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夜行く人々  作者: 能上阿萬
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カナエ

 小杉叶音は惨めな気持ちで横浜の街を颯爽と歩いていた。職場である服屋の入っているショッピングセンタービルから出ると、真っ直ぐに横浜駅西口5番街を目指した。

この一週間ずっと同じ気持ちを抱えたまま仕事をしていた。なるべく、気持ちを面に出さないようにしていたつもりだったが、店長からも「何かあった?」と心配された。内心「何かあったのよ!」と言い返したい衝動に駆られたが、抑えて笑顔を浮かべた。「何でもないんですよ。」

 この日は二人の女友達と酒を飲む約束をしていた。叶音は自分の抱えたイライラした感情を二人に聞いてもらいたくて仕方がないのだ。だから、仕事上がりで疲れているはずだが、不思議と彼女の体には活力が漲っていた。

 横浜駅西口前の交番の向かいには多くの人々が誰かを待ちわびる様子で立ち尽くしていた。彼ら、彼女らの横を通り過ぎながら叶音は「待っていれば来てくれる人がいて良いわね。」と無言で毒づいた。

 高島屋のエアカーテンを潜る。腰のあたりまで長く伸びた髪が風で踊った。横浜駅と直結したそこは、真っ直ぐ歩くと相鉄線改札口まで通じていた。駅に直結した建物だから、自然と人通りは多くなる。昼も夜も変わらずだ。向かいからは多くの人々が穏やかな速度で、しかし圧倒的密度でこちら側に歩いてきていた。その多くが友達や家族、恋人と連れ立って歩いていて、叶音のように一人で憮然と歩いている者もいないではなかったが、少数だった。

 「外から回って行けば良かった。」と後悔しながら、人波を掻き分け歩いた。今は自分が一人であることが惨めで、辛い。

 左右に並んだ煌びやかなショーウィンドウ。輝く装飾品や、シックな服が展示してあった。叶音はショーウィンドウに映る自分の姿を見て、エアカーテンで乱れた前髪を手早く整えた。

 5番街口に出ると、高島屋の通り以上に混沌としていた。いくつもの動線がそこにはあった。複雑な入り江に迷い込んだ海流のごとく人々は惑い、入り混じっていた。

 そんな人込みの中を通りながら、生け垣の前に佇むダークスーツを着た男が目に留まった。整った顔立ち、背丈も高く180㎝は超えている。スーツには皺ひとつなく、気品が漂っていて安物ではないのが一目で見て取れた。彼を横目でちらと見て、惹かれそうになったが自分の置かれた惨めな状況を思い出し、それ以上その男のことを思うのを止めた。今はただ、友達に愚痴を聞いてもらいたいのだ。

 5番街にはゲームセンターの子どもっぽくも賑やかな光と、飲み屋の看板の気怠い光に溢れていた。ひたすら真っ直ぐに通りを進んだ。幸川に架かる橋の上には何人も飲み屋の客引きがたむろしていた。一人で歩く叶音に声をかける客引きはいなかったが、代わりに風俗店のスカウトをしている男からはティッシュを渡されそうになった。それも二回もだ。叶音はそんな男たちを軽蔑の眼差しで射貫いて、足早に立ち去った。もちろん、ティッシュなんて受け取らなかった。「人がイライラしてるときにくだらないティッシュなんてホントにもうやめてよ。」今日は何もかもが癇に障る。

 ヒールの音をカツカツと響かせながら更に歩いた。今度は人通りの少ない道を選んで歩いた。それでも人波が消えることはなかったが、比較的少ないし、歩きやすかった。200mほどを黙々と歩き続け、目的のバーの前にやってきた。西口から少しだけ離れた場所にあるバー「オールドマップ」だった。


 木製の扉を開けると、一番奥のテーブル席に望美と遥香がいた。

 「ごめん、仕事終わるの遅くなっちゃった。」

 叶音は軽く両手を合わせながら言った。

 「いいよ、いいよ。お疲れだね。」

 「私たちもさっき来たばかりだから、大丈夫だよ。」

 望美と遥香は遅れてきた叶音を労いながら、彼女の座る場所を整えた。店はこじんまりとしていて、席数もあまり無いのだが、シックな雰囲気があった。テーブル席には叶音たちのグループしかおらず、カウンター席には一組の男女が座っているだけだった。時計を見ると、まだ18時過ぎだからだろう。客が少なく、静かなのが良かった。

 叶音が席に着くと、バーテンの猿渡が笑顔で近づいてきた。口と顎に手入れをした髭を蓄えた猿渡はオールドマップの店長だった。

 「こんばんは。今日はお仕事だったんですね。望美さんと遥香さんもついさっき来たばかりです。三人ともお飲み物はどうしますか?」

 三人はそれぞれカクテルを注文し、猿渡は小さくお辞儀をすると背を伸ばしてカウンターへと戻っていった。オールドマップには猿渡の他に、渡辺と石垣というバーテンが二人いた。猿渡は二人に叶音達グループの注文を伝え、自分もまたシェーカーを振った。手際よく作られたカクテルは直に叶音達のテーブルに置かれた。

 リトルプリンセス、カルーアミルク、ピーチフィズが目の前に並んだ。


 三人は県内にある同じ公立大学出身だった。叶音と遥香が同い年であり、望美は三つ年下だ。先輩後輩の間柄だし、それぞれ性格も異なるのだが、不思議と波長が合い、大学時代から仲が良かったし、叶音と遥香が卒業して数年たった今でも三人はよく一緒に過ごすことがあった。

 遥香は都内のIT系企業に勤めるウェブデザイナーだった。三人の中では一番アルコールに強く、また酒が好きだ。バニラビーンズを漬け込んだラムとベルモットをシェイクしたリトルプリンセスのグラスを口につけると、茶色に染まったボブカットの髪が軽やかに揺れた。今年26歳になるが、好奇心が人一倍強く、未知のものや人に関心を持つことが多々あった。

 望美は大学を卒業してからまだ一年しか経っていない。最近やっと郵便局の仕事に慣れてきた頃だった。三人の中では一番可憐な風貌と性格をしていて、銀縁の眼鏡と肩まで伸びた黒髪は正に文学少女という出で立ちだった。(ところが実際には彼女は紙媒体の活字というものをたまに投函されるダイレクトメール以外では読むことが無い女の子だった。)

スレンダーと言えば聞こえは良いが、痩せぎすで薄い胸は彼女の可憐さを強調してはいたものの、本人にとってコンプレックスでしかなかった。

 叶音の口の中にカルーアの僅かな苦みを含んだ甘さが広がった。一日の疲れを癒す一口だった。叶音がその甘さに浸っていると、望美がピーチフィズの入ったグラスを卓上に置き、話しかけてきた。

