(道は幾らか踏み固められている。縄張り意識が強い奴だな。糞は見当たらない……腹が減ってるのかも?)

 獣道一つとっても、幾らか情報が手に入る。危険な場所に足を踏み入れる事は意味があるのだ。そうでなければならない。

(……道を辿ってみるか?)

 魔物に出くわす場合もあるだろう。そんな時のために武器を持ってきているが、出来れば今回は遠慮したい。

 進む方向は魔界があるはずの方。魔界周辺まで近づいたら、それ以上進めなくなるため、その場所が今回の探索の最終地点と言えるだろうか。

(……)

 幾らか方針が決まったので、タイタスは目を瞑る。時間にして5秒程。その間、一度の深呼吸で、体を森に馴染ませるのだ。

(森と一体化するのは簡単だ。ただそこで深く息をすれば良い。それだけで、森と一つになった様な感覚になれる)

 スカウトとしての訓練の中で学んだ事を、頭の中で反芻していく。まず必要なのは森と自分の境界を曖昧にする事。そうする事で、この緑の迷宮における視野を広くできる。

(だが、完全に一つになってもいけない。自然に還れば、人間なんて弱い方の動物だろう? だから、人の知恵と道具を常に意識しなきゃあな)

 これが難しい。さじ加減一つで、森の中にいる人間は、獣にも人にもなってしまうのであり、そのどちらに偏っても、この森では有利に動けないのだ。

(……行くか)

 心を落ち着け、突いた膝を立たせた。耳に入る音が驚くほどに鋭くなっている。どこまでも遠くが聞こえそうで、どんな小さな音でも見落とさない気がしてくる。

(この感覚は疲れるが、それでも維持しなければならない。目も鼻も大して良く無い人間だろうが、聴力はそれなりに優秀だ)

 自分の足を運ぶ音。服が擦れる音。土が踏まれる音。木の枝が揺れる音。その次くらいに、小さな何かが動く音。動物か虫か。何にせよ、意思を持って不確定に動く音も聞き取れた。

(この音程度なら、魔物とは呼べないな。魔物はもっと……)

 隠そうとしても大きな音を鳴らす。

 いや、そうではない。重い音と言った方が良いかもしれない。地面深くに響く様な、空気をゆっくり揺らす様な、そんな音を大型の獣は立てる。タイタスが探る魔物にしてもそのはずだ。

 幾らか、そんな音に警戒しながら進んだところで、息がやや乱れ始める。

(疲労が……蓄積してきたか? どうだ? ここらで休むか?)

 森の中で大切な事は、逐一休憩を取る事だ。一度、激しく消耗すれば、そこから元の状態に戻すのは難しい。人が十分に休息を取れるのは柔らかいベッドの上くらい。

(藁の上とかでも別に良いんだが、森の中にはそれも無いからな)

 すぐに休憩を取る事を決める。リュックを一旦降ろし、そこから取り出した携帯食糧を一口。黒い固形物で、とても固く、酷くしょっぱい。それを、木筒に入れた温い水で流し込むのだ。

 あまり良い食事と言えないが、これだけで幾らか栄養は補給できるし、何より、激しいしょっぱさが食欲を減退させる。

(開拓地は自然に近いから食材が美味いなんて話は嘘だよな)

 実際は食糧が足りずに、そのために脅威となる魔物にこちらか近づくなんて事もしなければならない。

(魔物……そうだ。これは魔物だ)

 意識がはっとする。目覚めたわけでも、気を抜いていたわけでも無いが、音に気が付いた。

 思考する中で、魔物に意識が向いたせいだろうか。タイタス自身の何時もの勘よりやや早く、その音に気が付く事が出来た。

(運不運の話なら、幸運な方だ。距離はまだある。恐らくは……この獣道を魔界側から俺がいる側へ近づいて来ている……)

 その事に恐怖するも、好都合だとも思った。準備をする時間が残されているからだ。

 タイタスはリュックを背負い直すと、近くにあった巨木を登る。比較的葉が茂っている木だ。上手くこちらの姿を隠してくれるだろう。

 幾らか登った後に、太めの枝を選び、その上で身を隠す。小枝や葉がちくちくと肌を突いてくるため、快適とは程遠いが、それでも獣道を見る事が出来る。

(よし……やっぱこっちに近づいて来てるな)

 予想通りだった。巨体が道を進む音。獣道側へと伸びた枝が、無理矢理に押し曲げられる音。地面が響く音。それは徐々に大きくなり、タイタスがいるすぐそばまで。

(……熊か?)

 それは熊だった。毛が縮れ、あちこちに古傷が目立つ大きな熊。体長は当たり前の様にタイタスより大きく、その四肢の太さはまさに怪物と言える……が。

(あれが魔物……?)

 それは熊である。大きな熊なのだ。魔物ではない。タイタスにとって、魔物を見るのは今回が初めてではないが、それほど数を見て来たわけでも無い。開拓地の魔物については、発見報告を他から聞いたのみである。だから、熊が魔物かどうかの判断が出来なかった。

(いや……凶暴な肉食獣である事は違いないか)

 討伐対象ではあるだろう。例えば今、こちらの装備で狩る事が出来るかどうか考えるくらいには。

 むしろ、魔物ではないという可能性は、ある程度の不安を消してくれる。魔物である事が見間違いだったとすれば、それは、開拓地周辺に魔物がいないという事であり、普通の獣相手を想定した狩りを行えば良い。

(獣……ただの獣だったとして、デカいってことは、内臓が分厚い肉で包まれてるってことで、さらには骨だって太いんだろうな)

 持ってきたクロスボウでは難しいだろうか。矢の一本でも刺しておけば、その傷が元で力尽きてくれるかもしれないが。

(もしくは、傷付けられたことでより狂暴になるかだ。何にせよ、考え時だぞ、これは)

 思考を続ける。拙速こそが戦いの際の有利を作り出すなんて言葉もあるにはあるが、今、この時においては慎重さこそ重要だった。

 事実、幸運だったのだ。すぐさま行動に移さなかったからこそ、タイタスは九死に一生を得た。

 観察すると言うのならば、気付くべきだったのだろう。現れた熊。どう見ても森の中における食物連鎖の頂点に立つその姿を。何故、そんな獣が傷だらけになっているのかを。

(なっ……)

 体を硬直させる。それでも音を鳴らさなかったのは、肉体に染みつく程に培った技能によるものだ。

(やっぱ……上手い話なんて無いよな)

 そこには、驚愕すべき状況があった。タイタスはその光景から目を離せない。

 熊の影から現れた別の影。熊以上の巨体である鹿が、頭から生やした巨大な角で、熊の体を貫いたのである。

 いや、巨角の鹿だと見たが、細部を見ればどうにも違う。体の大きさは置いておくとして、全体の輪郭は鹿そのものであったが、肌は体毛で無く緑と紺、二色の鱗で覆われていた。

 絶妙な配色で、森の色に対する迷彩となり、距離が開けば見つけるのが非常に難しいはずだ。タイタスの発見が遅れた理由の一つである。

 そんな鹿の様な何かが、それでも鹿とかけ離れている部分はと言えば、その口元だろう。キザ付いた歯が木の上からの確認できる。植物を噛み潰すそれではなく、明らかに肉を噛み切るための顎。

 目が顔の横側では無く、前方に向いている頃から、やはり肉食獣を思わせた。いや、獣というよりも蛇や竜のそれだった。

 肉食の爬虫類がいたとして、それを無理矢理に鹿の形に作り直した様な……そんな姿がそこにはある。

(間違いない……あれが魔物だ)

 あの様な動物を見た事が無い。通常の獣とはかけ離れた姿。尋常な存在ではあるまい。魔物とはそういうものだと聞くし、タイタスの過去の記憶の中においても、同一のものでは無いとして、魔物とはそういう常識外れの外見をしていた。

(しかし……熊を獲物にするかね……!?)

 魔物は熊の胴体を、自らの巨大な角で切り裂くと、首を振って熊を振り回した。熊よりはまだ細く見えるその体に、どれほどの膂力を秘めているのかと驚愕する他無い。

 勢いのまま角からすっぽ抜けた熊が近くの木に叩き付けられる。それでも熊には息がある様に見えたが、命の燈火が消える寸前でしかない事は見れば分かった。

 魔物は瀕死の熊へと近づくと、すぐさまに首元へ噛みつき、その肉を喰らい始めた。タイタスの耳元には、魔物が熊を骨ごと噛み砕く様な音が響いている。音が発生すると同時に、熊は完全に魔物の餌へと変わって行った。

(……無理だ。無理無理。単純な装備であれとやり合えるわけがないだろ)

 光景に恐怖しながら、当たり前の話を頭の中で結論付ける。ともすれば魔物を退治して開拓地へ帰るなどと都合良く考えていたが、その選択肢が真っ先に頭の中で消え去った。

 魔物はまさしく魔物なのだ。人間個人が相手に出来る存在では無かった。少なくとも、複数人が十分な装備と準備を持ってして相手にする。そんな存在がすぐそばにいる。

(今は観察だけを続けるべきだな。あれの仕草。あれの習性。あれの……できれば弱点だ)

 人間の強さは知識、経験。兎に角そういったものだと信じる。それらを駆使したところで化け物は倒せないと諦めが浮かんでくるも、それに納得してしまえば、そこでタイタスの人生は詰んでしまう。

(弱気になるな……観察って事なら、今、俺はとても有利な状況にあるはずだ!)

