大災害 僕が生きると誓った日
BBS外伝 エピソード ヘンラー・リーブス『I never die.』
本編第一章から約十五年前。
アドラスシアを大災害が襲った。その地域の全ての生命は消滅した。
しかし、唯一の生存者とされる少女がいた。彼女の名前はユユ・シルフウィード。
何故彼女は生き残ったのか、何故大災害が起きたのか。
そして、彼女を影で支えた。
一人の青年の物語。
*
紫で透明で巨大な魔晶石に鎖で縛り付けられている裸の女性。彼女達は魔導兵器の原動力として、生きたまま戦争の道具にされている。
捨駒のように切り捨てられる兵士。彼等の尊厳などまるで無いかのように味方が死体を蹴り、踏みつけながら進行する。
穏やかな生活がある一方で、こんな世界が延々と国の間で繰り返されている。
この世は糞だ。
下らない言い伝えに盲目的に従い、迫害する人間も糞だ。だから僕はこんな世界にはいたくない。
「僕なんてあの時死ねばよかったんだ……」
そう言った時に見せた彼女の切なげな表情と、ビンタの痛みと、頬に添えられた手の柔らかさと、重ねた唇の甘さを今も忘れない……これは、僕の懺悔の物語だ。
*
僕の鼻腔を煮出した野菜の匂いがムズ痒く撫でる。肉を切りながら、甘みが出るまでじっくりと待っている。沸騰しているお湯の中で野菜が踊り、味の角が取れマイルドになっていく。それを待っている間は滑らかに波打つような、僕の髪のような時の流れだ。
結局僕は生きている。生きて、ここに居る。くたびれた木造の一軒家に腰を据えて数日。閑寂な農村の一人の農民として、僕は新しい生活を始めていた。
アドラスシア王国軍の一兵卒だった頃、死に場所をずっと探して各地を放った矢のように飛び回っていのだが、ある人物を捜索し、城へ連れていく任務で失敗し、瀕死の重症を負ってしまい気付けばこの村に保護されていた。
目覚めた時に一番に感じた事といえば、トタトタうるさい足音だな。という事だ。軽く小刻みに走るその音が耳障りなようで、耳馴染みよく染み込んだ。そうだ、今ここの小屋に向かっているこの音だ。
音の主は元気よく扉を開けて「へんあーただいまぁっ!」と言った。今年五歳になる女の子だ。
「おかえり――」僕は声の主を見た。青い清流のような髪の毛に、木の実のような大きな同じく青い瞳。走って桃色に上気したゴム毬のような頬。屈託のない笑顔を僕に向けてきた。そして、何よりも特徴的で抜群のチャームポイントである所の猫耳が、小刻みに向きを変えている。
他人の、しかも人に興味がない僕ですら可愛らしいと素直に思う。名前を「――ユユちゃん」という。
ユユは大きく頷いて、泥だらけの服を脱ぎ捨てながら家の奥へ行く。
「もう、ユユったら」と言って僕の後ろに座っていた女性が、泥だらけの服を拾いながらユユを追いかけていく。夕映えに靡く稲穂のように豊かな金髪で、ユユと同じく濃い青色の瞳をした女性だ。猫耳は無く、普通の耳をしているが白くつるりとした形の良い耳であった。
「ヘンラー様。娘に水浴びをさせてきますので、お料理お願いいたします」そうなだらかで優しい声を僕の耳に届けた。
「ララさん。分かりました、ごゆっくりどうぞ」
ララと言う、一児の母とは思えぬ若くて美しい女性であった。そして、僕達が探していたある人物。その人である。
僕は台所の窓越しに反射したララを目で追っていた。まるでこの家を飛び出していくように見えたから、思わず手を差し出した。しかしそれは気のせいで、ただ部屋の奥に行っただけにすぎない。それを一通り目で追いかけて消えたあとには、取り残されたように僕の顔だけが映っていた。眼帯と、まゆの上から顎まで伸びた一本の切り傷で壊滅的な左顔面に反して、反吐が出るくらいに女顔な右側があった。
家の奥で水の弾ける音と楽しそうに騒ぐユユの嬌声が聞こえる。
僕はその声を聞きながら、料理の味付けを開始した。ここからが重要だ。そう。ここからが――
*
ユユも、村も眠りについた深夜。僕は布団を抜け出して家を出た。少し肌寒くなってきた季節で、僕は冷たくなった手に息を吐きかけて温めようとする。それでも、わかると思うがほぼ意味の無い行動であり、微かに蒸れた手に風が当たり余計冷たさを助長させる。
畑が広がり、整備されていない晒し土の道。頼りない柵に等間隔に埋め込まれた魔除けの魔晶石が月明かりに頼りなく輝く。
ここには何も無かった。卑しいゴロツキも、溺れるような大量の視線も、僕の過去も、醜い右側の顔の事をたずねる不躾な娼婦もなにもいない。何もなくて、それこそ僕が探していた何かであるような気がした。
僕は酒の瓶を片手に適当な場所に腰掛けて夜空を眺めた。溢れるような星屑に冷たく澄んだ空気。遠くで聞こえる虫と鳥と獣の声だけが、今ここにある全てだ。
「ヘンラー様」と、僕の背後から声をかける者がいた。いや、声で分かる。ララだ。