 「それで、私たちに聞いてほしいことって何なの?」

 「そうそう、私もそれ聞きたい。」

 二人にせがまれるまでもなく、最初から叶音は話すつもりで来たのだ。もう一口カルーアミルクを飲んでから、叶音は語った。

 「もう、最悪なんだから。聞いてよ。」

 そう言うと、叶音はここ二週間のうちに自分に起きた出来事を語った。

 叶音には一年近く交際している男がいた。男の名は、沖津宏一といった。その沖津に二週間前から一切連絡が付かないというのだ。連絡手段の発達したこの世の中において、二週間連絡がつかないというのは、最早相手の身を案じるのに充分な期間だった。当然、彼女も沖津のことを心配した。LINEで何度も様子を尋ねたのだが、いずれのメッセージに対しても「既読」の文字はつかなかった。彼女の言葉は一切伝わっていないのだ。また、直接電話をしてみたところで、沖津は呼び出しに応えなかった。一時は警察に連絡し、安否確認をしてもらおうかと思った。しかし、沖津のFacebookのページも覗いて何か手がかりでもないかと思い、見てみると叶音と連絡が取れなくなった日以降も日常の他愛もない出来事を表す文章や写真の投稿が続いていた。投稿は数あれど、叶音のことに触れる内容は一つもなかった。まるで、叶音のことだけが沖津の人生からすっぽりと欠落してしまったかのようだった。

 沖津は意図的に叶音と連絡を絶ったのだ。少なくとも叶音にはそうとしか思えなかった。

 「なんでいきなりそんなことになるの?だって、つい何週間か前だって、宏一くんと小旅行に行ってきたばかりじゃん。仲が悪そうには思えなかったんだけど。」

 遥香の問いに叶音も相槌を打ち「私もそう思ってたんだけど…。」と答えた。

 「小旅行…と言っても県内のパワースポットの神社だけど、そこに行った後から連絡が取れなくなったの。」

 パワースポット?遥香も望美も首を傾げた。二人が知る限り、叶音は神社仏閣などに参拝するタイプではなかった。

 「パワースポットとか、神社とかって、それ沖津さんの趣味なの?」

 銀縁眼鏡のフレームに触れながら望美が尋ねた。人に質問するときに、無意識にフレームに触れる癖があった。

 「そう、宏一の趣味。秦野の『白笹稲荷神社』ってところに行ったの。なんでも商売繁盛のご利益があるとかいうパワースポット。」

 叶音の話に遥香が「なるほど、なるほど。」と言うように大きく二度頷いた。

 「宏一君、何かの営業職だったよね?最近お仕事張り切ってたの?」

 「そうみたい。宏一がやたら『パワースポット行きたい。』って言うから私も付き合ったの。まあ、私の仕事も上手くいくと良いなあと思ってね。小旅行自体は特になんてことなく終わったわ。車で秦野まで行って、普通にお参りして、近くの定食屋でご飯を食べて帰ってきたの。『なんだか上手くいきそうな気がしてきたね。』とか話しながら。

 でも、帰って来たら全然連絡がつかなくなったの。」

 遥香が冗談めかして尋ねた。

 「叶音、なんか余計なこと言って宏一君のこと怒らせちゃったんじゃない?仕事のことでからかったりとか。」

 「ううん。連絡がつかなくなってから、私も随分そのことは考えてみたよ。でも、何も思い当たらない。その日は一日振り返ってみても、一度も険悪なムードにならなかったし、私の言葉とか行動に宏一が変な反応することも無かったの。ホントにもう穏やかな一日だったわ。」

 そう言うと叶音は残りのカーアミルクを全部飲み干した。乳白色の薄膜がグラスの内側を静かに流れた。

 「でも、今になって考えてみれば。元々宏一は私に対する思い入れみたいなものが薄かったのかもしれない。」

 「どういうこと?沖津さん、実は叶音のこと好きじゃなかったってこと?あまり構ってもらえてなかったの?」

 叶音は空になったグラスを両手で掴みながら静かに首を振った。

 「宏一は一貫して優しかったわ。出会った時からね。でも、いつだったか彼と話しているときに、彼が言ったの。

 『俺は人に対してできるだけ親切に接したいと思ってるし、実際そうしてるつもりだよ。その結果、よく優しいですねなんて言われたりもするんだけど、それは優しさと言うより、ただマナーを守ってるだけに過ぎないって思うんだよ。』

 何について話していて、こんなことを言ったのかは忘れちゃったけど、大体こんなことを言っていたの。その時は深く考えずに、なるほどそういう考えもあるのね程度に思っていたけど、日が経つにつれて繰り返し彼の語ったことを思い出すようになったわ。するとね、彼の私に対する優しさも本心から自然に優しく接してくれているんじゃなくて、ただのマナーとして優しくしてくれてるんじゃないかなって段々考えるようになってきたの。」

 叶音が言葉を切ると、静かなジャズミュージックと、バーテンの石垣がカウンター席のカップルと話す声だけが店内に響いた。石垣は店内に飾ってある横浜港の油絵について説明していて、カップルはやたらと頷きながら話を聞いていた。シンクロしているかのように二人が同時に頷く様子を傍目に見ながら、叶音はため息をついた。

 「まあ、そうは言ってもそんなに深刻に考えてたわけじゃないの。でも、今回こうして連絡が途絶えちゃって、改めて彼の話を思い出すと考えちゃう。やっぱり私に対して優しくしてたのも上辺だけの優しさだったのかもしれないって。」

 「一度、ちゃんと宏一君と話し合った方がいいんじゃない?携帯で連絡取れなくても、直接会いに行っちゃえば良いじゃん。」

 遥香の言うことは尤もだったが、叶音にはそれができなかった。叶音は宏一の住む場所を知らなかった。彼が川崎市に住んでいることまでは知っていたのだが、具体的な住所は知らなかったし勿論行ったことも無かった。

 「駄目。宏一の家知らないもん。」

 叶音の言葉に、遥香も望美も驚いた様子で二人顔を見合わせていた。

 「なんで?だって叶音達付き合い始めて一年経つでしょ?その間、一回も宏一君の家に行ったことないの?」

 「そう、無い。泊まるときはいつも私の家の方。場所さえ教えてくれなかったわ。」

 「それって無くない?ありえない。」

 望美が怪訝な表情を浮かべた。遥香も望美の言葉に同調し、頷いた。叶音と宏一の間に起きたトラブルは、ここ最近の出来事だけではなく、以前からの付き合い方にも原因があるように感じられた。

 「叶音ちゃん、お酒足らないんじゃない?何か飲もうよ。」

 軽妙な口調でバーテンダーの渡辺が話しかけてきた。三人のバーテンダーの中で一番年若い渡辺はオールドマップの弟役と言ったところだった。(店長の猿渡は父親役であり、石垣は兄役だった。誰が決めたわけでも、明文化されているわけでもなかったが、オールドマップを訪れる客は三人のバーテンダーに自然とそうした役割を振り、役割に応じた振る舞いを期待していた。)その渡辺は丁度、手が空いたらしく常連の叶音達のテーブルにやってきたのだった。