 まず、魔物を見て分かる事だが、食欲が旺盛だ。熊の生肉がそれほど好物なのか、そのナイフみたいな歯で切り取った熊の肉片を飲み込み続けていた。

(巨体で力もある以上、喰う量もそれなりってところか。兵糧攻めなんかが有効か?)

 手段の一つにはなりそうだ。ただ、これから春も盛りになっていくため、森は餌が豊富になるだろうから難しい。そうでなくとも、腹がもっと減り始めれば、開拓地そのものが直接狙われる危険性がある。

(他にも変わった習性は……なんだあれは?)

 魔物の背中が光っていた。臀部に近く。これまた爬虫類みたいな尾の根本付近に、輝く何かがあるのだ。

 それを見れば見るほど、紋様に見えてくる。魔物と言えども自然生物。そのはずだが、明らかにそれは人工の複雑さを持つ紋様だった。

(良く見えないな。もうちょっと角度的に………っ!)

 タイタスは少し体を動かそうかと考えたが、すぐにその思考を止める。体も一緒に硬直させてから、視線だけをじっと、魔物に向ける事にした。

 魔物が首を上げたのだ。食事の時間が終わりとは思えない。熊はその体に肉を多く残したままなのだから。

(焦るな……そうだ。まだ焦る必要なんてない。何てたって、こっちはとっくに気付かれてる。そんなのは当たり前だ)

 そう。タイタスは恐らく、その存在を魔物に気付かれている。森の中で、完全に身を隠すのは不可能なのだ。

 森の生物の大半は、その五感のいずれかが非常に優れている。何せ視界が酷く限られた場所だ。他より感覚が鋭い部分が無ければ生き残れない。一方的に翻弄される側となってしまう。

 特に嗅覚が鋭い生物が多いだろう。恐らく、あの魔物にしてもそうなのだ。食べられている熊にしたってそうだろう。

 だが、タイタスの存在に気付いてはいるだろうが、正確な場所は分からないはずだ。また、その姿形も判明していない。獲物になるか、それとも自分にとっての脅威となるか。それらの判断ができない状態だと思われる。

 判断できない以上は無理に探さないし、もっと安易な行動を取る。森の生物はそんな動きを良く見せる。魔物もその例外では無いらしい。

(問題としてはだ、今は警戒しているだけだろうが、奴が人間の匂いを良く知っていて、また、人間がそれほど恐ろしくないと思っている場合だ)

 あの魔物は、開拓地周辺を縄張りだと思って、良く柵を破ろうとしてくる魔物だと思われる。少なくとも、自分の縄張りをうろつく敵だと人間を見ている。

 そこに来て、自分の食事中、近くにそんな人間がいると知ったら、すぐに襲ってくるかもしれない。

(今、襲われたらどうする? とりあえず、奴は木登りがそれほど上手く無いって事を祈るか?)

 逃げる事は出来ないだろう。こちらは二足であちらは四足。どう考えても、森の中でより動けるのはあちらだ。

 身を隠し続ける。慎重に、だが何もせずに、このまま観察を続けるのが、一番懸命な行動だとタイタスは結論を出した。

(……いいから。今はお前にちょっかいなんて出さねえよ)

 幾らかして食事に戻り、しかしまた首を上げて周囲を探る。そんな仕草を続ける魔物。焦れ続けるのはタイタスであり、それが一刻程の時間続いた。

(さすがに……もう良いだろ?)

 熊のはらわたが空っぽになるまでの時間、タイタスはじっとしていた。そうして、漸く魔物は動きだした。

 タイタスが登っている木へと近づいて来たのだ。

(ぐぅ……っ!)

 木の枝を掴む手に力を入れる。魔物がその後ろ脚でタイタスが登る木を強く叩いた。その力は先ほど見た通り。一度の蹴りだけで、四方へ大きく木々が揺れた。折れなかったのはとても幸運な事であった。

 そうして木のしなりが収まる頃になると、魔物はこの場を離れて行く。

(ふぅ……さすがに、食事中もずっと見られるってのは、あっちもイラつくらしいな)

 単に、逆立った感情を近くの木にぶつけただけだった様子。何にせよ、こちらを発見し、襲って来るなんて事態にならなくて良かったと一息吐いた。

「さあて……観察するってんなら、これで上等なんだろうが……」

 あの魔物を見て、これからの課題についてを思う。もう少しばかり、森の中を探る必要はあるだろうが、魔物そのものを観察できたのだから、目的の半分は達成したと言うところだろう。

 問題は、目的そのものを達成したその後だ。結局、あの化け物を退治しなければならないわけで、それがどうしようも無い難題である事を、ここに来て思い知らされたのだ。

「開拓地の男連中全員集めたって、正面からじゃあやり合えない相手だよな、あの魔物」

 どう解決しろと言うのか。その答えを、きっと誰も用意してくれない事こそを、タイタスは唸りたくなるのだった。




 タイタスが森へと出て丸一日が経った。長引けば三日程留守にするとの話であったので、その事について慌てる必用は無いと、フォレノンは考えている。

(問題は、僕自身がどうすれば良いかだ)

 開拓地にある家畜小屋の脇に立ちながら腕を組んでいた。その表情は険しいもので、何とも解決し難い問題に直面しているのであった。

「まだ来たばっかりってんだから、別に良いんだがね?」

 フォレノンへ話しかけてくるのは、ロードリンクス開拓地で牛飼いをしているジーンディアス・アカシという40代くらいの男だ。

 彼は帽子を被り、家畜小屋の中を手際よく掃除をしていた。勿論、そこには牛がたくさんいる。

 なんと言っても、牛は開拓地において重要だ。単純に力があるため、地面の整地や畑を耕すのに役立ち、雌なら栄養たっぷりの牛乳を出してくれる。また、その肉は重要なタンパク源でもあるし、その糞にしたって、肥料となってくれる。

 そんな牛の世話こそ牛飼いと仕事であり、ジーンディアスは立派にその役割を全うしていると見える。

 ちなみにフォレノンと言えば、その仕事を見ているだけである。

「あんた、動物に恨みを買った事がおありかい?」

 ジーンディアスは再び、ただ見ているだけのフォレノンに話し掛けてくる。

「どうでしょう。そう言えば昔、近所で飼われていた鶏を、もも肉が美味しそうだなと思って襲い掛かったんですが、無残にも敗北した記憶があります」

「……まあ、別に良いんだがね?」

 もう、ジーンディアスはこちらを向いて来ない。もしかしたら話し掛けても来ないかもしれない。

 それも当たり前だった。フォレノンは工作の作業に向いていないとの評価を下された後、なら、家畜の世話なんかの仕事はどうだろうと挑んでみたのだ。

 結果は惨憺たるもので、フォレノン自身はしっかりしようとしているつもりなのだが、牛の方がフォレノンから逃げるという結果に終わる。小屋の脇の方へと何頭かが身を寄せ合い、じっとこちらを見つめてくるのだ。

 掃除の時、邪魔が無くてむしろ良い事ではと思い込もうとし、鋤片手に小屋へと入れば、牛たちは終に戦う時が来たかと言った覚悟をした目付きに変わるのだ。それだけならまだしも、牛の中でもっとも大きなやつが出てくるのである。

 多分、そのまま掃除を開始していれば、その時点でフォレノンと牛の決闘が始まっていた事だろう。フォレノンは兎も角、あちらは絶対に決死の覚悟をしていた。

「参ったな。つまり牛飼いの才能も無いって事じゃないか。すみません、近くに羊を飼ってる人とかいませんか?」

「意気込みは買うが、頼むからやめてくれ」

 仕事の邪魔をするくらいならまだ良いからと、続く言葉があればそんな物だったろう。まだ、フォレノンへの気配りくらいはしてくれているらしい。

(けどさ。仕事の才能が何にも無いとなると、とんだ足手まといになってしまうよね、僕)

 実際、そうなりつつあるから焦っている。開拓地の仕事は幾つもあるが、その幾つかの選択肢が潰れて行く。これで焦るなと言われても、フォレノンの善意が許さない。

「足なら自信あるんですけどね! なんかこう、走り回る仕事とかありませんかね?」

「あちこち走り回るってんなら、そうさな……無い事も無いが……あん? マフさんじゃないか。あんたに用かもしれんぞ」

 小屋の外へ視線を向けるジーンディアス。実際、フォレノンもマフがこちらへやってきている姿を見たわけだが、どうにも、だからさっさとどこかへ行けと言われている様にしか思えなかった。

「あれ? マフさん。どこかへ行かれるんですか?」

 良く見れば、マフは幾つか荷物を持っており、まさに今から旅にでも出ると言った様相である。

「ああ、やはりそこにいたか。ちょっと街の方に出る必用が出て来てな。本当は工作仕事の方も手が離せないんだが、のっぴきならない事態が発生した」

「事態? また何か問題があったんですか?」

「いや、問題ならずっとある。これも前からの事なんだが……テッド・サラミーとミシャ・サラミーと言う夫婦が居てな。会った事はあるか?」

「まだ自己紹介はしてないと思いますけど……」

 名前だけ言われて、顔を浮かべられる程に、フォレノンはまだこの開拓地に馴染んでいない。

 だから反応したのは、家畜小屋の中で仕事を続けているはずのジーンディアスの方である。

「まさか……もう産まれそうなのかい!?」

 驚くジーンディアス。その言葉があまり聞き慣れないものだったので、フォレノンは首を傾げるばかりだ。産まれる……確かに、何かしら急な事情を感じる言葉で―――

「えっ……赤ちゃんが産まれるんですか!? この村で!? 牛のでは無く、人間の!?」

「ああ、さすがにまだ産気づいてはいないが、思ったより早くなりそうだ。数日の内にと言ったところだろう。だから街で産婆か医者を探してくる。何かしらの代価は支払う必要はあるが、致し方なしだな」