僕は酒を一口含んで勢いよく飲み込んだ。熱い息が零れる。振り向いて彼女を視界に捉えた。
薄い寝巻きに、もこもことした上着を羽織り、夜風になびく髪を耳にかけて横に腰掛けた。
「ララさん。ユユちゃんは?」
「すやすや寝てます」
「そうですか……」
彼女の声を聞き、彼女の体温を感じれる距離にいると、僕は普段から無口な性格に拍車がかかって無口になってしまう。それも昔から発言をあまりしないという性格に起因している事もあるが、やはりあの時唇を重ねた事も要因の一つなんだろう。ララは気に留めていない様子だが、僕からしたらいきなり女性からの口付けなど、人生初で、そう何度起こらないような大事件なものだから、思わず頭をよぎり萎縮してしまう。
泥酔した軍の同僚達になら何度か奪われはしたが……あまり思い出したくはない。
ララの声を笑顔を息遣いを感じる度に胸は高鳴り、頭の中で考えていた台詞は、全てが熱に焼け落ちる藁半紙のように崩れ落ちてしまう。
いつも、会話をする時は彼女主導で行う。
「たまに夜外出されているので、何やっているのかなぁーって」
時たま気が抜けた時に語尾が伸びる癖がある。それが彼女の印象をおおらかなものにしている。
「ああ、ゆったりとした時間を楽しんでみたいなと。なんと言いますか軍務に携わっていた時は、このように緩やかな時間を味わう事が無かったので」
「軍のお仕事は激務だと聞きます。ヘンラー様もいずれはお戻りになられるのですか?」
言葉が詰まる。毒のように広がる胸の痛みに息が止まってしまう。僕は若干の恥ずかしさを出来るだけ悟られないように言葉を吐いた。
「いえ。これだけの期間、探索も無いので恐らく死んだと思われているのかと……まあ、あまり活躍のない下っ端の兵隊でしたので」
「下っ端だなんてそんな、軍務に就かれる方々はそれだけで素晴らしい方と思います」
「まさか、軍にいる人間なんて殆どの奴がゴロツキあがりみたいな者ですよ。粗暴だし乱暴だし、性欲だけが人一倍優れているって感じで、言葉遣いも荒いし馬鹿だし、酒と光合成だけで生きるようなよく動く植物系の魔物となんら変わらないですって」
そう言って僕は再び酒を口に含んだ。熱い塊が胃に流れ込む。
「じゃあヘンラー様も栄養補給をなさっているのですか?」
ララがそう言ったので、僕は瓶を持ち上げて見つめた。半分ほど中身を残した瓶は微かな重みを感じさせた。僕にとっての酒は、なんだろう。成人していない、それこそ文字通り毛も生えない小さな頃から飲むのが普通であったし、親に窘められようとも決して止めなかった。反感、反発、反抗、そんな陳腐な理由ではなかった。酔いを楽しむと言うよりもっと脅迫めいた、そう一種の。
「儀式……みたいなものです。僕は酒によって身を清める事で、いつでも死ねる準備を整えていたんです」
「儀式?」
ララが不思議そうに首を傾げる。その小鳥のような愛らしい動きが言葉の続きを促すものだから、僕はほんの少し瞑目して言葉の続きを探した。閉じたまぶたの裏には様々な模様が浮かんでは消えていた。
「僕は生まれつき左目が真紅で、それを理由に様々な人から、蔑まれて生きてきました。積み重なる汚泥のような罵倒と暴力を受け続けて、いつしか僕は周りではなく僕を憎むようになりました」
一口酒を飲み込み、熱い息を吐き捨てた。
「分かっているんです。これくらいの境遇なんて跳ね除けないと。それでも、積み重なった汚物に侵食された僕の肥溜めのような心は、もう取り返しのつかないくらいぐずぐずに腐り落ちてしまってたんです――」
ララとの間に沈黙が落ちてきた。僕は頭を抱えながら酒気を帯びた息と共に言葉を吐き捨てる。その一言一言がなんだか僕をとても弱くしていくが、それでも一度剥がれ落ちた言葉たちは、とめどなく流れ続けていった。言った。
「――幼少期のトラウマのようなものです。頭で理解していても、心が理解しない。毎日が引きちぎられるような痛みとの戦いでした。理と知のベクトルが真逆を向いていると、お互いが引っ張り合うんです。引っ張り合い限界にまで達した精神はどうなるか分かりますか? 伸びきったままなんです。決して千切れない。僕は僕と理性を保つたまま、自分が何をしているのかも俯瞰したまま、狂ったフリをするんで――」
ララが僕の顔に手を添えて、彼女と正面に向き合う位置へ動かした。その上目がちな瞳に吸い込まれるように、僕は息を呑んだ。
頬に鋭い痛みが走った。視界が一瞬白んで元に戻った。ララが優しい表情を怒りに変え、眉を釣り上げて僕を睨んでいた。その目には涙。興奮し、肩で息をしている。
冷たい風に当てられて僕の頬に熱が灯った。
「な、何を……!?」
「……謝りません。私凄く頭にきました」ララがそう言って、叩いた手のひらをさすっていた。