 「はいはい、渡辺君。私たち今込み入った話してるから、あとでね。」

 気心の知れた相手ということもあり、遥香の渡辺に対する態度はぞんざいだった。適当にあしらわれて、渡辺は泣き真似をしながらお道化て言った。

 「えぇ…。ひどいなぁ。ぼく、叶音ちゃんがまた何かお酒飲みたいかなあと思って来てみただけなのに…。」

 しきりに両目の下を掌で擦って泣く仕草を繰り返す姿に叶音達はつい吹き出してしまった。なんとなく気の重い雰囲気だったテーブルがパッと明るくなったようだった。

 「そうね、じゃカルーアもう一杯ちょうだい。」

 渡辺は満面の笑顔で「どうも、まいどあり。」と調子の良い返事をすると、お道化た小走りでバーカウンターの中に戻った。渡辺の作るカクテルはいつも型破りで、レシピ通りに作ることは無かった。カルーアミルクを作るにしても、カルーアとミルクの割合は目分量どころか手先感覚次第といった具合だし、隠し味と称して普通使わないような酒やジュースを垂らしてみたりという有様だった。渡辺自身、自分で作った酒を味見して「美味い」と判断してから客に提供しているので、けっして不味い酒にはなっていないのだが、如何せん作り手である渡辺の味の好みが多分に反映されているので、客の好みと若干のずれが生じることが少なくなかった。だが、叶音たちのような常連組はその微妙なずれも含めて渡辺の作る酒を楽しみにしているのだった。暫くすると渡辺はカルーアミルクを手に戻ってきた。

 「どうぞ、お嬢さん。」道化の演技が始まった。三人は話を中断し、年下のピエロに視線を向けた。

 「渡辺君、今日はどんなとんでもレシピなの?ちょっと頭が痛くなるような出来事があったから、この上さらに悪酔いして頭痛を抱え込むことになるのは嫌なんだけど。」

 叶音の嫌味の効いた冗談に渡辺は真顔で、気障な声色で答えた。

 「いわゆる普通のカルーアミルクに冷ましたエスプレッソを目分量で足してみました。酒の度合いは減ったけど、珈琲の渋みは増したので、今日の叶音さんにはぴったりかなと。今日はなんだかいつもより、人生の苦みを味わった大人の女性みたいだ。」

 三人は「はいはい」と冷たい反応を返し、「私たち込み入った話の続きをしなくちゃいけないから、渡辺君も早くお仕事に戻んなさい。」と素っ気なくあしらった。またもや、泣き真似をしながら渡辺はバーカウンターに戻っていった。

 「で、どこまで話したっけ。」

 「沖津さんが一度も叶音を家に上げたことも、家の場所を教えたことも無いって話までよ。」

 「そうだったわ。私も彼が私に対して都合が悪いことがあるから家の場所を教えないんだと思ってた。でも、ある時彼の友達を交えて彼と一緒に食事をしたときに、彼の友達が言ってたの。」

 その時に宏一の友達が叶音に対して言ったのは、幾分同情めいた言葉だった。「叶音ちゃん、宏一の彼女やってるのも辛いでしょ。こいつ俺たちに対してもかなりの秘密主義ですからね。俺は宏一と4年近く付き合いがあるけど、未だに家の場所すら教えてくれねぇの。俺の知る限り、あいつの友達誰もあいつの家の場所知らないぜ。彼女の叶音ちゃんになら教えてるのかもしれないけどね。」

 それを聞いたとき、叶音は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。勿論、この時叶音はまだ宏一に家の場所すら教えてもらっていなかったのだから。彼の多くの男友達と同じだ。沖津宏一は男女問わずそつなく交流をすることができながら、その実誰とも深く関わってはいなかったのだ。

 「そこまで徹底的に秘密主義なら、もうどうしようもないかもね。連絡はつかない、居場所も分からない。それって、生きてはいても実質的に行方不明みたいなものじゃない。」

 遥香は首を振って言った。望美も叶音も口にはしなかったが、概ね遥香と同意見だった。沖津宏一は本人の意思によって、叶音と別の場所に姿を隠すように消えていったのだった。今更、居場所を確かめる術もないし、仮に居場所を突き止めたとしても沖津宏一は自分の意思で彼女から遠ざかったのだから、再会を喜ぶことはないだろう。残念ながら、叶音の恋は既に終わってしまっていたのだ。

 「そうよねえ。でも私が何をしたっていうのかしら。せめて喧嘩別れしたなら理解もできるけど、私たちそんなこと全然なかったのに。ああ、もやもやする!」

 叶音は手元にあった紙ナプキンをくしゃくしゃと丸めながら叫んだ。

 「きっと沖津さんの方に思うところがあったんだよ。別に叶音がどうとかいうのじゃなくて、多分人との距離の取り方に拘りがあったんじゃないかな。男友達との付き合い方を聞いてても、なんとなくそんな気がした。理不尽だと思うけど、好きになった相手がたまたま変わった考えの持ち主だったんだね。仕方ないよ。」

 叶音の手に自分の掌を重ね、望美は優しく励ました。遥香も、「交通事故みたいなものだよね。次、考えていこう。」と望美に続いて、叶音をフォローした。

 二人の励ましを受けて、叶音も少し気が楽になった。やはり友達二人に愚痴を言って正解だった。ここ二週間のイライラやもやもやが、ふっと消えたように感じた。

 「そうよね。原因の分からないことを考えても無駄。悩むだけ損。さ、私の話はもうお仕舞いで良いから、何か楽しい話しましょう。」

 一転して、三人は明るい雰囲気で近況報告をした。近況報告と言っても、三人は頻繁に会っているので、報告しあうべき近況などいくらも無かった。しかし、楽しいことであればいくらでも日常の中から見つけられる。その日は、23時を過ぎるまで、三人で酒を飲み、楽しいお喋りを続けたのだった。

 

 三月に入り、年度末に近づくにつれて三人とも仕事が忙しくなった。叶音の働くショッピングセンターは、冬物衣料の売り尽くしバーゲンが始まり、いつにも増して客が多かった。また、春物の新着品も毎日次々と店に届いたので、それら新しい服の展示や在庫管理など、やらねばならないことは山のようにあった。他の二人についても、叶音はよく知らなかったが、それぞれに年度末の忙しさというものがあるらしく、この三週間ほどは会うことができなかった。

 しかし、明日は久しぶりにまた三人で集まる約束をしていた。今週の日曜日に遥香から「久しぶりに飲みに行こう。二人に話したいこともあるんだ。」と連絡が来たのだった。詳細については何も聞かされていないけれど、どんな話題だろうと、三人で集まる口実になるのだったら何でも良かった。叶音は前回の集まりから、沖津宏一との理不尽な蟠りに気持ち上の区切りをつけることができていた。相変わらず連絡をつけることはできないが、もう思い出してイライラすることも無くなっていた。

 今は年度末の忙しさで、沖津宏一のことを思い出している暇も無かったというのも、叶音にとってプラスになっていた。今日も朝から春商品の在庫管理をしてきたところだった。昨日までに届いていた分は全て段ボールから出して、種類別に収納したが、今日もまたそろそろ新作の衣類が届く頃合いだった。また、客足が途絶えたタイミングを見計らって、バックヤードに行かねばならないだろう。