「そりゃあ……この時期ならそうだろうがねぇ……」

 ここまで聞いてから、漸くフォレノンは話の内容について合点が行く。

「えっと、やっぱり重要な事なんですよね。出産って……」

「場所を選ばずにな。妊娠そのものは、開拓地だろうが、男女がすることをすればそうなる。問題になるのは何時だってその後だ」

 女性だと言うのに、些かの恥じらいも無く言ってのけるマフ。それがマフ自身の性格によるものか、それとも、それだけ事態が切迫しているのか。フォレノンは、あえて判断しなかった。

「専門家を呼ばなきゃいけないというのは分かりました。それでも、子どもが産まれるなんていうのは、あんまり想像できなかったと言うか……」

「気持ちは分かる。実際、珍しい事は確かだ。将来の見えない状況で、男女のあれこれも無いだろうという部分はあるからな。だがこれは……祝福するべきことだ。全力で」

 命が産まれると言うのはそういうことであるのはフォレノンにも分かる。出来れば無事で、何事も無く産まれて欲しいとも、見知らぬ夫婦とその子ども想像しながら強く思う。

「じゃあ、僕を探していた風なのは、何か出来る事があるってことですか? 言っときますけど、出産の介助なんてものの才能なんて期待しないでくださいね」

「当たり前だ。お前にして欲しいのは、私が街に向かうから、もし管理官が帰って来れば、その事を伝えて欲しいという事だ」

「……それって、単なる伝言役?」

「適した仕事だろう?」

 それはまあ……そうなのだろうが、納得し難いところはある。もっと見るからに、人の役に立っている雰囲気の仕事を任して欲しいと思うのだ。

 それが何であるかは、フォレノン自身ですら分かっていないものの。

「ということで、頼んだぞ。すぐに開拓地を出発する」

 マフはそれだけ言うと、辞儀すらせずに開拓地の出入口へ向かって行った。残されたのはフォレノンと、ジーンディアスのみ。

「任されちゃったわけですよ。どう思います?」

「向いてるんじゃないか? 伝言役」

 とても投げやりな答えだったが、フォレノンはとりあえず目先に仕事が出来たと思い、納得に努める事にした。




 ここ最近になってタイタスが学んだ事は、何か新しい行動をする時には、必ずやるべき事の一つは終わらせる置くべきだと言う教訓だった。

 例えば森の奥で魔物を見た時、さっさと挑んでおくとか言った事だ。

 勿論、その場合の結果として、タイタスの死体が一つ出来上がるか、頭から齧られて死体すら残らないという状況になる可能性が圧倒的に高いだろう。

 けれど、そうであればそうであったで、帰宅してすぐの開拓地の会議所にて、開拓民達に囲まれながら、出産間近の妊婦をどうするべきか迷う事は無かったのである。

「なあ、おい。見て分かってくれると思ってたんだが、分かって無さそうだから言っておくぞ? 俺はとてもとても疲れてる。何せ二日ほど、森の地面の上で、虫に体の上を這われながら寝むるなんて事を続けてきたんだからな?」

 頭を抱えたくなる。ただ、抱えれば目の前の住民に情けない管理者という目線で見られるため、それはしなかった。代わりに悪い目付きをさらに睨みへと変えるだけ。

「疲れてる人間には休んでいただきたいところですが、何分、赤ん坊の方に、産まれてくるタイミングを考えろと伝えたところで、理解していただけないんですよ」

 眼鏡を掛けたなんとかいう男が主になって、タイタスを会議所に縛り付けていた。

 彼は他の開拓民を代表した意見を述べており、その意見はと言えば、今夜あたりにお産がありそうだから何とかしろ、というものである。

「俺に知らせてどうなる? 俺は医者じゃないよな。知っていてくれたと思うんだが」

「ですが、管理者ではあります」

 そうだろう。これで妊婦や赤ん坊に何がしかあれば、責任はタイタスにあるわけだ。

 しかし、それより前。成功するかどうかの瀬戸際にある問題については、タイタスの管轄では無いはずだろう。

 どうして詰めかけているのが、妊婦が唸っているであろうベッドの近くでなく、会議所なのだ。必死になる事が違うんじゃあないか?

 そんな怒りをぶつけてみようかと思ったところ、意外なところで援護が入った。

「一応、マフさんが街にお医者さんか産婆さんを探しに向かってますが」

 何時の間にか近くに立っていたフォレノンである。まだまだ新参である彼であるが、こういう場で意見を言える胆力はあるらしい。

「それは聞いています。しかし、開拓地を立ったのは昨日の事でしょう? 間に合いそうにも無い」

「そうか……それなら間に合わねえな。現場判断で出来るのはそれくらいでもある……か」

 天井を仰ぐ。とりあえずタイタス自身、自分の怒りを抑えることにした。もうちょっと適切に動いてくれと、これから文句を言うにしたって時間の無駄だろう。もし、時間が余っていたところで、やはり無駄な発言となる。

 これからは、建設的な話をしなければならないタイミングであった。

「前の会議で言っといたな。誰か開拓民に、少しでも良いから助産の経験がある奴はいないか? もうこの際、出産経験でも良い。素人よりマシだろ。あと、妊婦の方はどうなってる?」

「妊婦さんなら、今は落ちついてるそうですよ。けど、すぐ落ち着かなくなりますね。あくまで素人目の意見ですけれど」

 と、またフォレノンが発言した。大きな助力ではないが、それでもありがたいタイミングだ。いちいち嫌味や小言を言われるよりは、余程前に進める。

「なるほど。危険な兆候は無さそうって事か……何よりだ。なら、あとは産婆だ。おい、俺を睨む前に頭を働かせろよ? これだけ集まってるんだ。心当たりを何でも言ってくれ。無ければ、それこそ妊婦一人に全部任せちまう事になるぞ」

 ちなみにタイタスには無い。というか、頭を働かせる余裕すら怪しい状況ではあった。ひたすらに疲れているのである。

「あ、そうだ。チクスのところの婆さんとかどうだった?」

 開拓民の誰かが言葉を発する。何であれ、これは良い兆候だった。兎に角、今は意見を出し続ける事こそが成功に繋がるはず。

「あの婆さんか……最近、ボケが入ってたな? 寝てる事が多いって聞いてるが、大丈夫か?」

 開拓民の顔は幾らだって思い出せる。その特徴も、状況もだ。タイタスはそれを他の開拓民と共有させる事にした。

 他の開拓民にしたって、名前で誰の事か判断するくらいは出来るだろうとは思われるものの。

「そういや昔、近所の夫婦の出産を手伝った事があるとか何とか言ってた事が……」

「あ、私も聞いたわ! こう、お空見つめながら言ってたのよ~」

「何でご老人って、空を見つめたがるのかね? やっぱり、何か見えんのか?」

「それ以外、する事が無いからでは……」

「ちょっと待て、話しが逸れて来てるぞ。さっき発言した……そうお前」

 タイタスは件の老婆について意見を出した男を指差す。失礼だろうが何だろうが構うものか。かなりの人数が会議所に集まってしまっている以上、話を纏め付づけなければ別の方を向いてしまう。

「ええっと、話を聞きました。はい」

 かしこまる男であるが、構わずタイタスは続ける。

「その婆さんに確認してくれ。本当に産婆の経験があるって言うのなら、これからはその婆さんが指揮官だ。だからって寝たきりの人間が動いちゃあくれないだろうから、手足は俺らがする。良いな? 兎に角、婆さんから意見ややり方を全部聞き出せ。これだけがん首揃えてるんだ。全員で出産を成功させるぞ」

 タイタスの発言に、この場にいる全員が頷く。確認したわけでも無いが、そういう事にしておく。全一致の意見なんて、それがそうと決めたから、その様に表現しているだけに過ぎない。

 それでも開拓民達は、各々が会議所から出て行き、自分達が次にするべき行動を始めて行く。行動に入ってからが早いのが、この開拓地の良いところであると思う。

 そうして残ったのはタイタスと、ずっと隣側に立っていたフォレノンである。

「正直、合間合間の意見は助かった。こういうのは慣れてはいるんだが……周囲が敵だらけっていうのは精神的に追い詰められるよ。知ってるか? 人間ってのは追い詰められると、無性に板を剥がしたくなる。オンボロ小屋の剥がれかけた板をだ」

