クリスタルマウンテンをブラックで
※この物語はフィクションであり、作中に登場する地名や人名は、実在するものとは一切関係ありません。
神楽坂。
神田川のほとりのデッキに作られた屋外のカフェから、ゆったりした流れと、総武線の線路が見える。
川の向こうにはオフィスビルが連なっているが、どこかもの静かな印象である。電車の音も、川をへだてているのでうるさくない。
真上には、高く澄んだ秋の空。東京は高層建築物が多いから、こうしてまんまるい空を眺められる場所は実は少ない。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーです」
「ありがとうございます」
しばらくすると、オレが一人で座っている川沿いのテーブルに一人の女性──おそらくオレと同じ大学生らしき女性がコーヒーを運んでくる。さっぱりした身なりで、「それでは、ごゆっくりお楽しみください」と頭を下げるようすがかわいい。
短めの黒髪を後ろで一つに束ね、小さくて白っぽいうなじがのぞく。全体的に細くて背も大きくはないが、眼には意志の強そうなしっかりした光が輝いていて垢抜けている。
あの人、なんとなく、素敵だな。
そんなことを考えるようになって、オレはこのカフェに行くのが好きになっていった。
大学進学をきっかけに東京に住むようになってまだ7か月かそこら。初めて東京で過ごす秋。
午後の授業がない日などは、よくこのカフェに足を運んでコーヒーを飲む。
オレはかばんから、最近買った本を取り出して読み始める。普通の小説である。〇〇書店の真面目くさったブックカバーをつけているから、何の本を読んでいるかは他の人には分からないだろうが。
取るに足らないことを考えながら、ため息をついて、自然とオレの目線はさきほどコーヒーを運んでくれた人の方へ向く。レジのところで、笑顔でお金を受け取っておつりを手渡していた。
・・・どうやって話しかけたらいいんだろう。
・・・「あなたが初めてコーヒーを飲んだときのことを、覚えてますか?」とか?
・・・いや、こんな話しかけ方はやっぱり変だろうか、普通にコーヒー好きですか?とかの方がいいか、それとも、うーん・・・
そんなわけで、話しかけたい気持ちでいっぱいのくせになかなか話しかけられないまま、じりじりと時間だけが過ぎて行くのだった。
「だいたいさぁ」
午前の授業が終わって、昼ご飯を食べに行く時間である。今日は午後まで授業がたっぷり入っているから暇な時間がない。
「俺ってさ、コーヒーはあんまり好きじゃないんだよな。特にブラックは。いっつもミルクとか砂糖いっぱい入れないと飲めないのさぁ。マサ、ブラックコーヒーのどこがおいしいのか教えてくれよ」
昼食を大学の外にあるこぢんまりとしたイタリアンレストランで食べようと思って歩く道中、同級生で友人の村澤がきいた。
「村澤ってなんていうか味覚がコドモなんだよ・・・こないだ沖縄料理屋さん行ったときも、ゴーヤ食べられねーって叫んでたじゃん。コーヒーだってよく味わってみると意外とおいしいんだからね?」
「いやいやただひたすら苦いだけじゃん。まあ、俺がコドモっていうかお前がオトナなんだよなぁ、たぶんだけど」
「テキトーなこと言うんじゃねえよっ、もう」
ははは、と村澤が笑う。実家が北九州の村澤は豪快でとびきり男っぽく見える。高校ではテニスをしていたという彼の肌は浅黒く、体格も良いのだが、そのくせどことなくあどけない。
「・・・で?前マサが話してた例のカフェの子とは、うまく行ってるのか?」
「・・・はっ」
村澤がにやにやしながら問いかける。前話したことなのに、今あらためて聞かれてうろたえてしまうのは、無意識のうちに思い出してしまっているからなのだろうか。