 バーゲンセールを行っている期間なので、土日ともなると客足は凄まじかったが、幸い今日は木曜日なのでまだそれほど客が多いわけではなかった。開店直後を狙って買い物に来る客たちの買い物が一段落した今、昼食の時間が近いこともあって、一人も客がいない状態だった。

 同僚の佳奈は一足先に昼食休憩に入った。佳奈が戻ってきたら、今度は叶音の番だ。客足の途絶えた店で手持無沙汰を感じながら、陳列してある商品の角度を微妙に変えてみたり、ディスプレイしてあるマネキンのポーズを変えてみたりしながら過ごした。

 すると、段ボールを台車に山積みにして、配送業者が店にやってきた。あまりにうず高く段ボールを積んでいるため、押している本人の顔が隠れてしまっている。顔は見えないが、今日の配送担当は笹という名の男のはずだ。叶音の勤める服屋『crescent』は、基本的に月曜と水曜と木曜に商品が届くようになっていた。届ける配送業者は曜日によって違っており、曜日ごとに担当が決まっていた。月曜日は中川という筋肉質の男が担当で、水曜日は藤森という眼鏡をかけた坊主頭の男が担当だった。そして今日、木曜日の担当は笹という名の初老の男が担当だった。叶音の父親と同じくらいの年齢で、雰囲気も柔らかな男だった。話しやすい人だったので、叶音も気軽に会話を楽しむことができた。

 「お疲れ様です。」段ボールの山にそう声をかけ、続いて「笹さん。」と言いかけたところで、段ボールの山の陰から藤森が顔を出した。

 「どうも、お世話になってます。荷物の受け取りをお願いします。」

 笹が荷物を運んできたものと思い込んでいたので、予想に反して藤森が顔を出して驚いた。今日は水曜日だったかしら、と自分の曜日感覚も疑ってみたが、間違いなく今日は木曜日だった。叶音の戸惑いが表情に出ていたのだろう。藤森は台車の把手から手を放すと、眼鏡をかけ直してから、言った。

 「ああ、笹さんだと思ったんでしょう。確かに今日は笹さんの担当の曜日なんですけどね、実は笹さん担当地区が変わってしまったんですよ。」

 藤森は済まなそうに言った。

 「小田原の方に引っ越したから、担当地区も県西の方に変えてくれって希望を出したらしくて。会社を辞めたわけじゃないから、変わらずうちの社員なんだけど、横浜地区の仕事をすることはこの先無いでしょうね。」

 今まで気さくに話しかけてくれた笹さんがいなくなってしまったことを、叶音は寂しく思った。

 「笹さん、『小杉さんによろしく。』って言ってましたよ。前回の配送の時、異動することを伝えようと思ってたけど、つい忘れちゃったらしくて。」

 考えてみれば年度末なのだ。勤務地の異動が起こりやすい時期ではあるだろう。笹がいなくなったことは意外だったが、仕方ない。

 「笹さんが移動しちゃったおかげで、当面は木曜も僕がcrescentさんのところの配送を担当することになっちゃったんですよ。担当することになったって簡単に言っても、今まで木曜日に担当してた他の配送先も変わらず届けて、ここにも届けるわけだから単純に仕事量が増えちゃって大変ですよ。まあ、しばらくしたら補充要因が来るらしいから、木曜日担当はまた新しい人になる予定ですけどねえ。その時は新人さんを宜しくお願いしますね。」

 藤森は人の好さそうな顔で言った。再び台車を押し、荷物をバックヤードの中まで運び入れ、段ボールを積み下ろしてくれた。

 作業が終わり、藤森が帰る間際に尋ねてみた。

 「笹さん、結構年配だけど、このタイミングで引っ越されたんですね。小田原に家でも買ったんですか?」

 台車を押しながら言った。

 「ああ、家を買ったわけじゃなくて、実家に戻られたそうですよ。お母さんがもう80歳半ばくらいの高齢らしくて、介護するために、家族全員で笹さんの実家に戻ったんですって。」

 大変そうですね、と相槌を打った。荷卸しをしてもらった礼を言い、藤森を見送った。叶音にとって木曜日は笹と他愛のない話をすることのできる日で、それなりに楽しみにしていたのだが、急にその習慣が失われてしまったことに戸惑いを感じた。笹は叶音の人生においてもう二度と会うことも無いだろう。なまじ親しくしていた分、その欠落感は顕著だった。

 藤森が帰ってしばらくすると、佳奈が戻ってきたので叶音は昼食休憩に入った。昼食から戻ると、またいつものバーゲン期間特有の忙しさが叶音を待っていた。

 

笹の異動を知った日の翌日、20時を過ぎ、やっと仕事を終えた叶音は二人の待つ店へと向かった。今日行く店は、今まで行ったことのないところだった。遥香が最近見つけた店で、雰囲気が良いし料理やお酒も美味しいということだった。遥香は「雰囲気」というものを重視する女だった。行き慣れた「オールドマップ」も、思い返せば遥香が見つけてきたバーだった。

初めて行く店なので、地図で場所を確認しながら歩いた。おおよその場所は、行き慣れた横浜駅西口5番街方面だった。その夜も相変わらず人がごった返していた。いや、相変わらずというよりもいつも以上に多かった。今日は金曜日だから、夜に出歩く者たちが多いのだ。それに加えて、一週間後に大学卒業を控えている若者たちが、最後に学友と酒を飲もうとあちこちに集まっては、大声で笑いあっているのだった。そんな若者たちを横目で眺めつつ、叶音は店へ急いだ。

幸橋を渡り、家電量販店の角を曲がった。目の前にパチンコ屋があり、夜になって一層けばけばしい光を周囲にまき散らしていた。そこを右に折れ、小さな小道に入った。慎ましやかな店構えの居酒屋があったので、そこだと思い、ガラス窓越しに店を覗き込んだが、先に来ているはずの遥香と望美の姿が見えなかった。代りにスキンヘッドに鉢巻を巻いたゆでだこのような風貌の大将と目があった。大将は仏頂面でぽかんと口を開け、店の前の通りとそこから店内を覗き込む叶音を眺め返していた。叶音は慌てて店の看板を確認し、目的の店ではないことに気付いた。

「もっと奥にあるのかな。」と小道を左に曲がると、すぐ目の前にその店はあった。『隠れ庵しらいと』と書かれた看板が蛍光灯に照らされて、淡く光っていた。先ほどのゆでだこの大将の店と『しらいと』は背中合わせのような状態で隣接していたのだった。

窓から覗き込むとカウンター席に遥香と望美がいた。カウンターの奥には店員が二人いて、そのうちの若い方が叶音の姿に気付き、愛想のよい笑顔を浮かべて会釈した。店員の会釈で二人も店外に立つ叶音に気付いた。