「板を剥がす云々については分かりかねますけど、前者については理解できなくはないですね」

 フォレノンが曖昧な笑みを浮かべていた。タイタスの記憶の中で、彼は何時だって変な笑みを浮かべているが、それでも実に表情豊かだと思う。

「で、どうだ? 開拓地で自分に向いた仕事は見つかったか?」

 暫く離れていたが、その間、新参者の様子はどうだったかを、当の本人に聞いてみる。

「みんなが総慌てで動いてるこの瞬間に、そんな事を聞きますか?」

「仕方ないだろ。俺だって忙しい。さっきまで忙しかったし、これからも忙しいんだ。こういう世間話くらいする時間があっても良いもんだろ」

 疲れていた。酷く疲れていて、多分、有意義で無いことをしているとタイタス自身理解している。

 ぐっすりひと眠りする時間くらい要求したいところだったが、多分、今後を思うと暫く無いだろう。

「それなんですよね」

「あん?」

「自分に向いた仕事は何かって話です。いや、色々と試してはみたんですけど、大半の人間から、こいつがいるより耳かきの一つでもあった方がマシだみたいな目で見られてまして」

「そうか。悲しい事だ。誰だってそういう目線を越えて強くなっていく」

 自分にはそんな記憶はあまり無いがとは続けない。誰だって、優しい時間というのは存在するべきだ。今、タイタスがひたすら求めている様に。

「いや、まあ、そういう風に呆れられるのも仕方ないっちゃ仕方ないんですけども……そうだとして、僕はこの開拓地で生きて行くしかないわけじゃないですか」

「君がこの開拓地で人生を費やす選択をしてくれた事に感謝するべきかな?」

 だとしたら、例え仕事が不得手だとしても、それなりに歓迎するべきだろう。恐らくは。

「役立たずは要らないと言われない程度には仕事したいとは思ってるんですよ。だから幾らか考えて―――

「あ、まだここにいた! 管理官も早く来てくださいよ!」

 開拓民の一人が戻ってきて、タイタスを呼びに来た。話は途中ながら、世間話の時間は終わりらしい。

 呼びに来られたところで、本当は大して必要でも無いだろうに。

「フォレノン。話の続きは後にしよう。また、世間話でも出来る空気になれば良いな?」

「分かりました。そうですね。そんな空気であれば歓迎なんですけども」

 フォレノンの返答を聞いてから、タイタスは席から立ち上がった。勿論、妊婦の出産が失敗なんてした場合、世間話をする空気なんて無くなるだろう事は承知していた。




 暇な時間を誰かと共有できる例は少ないが、忙しい時間は伝染する様に多くの人間と共有できてしまう。と、フォレノンは学んだ。

 タイタスが帰ってきてから暫く。開拓民達は自然と……と言うほどスムーズで無かったにせよ、それぞれが自身のやるべきことを見つけて実行し始めていたのだ。

 もう寝ていた産婆経験者の老婆を起こす役。その老婆の舌足らずな言葉を解釈する役、そこで聞いた話を妊婦が唸る小屋まで伝える役等々。特別な指示も無く、それらの役割分担が行われていく。

 一方で、妊婦がいる小屋の中では、女性陣がそれぞれ大慌てで老婆からの指示通りに出産準備を進めていた。

 はっきり言って人員的には過剰だった。役割分担が出来ているのなら、後は結果が上手く行く様に祈る人間がいれば良い。

 だとしても、忙しい空気というものが出来上がるらしい。フォレノンにもそれは伝染していた。

「お湯!? お湯ですか!? 何でお湯が!?」

 何人かの男達と一緒に水を運び、火を焚き、お湯を桶に入れる。

「なんか小屋の中から怪物の唸り声が聞こえ……ええ!? 妊婦さん? 悪魔に憑りつかれてたりしてません!?」

 時には本気で怯えたりもしつつ。

「ちょっとタイタスさん! 寝たりしないでくださいよ! どんだけ疲れてても、今夜は徹夜確定ですからね! なんというか、あの赤ちゃん……産まれる前から頑固っぽいです」

 ひたすらに時間だけが過ぎて行く。この土地に新しい命が産まれるという一大イベントの中に、フォレノン自身も振り回されていたのである。

 まだ新参者であるフォレノンがそんな場面に参加しているというのは、どんな意味を持つのか。本人にだって分かる事では無い。

 ただ、働き続ける中で知った事がある。赤ん坊とそれを産む妊婦というのは、非常に生命力溢れる存在だと言う事。

 その生命力に驚嘆しつつ、産声が聞こえたその瞬間に、フォレノンは何故か、とてつも無く感動していたのだった。

 そうして―――

「………はぁ。終わりましたね」

 空の向こうを見据えながら、フォレノンは呟いた。夜が深まり、さらに深まって、朝の光が差し込む頃合いだ。

 出産場所である小屋の中からは、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえており、その周囲にいる開拓民は皆、安堵の表情や笑顔を浮かべていた。

 フォレノンは、そんな集団から少し離れた場所で、ただ空を眺めている。一応、一人ではないが。

「まったく、こういう時なんだよな」

 隣に立っている男。タイタスがフォレノンの呟きに答えた。最初から、彼と話すつもりでフォレノンはここにいる。

 仕事がひと段落した後、彼はフォレノンの近くにいて、世間話の続きを促して来た。

「こういう時に、なんです?」

「だから、こういう時なんだよ。管理官をしてて良かったなんて思っちまうのは」

 それは、不本意とも思える言葉であったが、暗がりの表情を見る限り、どこか満ち足りている様に見えた。

「遣り甲斐のある仕事って事ですか?」

「甲斐なんて無いさ。こうやって働いたってのに、誰も礼なんて言って来ない。別に求めてるわけでも無いんだが……そうだな。良い気分にはなれるんだ。本当に時々」

 だから、貧乏くじみたいな立場を続けている。タイタスはそういう人間なのだろう。

 未だ、彼の事を深く知らないフォレノンであったが、大凡、彼の事を知れる様になってきた。

 だからこそ、思うのだ。

「本気で手伝っても良いかなって、僕もこの瞬間にだけは思ってますね」

「うん?」

「多分、僕も一時の感情に騙されてるんじゃないかと思いますけど、自分なりに開拓地に貢献したいと思えるし、その方法も……なんとなく分かり始めてるんです」

「そう言えば……そんな事を会議所で言ってたな?」

 話は途中だったが、一仕事終えた結果、むしろスムーズに言える状況になったとも思えた。恐らく、普段であれば言い辛い事でもある。

「……この開拓地で足りないものは何でしょうか?」

「何だろうな……無いわけじゃあないんだが、むしろ、足りてるものの方が珍しいんじゃないか?」

「ま、まあ、そうですけどね?」

 だからこそ仕事がそこら中にあるし、そこら中の仕事を試した結果、大概がフォレノンにとって向いていないものだった。

 けれど、そんなフォレノンにも出来る事があったのだ。自然と、それをすべきなのだろうと思える仕事が。

「どうにも、タイタスさん一人じゃ開拓地の管理なんて難しそうだ。手伝う人間が一人くらい居たって良いもんだと……少しばかり思ったんですよ」

「へえ、なるほど。面白い発想だな?」

 このタイタスの答えは肯定か否定か。どちらかは分からなかったが、止めておけとは言われなかった。

 つまり暫く、適性を図った他の仕事と同じく、目の前の男の補佐をする許可が下りたわけである。つまりフォレノンは、タイタスの秘書役と言う仕事に、挑戦する事となったわけである。

「……思った以上に、拾い物だったか?」

「は? 何です?」

 小声のタイタスの言葉。しっかりと耳に届いていたが、もう一度聞いてみたくて聞き返してみる。

 だが、返って来たのは別の言葉だ。

「そうだな。次の仕事がまだあるんだ。ちょっと、手伝ってくれないもんか?」




 どんな時だろうとも、ひと眠りすれば明日がやってくる。眠った後に朝日さえ見れば、頭の整理もまあまあに出来る。

(いや、眠ったのは朝日が出始めてからだ。起きたのは昼過ぎだし、碌な状況じゃあないわな)