「・・・別に、何ってことねえよ。カフェにはよく行くけど、遠くから見てるだけっていうか・・・普通にコーヒーおいしいし、川沿いで街中にあるのに割合静かだしな。それだけでもあのカフェは好きだし今後も行く予定だから、また機会があったらあの人に話しかけてみるよ」
はぁー、と村澤がため息をついた。まるでやれやれ、とでもつぶやきたそうな仕草だ。確かにこんなふうに話しかけられないとヘタレに見えるのかもしれないが…。
「見てるだけで幸せってお前、中学生の片思いじゃないんだからさ、思い切って話しかけてみたら?」
この、「中学生」という言葉は地味に自分の心に刺さる。
オレは大学生になってブラックコーヒーもおいしいおいしい、と思いながら一丁前に飲めるようにはなったのだけれど、それでもまだ子どもっぽいところが残っているんじゃないか、という漠然とした不安があったのだ。
大人になりたい。大人に見られたい。心の底では、そういう分かりやすい、けれど切実な希望、自惚れが渦巻いていた。なんたって、自我だってまだフラフラとしていたのだから。
「って、どうせ勇気がないんだろ?したら、今度俺が練習してあげるよ」
「は?練習?」
「だから、俺をその子だと思って話しかけるんだよ。俺、コーヒーは飲めないけどそういうのはけっこう好きだしアドバイスとかもできると思うからさ。よかろ?」
「お、おう・・・」
どちらかといえば文化系のオレと比べて村澤は体育会系で、女子との付き合い方もずっと分かっている。最近は彼女ができたとかできないとかだが、少なくとも高校時代にはそういう感じの子がいたに違いない。だから、彼にアドバイスをあおぐのはそりゃ当然といえば当然なのだけれど。
イタリアンレストランに着いた。早めに行ったためか、それほど混んでなくて行ってすぐ席に案内してもらうことができた。秋とはいえ真昼に外を歩いていると暑くて汗がにじむ。
「今日は何食べる?村澤」
「ボンゴレにする」
「午後も授業あるのにあえてニンニクくさいやつ食べるのかよ。ふふ」
ここのパスタはおいしいから、たまに他の大学の子も来ているようである。大きくはないが味付けが良く、昼食はささやかな楽しみの一つだった。
かったるい教養の授業のことを考えると、しばらくあのカフェでの浮ついた空想のことも忘れてしまって、ちょっと重たい気持ちになった。
初めてコーヒーを飲んだときのこと。
大学受験のとき、オレは夜遅くまで勉強していた。
そういうときに、コーヒーを飲む受験生は多いかもしれない。けれど、オレが愛飲していたのはココアだった。ココアにもカフェインは入っているから眠気覚ましにはなっていたと思うけれど、おかげでオレはブラックコーヒーを飲まないまま18歳になってしまった。
東京に来て、ちょっと新しい風俗を試そうと思って、たまたま訪れたのが例の神楽坂のカフェだったのである。
それは6月のことだった。初夏の日曜日の昼下がりにふらりとそのカフェに一人で入り、川沿いの席に座って、はじめて、「ホットコーヒー、一つ」と言ったのだ。
でも、一人で喫茶店でコーヒーを注文した経験もなかったオレは、不安だった。アメリカンコーヒーとかブレンドコーヒーとか、ウインナーコーヒーとか(オレは本当に最初コーヒーにウインナーソーセージが刺さっているのかと思った)色々な種類があって、どれから飲めばいいのか分からなかった。とりあえず、無難そうな「あたたかいコーヒー」を注文した。
店員の若い男性は慣れたさまで「かしこまりました。砂糖やミルクはおつけしますか?」ときく。
「い、いいえ、いりません」
「ブラックで。かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
男性はぺこりと頭を下げて去って行く。オレは胸がどきどきしているのを感じていた。ブラックで、ブラックで。初めてブラックコーヒーを一人で注文した瞬間。今の一連のやりとりは、慣れた大人のように見えていたかな。息をついて、周りの景物をしばし見渡す。