今、彼女も僕と同じ痛みを味わっているのだろう。いや、もしかすると今だけでなく、今までも彼女は似たような境遇を生きていたのではないか。そう頭をよぎった。王国がわざわざ探して連れて帰ろうとするある人なのだから。
ただ、僕は……
ララは大きく息をしながら、続いて喋り出す。強く吐き捨てるような口調だった。
「ヘンラー様はお弱いです。雑魚です。悲劇ぶりたいのならどうぞ、心の中だけで行ってください! そんな分からない持論をだらだらと並べられても、私は共感いたしませんし、寒いし気持ち悪いだけです! 死ぬために体を清めている? そんなの嘘に決まってます」
「嘘なわけ」
「嘘です! じゃあなぜ死なないのですか!? ヘンラー様が村に運ばれた時、剣をお持ちでした。その剣で喉でも心臓でも眉間でも頭でも腸でもどこでも突き刺して抉り出せばいいじゃないですか! なぜそうしなかったのです!?」
「それは、僕に勇気が無いから……」
「勇気の有無で何とか出来るようなものならば、それこそ本当に大したこと無いです! 結局、死にたい死にたい言ってるわりに貴方の心持ち一つじゃないですか。ヘンラー様は本当は、心のどこかで安住の地を探していたんじゃないですか? ヘンラー様のご覧になった世界というのは、自分の周りの事だけではないのですか? そんな小さな世界で全てを見知ったような言葉で、顔で、態度で諦めてしまわないで下さい。まだ、世界には見たこともない美しいものや、生きる意味を見つける事が出来るかもしれません。気取ってもうどうしようもないだなんて、本当に馬鹿なんじゃないですか……」
涙ぐみながら投げつけられたララの言葉に、何も返せなかったのは、先ほどのビンタで口の中を切ったからだ。口元から血を流すほど僕は傷口を噛んだ。痛みがこの無力感を忘れさせてはくれないかと、微かな期待を込めて。
しかし、血では無力感は流れやしない。ただ痛いだけであった。
ララが僕の血に気付き、息を呑む。おずおずと手を差し伸べながら「ヘンラー様……すみません」と言ったが、僕は反射的にその手を払い除けた。
その時の彼女の表情を見ることは無かったが、切なげな吐息だけが零れた。
「……アドラスシア王都へ帰ります。数日間ありがとうございました」
そう言って僕は家に帰らず、逃げるように立ち去った。去り際ララの泣き声が聞こえて、それは静かな村のどこにいても聞こえていた。
*
雲一つない抜け殻のような空が広がっていた。ユユは心配していないだろうか。ララは……いや、詮無きことを考えても仕方がない。あの農村から一番近いアドラスシア・ネセシウムと言う小さな町に戻ってきていた。それは、先の任務で僕達の派遣隊が拠点としていた町である。
探索部隊が全く来ないと思っていたのだが、どうやら本隊が到着しているようで、それはつまり、僕は本当の意味で捨駒として切り捨てられていたという事だった。
僕は拠点としている外れの一軒家に足を運んだ。石造りの薄汚くいつでも放棄できるような物件であった。顔見知りの守衛に挨拶をすると、大した感慨もなさそうに室内にいる指揮官へと通してもらった。
室内には大きなテーブルと椅子が数個。奥に一人の男が座っているだけであった。男は鋭く釣り上がった目をしており、赤銅色の髪を短く刈り上げている。影を落とした顔にモノクルがやけに反射し、それが突っかかりのない異様な気難しさを醸し出していた。
黒い軍服に大量の勲章を下げて、つまらなさそうに頬杖を付いていた。
「ああヘンラーか、とても心配したよ」
声と態度がここまでチグハグな男に僕は昔から底知れぬ冷たさを感じていた。背中に冷たい汗が一粒流れた。
僕は背筋を不自然なほど伸ばし、努めて声を張り上げながら言った。
「はっ! ジキル・カーマン将軍におきましてはご機嫌麗しく存じます。遅ればせながら不肖ヘンラー・リーブスただ今帰還いたしました!」
「何かめぼしい情報は得られたか?」
ジキルの全てを見下すような視線が突き刺さる。彼はつまらなさそうに指でテーブルを叩いた。
とん、とん、とん、と。それは牢獄に鳴る看守の足音のように鮮明にこの部屋に響いた。
「いえ、申し訳ございません……将軍閣下」僕は嘘をついた。
ジキルはゆっくりと立ち上がりこちらへ歩み寄ってくる。
「まあいい。それに関しては代替の人間が見つかった。しかし、私の軍で功績を挙げられなかったのは悲しいな。またあの魔人に出し抜かれたよ」
「この身の不出来をどうかお許しください」
「ところでヘンラー――」ジキルが僕の肩に手を置いた。見た目からは想像出来ないほどに大きく重たい岩のような感触が僕を叩いた。
彼がゆっくりとこちらを見たのが息遣いで分かる。心臓を捕まれ、喉の奥に冷たい風が侵入した。額はにはじわりと脂汗が滲み、左頬の傷がじくじくと痛みと痒みを訴える。
「――あのララと言う女。アレを連れて帰って来なかったのは何故だ?」