 だが、頭の方は幾分かマシになったと思う。

 会議所の机の上にロードリンクス周辺の地図を広げて、これから解決するべき問題についてを考える態勢くらいは出来ていた。

 その解決するべき問題とは勿論、新しく産まれた赤ん坊の名前を考える事である。

「チーズカマンベールなんてのはどうだろう?」

「夕食をどうするかって話じゃないとしたら、僕は全力で阻止しますからね、その提案。命だって賭けてやります」

「駄目か? 可愛らしい名前だと思ったんだけどな」

 現在、タイタスはフォレノンと会議中だ。他の開拓民は参加していない。

 フォレノンがタイタスの秘書役を希望するそうなので、今後の方針について共有して置こうと言う事になったのだ。

「赤ん坊の名前なんて、どうでも良いでしょう?」

「どうでも良く無いだろ。開拓地で初めての子どもだ。みんなでしっかり考えてやらないとな。こう、できれば可愛らしい方が良い。フォンデュとかブルーとかならどうだ?」

「せめてチーズから離れてください。っていうか、どうせ、父親か母親かが一方的に決めるんですよ。そういうのは」

 それはそれで味気ないと思う。楽しんで頭を動かせる時は全力でそうするべきだろう。ただでさえ、暗い状況が並び立っているのだし。

「何です? もしかしなくても、目の前の大問題から目を逸らそうとしてるんですか?」

「お前な。急に可愛げが無くなってきてるぞ? 俺の味方をしてくれるんじゃなかったのか?」

「しますよ。しますから、目を背けてると状況は悪くなるばかりだって忠告してるんじゃないですか」

 フォレノンは溜め息を吐きながら(躊躇なくできるというのは羨ましい限りだ)、机の上の地図を見つめ始めた。

 主には開拓地近くの森林地帯だ。もっと言えば、その森に潜む魔物について考えているのだろう。

「ああくそっ……分かってる。分かってるんだ。魔物なんてもんは退治しなきゃならない。今まで先延ばしにしていたが、そろそろヤバいな。あいつ、熊を餌にしてやがった」

 頭に浮かぶ顔を、赤ん坊のそれから狂暴な鹿トカゲに変える。精神的にとてもダメージを受ける行為だと思う。

「それが本当だとして、つまり、熊を獲物にしなきゃならないほど、魔物は飢えているって事ですよね」

 その通りだろう。獣なんて、魔物だろうと同じ性質を持っている……と思う。つまり、安穏に生きられるなら、その選択をすると言う事だ。

 魔物に襲われた熊であるが、古傷があったのを覚えている。そう、傷を負っても、その後に癒えるくらいには、魔物に見逃されていたはずなのだ。

 そんな熊も、遂には襲われた。餌になったとは言え大きな熊だ。万一の反撃の危険性を鑑みれば、それ以外の餌があればそちらを選ぶのが自然と言うもののはず。

「冬も過ぎたが、それでも森にデカい魔物を支えられる程の餌が無くなって来てるわけだ。俺達のせいかな?」

「人間もまあ、周囲からひたすら食べ物を奪いますもんね」

 狩猟や採集にしてもそうだが、土地の栄養を奪っての耕作。水源だって手を加えるのだから、人間とて、付近を縄張りとしている生物にとっては厄介この上無い存在だと言える。

「つまりは、そろそろ生存を賭けて人間と魔物はぶつかる時期だってことか……出来ればしたく無いんだがなぁ……」

 あの魔物。鹿に似た化け物であったが、対策を取るにしても生半可なものでは、人間側が敗北してしまう。タイタスの見立てではそれほどの存在だった。

「魔物……それでも、人間はそれらを退治してきましたよ。別に、今回が初遭遇ってわけでも無いでしょう? 歴史を見る限り、もっと強大な魔物を、人間は倒してきました」

 山程もある蛇、空を飛ぶトカゲ、目を合わせれば金縛りに遭う獅子等々、単に巨大な鹿っぽい魔物より、余程凶悪な存在が、実際に討伐記録として残ってはいる。

 ただし、やはり今回の状況とは重ねる事が出来ない。

「どれも、十分な軍隊と十分な準備をもってして倒したんだ。それにしたって、この世からすべてを消すなんて事は出来なかったわけだ。俺達ならそれが出来るなんて傲慢さは……随分と前に捨てたよ」

 やろうとすれば犠牲が出るだろう。そうして、出たところで成功する保証も無い。

 良く、大きな物事のために小を犠牲にするなんて話もあるが、それを選べる点で、まだ贅沢な状況と言える。

 こっちは、そもそも何をするべきかさえ迷っているのだから。

「魔物は狂暴で、排除するべき事実は変わらない。だが、手段となれば碌な物がありゃしねえ」

「集団で挑む」

「森の中をか? 障害物が多い森の中じゃあ、集団の利点なんて無くなる」

「狩りをする」

「弓と矢を持ってか。鱗が生えている生物に、生半可な矢ってのは通るもんなのかね?」

 フォレノンが出す案を悉く否定するタイタス。酷な態度かもしれないが、タイタス自身、自分で提案して自分で否定した案だ。その時の気分の悪さくらい、共有したって罰は当たるまい。

「面倒くせえって話ですよね。じゃあ……そうですね……残ったのは……」

 腕を組み、何を考え始めるフォレノン。彼はタイタスで無いのだから、もしかしたら思いつきもしなかった話があるのかも。

「罠を張る……とかですか?」

「ああ……残念ながらそれも考えた。そうして、それくらいしかないだろうなとも思ったよ」

 お互い、考えが落ち着く場所は同じらしい。人間は自分より強大な相手と戦う際、必ず罠を張って来た。真正面から戦うなんて論外だと、歴史や神話からも学べる。今回だってそれをするまでだろう。

「開拓民のみなさんで落とし穴でも掘りますか」

「それも良いんだが、問題はそう簡単に罠に掛かってくれるなら、今、悩んでないってことだ」

 魔物がいる事は以前から分かっていたし、その存在が開拓地を脅かしてもいたのだ。安全な範囲で、ある程度の規模の罠を張るくらいは、既に散々してきた実績がある。

 勿論、その結果が出ていない。つまり、さらなる一歩を踏み込む必要があった。

「罠を張るだけでも、大胆にする必要が出てくる。危険は発生するな」

「危険だなんだって言っても、考えなきゃ何も始まらないじゃないですか」

「その通りではある。まったくだ。作戦についてはこれから考え始めなきゃならん。ただ、実行はマフの奴が帰ってきてからになるだろう。作戦の妥当性についても、あいつの意見を聞きたい」

「マフさんですか? あの人が魔物退治に重要な役目を……ああ、そうか。工作の仕事だから、罠作りにはぴったりそうだ」

 フォレノンは自分で疑問を出しながら、自分で納得している。その納得は確かに正しい部分はあったが、彼には知らない事もある。

「魔物退治って言うなら、あいつの本業の方も重要になってくるんだよ」

 フォレノンには伝えておくべきだろう。マフという女の技能についてを。




 タイタスに教えられた事であるが、マフ・ノールという女の能力を表現する場合、戦士であると言葉にできるらしい。具体性は無いが、大凡の理解は得られるそうだ。

 フォレノンが詳しく説明を求めたところ、彼女はこの国がまだ戦争をしていた時、まさに戦士をしていたとの答えが返って来た。

 職業戦士と言えば良いのか、戦いの力を評価されて国に雇われていたそうで、今はその繋がりによって、開拓地の重要な労力として派遣されているらしい。

 そういう意味では、タイタスに近い立場であろう。ただしタイタスと違う点として、評価される技能の差異があると思われる。

 タイタスは未開や未知の場所へ向かう時の技能を買われたそうだが、マフの場合、その技能が多岐に及ぶ点を評価されたとのこと。

「なんでもできる。実際、なんでもと言うわけではないが、分かり易く言うとそうなる」

 少なくとも、マフ・ノールは自らをそう表現していた。現在、フォレノンの目の前でだ。

「兵士として何でもできたって事ですか? 確かに、工作兵としての技能はもってそうですけど……」

 マフの言葉を彼女の小屋で聞きながら、フォレノンは用意されている椅子に座っていた。

 彼女が帰って来たのは、開拓地初の赤ん坊が産まれた夜から二日程経ってからだった。出産の助けとなる医者を連れて来ての帰還であった。

 やってきた医者については無駄足に終わったわけで無く、産まれたばかりの赤ん坊と産んだばかりの母親を見て貰っていた。

 では、フォレノンが何をしているかと言えば、魔物退治を現実化するため、その問題に関わる情報を、自分の足で集めていたのだ。

「工作だけではないが、工作もできる。一応、一般人よりは剣も槍も弓矢も上手く扱えるとも思っている。工作役が他にいなくて、需要を大きいから、もっぱら、工作役だろうと認知はされてはいるが」