目線の向こうで、コーヒーを淹れる一人の女性が見えた。
カウンターの向こうで、容器に入った明るい茶色のコーヒー豆を取り出し、丁寧なしぐさでコーヒーを淹れる。繊細な指先が星の砂のようなコーヒー豆を繰る。一目見て大学生だな、と思ったけれど、コーヒー豆を見る目や、挙動の一つ一つは却って真剣で、洗練されていた。コーヒーメーカーから静かに流れ出す深い褐色の液体──その色はどこまでも深くまろやかで、コーヒーをまっすぐ見つめる目は優しく情熱的だった。おぼえず、オレはその人のことを見つめてしまっていた。
「お待たせしました。ホットコーヒーです!」
とことことその女性がお皿に乗せたコーヒーを運んできたので、オレはあわてて目をそらす。
「ありがとうございます」
どぎまぎしたようすで答えたオレは視線を落とし、そっとそっと杯を傾ける。水面と唇が触れ合うのを待ち、やがて熱い刺激が唇の先から内側へと流れ、口の中へ香りとともに招き入れられる。
びっくりした。
こんなにも、爽やかで、透明感のある味だったなんて。
雑味がなく、苦みはさっぱりしていて上品。かすかな酸味がのどごしをなめらかにし、しばらくその余韻をとどめておきたくなる。温かくやわらかい香味が、口に、胸に、どうしようもなくあふれ出す。
これはおいしい。
オレは頭をもたげた。
コーヒーから立ち上る香気の中で、あの人の後ろ姿がゆっくりと遠ざかっていく。勝ち誇っているわけでもなく、ただきらきらと輝いていて、どきまぎした脳裏に突き刺さってきた楚々とした姿。
これが、オレが、はじめてコーヒーを飲んだときのこと。忘れようもない一瞬。
朧気な午後の時間の中、僕はいっぺんに恋に落ちてしまった。
そうして彼女のことをことさらに気に掛けるようになって以来、オレは何回もその喫茶に足を運んだ。
彼女がいる日もあったし、いない日もあった。それはともかくとして、単純にオレはそのカフェが好きだった。川沿いの飲食店というと、鴨川の納涼床みたいなものだが、やはり水辺をすべる風はタバコくさくなく、爽やかである。
それにしても、オレは彼女がこのカフェでバイトしているということ以外まだ何も知らない。
「見ているだけで好きってお前、中学生じゃないんだからさ。」なにげない村澤の言葉がおもたく胸に落ちる。遠くから見ているだけで悦に入るような恋なんて、やっぱり、情けないのかもしれない。話しかける努力をしないと何も始まらない。
「お待たせしました、ホットコーヒーのブラックです」
彼女が、オレの座っている席にコーヒーを運んできた。ありがとうございます、と小さくつぶやいて、オレは勇気を出して顔を上げる。一瞬彼女と目が合った。まっすぐオレを見ていたが、どこか焦点の合っていないような、ミステリアスな光をたたえた目。
「あ、今日はコーヒー日よりって感じですよね、天気もいいし、その」
「ふふ」彼女は歯を見せずに笑った。
すいませーん、と隣の席に座っていた若い女性の二人組が彼女を呼んで、彼女は「はーい!」と大きく返事をして、ぱたぱたと走って行った。
息をつくと、心臓がこまかく跳ねていた。
今日は土曜日の午後、バイトも入れていないから、久しぶりにゆっくりできる時間だ。天気もよく、また秋の気候が心地よいせいか、カフェにお客さんも多い。秋風にほほを冷ましながら、手元のコーヒーに口をつける。思ったよりも熱くて、あちっ、とあわてて口を離した。ちょっぴり飛び散ったコーヒーの欠片が、シャツに濁った空模様を染める。
オレは駅前の雑踏を歩いていた。
季節は冬になった。
「ふう、さっむ」
東京の冬は、いわゆる雪国と比較して温度は高いものの、体感温度的には雪国よりもむしろ寒いのではないだろうか。雪は意外とあったかいのである。中途半端な雪しか降らないくせに風だけは一丁前に身を切る東京の冬はいかにもひん曲がっていると、オレは思う。
吐く息吐く息が白く、氷を吐いているみたい。