ああ、僕は多分間違った選択をしてしまったのだろう。そう気付いた。正直に打ち明けて彼女を差し出すべきだったか。それとも、彼女に打ち明けて逃がすべきだったか。
対極する二者択一で僕が選んだ答えは。
「何のことでしょうか……?」どちらでもない。一番の愚策であった。
なるほど、自分でも言っていたが、改めて知と理が別次元のものであると気づく。
吹き出した一粒の汗が頬を撫でる。そうあと一粒。たった一粒でいい。あとたった一粒の――
「あのララと言う女に強力な魔力を感じたのだが、はて、あれは我々の探し物――魔導兵器の原動力――とは違ったのかな? 君は人の内包している魔力が見えるのだろう? だからこそ派遣部隊に選抜した。なんだ、安い演技をして信頼させて穏便に回収するつもりだったのだろうと思っていたのだが」
――勇気が僕にあれば……何かが変わったのだろうか。
*
あの時。私にあの御方を包み込む優しさがあれば、今も彼はどこか他人行儀な笑顔でこの家にいたのだろうか? 分からない。けど、あの御方を見ていると昔の私を思い出す。
真紅の左目をしていると言った。左目が潰れた時はどう思ったのだろうか。いや、もしかしたら潰したのかもしれない。忌まわれ、避けられ、消えたくなり、でも彼は……そう、ある意味では立ち向かおうとしていたのかもしれない。
私は逃げた。体内を巡る大きな魔力に恐れられ、避けられ、私が牙を剥かぬうちに牙を折られた。なぜ、神は全てを平等にして下さらなかったのか。全てが真っ平であれば一人一人が他者を恐れるような世界にはならなかったのに。
「ままー?」
「なーにー?」
いや、全てが真っ平ならばこんな可愛らしい子が私から産まれてこなかっただろう。
ふかふかの耳、暖かく柔らかい肌、無垢な瞳。私は娘のユユを抱き上げて頬ずりした。吸い付くようなもち肌と甘ったるい吐息が私に触れる。
平等じゃなくていいんだ。不平等である事に感謝しなければならない。だってそうでしょ。私が逃げ、行き着いた先にこの娘がこうして生きている。
「きょうは、へんあーごはんつくらないの?」
そうだ。今日は私が――今日から――ご飯を作らないといけないんだった。数日、彼に任せてしまっていたからすっかり忘れていた。
お腹空いたな。空腹時って胸の真ん中も痛くなるものだったかな。まるで細い針を真っ直ぐ突き刺したような痛みだった。
「ヘンラー様は、ちょっと……お出かけなさっているから、今日は私が作るわねー」
「えー、へんあーのごはん、ままよりおいしいからへんあーがいいー」
あれ、お腹空きすぎると。鼻の奥も痛くなったっけ。私はユユを下ろして、台所へと向かっていった。台所の窓越しにずっと見ていたヘンラーの料理している時の顔が、何かに熱中する少年のようなあどけない顔が、幻覚として私の前に現れた。
時折感じられた彼の視線。窓を通して繋がっていたのかもしれない。
あ――と、思わず声にならない声で呼びかけたら、その幻影は風に溶けていくように消えていった。
窓の中に映るのは、少しまぶたの腫れた私と、奥で服を着替える可愛らしいユユだけ。
前に戻っただけだ。そう。彼が重傷を負ってこの村に運ばれてきて、ユユが心配そうにするものだから、思わず私の家で面倒を見ると村長に頼んだあの日の前に。
野菜を切って煮込む。本当なら前日から準備した方が野菜の甘みが出ておいしいスープになるらしい。そう彼が言っていた。
「痛っ!」指を切った。
「まま! だいじょーぶ?」
ユユが慌てて駆け寄ってくる。私は怪我のない方の手で娘の頭を撫でた。
「大丈夫。大丈夫よ――」涙が零れたのは指を切ったから「――ちょっと痛いけどね……」
暖かく小さな手が頭に乗った。
「まま、いーこいーこね」
私はその小さな手を握りしめて胸に抱いた。多分この娘も。もしかしたら耳で辛い思いをするのかもしれない。私達は三人とも似ていた。どこかが他の人とは決定的に違う。欠落を持って産まれてきたのだ。
突如、ドアを叩く音が聞こえた。
「ララさんか」村長であった。
村長は酷く痛ましい声で、申し訳なさそうな声色で、でも確実に怒りを孕んだ声で言った。
「アドラスシア王国軍のジキル・カーマイン閣下がお越しになられている。ララさん、あんたを迎えに来たのだそうだ。差し出さなければ村をひっくり返してでも探すとの事なんだが……ララさん。あんた何者なんだい?」
分からなかった。いや、分かっていた。軍が私を連れていく理由なんて一つしかない。ただ、なぜ今になって。
村長が一歩ずつ近付いてくる。
ヘンラーがある人を探していると言った。それは私の事だったのか。では、付け入ったのは、私を油断させるため? 探るため? 今までのは全て演技だったということなのか。この数日間は全てウソだったというのか。あの他人行儀な笑顔も、やたらと初々しい表情も、昨日の言い合いも。あの眼帯の奥にケダモノの顔を隠していたという事だったの?