「お待たせ、遅れちゃった。」暖簾を潜りながら言うと、二人は叶音を労った。

「春シーズン入ったからさ、新商品が次から次なの。やっと今日届いた分の品物の整理が終わったから帰れたけど、また来週の頭には次の品物が届くし、しばらくは忙しいんだ。」

「年度末だしね。うちの郵便局も年度末監査があるから、いつもの窓口業務が終わった後も資料の整理をしなくちゃいけなくて、残業続きだよ。」

望美は叶音への共感を表して言った。、

叶音は店内を見回した。内装全体が狐色の木材でできていて、木目がそこかしこに見られた。照明も明るく、いつも利用しているオールドマップとは全く違った雰囲気だった。

「良いところね。落ち着く感じ。」

遥香はそれを聞き、満足気な笑みを浮かべた。

「そうでしょう。この間、見つけて入ってみたんだ。最初は私もオールドマップで飲もうかなと思っていたんだけど、その時一人だったから、一人でバーっていうのもなんだか寂しいような気がしてね。それに仕事帰りでお腹も空いていたし、しっかり食べられそうなところを探していたら、ここを見つけたの。」

「ついこの前見つけたんだって。」

遥香の左側から顔を覗かせ、望美が言った。

「何?遥香一人酒したの?」

「まあね。私のところも年度末で忙しくて、先週の土曜日に休日出勤しなくちゃいけなくて。その日は同僚の子と東京で休日出勤お疲れさま飲み会をする予定だったんだけど、その子に急用ができちゃって、結局私一人、横浜に戻ってきて一人飲みしたってわけ。」

三人の中で一番酒豪であり、また酒が好きなのが遥香だった。一人で飲みに行くより友達と飲みに行く方が勿論好きだったが、どうしても飲み仲間が捕まらない時には、構わず一人で飲みに行くことがよくあった。

「そういうわけで、ここを見つけたんだけど、入ってみたらこの通り。日本酒も多くて料理も美味しくて大正解。」

遥香はカウンターの上に置かれた日本酒の名前のみが羅列されたメニュー表を手に取って叶音に見せた。遥香は酒の種類を問わず何でも好んで飲んだが、特に好きなのは日本酒だった。一度、長期休暇を三人で合わせて取って、東北の酒蔵に見学に行ったこともあった。片っ端から日本酒を試飲したが、遥香は全く顔色も変えず、話し方もしゃきっと滑舌の良いまま全ての日本酒を試飲した。一方、叶音と望美は、遥香に付き合いながらも半分くらいの段階で既に音を上げていた。なるほど確かにこれだけ種類豊富な日本酒がある店なら遥香のお気に入りになるわね、と思いながらメニュー表を眺めた。

望美と遥香の前にはお通しとお酒(当然遥香の前には澄んだ清酒が置かれていた)が並んでいたので、叶音も遥香にお勧めを聞きながら料理と酒を注文した。

「それで?私たちに話したいことがあるって連絡くれたけど、何かあった?良いこと?悪いことじゃないよね。私に続いて、暗いニュースなんて聞きたくないんだけど。」

軽く冗談めかしながら叶音が言うと、遥香は珍しく言い淀んだ。「ええと。」とか「まあ、なんというか。」とか要領を得ない言葉を発していた。歯切れの良さが売りの一つである遥香にしては珍しい態度だ。叶音は面白がって、なおも追求した。

「なにその反応は。まるで高校生の頃みたいね。高校生の頃の遥香のこと、知らないけど。」

揶揄する叶音に対して、望美が声をかけた。

「遥香、良いことがあったみたいよ。このお店で。」

「え、望美はもう聞いたの?遥香の話。」

「触りだけね。でも大体のことは分かったし、良いニュースか悪いニュースかで言えば、良いニュースだよ。ね、そうだよね。」

望美は右隣に座った遥香を覗き込んだ。酒豪の遥香が珍しく顔を赤らめているのは、酒のせいではないのだろう。もしも、酒の力で遥香の頬を染めようと思えば、日本酒にして酒瓶の二、三本では足りない。酒のせいではない。

若い、眼鏡をかけたひょろっとした店員が叶音にビールを持ってきた。オールドマップと違って、この店は女性が好むような込み入ったカクテルを提供していない。どちらかというと男性的な居酒屋である。日本酒は豊富に置いてあるかもしれない。焼酎もそれなりに置いてあるだろう。だが、どちらも叶音の好みには合わなかった。ビールしか選択肢が残されていないのだった。

ビールがやってくるのと時を同じくして、カウンターの奥から童顔の従業員がタコの刺身を皿に乗せ、叶音の前に差し出した。

遥香は叶音の前に差し出されたタコの刺身をじっと見つめ、思い返しながら言った。

「実はついこの間、この店でドラマみたいな出会いがあったんだ。六日前かな。前回の土曜日のことだった。

出会いがあったと言っても、本当に出会っただけで、先に続くものがあったわけじゃないんだけど。でも、だからこそなんだかフィクションみたいな感じで、まるで物語の中に入ったみたいだった。」

叶音は、はにかみながら話す遥香の表情を見て、つい自分もにやけた。そして、そのにやけ顔のまま言った。

「遥香は、そういうの好きだよねぇ。ちょっと現実逃避したがる気があるね、絶対。」

叶音が初めて遥香に会った大学一年生当時から、遥香には夢見がちな面があった。大学に入ってすぐに行われた新入生歓迎コンパで、遥香は二つ年上の先輩から付き合ってほしいと告白された。顔の造りは悪くない男で、派手に遊びまわっているという噂も無い男だった。叶音にしてみれば悪くない条件だと思ったし、そのまま告白を受け入れて付き合うものだと思っていたのだが、遥香は素気無く断った。叶音は遥香に「どうして先輩の告白を断ったのか。」と尋ねたら、「好きだという言葉は居酒屋で発せられるべき言葉じゃないし、そこで発せられた『好き』という言葉を私は信用しない。誰かに対する『好き』という気持ちは然るべき時と然るべき場所で発せられるべきなの。」というようなことを語った。当時叶音と遥香は、まだお互いのことをよく知りもせず、また特別に仲が良いという関係でもなかったのだが、叶音は遥香のこの答えが気に入り、急速に互いの距離を縮め、じきに無二の親友となったのだった。

これは遥香の夢見がちな一面を証明するエピソードの一つに過ぎず、親しい友人として一緒に過ごしていると、遥香のそうした面が次々に見えてきたのだった。叶音は遥香のそうした純真さを求める性格が気に入ったのだった。叶音たち三人の中で、普段は一番現実的でシャキシャキしている遥香が、男女関係のことになると一番純真な態度を取ることを、叶音は可愛いとさえ思っていた。

「その日、このお店で一人飲みをしたって言ったけど、私がこの席に着くと、そうちょうど今私が座っているのと同じ場所だったわ、二つ隣の席に、既に一人酒を飲んでる男の人がいたの。今、叶音が座っている席の一つ右隣ね、その人が座っていたのは。まあ、男の人の一人酒はそう珍しいわけじゃないじゃない?」