市街はイルミネーションが皎皎と明るく、華やかな色彩と談笑で満ちていた。夜の市街はにぎやかである。アベックが腕を組み寄り添いあい、仲睦ましげにうろついている。彼ら彼女らは社会人なのだろうか、おしなべて高そうなコートやマフラー、バッグを身に着けていて、野暮ったい輩はいない。別に「リア充爆発しろ!」だなんて偏狭なことは思わないけど、そうではなく、オレはここにいていいのかな、という疎外感をおぼえる。
とはいえ、それは差し迫ったものではないから、気持ちを切り替えられる。そんなことより、いつ神楽坂のカフェの彼女に告白しようか?・・・いや、そもそもまだろくに話したこともないんだよな。このまま告白したところで、頭のオカシイやつと思われるのがオチだ。したら、ちょっとだけでも話して見ないと・・・。
やれやれ。オレはため息をつく。今年のクリスマスもまた一人で過ごす羽目になるのかなぁ。
通りの向こうに駅が見える。身体がだるい。今日も授業終わりから二時間しかバイトしていないが、そんな生活がここ最近続いているから、疲労が蓄積していた。あ、鍋に使う野菜買ってあったっけ。・・・思い返して、おとといバイト帰りに大型スーパーで、キムチ鍋のだしと一緒に買いこんだことを思い出して、苦笑した。
苦笑して、ふと、視線の片すみに、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
ファーのついた白いコートを羽織り、ひざ丈のふわふわしたフレアスカートに淡いベージュ色のウエスタンブーツ、黒いタイツ、肩にかかるくらいの清楚なショートヘアー。
神楽坂のカフェのあの人だ。
人が交錯する駅前で、胸が震えた。
・・・嘘だ。
・・・彼女の隣に、一人の男が寄り添って歩いていたのだ。ぱりっとした黒いコートを着た、すらりと背の高い男。後ろ姿だけでイケメンとわかる。
・・・冗談だろ、おい。
笑い飛ばそうとしたオレの顔がこわばる。
すたすたとしっかりとした、彼女の足取り。まぎれもなく、神楽坂のカフェのあの人。
彼女は横を向いて、隣の男に何かを話しかける。男は前を向いたまま何かを言ったのか、しばらくして彼女はひそやかにうなずいている。駅のネオンが凍てつく空気を衝いて彼女の横顔を照らす。いつもカフェで俺が見ていた、あの横顔を。
びゅうっ、と突風が吹いた。
地面に落ちた葉が、ぶわりと舞いあげられる。
オレは自分に言い聞かせる。なんということはないんだ、ただ、オレの知らない女性が、知らない男性と二人で歩いていた。それだけのことだ。何もなかったみたいに、あの二人の横を通り過ぎて、さっさと駅のホームに乗り込んでしまおう。
オレはそのままのペースで、二人に近づき、並び、そして歩き過ぎた。振り返ることも、横で顔をのぞくこともしなかった。足並みがひとりでに速くなった。足が震えるのは、冷え込みが厳しいせい。
カフェのあの女性が男性と二人で歩いているのを見てしまったその日の夜から、オレは一人でコーヒーを作るようになった。
とはいえ、見よう見まねだ。スーパーでインスタントコーヒーを買ってきて、それにそのまま水やお湯をぶちまける。
オレははじめて、コーヒーってこんなにまずいのか、と思った。とってつけたような酸味と苦み。泥をなめているような渋さ。価格が安いコーヒーだからだろうか、とも思ったが、どだいオレのような貧乏学生では高価なコーヒーを買う金がない。同じような価格帯のコーヒーを一通り試したが、どれもこれも差は多からず、風味の違いこそあれど、おいしいと思えるものは一つとしてなかった。
オレは苦笑いした。このビミョーな飲み物のために、わざわざ神楽坂のコーヒー屋さんに足繁く通っていたのか。それなら、タピオカミルクティーとか、ケバブとか、ニューヨークスタイルのハンバーガーとか東京にうまいものはいくらでもあるじゃないか。