「いや……いや!」
「まま?」
理と知は必ずしも同じ方向へと進まない。
頭では分かっていた。私が大人しく身柄を差し出せばこの村に危害は及ばない。娘ももしかしたら私の身柄一つで、保護されて綺麗な施設へ預けられて立派な教育を受けることが出来るかもしれない。
私の魔力をどう使うのかは分からないが、もしかしたら私も賓客として迎え入れられるのかもしれない。
でも、私は既に村長を押し倒し、ユユを抱き上げて駆け出していた。
私はまた逃げる。
「待て!」村長が起き上がり追いかけてくる。
しかし所詮子供をだき抱えたままの女の脚。男の脚力に叶うはずもなく、差はみるみる縮まっていく。
こんな事ならば独学でも魔法の勉強をしていればよかった。浅はかで愚かな後悔を噛み締めながら、羽交い締めにされようとしていた。
その時。
「ララさん!」
そう言って一人の男性がユユを代わりに抱き、私の手を取り走った。
麻布にすっぽりと覆われて顔は見えないが、誰かはすぐに分かった。ウソじゃなかった。彼と過ごした日々は、私の中で本当の出来事だったのだ。
「ヘンラー様!」私は、一児の母である私は、その瞬間だけ全てを投げ捨て、ただ乙女のように彼の名前を呼んだ。
*
僕は、自分の心に嘘を付いていた。その点は認めようと思う。僕は、死にたいわけじゃなかった。彼女の言う通りだったと思う。
多分、居場所を探していた。
「ヘンラー様!」ララが僕の名を呼んだ。
「話は後にしましょう!」嘘だ。本当は今にでも話したかった。
でも、僕は今の衝動より、その先の未来に進みたい。
幸い後方を森で囲まれた村なので、そちらに逃げてしまえば捜査も難航するだろう。希望的観測でしかないが無策よりはまだマシだ。
「森をとりあえず抜けてしまいましょう。その先は帝国領です。軍の情報と引き換えに身柄を保護してもらえれば、安全は保証してくれると思います」
「ですが、森は……」
「ええ、ここからだとかなり長い道のりになりますね! ですが、今までの事に比べると何ていうか屁でもない気がします」
「ヘンラー様……」
「奥に入ってしまえば、ジキル・カーマインといえどそう手出しは出来ないでしょう。それに、今回の探し物は別のところで見つける事が出来たようです」
そう。だから、もうジキルには大軍を成して捜索する大義名分は無いのだ。これはあくまで彼の権限下でのみ許される程度に留まっているはずだ。いくらクーデター後、新王制となってしまったアドラスシアといえどそうそう勝手に軍を動かして村を襲うなんて出来ない。
そもそも、前王の頃ならばこのような事にはならなかったのだが……
どれほど走ったのだろうか。
ユユが痛いほどにしがみついている。
ララの体力も限界に近い。
僕は一旦立ち止まった。
「とりあえず、少し休憩しましょう」
ララは膝を付いて、大きく肩で息をしていた。
「は……い」
携帯食料を持参してきて良かった。どうやらララ達はまだ食事前だったようだ。僕は鞄から取り出した干し肉を二人に渡した。
食事を取り少し落ち着いたようで、ユユが眠気を訴えてきた。
「まま、すこしねむー」
そう言って目を擦りながらユユはララの膝を枕にして寝転がった。
ララが困った表情でこちらを見たので、僕は一度だけ頷いた。すると彼女は、柔らかい笑顔でユユの頭を優しく撫でた。
「夜までにもう少し奥へ行って野宿しましょう。それまでに食べられそうな物を拾いながら、少しずつ進んで行ければ多分大丈夫かと思います。幸いジキルは大軍を連れてこなかったようですし」
そうですね。と、それだけ呟いて無言になった。森のざわめきと、遠くから聞こえる人の声。近付いていると思ったので、僕はユユを背負い立ち上がった。
「ヘンラー様……その、大丈夫なのでしょうか?」
「ええ、こちらにはまだそこまで人を回す余裕がないと思います」
僕は言外に、残酷な事実を突きつけた。ララが逃げた事により、村は粛清にあっているかもしれない。野畑は焼かれ、男や子供は労働力として都に連れていかれる。女は――いや、流石に自国でそんなインモラルな事はしないだろう。ただ一つ言えるのがあるとすれば、僕達はあの村を裏切った事になるのだろう。一生恨まれ続ける。多分ユユも。この子にそんな宿命を背負わせるなんて酷だがそれでも僕は――
「それでは、私が身を差し出せば……」
「――僕は、まだこの世界が、それに享受して生きる人が嫌いです。多分まだ好きになれそうにはありません。ですが、こんなやり方間違っていると言うのも理解できます。しかし、僕の手はご覧の通り二本しかないんです。この二本の手で掴めるのは二つしかありませんし、隻眼で見つめる事が出来るのは一つしかありません。僕は僕のワガママに従って貴方を連れ去りました。上官に反した大罪人です。貴方は戻って、僕に拉致されたとでも言えば多分大丈夫だと思います」
「ヘンラー様……」少し後ろを歩くララが「あの時の口付けの事ですが……」と、少し切り出しにくそうに言った。