「女の人に比べればね。」

望美が苦笑いを浮かべながら言った。遥香も苦笑しながら続けた。

「そうでしょ。女で一人酒するのは私くらいのものよね、少なくともこの三人の中では。

そういうわけで、別にその人が一人でお酒を飲んでいること自体は、特別何でもなかったんだけど、その人お酒を飲みながら厚い文庫本を読んでいたの。何を読んでいるのか気になって、その人が本を閉じてカウンターに置いたときに、ちらっと背表紙を見てみたの。そしたら『白痴』だったの。」

「『白痴』か。」

「ドストエフスキー、ムイシュキン侯爵。」

「酒場でドストエフスキーっていうのが何とも19世紀的よね。」

叶音と望美は口々に感想を漏らした。遥香も二人の感想に相槌を打って言った。

「そうでしょう。それ見てなんだか懐かしくなってさ。大学の頃、みんな頑張って読んだじゃない。文庫版買ってさ。読み終わった後は、また苦戦しながら考察書いて。」

三人は大学時代のことを思い出して、互いに「うんうん。」と頷き合った。三人は県内の大学の文学部に通っていた。

「それで、ちょっと好奇心刺激されちゃって、話しかけたの。『ドストエフスキーが好きなんですか?』って。するとその人、ドストエフスキー好きだし、『カラマーゾフ』と『罪と罰』なんかも好きだって言っていたわ。ほら、なかなかいないじゃない。文学部だった人ならともかく。」

望美はそっと右手のひらを右頬に当てて、考え込むような姿勢を取って言った。

「そうよね。なかなかいないと思う。」

「だから私、その人に興味持っちゃったわけ。見ると、その人も日本酒党みたいで、ずっと日本酒を飲んでいたわ。私とその人は二人とも一人でこのお店に来ていて、さらに二人ともドストエフスキーの長編を読んでいて、なおかつ二人とも日本酒が好きだった。三つの共通点がある二人が偶然隣り合って座っているなんて、なんだか作り話みたいじゃない?」

叶音は遥香が内心期待していたこと察した。

「また遥香は、『物語みたい。』とか思ったんでしょう。そういうの好きだよね。その時の状況は分かったし、その状況自体に遥香が惹かれたのも想像できるけど、その19世紀的青年の見た目はどうだったの?顔とか体形とか。」

「外見はそうね、叶音の趣味には合わないかもしれないけど、充分清潔感があったし、体形も太ってるとか痩せすぎということは無かったな。」

「叶音は美形な男の人しか眼中にないもんね。沖津さんもそうだったし。」

 望美が横やりを入れると、遥香も「そうだよね。」と同調した。叶音は一人、鼻白んで、「はいはい、そうですよ。私は。」とお道化て言った。

 しかし、次の瞬間には道化の面を外し、急に真剣な顔つきになり、声色も先ほどより幾分低め、遥香の目をじっと覗き込んで言った。

 「それで、結局遥香はその19世紀的な青年と、どうなりたいとかあるの?」

 日本酒を流し込んでいた遥香は、叶音の急な切り返しに驚き、思わず咽返してしまった。ひとしきり咳をして、落ち着いてから言った。

 「どうなりたい、と言われても。そもそも私だってその人の名前も知らないんだから、19世紀的な青年としか呼べないんだよ。そんな相手と、どうなりたいも何もないよ。ただ私は、ここで幾つかの偶然が重なって、フィクションみたいな出会いがあったんだよって二人に伝えたかっただけなんだし。」

 咽返した遥香の前に、童顔の従業員が水を差し出した。童顔の従業員は水の入ったコップを遥香の前に置くと、ごく自然と三人の会話に入ってきた。

 「この前の土曜日にいらっしゃってた人の話ですよね。私も覚えていますよ。最初はずっと黙って本を読みながら酒を飲んでいたけど、お客さんが話しかけられてからは結構楽し気に話していましたよね。」

 「そうそう、自分も覚えてますよ。なかなか良い雰囲気だったじゃないですか。お客さんと。」

 続いて大将も大きく朗らかな声で会話に割り込んできた。大きな顔に満面の笑みを浮かべている。

 「だからね、自分もこのまま二人、別の店にでも行って飲み直すんじゃねぇかなって、そう思ったんですがね。」

 童顔の従業員もこれに同意した。

 「そうですね。私もそうなるかなと思って見てたんですが、男の方が先に帰られちゃってね。意外でした。」

 二人の話を聞いて、望美が言った。

 「なんだ、店員さんたちの話聞くと、だいぶ良い雰囲気だったみたいじゃない。それなら遥香から積極的に声をかけて、店員さんが言うように二軒目に行って、もっと話をしてみれば良かったのに。」

 遥香が「それはそうなんだけど。」とぶつぶつ歯切れ悪く呟いていると、叶音が代りに話し始めた。

 「そんなこと言ったって駄目だって。遥香は自分から物語の筋書きを書くようなことはしたがらないんだから。折角、物語のような状況に巻き込まれたんだから、あくまで登場人物の一人として状況に流されてみたかった。自分から状況を作るなんて遥香の望んでいるところじゃないんだよ。ね、そうでしょ。」

 遥香は肩を落とし、頭を垂れて、日本酒の入ったグラスを両手で握りしめていた。叶音に図星を突かれて気落ちしているのが傍目にも分かった。実際、童顔の従業員や顔の大きな大将にも、遥香の気落ちが伝わったくらいだった。

 低く長いため息をついて、遥香が口を開いた。

 「悔しいけど、叶音の言うとおりね。自分から行動するとか、その時は全く考えもしなかったわ。」

 「後悔してるの?」

 様子を窺いながら、望美が尋ねた。遥香はそれに対して「よく分からない。」と答えた。

 「後悔してるかどうか分からない、か。じゃあ、機会があればその人とまた話したいと思う?と言うよりも、機会があればまたその物語みたいな状況に巻き込まれてみたいと思う?」

 望美の問いに今度は答えることができた。

 「そうね、そういう聞き方をされれば『イエス。』と答えるわ。でも、私がどう思ったところで、それは実現不可能だろうけどね。」

 「そんなことないよ。」と叶音が励まそうとすると、そこに童顔の従業員が割り込んできて言った。

 「もし、また例の男性がうちの店に来たらそれとなくお伝えしましょうか?もし、お望みなら。」

当の遥香よりも、叶音の方が喜んでいるかのように甲高い声で短く叫んで言った。

「やったじゃん、遥香。これでまだ繋がるかもよ。店員さん、ありがとね。」

遥香も店員に対して礼を言ったが、一方でそう簡単にいくわけもないだろうという風にも思っていたのだった。第一、例の男性が再び「しらいと」を訪れる保証がない。それに、仮に再び彼と出会えたとして、彼と遥香の間で一度途絶えてしまった、あの非現実的な空気感がまた彼女たちを包むとは限らない。再会してみれば、何を夢見ていたのかと落ち込むことになりかねないではないかと、遥香は猜疑的な考えを抱えた。