そう思うととたんにあほらしくなり、コーヒーには砂糖と牛乳を大量に入れて飲むようになった。そしてそれはすっかりオレの習慣になった。牛乳を入れると、ふわりと霧のような白濁が黒い水面に広がり、黒っぽい純粋を覆い隠してしまう。砂糖をかけて、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃと、オレはスプーンでコーヒーの平やかな肌をかき乱す。やがて疲れたような波紋から、小さな湯気が立ち上り、ありふれた甘いにおいが鼻を親しげにつつく。
中間テストが行われた。
まだ一年生ということもあり、教養の授業が多い。文系学生ながら理系の授業も受けなければならず、勉強には思いのほか時間を割かなければならなかった。
テスト期間中は、オレはずっとぼんやりとしていた。何かに動かされているかのように、テストに必要な知識を詰め込んだ。面倒だが、無意味な言葉や概念が自分の脳に蓄積していくのを感じて、はしなくも心地よい。
「はぁー、テストすごくキツかったぞー」
最後の中間テストの授業が終わって、オレと村澤は解放された気分でキャンパスを出た。雲の多い秋空は重苦しく、いまひとつ晴れやかになる気持ちを許さない。
「疲れたなー。オレは今日バイトもないし帰って寝るわ。村澤はどうするん?」
「俺はサークルあるけ、行ってくる」
「おう」
「そういえばマサ、例のカフェの女の子には告白したっか??」
「別に」
こつん、と軽く当てて村澤の浮いた問いかけを返す。村澤はきょとんとした顔をしてみせた。オレはきっぱりと言った。
「なんてゆーか、オレ別にあの子のこと特別好き?ってわけでもないし。それより、テストの方が大事だし、あのカフェ高いしな。勉強したりバイト頑張った方が有意義な気がするから」
それは実際そうだった。親から仕送りも受けているし、そのうえカフェで贅沢なんてしていたら経済的に逼迫していくのは明らかだ。数百円の出費だって、かさめば数千円、甚だしくは数万円にさえ膨れ上がる。そう言えば、オレは最近出費をちゃんと計算して家計簿をつけるようになった。
「へー。マサってやっぱり真面目だなー。でもまぁ、たまには楽しまないとダメなんだぜ。例えば、女の子!実は、明後日の夜、代官山のスペイン料理屋さんで女子大の子と合コンやるんだけどさ!マサも来るか??どうせそのカフェの子はもうあきらめちゃったんだろ?」
オレはびくりとした。つとめて平静を装ってたつもりなのに。いや、彼にはそれほどの真意はないのかもしれないが。なんだかありもしない自分の心理を浮かび上がらされたみたいできまりが悪い。
…って、合コン?!
オレはさっと顔をそらして言う。
「あきらめた、とか言うなよ。まあちょっとかわいいなーって思ってただけで。最初から、付き合おうとか告白しようとか本気で思ってたわけじゃないさ」
村澤は何も言わない。余裕そうに、不敵な笑みを崩さない。
ジャーン、とにぎやかな音が響いた。見ると、大学図書館の前にある公園の片隅で、どこかのバンドサークルがギターの練習をしているのである。続いて、きんきんとした声の女子ボーカルが歌い始める。オリジナルの歌なのか、不器用だけどひたむきな歌詞。あのグループは何という名前なんだろう。風がびゅうっとやや強めに吹いて、自分の中にあった何かを呼び覚ますよう。
「オレ、行くよ。それ何時からやるんだ?」
村澤はにっこり笑った。オレは合コンに行くのは初めてだった。それから詳しい場所とか、集合時間、メンツ、合コンの作法のようなものを教えてもらっていた。
───お酒、未成年なのに飲むことになるんだろうか。
飲んでもいないお酒のことを思うと、なぜか頭がぽんやりとなってしまう。楽しそうに隣で合コンの話をまくしたてている村澤が、初めて異国の人間のように見えた。
初めての合コン。