僕は黙って続きを促した。
「あの時。ああでもしないとヘンラー様が本当に死んでしまいそうな顔をしていましたから。その……衝動的に……です。いきなり、それも子持ちの女からなんて正直どうかなって思ったんですけど、気付いたら体が動いてました。ほら、ヘンラー様も言ってたじゃないですか。人って倫理観や理性ではどうしようもなくて、考えるより先に動いちゃう時があるって。あんな感じです……すみません、こんな時にする話じゃ無かったですね」
言い訳っぽく長々と繕う彼女の言葉の意味を理解し、正しく昇華させる事が出来ない僕は、つまりまだ子供なのだろう。
ただ、下心はなく純粋な意味で包み込むような口付けだったのは覚えている。背中越しに彼女が気まずそうにしているのが伝わってきた。だから――
「へー。つまり、僕が死にそうな顔をしていたから、貴方は慰めるつもりでキスをしたと?」
少しわざとらしく、おどけながら言って見せた。
ララが今度は焦っている。背中越しでも人の雰囲気というのは感じる事が出来るのだなと思った。
「け、決してそれだけで行ったわけじゃありませんから! 私も見境なしにそんな事はしないですし、なんと言いますか、貴方に惹かれるものがあったからであって……その……」
そのたじろぐ声がやけに幼く聞こえたので僕は思わず吹き出した。
「すみません。少し意地悪でしたね。はい、ララさんが誰とでも行うような人ならばこの数日間で何かあったはずでしょうし、そんな不埒な事はしないと僕は理解していますから大丈夫ですよ」
「もう、お戯れが過ぎます」
これで少しは、逃げた事への罪悪感は薄れただろうか?
燃え上がった火を絶やさないよう、言葉という薪をくべていった。それは些細な事でも、共通の話題では無くても、出会ってほんの数日しか経っていない僕とララは今まで他人であった二十数年の空白を埋めるように、お互いを理解し合おうとしていた。
些細な事でも、僕は共感し驚き、そしてまた切なさを感じた。僕は全身全霊をもって彼女を感じ取ろうとしていた。欠けた左の瞼にララの過去の情景が浮かぶ。浮かぶというよりは積もっていくの方が正しいのかもしれない。僕の空白は彼女で埋め尽くされていった。
夜になりユユも目覚め、三人で食事をした。眠気まなこを擦りながらもかじり付き、ほんの少しの会話をした。
焚き火はしなかった。煙で相手に気取られてはまずい。生で食べられる果物や携帯食料。道中にあった川から汲んだ水でこの日は凌いだ。
丸まって眠るユユが風邪をひかないよう布を被せて、僕とララは隣合って木に背中を預けた。
木々がざわめき、どこかで獣が鳴く。それだけだ。恐らく捜索の手も止まっている事だろう。
澄んだ空気が土のつんとした匂いを巻き上げている。
「ヘンラー様。空見てください」
そう言われて僕は上を見上げた。僕の口からは思わず間抜けな、締りのない声が零れた。
限りなく青に近い黒だった。ぽっかりと開いた森の天窓からは幾万、幾億にも及ぶ星の輝きがあった。その光が僕らの元に降り注いでいる。それは子供の頃に感じていた普通の生活への嫉妬や羨望。迫害する者達に植え付けられた憎悪や恐怖。脆弱な己への憤りや諦め。全てを洗い流すような白銀の洗礼だった。
神などと言うものが本当に存在するのなら、なんと無能な事なのだろう。日陰で暮らす弱者には見向きもせず、陽の当たる者の大半は冒涜的ではないか。正しく無いものが笑い、正しいものが泣きを見る。ここだってそうだ。誰もが少なからずそう感じているのではないか。
そんな節穴なものに祈る思いなど持ち合わせてはいない。それは、今も昔も、そしてこれからもきっと変わりはしないだろう。
だけど。
「ああ……」
それでも。この星空へ祈るのならば悪くない。そう思いながら、顔を両手で覆い隠し、涙と嗚咽が零れないようにした。
僕が今震えているのは、夜風が寒いからだ。森の水気を帯びた風はやはりどこでも冷たい。
彼女が肩に寄りかかるのを感じた。身体の温もりが染み込む。ララの匂いが鼻をくすぐる。甘く蠱惑的なそんな香りだ。
もう一度空を見上げる。白い星がこぼれ落ちてきた。いや雪だ。星のように白く輝く雪が降っていた。
僕はララの小さな肩を抱き寄せた。彼女がほんの少し固まった。顔を見られないように僕は空をずっと見上げていた。この騒がしい鼓動が彼女に聞こえなければいいのだが。
「ヘンラー様……」
僕の頬にひやりとした彼女の手の感覚が伝わった。彼女の指はそのまま力強く、僕の顔の向きを変えた。
ララの美しい顔はすぐ目の前にあった。寒さで赤くなった頬が鼻先が、熱く潤んだ瞳が。少し半開きになった口元を閉じて気取られないよう、唇を舐めるその仕草が、困ったような切ない表情が、全てが僕の視線を掴んで離さなかった。
ああ、このまま消えてしまうのではないか。
そんな一抹の不安が胸をちくりと刺す。話したい、これからも。離したくないこれからも。