「なるほど。万能ってわけですか万能戦士だ」

 自分で言っておいて、臭い言葉だとフォレノンは思った。実際、マフもあまり良い言葉だとは思わなかったらしい。

「それほどでは無い。どれも、じゃあ専門家よりも上回っているかと問われれば、そうではないと答える。こちらは断言できるな」

 器用貧乏という言葉が思い浮かぶ。だが、それほど単純な事でも無いのだろうとも思う。彼女は人間に向ける言葉としては不適切かもしれないが、便利な人間なのだろう。

 どんな場面でも、足を引っ張る事が無い。そういう人間だと言う事。あくまで、技能だけを見た場合だが。

「それで、今回に関しては、狩人としての技能を頼みたいってことだわな。作戦案も幾つか考えたから、それの評価もして欲しい。素人よりかは出来るだろ?」

 小屋の入り口。扉の近くから、タイタスの声が聞こえる。実際、彼は出入口とするための扉を閉めた状態で、その扉に背を預けていた。

「別に、タイタスさんまで来なくても良かったのに」

 元々は、フォレノンがマフという人物の人となりを知るために来たのだが、タイタスが同行を申し出て来たのである。

「相談できる時にしておきたい事もあるんだよ、ほんと。時間なんて、切羽詰まらなきゃ、それが貴重だなんて思えないもんだからな」

 魔物の討伐についての話を、このまま、この小屋でするつもりらしかった。一方でフォレノンの方は、剣呑な話となる前に、一通り聞いておきたい事がある。

「ぶっちゃけ、マフさんは魔物に対して有効な技能を持っているとしたら、それがどういうものなのかを知っておきたいです」

「……数日見ない間に、随分と状況に慣れ親しんでいるな」

 何か不気味なものを見るかの様に、マフから視線を向けられた。そりゃあ、適応能力は高い方だと思うが、そういう見方をされるのはショックだ。

「いやはや。こう、やっぱり空気ですかね? 開放的なこの空間が、僕の心を解放させると言うか」

「単に人目を気にしない野郎ってだけじゃねえのか?」

「そういう部分こそ、才能って言うんですよ、タイタスさん。人見知りなんて、世の中じゃあ損です」

 タイタスとのこんなやり取りも、既に大分慣れてしまっている。

 ロードリンクスは問題が多い土地かもしれないが、早めに慣れる事が出来ているので、暮らす分には良いかもしれない。だからこそ、積極的に守って行きたいとも思う。

「まあ……とりあえずは良いか。私の技能についての話だったな?」

「何かをさて置かれた気もしますが、はい。こう、森の中に山のような罠を瞬時に作れるとか、そういうことでも無い?」

「そんな事が出来る人間を、私の人生の中で一度も見た事が無いな」

 そこまで便利な存在ではないらしかった。では、どれほどに便利なのか。そこも知って置きたい。

「タイタスさんは、マフさんが今回の目的にどう活躍してくれると思ってるんですか?」

「だから、それをこれから話そうって事だ。結局、森の中で人間が獣とやり合うなら、罠を仕掛けるのが一番だ。武器を持ったって十分に戦えねえしな」

「マフさん一人に頑張ってもらえる……ってわけでも無いんですよね?」

 マフ自身の能力がそこまでで無ければ、そうなるはずだ。つまりは、そこからが作戦の考え時なのかもしれない。

「私一人では無理だから、開拓民を集めて訓練しろと、この男は言うつもりなのだろう」

「分かってるなら話は早いじゃねえか。訓練官としての技能も確かあっただろ?」

 つまり、万能というのはそういう場面で使うべきなのかもしれない。複数人に、とっかかりの技能を教える事ができる。

 専門的な能力が欲しければ、それこそ、マフが何人かに教えた上で、その中で才能のある人間を伸ばせば良いのだから。

「具体的には罠の作り方って事ですか。あ、そういえば、その魔物っていうのはどんな見た目だったんです? いえ、大きな鹿っぽいって話は聞きましたけど、詳しくはまだですよね?」

 細かい部分の違いとて、掛かる罠は違ってくるはずだろう。そういう部分も把握するためにこそ、タイタスは森へと偵察に向かったはずだ。

「言う通り、見た目はデカい鹿だ。こう、歯は完全に肉食のそれだったな」

「鹿か。足は細かったか? それとも太かった?」

「体全体のバランスとしては細い方だったが、その全体がデカいからな。相応に太い足ってことにはなるだろ」

 足を引っ掛けるタイプの罠だと、耐久性に気を付けなければならないと思われる。そういった部分について、フォレノンは門外漢であるため、想像する事しか出来ないものの。

「いや、バランスが悪そうというのは重要だ。結局、どれほど大きくなっても、足回りは弱点に成り得る……」

 既に、魔物討伐の作戦会議に入っているらしい。フォレノンとしても、聞けるものは聞いたと思うのだが、少しばかり気がかりがあった。

「タイタスさん。魔物の外見で、まだ何か変わったところとかありませんでしたか? こう……普通じゃないぞ。的な」

「どこを見ても普通じゃなかったけどなぁ……全身が鱗だったりとか」

「……」

 フォレノンは沈黙する。何か、タイタスが思い出すのを待っているのだ。それはそれとして、何故かマフから視線を感じる。

「なんです? マフさん」

「いや、随分と魔物にこだわるな?」

「そりゃあまあ、魔物ですよ? この開拓地を襲うかもしれない……こだわったり気になったりするのは当たり前です」

 むしろ、ここで気の無い様子を見せる方がおかしいと思う。もっとも、開拓地に入れ込み過ぎじゃないかと言われればそうかもしれないが。

(僕もまあ、短い内に染まってるよね、この開拓地に)

 それが開拓地という場所なのかもしれない。未だ人の世界が広がらないこの場所だからこそ、人と人との関係は濃くなっていく。

「ああ、そうだ。魔物の背中側、尻に近い部分なんだけどな。何か光っているのが見えた」

「光……それって、どんな?」

「何かの紋様に見えたが……いや、多分、何か鱗の模様を見間違えたんじゃねえかな。森のための天然の迷彩に、光か何か差し込んだんだろ」

 タイタスの言葉は、何でもない事を語っている風ではなく、なんでもある事をそうじゃないと思い込もうとしている言葉に思えた。

 実際、魔物の異質な外見と比べてみても、光る紋様なんてものは特徴的過ぎる。

「とりあえず、知らせといた方が良いんじゃないです? 光る紋様に見えた何かがあるかもって。咄嗟の時に、本当にそれがあって、戸惑ったりしたら事です」

「罠を張る以上、その咄嗟の時ってのを避けたいんだがなぁ」

 真正面から戦うつもりは無いのだろう。そうしてそれは正しい。フォレノンもそう思う。ただ―――

「何かあるのか?」

 聞いて来たのはマフである。問い掛けに答える様に、タイタスに合わせていた目線をマフへ向けてみると、何故か彼女の鋭い目線とぶつかった。

「光る紋様について、気になる事でもあるのか?」

 聞こえなかったとでも思ったのだろうか。フォレノンの返答を待つ前に、彼女は聞き返してくる。こちらが何かを答えないと、何度だって問い掛けて来そうだ。

「そりゃあ気になりますよ。変わった特徴ですからね。気にならない人とかいますか?」

「そうだな。私だって気になっている。魔物の紋様についてもな?」

 マフの言葉には、それ以外も気になる事があると、そんな意味が含まれている様に思えた。

 空気が重く感じる。唐突と言うわけではないが、この場を離れたくなってくる。

「ま、確かに妙な部分ではあるか。分かった。開拓民の中で魔物討伐に参加する人員には、魔物の外観について事細かに伝えとこう。損は無いしな」

 少しばかり、空気が膠着しそうになったところで、それを防いだのはタイタスだった。管理官と言うだけあって、険悪になる前に状況を曖昧にする手管に長けているのだろう。

「かい部分を詰めていくのはこれからになるだろうが、何にせよ、マフ、お前さんには魔物討伐に参加して貰わなくちゃ困る。頼めるか?」

「ああ、そこには異論がない」

 では、どこに異論があるのだろうか? 聞いてみたくなる欲求が皆無というわけでは無かったが、それ以上に、フォレノンは空気を悪くしたく無かった。




 参加者から異論が出ない話し合いというのは、想像以上に早く終わるものだとタイタスは実感する。

 マフとの魔物討伐の打ち合わせだけで一日を潰すつもりだったのだが、予定の半分も時間が経たない内に、話は終わってしまった。

 では、余った時間を別の仕事で潰すかどうかであるが、タイタスは仕事以上に大切な事を行う事にした。

 酒を飲むのだ。

「こんなものを隠していたのか」

 開拓地の端に用意された小屋……というほどに立派ではなく、屋根とそれを支える柱。そして屋根の下の椅子だけが用意されたその場所で、タイタスはマフと酒を飲んでいたのだ。

「物資不足なんて言っちゃあいるが、大概の人間は、自分だけは何て思いながら、何かしらを隠してるもんさ」

 二人して、木のカップに半分ほど入った半透明の酒を見つめていた。酷く甘く、それでいて酔いはあまり回らない。その程度の安酒ではあったが、この開拓地においては貴重な娯楽品である。

「隠している物……それをアテにでもしているのか?」

「まさかだろ? どうせ、もう暫くなら耐えられるなんて楽観視してたら、そのすぐ後に予想外の餓死者が出るのさ。本当は、最初からそうなると分かってる癖にだ。そうはなりたく無いね」

「見て来た様に言うな。開拓地への赴任は今回が初めてで、まだ死人なんて出していないだろうに」

 マフの言う通り、開拓民の犠牲は出していない。それは一応、タイタスにとっての誇りではあったが、タイタスの能力が優れているからと言うわけでは無いだろう。

 単に、運が良かっただけ……もしくは、その時が来てないだけか。その二つに何の違いがあるかは知らないが、それでも、とりあえずは前者であるとは思いたい。

 今後は気を付けるという考えには至れるからだ。

「楽観していたら生きていけない状況ってのは良く分かってるだろ。お互いにな」

 マフとは、それなりの付き合いがある。お互い国の兵士をやっていて、他の国の兵士をどう手に掛けるかを考え続けていた時代からの付き合いだ。

 腐れ縁と言う程に真っ当なものでは無いが、それ以外に表現の仕様が無い。そんな関係でもある。

「だから、気になる事があった時には酒を付き合わせるのか」

「大事に取っていた貴重な一品だぜ? 話しくらい聞かせろよ」

「内容に寄るがな」

 勿論、酒代くらいにはなる話を聞かせて貰うつもりだ。でなければ、隠し持っていた酒に申し訳が無いだろう。

「急に、対処の仕方が変わったなと思ってよ」

「……あのフォレノンと言う少年についてか」

 マフはすぐに答えて来た。本題が何であるか直接に言って無かったはずだが、酒飲みに付き合えと誘われた時点で、どういう話をするつもりが察していたのだろう。

「急に当たりがキツくなった様に思えてな。街から帰って来てからか?」

「別に、嫌な奴だと思う様になったわけじゃあない。それだけは前もって言っておく」

「オーケー、心配事が一つ消えた。一番深刻な状況がそれだからな。じゃあ、他に何かあったか? そういや、街に行って帰って来るまで、お前にしては時間が掛かったな」

 マフは行軍の技能も持っているし、それこそ持久走だって素人よりかは上等だ。確かフォレノンは足に自信があると言っていたが、目の前のマフだって、それなりのもののはずだった。