それはきっと自分にとって重要な、印象に残るべき一連の時間のはずなのに、オレの頭に残っているのは断片的な記憶、抽象的な記号のような色合いでしかなかった。
オレの記憶がそういうふうにさせているのかも知れない。オレにとって、そのイベントは、本質的には重要なものではなかった。いくつかのできごとは自分にとって未経験のものだったが、総じてみれば自分はそのイベントの間中、落胆していたし困惑もしていた。そのためか、それらは自分の中でハッキリとした事象として記憶されなかった。
坂の多い街の一角。小さなスペイン料理屋さんの前の照明の下で、オレを含めた男女六人が談笑にふけっている。誰ともなくお疲れ様でした、と言いあい、オレが黙って歩き出そうとすると、一人の背の低い女の子がオレの腕をたたいていた。
あの、もっと話したいので、連絡先交換しませんか。
高級住宅街が上品な夜の闇にしっぽりと沈んでいる。深い湖の底のような道を二人で歩きながら、俺は携帯をまさぐる。微かな明かりの下で、女の子の小さな唇が下に膨らむ弦を描いて、紅色に輝いていた。
お待たせ、と言って彼女はオレの横に座った。
彼女は、冷たい紅茶を注文したらしい。
オレの前にあるのは、砂糖と牛乳をたっぷり入れたコーヒー。立ち上る甘い香りに食傷し、ため息をつく。
上野公園の一角にあるカフェで、窓際の席に二人で座って、木から黄色っぽい、うすい色の葉っぱがはらはら落ちていくさまを眺めている。もうほとんど葉っぱは落ち尽くして、白っぽい木の肌があらわになっている。
今日は、初めて合コンで知り合った子と二人で美術館を見に来ていた。
コーヒーの杯をつかむ手は力がなく、彼女はまるで飲みたくないものを飲んでいるといったさまで、紅茶に口をつけている。
二人とも言葉少なだった。目を合わせることもなく、遠いどこかを見る視線は終始うつむきがちだった。
───なんか、私が思ってた人と違う気がした。
ぽつんと、彼女は紅茶の水面に話しかけるかのようにつぶやいた。
───今日の午前中がピークだったかも。
彼女は苦笑いをふくんで続ける。
───ごめん、私このあとバイト入れてるんだ。じゃあね。
彼女はコップに紅茶を半分ほども残したまま、そそくさと席を立って出て行った。
目を細めて、窓の外を見やる。店内には、『イパネマの娘』が流れている。手元にあったコーヒーは、使い慣れない言葉を使っているあいだにすっかり冷めてしまった。
けだるい。
今日一日、どこか心が動くような時間があっただろうか?考えるほどに興味のわかない問題であることに気が付いて、「あーあ」とつぶやいて、ショックに打ちひしがれることもなく、甘ったるい退屈を飲み干した。
いつもの場所。
寒くなったせいか、お客さんの数は少ない。
それでも、いつものように、あの女性はアルバイトをしていた。
川辺に降りる階段をおりて、ふと違和感を感じたのは、しばらく行ってなかったせいだろう。その違和感がもとに戻るころには、最後に行った日から今に至るまでの経緯が、まるで遠い世界のおとぎ話のように思えてきていた。
よく晴れた休日の午後である。
「いらっしゃいませ!ご注文は何になさいますか?」
例の女性が、席につくなり、注文を取りに来た。
「えっと、ホットコーヒーを一杯お願いします」
「はい、ホットコーヒーですね。少々お待ちください」
素早く手元のメモに書き残して、背中を見せて立ち去ろうとする彼女に、オレはあわてて声をかけた。
「すいません、砂糖とミルクもつけてください」と彼女に言った。
「は、はい」
彼女は振り向いて一瞬きょとんとして、──困惑した顔で、自信なさげに答えた。
こういうとき、タバコが吸えたらいいんだろうな、とオレはぼんやりと考えていた。むろん目下吸う予定はないけれど、ちょっとした気まずさとか、困ったときとか、手元にあって神経を洗ってくれるものがあったら、すぐに頼りたくなる気持ちがわかる。