「まず、帝国に行ったらまず市民権を獲得して仮宿を探しましょう。それからしばらくは、僕が冒険者としてまとまったお金を稼いで、その間にララさんには魔法を覚えてもらいます。やはり自衛が出来るのと出来ないのでは身の安全がかなり違ってきますので」
「はい」
「ララさんも自覚しているように、貴方の身体には強力な魔力が眠っています。ユユちゃんも今はまだ分からないですが、貴方の子なんですから相当な才能があると思います。落ち着いたらユユちゃんにはしっかりとした教育を受けてもらいましょう。そうですね、アドラスシア魔法学園なら神王陛下の目がありますので国の政権が及びません。安心して預けられます」
「はい」
「僕は何とかして定職に就きます。帝都を離れて田舎の村で暮らすのも悪くないですね」
「ヘンラー様」
「多分、豊かな生活は出来ないと思いますが、それでも――」「――もう、いいですか?」
しっとりとした唇が触れ合った。そして、彼女の舌に舐め取られるように僕の台詞は全て奪われた。
百の飾り立てた言葉を並べてみても、たった一つの真っ直ぐな口付けには敵わないのだということを僕は初めて知った。
震えるような指使いで腰を撫でられ、甘い吐息が頬をくすぐる。その度に僕の聴覚はより敏感になり微かな喘ぎ声すら聞き逃すまいとしていた。
その時であった。遠くの方で何かが近付いているのに気付いたのは……
それは間違いなく複数の人間による足音だ。静かに誰かに気取られらないようにゆっくりと地を踏みしめる音だ。枝を誰かが割った。小指の骨を力任せに折ったような音が聞こえた。
僕は思わず飛び上がり、あたりを見回した。夜がひっそりと身を潜めて。葉っぱの間の空間には墨を流し込んだような暗黒が広がっていた。
ララが不安気な表情でこちらを見上げている。先ほどのしっとりとした心音は、緊張により乾いたものへと変わっていた。
彼女が僕の名を呼ぶ。僕はユユを抱き上げて、ララの手を握った。
ユユが目を擦りながら、どうしたのかと訊ねてきた。僕は努めて優しい声で何でもないと答える。しかし、緩い中にどこか聡いこの子はそんな演技に何かを感じ取ったようだった。彼女は口を結び直して僕にしがみついた。
闇がこちらを見ている気がした。冷や汗が背中を伝う。
「こっちへ」そう言ってララの手を引いて走り出した。どこへ行けばいい。どうしたらいい。僕はこの時混乱していた。まだ見ぬ未来への希望と今の不安がごちゃ混ぜになって頭の中で螺旋を描いていた。
どこに行っても何かがいるような気がする。
この枝葉をかき分けた瞬間に、僕の同僚が僕を捉えるために剣を持って襲い来る。そんな幻想さえ見えた。ダメだ。どの道、不可能だったのではないか。僕がララに唱えた未来予想図は、所詮勢いに任せた若造の、穴だらけで無茶な計画だったのか。
「ヘンラー様」
どうすれば、安全に逃げられる。どうすれば、全てが上手くいくのか。葉音が聞こえる。どこにいる。どこまで迫ってきている。
「ヘンラー様!」
このままでは、彼女が、この子が、僕が。せめて僕だけでも。そう、僕だけが犠牲になれば全てが丸く収まる。僕が囮になり、ララ達を逃せば。
そうして、少し開けた場所にたどり着いた時。何度目かになる僕を呼ぶ声で、ふと我に返った。ララが息を切らして。僕の腕にしがみついた。
「……誰も。誰も追いかけてきていませんよ」
「え?」
「ヘンラー様、怖がらないで。そんなに震えないで。大丈夫、大丈夫なんですから」
そうして気付いた。小枝の音も、羽音も、全て僕が立てたものだ。感じた誰かの視線は、臆病風に吹かれたがために感じたものだった。
「へんあー、だいじょぶよー」
乾いた笑いと共に、全身の力が抜けた。
ユユとララが僕を抱きしめた。未熟で愚かだった。
「ねえ、ヘンラー様」
「……はい」
ララはまるで泣きじゃくる子供をなだめるように、回した手でゆっくりと僕の肩を叩きながら言った。
「私、不器用ですし、調整が出来ないんですが魔力を解放するくらいは出来ます。何かあったらそれで二人を護ることだって出来ます。料理は下手くそですがそれ以外の家事は人並みに出来ます。だから独りで全てを抱え込まないでください。独りで苦しまないでください。だって私達はこれから……三人で暮らしていくのでしょう? アナタ」
その言葉で、固まっていた氷のようなものが砕けた気がした。砕けて二人の温もりによって溶けだし、それは僕の瞳から、鼻からみっともなく流れ出した。
「へんあー、ぱぱになるの? じゃあけっこんしきしよー」
ユユの無邪気な声が、ララの優しい声が、二人の温もりが、全てが僕を丸く包んでいく。この思いを僕はキザったらしく表現する術を知らない。ただ単純に幸せだった。この時、臆病風に吹かれなければ聞けなかった言葉だったのかもしれない。あるいは吹かれなければ、このまま安穏と終われたのかもしれない……