「知人と会った。それはそれで単なる偶然だったが、話しが弾んでな」

「お前さん、口下手は治ったのか?」

 聞いてみるも、マフはやや不機嫌な表情になるのみである。皮肉のつもりは無かったのだが、そう伝わってしまったらしい。言葉とは、かくも難しいものだ。

「残念ながら、そういう艶っぽい話にはならなかった。だとするなら、私が饒舌になる話なんて決まっているだろう」

「その知人ってのは、俺達と同じ元兵士か」

 そう珍しくも無い。かつては戦争をしていた国だ。今だって、街に入れば両手で足りないくらいに、元兵士の肩書きを持つ人間に出会う。

 出会わない場合は、元兵士である事を隠したがっている人間が多いという事でしかないだろう。

「元ではない方だった。国内中を歩き回る仕事に就いた、今も現役の兵士だ」

「となると、それなりに優秀な奴だな。戦争が終わって首にならなかった奴ってのは頭が回る奴か、小手先が回る奴だろうし」

 どちらにせよ、能力的には上等な部類に入るはずだ。国中を歩く仕事と言うからには、密偵か何かかもしれない。

「実際、そうだ。色々と情報を掴んでいたから、医者探しも手伝って貰ったんだが……問題になったのは世間話の方だ」

「ふん?」

 やはり、世間話くらいならする様になっているじゃないか。とは言わないで置いた。人間関係を上手く回すコツは、相手の嫌がる話題をそう何度も振らない事だ。

「開拓地に新しい人間がやってきたと言う話になってな。勿論、あのフォレノンの事だ」

「そこで、良く無い事を聞いたんだろう? でなきゃ、そんな話を酒の場で口から出すもんか」

「お前が促したんだろうが。彼の故郷……確か南部の……」

「タフリンだったか。本人が言ってたし、国から送られて来ていた履歴書にもそうあったな」

「私もその履歴書を見た。おっと、言って置くが、会議所で碌に書類が片付けられていないのは私の責任ではない。ここで重要なのは、私がつい、その兵士に、彼の事を知っているかと尋ねた事だ」

「で、知らないとでも帰って来たのか?」

 そうであったとしても、単なる記憶違いで済ます事が出来る。多少怪しい人間とて、受け入れるのが開拓地と言うものだ。誰だって、脛に傷くらいは持っている。

 重要なのは今なのだ。フォレノンは今、タイタスの目から見れば、それなりに能力の片鱗を見せてくれていた。

「その兵士の記憶力は、想像よりも良かった。街を渡り歩き、そこに住む人間の多くを把握していた。すべてと言うわけじゃあ無かったが、フォレノン・フェルナイトと言う名前には聞き覚えがあったそうだ」

「そりゃあ大した記憶力で。で? 故郷じゃどんな奴だったんだ? もしかして、とんでもない悪党だったりしたのか?」

 軽く言葉を向けてみるも、マフの表情は真剣そのものだ。深刻とも表現できるだろう。何にせよ、良いと呼べる話題では無いらしい。

「……10年前の戦争に出兵している」

「あん?」

「だから、10年前の戦争に出て、そのまま帰って来なかった少年がいたそうだ。その少年の名前がフォレノン・フェルナイトと言うらしい」

 話題はオカルト方面だったかと、タイタスは指を額に当てた。勿論、酔いからくる頭痛が原因では無いのだろう。

「……どう答えたものやら」

「私からは、気を付けろとしか言えんな。ああ、それと、これは会って最初から感付いていた事なんだが……」

「まだあるのか」

 できれば頭痛の種は、一粒ずつにして欲しいところだったが、マフは言葉を続けて来る。

「幾らか、戦えるぞ、あの少年は。手を握った時にそう感じた。少年かどうかは怪しいがな」

 それを聞かされて、タイタスはどんな表情を浮かべれば良いのだろうか。悩んだあげく、タイタスは手にもった酒をあおる事にした。




 人は悩みを抱えている。生まれたその瞬間からしてそうだ。

 赤ん坊が……そう、先日産まれた赤ん坊が泣いたのも、その瞬間から悩みを持ったからだろう。

 さらに厄介な事に、生きれば生きる程に、その悩みは複雑怪奇なものへと変わっていく。

 産まれたばかりの頃はお腹が空いたとか、周囲の人+間が知らない人ばかりだとかの単純な悩みだったとしても、20年そこらを生きれば、隣に立っている少年が幽霊かそうでないかを疑う類のものへと変わる……。

「そりゃあ魔物退治の人員を募るのは悩ましい事かもしれませんけど、やる事は単純でしょう? それがそんな顔を歪める事なんですか? タイタスさん」

 会議所の机を睨んでいたタイタス(その実、当人を睨むわけにも行かないので、机の上の地図を見つめていただけだ)は、悩みの種であるところのフォレノンに呼び掛けられて、顔を上げた。

 現在、朝から二人で今後の計画の詰めを行っていた。

「罠の数や配置がちょっとな。それに……危険を自分達側から増やすってのは、何時だって悩むさ」

 タイタスは咄嗟に誤魔化す。上手い具合に、フォレノンの方は疑った様子は無かった。元々、魔物退治も悩みの種ではあったのだ。

 というか、フォレノンの事はまださて置ける分、優先順位が低い。

「えっと、罠を増やすのがまずやるべき事ですよね?」

「そうだ。それをするにしても人手がいるから、開拓民から志願者を募る。参加者が多い程計画は早く進むが、参加者の人数だけ、危険に遭遇する人間も増えるってわけだ」

「志願者がいない場合は? 強制?」

 その部分に関しては問題無かった。フォレノンはこの開拓地に来たばかりだから、そうは思えないのだろうが……。

「とりあえず、今日はその呼び掛けをしておくか。悪いが、頼めるか?」

「いいですけど……だから断られでもしたらどうするんです?」

「そんな心配は無い。試しに、魔物退治のために森に罠を作る計画を立ててるから、人を募集しますと言って回ってみろ」

「はぁ……まあ、それが指示なんでしたら従いますけどね?」

 こういう時、便利に動いてくれる人材を手に入れられたのは、本当に幸いだと思う。

 その相手は、少しばかり厄介な事を抱えているかもしれないが、それはそれとする事が出来る。

(ふん? 思えば、その程度の事でしかないか……?)

 結構な悩みに思えていたものの、タイタスはフォレノンについて、詮索しないという選択を行えた。

 意外と言えば意外だが、どうにもタイタスは、彼に対してある程度の信頼感を抱き始めているらしい。

 なら、それで良いかと、タイタスは笑みを浮かべる。

「やるべき事は幾らでもあるぞ? 人を集めたら訓練だ。訓練のあとは、どうやって魔物を追い詰めていくかも考えなきゃならん。何だろうな、忙しくなってくるのは解決に近いと思えるのは楽観か?」

「せめて、希望的観測って事にしときません?」

 展望はあった。それがどんな景色を見せてくれるかはまだ分からないが、それでも、先が見えている以上は歩き続ける事ができるのだ。




 作戦が決まり、数日も経てば、最低限の準備は嫌でも整ってくる。

 森の中に張る罠とその配置についても、ほぼ決定していた。

 後は、魔物に気付かれない内に、迅速に罠を張る事が出来る様に開拓民を訓練する。そうして、さらにもう一つ、足りない部分を補うと言うくらいで本番へ移行する事になるだろう。

 と、タイタスは予想している。

「予想は何時だって外れるもんだから、気を付けなきゃならねえんだが……それは仕方ないか。何時だって、万全になんてできるわけもない」

 彼が見つめる先は開拓地の広場だ。建屋が無い限り、そこは森か広場であるのが開拓地の常であるから、概ね広場と言えるだろう。

 そんな場所で、人が複数人集まっていた。罠設置の訓練をしている開拓民達である。彼らは言っていれば、今回の作戦の主役であり、尚且つ、本番前にはその仕事が終了しているという端役でもあるだろう。

「訓練は順調そうですよね。訓練は」

 話し掛けたつもりも無かったのだが、ここ最近、仕事中は何時も近くにいるフォレノンが言葉を続けて来た。

 愛想が無いと思われるのも何なので、タイタスは彼の方を向いた。すぐ隣だ。別に、突然現れたわけでも無い。

「何か含みのある言い方だな? 目に見える不安は今のところ見当たらないだろ?」

「順調なのは良い事です。ですけど、大した反対も無く、こうやって参加者が集まってくれたのは……なんて言うか、むしろ不安です」

「まだそこに拘ってたか……」

 頬を掻きつつ、再び訓練の風景へ視線を向けた。変わらない風景。参加者はマフを除き男性だけだったが、志願者には女性も含まれていたはずだ。

 訓練を受けている者は、その志願者達の中から、比較的向いているであろう者をマフが選んだのである。

 その数は10人程。労働以外に時間割いてくれる人数としてはかなり上等の部類だった。

「いやだって……タイタスさんが言ってたんですよ? 命の危険があるかもって。僕が人を集めてる時も、そういう危険はありそうとは伝えてたのに……」

「誰も反対しなかったろ?」

「何か……使命感に燃えていたり、主義主張に惑わされたりって感じでも無かったので、どうにも違和感があるなと」

「意図も何も無いんだがねぇ……」

 どう説明したものかと迷うが、率直に言ってしまうのが手っ取り早いだろうと結論を出す。

「命の危険があるからって、別に命を捨ててでもって考えてるんじゃねえんだよ」

「何か……矛盾した言い方に聞こえますが」

「言い方がまだ足りなかったか? 誰かから与えられなくたって、命の危険なんざ、どこにでも転がってるんだよ。食糧の補給が滞れば飢え死に。水源が枯れればもっと早くバタバタ人は死ぬ。何時だって死が間近にあるから……」