そういえば、ここのカフェで砂糖とミルク入りのは頼んだことがないな──。
「お待たせいたしました」
やがて彼女が運んできてくれた砂糖とミルクたっぷりのコーヒーがオレの前に置かれ、においもかがずにそれを飲んだ。
ふと、入口の方がさわがしくなって、何事かと思うと、一人背の高い男が入ってきたのである。
それだけなら何でもない出来事だが、その男はスタッフの女性──あの人のところに行って、親し気に話し込んでいるのである。
それを見て、はっとした。
あのコート、あの髪型、あの身長、誰かと思ったら、あのとき駅前で見た、あの男じゃないか。
とたんに居心地が悪くなった。コーヒーを飲んでも、味がもはやわからない。ただ甘いだけだ、おいしくない、おいしくない──。
飲みさしのコーヒーを置いて、がたっと音を立てて席を立った。さあ、いいかげん無駄遣いなんてやめて来週からバイトのシフトをいっぱい入れよう、お金をためなければ。こういうカフェに行くのは、もう今日が最後なんだから。
無理やり口角を上げて、レジの方へとすたすたと歩いて行く。あの女性と、例の男が親し気に話しているそのレジのそばへ。
やがてレジが近づいてくると、その男と女性がオレの方を向いた。
ばちっ、と音を立てて二人と視線がぶつかり、並んだ二人の顔が眼前にあらわれた。
───あ!この二人・・・。
ひどくびっくりして、すぐに目を反らした。
ぱこん!とハンマーで叩かれたように、一瞬頭がくらくらした。
「あの、すいません」
オレはいつの間にか彼女の前に立って、まっすぐ見据えて言う。
「コーヒー、もう一杯ください」
「はい、かしこまりました。あの、砂糖とコーヒーは…」
「いりません。ブラックで」
彼女の顔に、満開の笑顔が生まれた。
「はい!ありがとうございます!」
「お待たせいたしました」
目の前に、白くて細い指先に支えられた、あのコーヒーが置かれる。
芳醇な香りに、一気に気持ちがはなやいだ。
「ありがとうございます…あー、やっぱこの香り、オレ好きです」
「やっぱりそうなんですね。…いっつも、この席で飲んでいらっしゃるから、とても気に入っていただいているんだなーって」
そういって、彼女はにっこりと笑った。なにかが動き始めているのを感じた。
「前、少し座ってもいいですか?」
「え、全然いいですけど、仕事大丈夫なんですか?」
彼女は聞くなり嬉しそうに素早く椅子に腰を下ろし、「いいみたいですよ。さっきチーフに聞いたら、今日はお客さん少ないから、常連客と少し話すくらいならいいよーって」と言った。
今までカフェの店員さんでしかなかったその人が、今、はじめて僕と同じ大学生になって、僕の前に座っていた。
やっぱり、オレの顔はカフェのスタッフの間で覚えられていたらしい。
「いつもその席でブラックコーヒーを頼む男の子って、私だけじゃなくてチーフも先輩も覚えてたよー」
それを聞いて、オレはとたんに恥ずかしさがあふれてきた。…やっぱり、顔を覚えられてしまっていた。今までカフェで考えていたことをすべて見抜かれたような気分になって、穴があったら入りたくなる。
「でも私しばらくテスト期間だったから、あんまりバイト来てなかったんだよね。…でも、いつの間にかあのお客さんが来なくなったって、聞いていたから、私もちょっと心配してたの。知らない間にまずい対応してたんじゃないかとか、コーヒーがまずくなったのかとか…」
「まさか!ただ、お金が足りなくて、贅沢ができなくなっただけで」
「本当?それでやっと今日来てくれた―って思ったら、砂糖とミルクつけるって言うから、やっぱり私がコーヒー淹れるの下手になったのかな?って思ったよー」
そういうものなんだろうか。彼女いわく、このカフェは高級な豆を使っていることでコーヒー好きの間では知られていて、通はブラックで飲むのだという。
ふうん、とオレは流して、コーヒーを口につける。…冷たい風に、熱いコーヒーが身体にしみた。静かに、静かに、熱い香気が身体の奥へと落ちていく。