遥香の疑いを感じ取ったかのように叶音が言った。

「また、遥香はどうせ『そんなに上手くいくはずない。』って思っているでしょ。夢見がちなところがある割に、そういうところは現実的だよね。まあ、基本的に現実的だったり実務的だったりするのが遥香らしいんだけど。寧ろ、夢見がちな面が意外って言うか。」

そう言うと叶音は可笑しそうに笑った。

「はいはい、的確な人格判断ありがと。」

遥香が素っ気なく答えると、叶音は慌ててその笑いを引っ込めて、穏やかな声で言った。誠実さを感じさせるように。

「ごめんって。もう言わないから。でもさ、そんなに端から『上手くいきっこない。』って考えなくても良いんじゃない。寧ろ『上手くいく予感がする。』って前向きに考えてれば良いんだよ。もしも、その予感が当たらなくても失うものは何もないんだし。上手くいけばラッキー程度に考えていればさ。その方が楽しいじゃない。」

叶音の言葉に望美も深く頷いて、「そうだよ、そうだよ。」と相槌を打っていた。

相変わらず、二人が再会して上手くいくという楽天的な考えに対しては賛成することはできなかった。しかし、二人が勧めるように再会を期待して暫く待ってみるのも良いのかもしれないという気がした。確かに、接点が全く無いというわけでもないのだ。まず第一に、この居酒屋「しらいと」が接点だ。さらに、遥香も19世紀的な青年もこの店の店員二人に顔を覚えられている。もしも彼が再びこの店を訪れることがあれば、間違いなく店員たちから遥香のことを伝えてくれるだろう。

問題はその先だ。仮に、男に遥香が彼に対して興味を持っていることを伝えたとして、彼が何もアクションを起こさない可能性だって考えられる。遥香が彼に会って感じた印象としては、男は女性に対して積極的に関係を持とうとするタイプではない。それは外見のイメージから言っているのではなく、実際に彼と会って飲んだときに話の中で、女性との関わり方についての話題になり、彼が言っていたことなのだ。彼は遥香に「自分は女性に対してガツガツ行くタイプではない。」と語った。それに対して遥香は「男はガツガツ行かなきゃダメですよ。」と期待を込めて、笑いながら言ったのだが、男には遥香の意図は充分に伝わらなかったようだった。

だが、彼が遥香と酒を飲みながらドストエフスキーの著作についての話をしていた時の、彼の表情の輝きは本物だったように思う。心底楽しそうな表情と声色だった。恐らく、彼には、好きな本や作家について話し合える相手がいないのだろう。そんな彼の前に、文学部出身の遥香が現れたのだから、彼は内心喜んでいたはずだ。

そう考えると、もしも彼が再び遥香と会えるチャンスがあると知れば、会いたいと思ってくれるかもしれない。そんな気がして、遥香は急に期待を膨らませた。

それに、もし再会することになれば、きっと彼だって遥香との会話を楽しんでくれるはずだ。彼にとってみれば遥香は貴重な趣味の話を共有できる相手なのだから。

「二人の言う通りね。分かった、私もちょっと期待しながら待ってみる。ちょっとね。

だから、店員さん…。あの、お名前は?」

店員は「今泉です。こちらは大将の野上です。」と答えた。大将の野上も「ニッ。」と笑顔を作り、軽く会釈した。

「今泉さんと、野上さんにもお願いしておきますね。もし、またあの時の男の人が来たら伝えてください。」

「何てお伝えすればいいですか?」

童顔の方の店員の今泉が尋ねた。遥香はしばらく考えてから口を開いた。

「もしも、また19世紀の物語について話したいと考えているのなら、『しらいと』で会いましょう、と。このお店に来られる日を今泉さんに伝えてください。私は二週間に一度は『しらいと』に訪れるので、二週間以上先であれば、どの日を指定してくれてもかまいません、と。」

今泉は話の途中から慌ててメモ帳とペンを取り出して、遥香が話したことを書き込んだ。遥香の話が終わって二呼吸するくらいの時間が経ち、メモを終えた今泉が顔を上げて言った。

「確かに承りました。承りましたが、なんというか、この方法だと少し回りくどいというか、あの男性がお店を訪れてから会えるまでちょっと時間がかかってしまいますよね。お客さんも伝言が伝わったかどうか確かめるために、二週間に一度必ずうちに来なくちゃならないですし。あ、いや、頻繁にうちに来てくれること自体は凄く嬉しいんですけどね。」

そう言うと今泉はきまり悪そうに頭を掻きながら笑った。

今泉の指摘は尤もだったが、遥香の申し出は叶音達にとってみれば、さもありなんという感じだった。遥香は今泉の言葉に対して特に何も答える様子が無かったので、代わりに望美が口を開いた。

「店員さんの言うことは、とっても正論だと思います。でも、遥香は多分、正論とか合理性だとかそういうのをあまり重視してないんですよ。今は。」

叶音も頷きながら付け加えた。

「この子の頭の中にあるのは、どういう風に再会した方が、より『らしい』のかってことだけなの。電話番号だとかLINEのIDだとか、メモしたものを渡してもらえる方が早いっていうのは、この子も分かっているんだけど、それじゃ嫌なんです。ねえ?」

叶音に向かって「仰る通りで。」とお道化て答える遥香とそれを見て笑う二人の女性客を見ながら、今泉はまだ腑に落ちないといった表情を浮かべて呟いた。

「『らしい』ですか…。それは一体…?」

叶音が言った。

「物語らしさのことよ。遥香は結局、非現実的なものを求めているから、即物的に男を求めるなんてことをしないの。私と違ってね。」

今泉は困ったような表情を浮かべながら、「はあ…。」と返事をした。今泉には充分伝わらなかったようだが無理もない。夢見がちな二十代女性の感性は、妻子持ちで二人目の子供の誕生を間近に控えた極めて現実的な三十代の料理人には推し量るべくもないのだから。

「いやあ、すっきりした。これで遥香が新しい恋に向けて前向きに進んでいくわけだ。私たちも相談に乗った甲斐があったというものね、望美。」

「そうね。私たちは遥香の惚気話を聞くことができたし、美味しいお店も知ることができた。さらに遥香は今日からさらに前進していけるようになった。良いことばかりね。」

二人の親友が自分以上に明るい笑顔で笑いあっているのを見て、遥香は二人の言うように自分が少し前進できるのかもしれないという予感を感じ始めていた。一期一会の出会いだったが、自分自身が行動することで再び会うことができるかもしれない。場合によってはその後も何度も会えるようになるのかもしれない。先のことは分からないが、少なくとも可能性は残ったのだ。