「死に慣れてると?」

 それは違うと首を横に振り、苦笑を浮かべる。どう伝えたものかと悩んでいるのだ。

 本当に、仕方のない事ではある。開拓地に来てしまった以上の仕方なさ。それを受け入れて、今、自分達はここにいる。

「むしろ生き残りたいんだ。厳しい世界だからこそ、出来る限り、全力で生き残ろうとする。今はな、開拓民の大半がこう考えてるのさ。このまま放っておいたら、どうせ死ぬ」

 どこかしら、心の中にシビアさを持っている。これが開拓民だ。もっと言えば、開拓参加者の大半が戦争体験者だ。

 直接、剣を持って人同士戦い合った経験も、別に珍しいものでは無い。これらの経験を有能さとは呼びたく無いが、この場においては役に立つ。悲しい程に、建設的な状況になってしまう。

「選択肢がどれも禄でもないからって、命を失う可能性が少ない方に賭ける……そんなの無情すぎますよ」

「理解できないか?」

「出来るからしたく無いんです」

 そんなフォレノンの返答を、タイタスは上等だと思う。

 どれだけ現実が非情と言っても、それに納得できないと言い放つ意地だけは捨てたく無い。タイタスとて、そういう部分はあった。

「まあ、そこまで深刻に考える必用も無いさ。今はただ、動いてくれる人間が多くいる事に感謝しておけば良い。後悔したり、何事も無くてホッとしたりなんてのは、もっと後の段階の話だな」

 深く考えて、考え続けて、何もかもが手遅れになる状況と言うのはなお悪い。そう言う情況に陥ってしまう人間というのも、心情的には嫌いで無いのだが……。

(となると、俺はこのフォレノンって奴をそれほど嫌ってはいないって事か)

 そんな事は分かっていた。少なくとも、初対面の頃から悪い人間だとは思えなかったし、今では親しみすら感じている。

 マフから、怪しい背景があると聞かされた後でも、彼への見方はそう変わっていなかった。多分、これからもだ。

「それで……訓練した後は罠を張るんですよね?」

「そうだ。罠を設置する途中に襲われる危険も勿論存在するが……もっと危険な仕事が、その後に控えている」

「後ですか……黙って魔物が罠に嵌るのを待つ予定は無いって事ですね」

「獣ってのはな、狙って罠に嵌めるのが難しいんだ。森に住んでる時点で、恐ろしいくらいに注意深くなってやがる」

 罠に掛かる獣というのは、大半が焦っていたり不注意だったりと、ある種、他より劣った部分がある。通常状態の獣ならば、目敏く罠の存在を察知して、避けてしまうものだ。

「魔物の頭が良いか悪いか……少なくとも、狩りが出来る程度の知恵は回ると思う。となると、罠を複数張ったところで、相手を苛立たせるだけになっちまう可能性が大だ」

 また、罠の場所を把握されると、それ以降、罠の存在は無駄になる。こうやって訓練をした苦労も水の泡だ。

「だから……そのために魔物と接触する?」

「良く分かってるじゃねえか。なんでそう分かった?」

「森に入って罠を張る以上に危険な事なんて、それこそ魔物と出会ってしまう事じゃあないかと思ったんですよ。当たって欲しく無かったなぁ……」

 フォレノンは頭を掻き、そうして息を吐いている。悪い予感ほど良く当たる。目の前の少年にとっても、世の中とはそういうものらしかった。

「正確には、接触の一歩手前まで行く。獣ってのは、出来れば苦労を避けるもんだろ? 複数人が森に踏み入れれば、むしろそれを避けようと移動する」

「そうして移動させる先にこそ、本命の罠を仕掛けておくって、そういう事でしょ? けど、忘れてません? 相手は魔物ですよ。獣より余程狂暴だ。しかも飢えているんです。森に入って来た人間は、警戒するべき相手じゃんく、肉の塊として見ているかも」

 迂闊に近寄れば、反撃を実行してくる相手だと言う事。フォレノンの言う事は分かるのだ。それこそが、もっとも危険である事も承知している。

 開拓民複数人で行うその行動の結果、何人か命を失う可能性もあった。

「だが、相手が狙う人間を絞る事は出来る。全員が慎重に動く中、内一人が迂闊に動けば良いんだ。隙さえ見せれば良い。簡単だろ?」

「その隙を見せる人間が、確実に死ぬって状況を除けば、確かに単純な状況でしょうね?」

「俺は別に、死ぬつもりなんて無いんだけどなぁ」

 白状してしまえば、タイタスがそのもっとも危険な役目を負うつもりだった。フォレノンの方も、そうであることを前提に話を進めていたはずだ。

 彼はむしろ、タイタスのそんな態度にこそ苛立っているのだろうか。だが、幾ら協力的と言っても、他の開拓民に任せるわけにも行かなかった。

「前にマフさんにも言われてましたけどね、自分が管理官だから何でもするって言うのは、指導者としては失格ですよ」

「あいつ……んな事言ってたか。けどまあ……指導者って程の柄じゃないしな、俺」

「さっぱり頼りにならない人だったとしても、いちいち相談ごとを持って来られてる立場ではありますよね?」

「あー、産まれそうな赤ん坊をどうこうするのなんて特にか」

 言い返せない話題となったため、どうしたものかと考える。正直なところ、別に説得をする必要性は無かった。それこそ、管理官の自分がそう決めたのだからそうなのだと言い通せる。

 しかし、それをすると負けた気分になるのは、タイタスの心とて、まだ成熟していないからか。

「一応、確認しておきたいんだが、俺の事を心配してくれてるのか?」

「しちゃあ悪いですか? どう考えても、自分だけが危険ならまあ良いかって顔してますよ。タイタスさん」

 どんな顔だろうかと頬に手を振れてみる。どうにも、疲れからか固い感触があった。

「……人選的にも、仕方の無い部分はあるだろ。俺は森の中でも結構動ける。開拓民の中じゃあ多分、一番だ。他の人間を使えば使うだけ、人間の生存率が減っちまう」

 これは一番の理由になるはずだ。別に、それこそタイタスを含めて、死にたがりでは無いのだから。

「万が一、タイタスさんがいなくなった時の事を考えてますか? 短い間ですけど、僕にだって分かる事はあります。ここの開拓地におけるあなたへの依存度は……それほど低いものじゃあない」

「俺が無暗に死んじまえば、それでロードリンクス開拓地はお終いだと心配している事は分かった。それじゃあどうする? 俺は机の後ろでふんぞり返って、作戦の成否が決定するまで待っておけなんて言うつもりか?」

「それが……どれだけ汚れた事だろうと、正しい事ではあると思います」

 中々にフォレノンは強情だった。内容そのものに筋が通っているのも厄介な部分だろう。

「それで、俺が出ない代わりに、誰が出る? 言っておくが、どっちにしたところで、魔物の討伐は失敗なんて出来ないぞ? 切羽詰まってるからこその今があるんだ」

「それは僕が……いえ」

「ふん?」

 フォレノンが言い掛けた事。自分がタイタスの代わりをするとの言葉の意味。それを考える。

 普通に考えれば、勢いのままに言ったのだろうが、その裏があるとすれば、自分なら魔物だって退治できると、そう言っている様にも思えた。

(つまり、これがこいつの怪しいところってわけか)

 何かを隠している。その経歴も、このロードリンクスに来た理由も、何か、タイタスの知らない事情を持っているのだろう。

(だが、そんなもんは誰だって同じだよな)

 息を一度吐いた。フォレノンからすれば、溜め息を吐いた様に見えた事だろう。だが、タイタスにとってはそのつもりでは無かった。

 何か……深く考えるのを諦めるための吐息だったのだ。その実、意味合いは一緒だったかもしれないが。

(こっちに関しても、今さらだな)

 考え過ぎるは良く無い事だ。深く考えて疲れを溜め込むより、一息吐いた方が随分とマシだろう。

 目の前の少年を、タイタスは信用している。まったくもって短い付き合いであるが、それでも、信用する事にしていた。

 なら、これからの付き合い方も、どの様な裏があろうとも変わらないはずだ。信用とは、裏切られる事を恐れる物ではない。裏切られたとしても、仕方ないかと思える相手を見つける事だ。

「こればっかりは、まだお前に任せられない。理由は、前にも言っただろ?」

「開拓地に来たばかりの人間に、危ない真似はさせられない……」

「そうさ。その通り。これもこれで、開拓地としての沽券に関わるんでね。お前があと、一月くらい前に来ていたら、状況も変わっていたかもしれないな」

 それだけ話した後、タイタスはフォレノンの頭を手のひらで叩いた。あれこれとした話は、これで終わりだと言う合図である。

 彼の感情はまだ納得していないだろうが、これ以上の話は無駄になると気付いたって良いはずだ。

(もし、こいつが、ここからさらに反撃できるくらいの人間になったとしたら……それこそ、俺の代わりを任せたって構わないんだろうな)

 それも、まだまだ出会ったばかりの相手に対しては過大な評価だろうか。その皮肉がどうにもおかしかったので、タイタスは苦笑した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