その時、その場に別の人がいると気付いたのは、後ろのララを抱きしめた僕でもなく、二人の間に挟まれたユユでもなく、唯一前を見ていたララであった。
ララは、僕の腕をすり抜けて前に走った。
突如背中に吹いた不穏な生ぬるい突風。何事かと振り返った時、すでにララは一人の子供に胸を貫かれていた。子供は黒いコートの大人に挟まれて子供もフードを目深に被っており、顔は見えなかった。ただ濁った油のように虚ろに、夜光を反射する真紅の両目だけか見えていた。
|何をしたかったのだろう(・・・・・・・・・・・)。どこで間違ったのだろう。僕は決定的な一つの選択肢を誤ってしまった。
「ララ……?」
腹部を貫かれた彼女の腰から、小さな手が生えているように見えた。子供がその手を引き抜くと同時に、ララは膝から崩れ落ちた。僕はユユを抱きしめたまま、この光景を見せないようにする事で精一杯だった。
横に立つ二人の大人が、子供に何か語りかけていた。子供はゆっくりと、まるであの子だけが違う時の中に生きているのかのようにゆっくりとうなずいた。
大気が森が空が大地が、全てが子供に恐怖するように震えた。自我の無い人形のようにカクカクとした動きで両手をこちらにかざした。それは悪意を持った為政者よりも、獲物を携えた剣闘士よりも、本能のままに牙を向く魔獣よりも恐ろしいものに思えた。
何せその子供からは何も感じられ無かったからである。何も無い、何も無いからこそ躊躇わない。これならば悪事を楽しむ悪魔の方がまだいくらか可愛らしいもののように思えてしまう。
全身から力が抜ける。そう。僕は既にララの事よりも本能的に己の身を守る事を選択したのだ。
ユユが僕の呪縛から逃れ、顔を出した。そこには膝を付いて動かないララが――母親が――映っているはずだ。この時の光景は今も彼女に深い傷跡を残しているのであろうか。僕はそれが少しでも癒されている事を願っている。
「まま!」
ユユが僕の腕をすり抜けて、ララの元へ駆け寄る。それが当然のように。無垢ゆえの勇気。あるいは蛮勇か。愚行か。しかし、僕にはそれが羨ましかった。
だめだ。そちらへ行ってはいけない。僕はユユに手を伸ばす。が、ユユは僕の指をすり抜けてララの元へ走っていった。
それと、同時に子供の身体から巨大な黒蛇のような、はたまたオーラのようなものが立ち上がった。それは、蛇と呼ぶには禍々しく、もっとも適切な言葉を当てはめるならば蟒。龍の成れの果てとでも言うのだろうか。
鎌首を上げて睨みつけるそれに、ユユの足は止まり、腰は砕けていた。僕はすぐさまユユを乱暴に捕まえ、抱き寄せた。
「へびが……くろい……まま……」ユユは嗚咽混じりにどこか上の空な口調でひたすらと繰り返し呟いていた。
そして、黒いフードを被った子供はその蟒を解き放った。僕は逃げ出そうとしたが、それよりも蟒は早く力強く大顎を開けて迫った。
僕の背中を襲ったのは蟒の顎ではなく、別の衝撃だった。
その衝撃に吹き飛ばされて、痛みを堪えながら頭を上げると子供の場所から後ろ、ララが居た場所から僕の場所を残してそれ以外全方位が焼け野原に変わっていた。
ユユと年端も変わらぬような子供が、まさかこんな事を。僕は信じられなかった。全身が震えた。魔道兵器など比べ物にならない破壊であった。もはや、人為的なものと主張しても誰も信じないであろう。自然の脅威。大災害以外のなにものでもない。
子供は両端の二人に連れられ、背中を向けて残った森の中へ消えていった。
気が触れてしまった五歳の童女を抱えながら僕は、嘔吐と嗚咽と咆哮を口から吐き出していた……
*
数日後。僕はアドラスシア魔法学園の門を叩いた。
ユユが十八歳になるまで預けて貰えるように、学園長のオルランドに話をした。
学費も一括で払い、うわ言のように未だ呟くユユを引き渡した。
その時オルランドの目に僕らはどのように写っていたのだろう。親子のように見えたのだろうか。
とんでもない。僕はユユの父親ではない。ユユの母親を護ることが出来ず。混乱の内に失ってしまったのだ、そんな男がユユの父親を名乗っていいはずかない。それに、僕の顔を見る度に恐らくこの子はララを思い出すだろう。
そんな残酷な事を出来るはずがない。だから、僕はこの子の前から姿を消すことにした。
虚ろに俯き、頬もすっかりこけ落ちて、ふわふだった耳も今や毛羽立ち、生きた抜け殻のようになったユユを見つめながら、僕はいつか必ずあの蟒を――蟒を使わせた子供を――討伐しよう。そう心に誓った。
そうしてこそ、僕はララの後を追うことを許させるのだ。この身の罪を全て洗い流すための聖水はあの子供の鮮血のみだ。
奇しくも僕は、皮肉にも僕は、この日から死の儀式としていた酒を断ち、この命の最後の一滴が流れ落ちてしまうまでは、何が何でも生き延びると。そう、強く思った。
Black Brave Story
エピソード ヘンラー・リーブス
I never die.
~完~