あー…やっぱりおいしい。
ふと、目の前に座った彼女の横から、野太い腕がにゅっと伸びてきたと思うと、彼女と同じエプロンをつけた男性スタッフが、彼女の前に湯気の立ち上るコーヒーを差し出していたのである。
「ユキちゃん、これ、チーフがまかないで飲んでいいよだって」
「えーっ、本当ですか?じゃあお言葉に甘えて」
「チーフもユキちゃんには感謝してるからねー。それにユキちゃんのお兄さんもこっちの大学院合格したんでしょ。みんなからの気持ちだよ」
そんなやりとりがあって、その男性スタッフは歩き去った。見ると、今日はカフェには、オレの他に客はいなかった。
「ふー、やっぱり寒い日にあったかいコーヒーっていいね。私もたまにはこうやってゆっくりコーヒー飲んでいたいな」
目を細めて、彼女はその小さい口先に褐色の液体の淵をそっとつける。
「うちのお店、このへんでは珍しくて、『クリスタルマウンテン』を扱ってるの」
「クリスタルマウンテン?」
「そういうブランドの名前。キューバ産なんだけど、苦さと酸っぱさのバランスが良くて、ちょっと甘くて。私も、いろんな品種を飲むけど、クリスタルマウンテンが一番好き。浅めにローストすると、苦味が強くなりすぎず、酸味も嫌味にならなくて、すっきりするの」
クリスタルマウンテン──水晶の山。氷のような塊が積み重なった、透明で、美しい風景をふと想像した。さっぱりとした酸味はくせがなく、本当に透き通った風味とでも形容できそうだ。
「私、将来は自分の喫茶店を開きたくて。今大学二年生なんだけど、バイトしながらコーヒーのことも、経営学とか簿記も勉強してる」
「コーヒー屋さんかぁ…じゃあ起業ってことじゃ?すごいなぁ」
彼女の話した彼女の夢がぱっと花開いた。今オレが飲んでいるこのコーヒーも彼女がいれたもので、その美しい夢の一端に他ならないのだ。
それからしばらく、コーヒーを二人で飲みながら、彼女と話をした。コーヒーの話をしたが、彼女は驚くほどコーヒーに詳しかった。それから、お気に入りのカフェの話や、最近東京の大学院に合格したお兄さんの話、故郷(彼女は静岡出身らしい)の話、一人暮らしのこまごまとした経験談、大学の話、将来の話、いろんな話…。
オレは時間を忘れておしゃべりにふけった。このとき、コーヒーは確かにある種の作用を示したのである。だるくて動きたくなくて、言葉にするのが野暮なほどもやもやとした感情を、その奥行きのある苦みとして享受させてくれた。
彼女と話しながら、口の中でクリスタルマウンテンをころがす。透き通った苦みと酸味の奥に、ほのかなキャラメルの甘みを舌先で判じ当てたとき、感覚がやわらかい麻痺へと沈んでいくこの味の中で、オレはずっと怠けていたくなった。
「あ、もうこんな時間!私そろそろバイト上がらないと」
彼女が腕時計を見てせわしげに言った。もう夕方で、周りは夕闇、チョコレート色のグラデーションの中で薄明かりがぽつぽつと浮かび始めていた。
「かなり時間が経ちましたね。僕もそろそろ帰ります」
「うん。今日はありがとう。また一緒にカフェ行こうね」
彼女は立ち上がってレジの方へと駆けて行った。彼女とは連絡先を交換して、今度お気に入りのカフェに一緒に行こう、と話をしていたから、楽しみだ。
俺も荷物をまとめてレジで会計を済ませた。
コーヒー二杯分の税込み金額をすべて小銭で払い、レジを離れようとしたとき、彼女がオレを呼び止めた。そして、ゆっくりと言った。
「ねえ、金額間違えてるよ?10円足りない」
「まじですか。すいません」
オレはもう一度数えなおすこともせずに、謝って、すぐに払いなおした。彼女は、怒るさまを見せず、「ありがとう」とお金を受け取ったあと、
「だますつもりがなかったのは分かるけど、何だかだまされた気分だよー」
と、いたずらっぽく笑って言った。