「遥香の出会いにあやかって、私も普段行かないようなお店で出会いを求めるべきかもしれないわね。」

冗談か本気かわからない様子で叶音が言った。すかさず望美が茶々を入れた。

「でも、叶音の場合は、さっき遥香も言っていたけど、好みの基準が外見の良し悪しに偏りすぎてて、なかなか難しいと思うよ。」

遥香もそれに同意した。

「そうそう、傷口を抉りたくはないけど、宏一君だって見た目相当良かったからね。宏一君レベルはなかなか会えないかもよ。」

二人の容赦のない指摘に対して、叶音は「そんなぁ。」と情けない声を上げた。

その後も、三人は互いの近況についてとりとめもなく話をして、終電が無くなる前に各自家路に就いた。


翌日の土曜日、客足の途絶えた「しらいと」のカウンターの奥で、童顔の小泉が見るともなしに店の前の小道を眺めていた。料理の仕込みは全て終わっているし、目の前には料理を待つ客もいない。大将の野上のようにバラエティー番組に集中するのも面白くないので、小泉は自然と来客を期待しながら店の前の小道を、入り口のガラス窓越しに眺めることが多かった。

店の前を行く人々の多くは、ただ歩き過ぎていくだけだ。「しらいと」の路地は横浜駅西口五番街のメインストリートから離れた隠れ小道のような場所で、そもそも人通りがあまり多くない。しかし、人込みを避けて歩きたい人にとっては絶好の近道にもなっているので、知る人ぞ知るといった小道だった。

そんな店先に一人の男が立ち尽くしていた。仕事帰りのサラリーマンという出で立ちではない。歳も若いだろう。今泉よりも年下なのは間違いない。そんな若い男が「しらいと」の店内に何かを求めるように視線を投げていた。右から左へ、左から右へ。何かを探すように。

彼の視線が今泉の視線と交わった。交わったことを二人とも感じ取っていた。その瞬間、今泉はそれが一週間前に来店し、一人で本を読んでいた男だということに気付いた。そしてそれは、昨日訪れた三人組の女性客のうちの一人と、一週間前に良い雰囲気で酒を酌み交わしていた男だった。

昨日の女性客から頼まれた伝言を、彼に伝えなくては。そう思い、一歩踏み出したとたん、その男は足早に立ち去って行った。今泉は店の外まで出て、左右を見渡したが男の姿はもうどこにもなかった。

店内から大将の野上が「おう。どうした。なにやってんだ?」と訝る声が聞こえた。今泉は「いえ、昨日のお客さんが探してた男の人がいたような気がしたもんですから。」と言いながら、入り口の戸を閉めた。

伝言を請け負った次の日に、伝えるべき相手を見つけられたことは幸運だったが、肝心の伝言を伝えることはできなかった。今泉は「残念がる必要はないだろう。あの人の様子だと、彼もまたこの店に何かを求めてやってきていたようだったし、近いうちにまた来店してくれるかもしれない。」と考えていた。

「とりあえず二週間後にあの女性が来店した時には、彼が店にやってきたことを伝えよう。」

今泉は、手元のメモ帳に男の来店日時を書き留めた。遥香に報告するために。

しかし、二週間後。今泉は遥香にこのことを報告することができなかった。二週間後、遥香は店を訪れなかったからだ。


叶音達が「しらいと」で遥香の話を聞いた翌週、またいつものように「オールドマップ」に三人で集まった。相変わらず年度末の忙しさはあったが、なんとか三人とも都合をつけることができ、定例の飲み会を開くことができたのだった。

この日は叶音も早めに仕事を終えることができたので、珍しく横浜駅で三人待ち合わせをして、店に向かった。「オールドマップ」に向かう道中、望美が「今日は私も二人に聞いてもらいたいことがあるんだ。」と打ち明けてきた。叶音も遥香もキャアキャア騒ぎながら、望美をからかったが、望美は「詳しい話はオールドマップについてからするから。」と、一言二人に言い放つと、あとはただ黙したまま歩き続け、時折眼鏡をかけ直すだけだった。

「オールドマップ」の重みのある木製の扉を開くと、店長の猿渡が低く渋みのある声で「いらっしゃいませ。」と三人に向かって言った。続いて店員の石垣も叶音達に挨拶をした。叶音達は「どうも。」と笑顔で返事をしながら、猿渡の促すままにいつものテーブル席に着いた。

そこで叶音は、もう一人の店員の渡辺の姿が見えないことに気がついた。いつもなら、入店早々、陽気な声であいさつをしてくるはずだ。少しお道化たような妙な科を作って。だが、今日はその渡辺の声が聞こえない。姿も無い。

遥香と望美も同じことに気が付いたようだった。遥香が、店長の猿渡に尋ねた。

「店長、今日は渡辺君お休みなの?」

すると、猿渡は軽く頭を下げ、申し訳なさそうに言った。

「すみません。渡辺は三月三日をもって、うちの店を辞めたんです。」

猿渡の予想外の告白に、叶音達一同は驚きを隠せなかった。口々に「嘘でしょ。」や、「なんで。」などと呟いていた。

カウンターの奥から、いつもは物静かな石垣も口を挟んできた。

「叶音さん達、ここ数週間いらっしゃってなかったですからね。確か、前回いらっしゃった翌週に辞めたんですよ。

渡辺は、もともと北海道から神奈川に出てきていたんですけど、何でも北海道に戻って自分の店を開くとかで、辞表を出したんです。私たちも突然のことで驚いたんですよ。」

猿渡も同意した。

「辞めたいという話を聞いたのが、丁度その前の週の金曜日、確か叶音さんたちが来た日ですね。叶音さんたちが帰って、店仕舞いをしているところに、渡辺から『実は、伝えておきたいことが…。』って持ちかけられまして。

普通、そんな急な話、なかなか了承できないんですが、渡辺の奴、『どうしても三月上旬には北海道に戻って店を開く準備を始めなくちゃ。』と言って聞かないものでして。仕方なく、受け入れたという形で。」

猿渡はそう言うとため息を一つ吐いた。仕方なくと言ってはいるが、恐らく猿渡も渡辺を引き留めようとあの手この手を使って説得したのだろう。その結果、やはりどうしてもと主張する渡辺に押し切られたのだ。

オールドマップは猿渡、石垣、渡辺の個性の異なる三人のバランスで評判になった店だった。ここで言うバランスというのは酒を作る技能だけのことを言っているのではなく、性格面のバランスのことも指している。父兄弟の疑似親子のような感覚を楽しめる三人は、常連客にとっては魅力の一つだったのだ。しかし、それが崩れてしまった。

幸い、猿渡も石垣もバーテンダーとして有能な男だった。仕事は早いし、客とも卒なく楽しい会話を繰り広げることができた。だから、渡辺が一人欠けてしまったとしても仕事に支障を来すことは無かった。だが、いくら仕事に支障は無いと言っても、叶音達常連客にとってみれば渡辺が辞めたことは大きな喪失だった。

「前来たときは、いつもと変わらない感じで冗談を飛ばしていたのに、内心、仕事を辞めることを考えてたのね。」

望美はそう言いながら眼鏡の蔓に手をかけた。叶音も遥香も、望美が口にしたのと同じことを考えていた。叶音は渡辺がいなくなったと知り、ふいに笹も自分の周りから姿を消したことを思い出した。そして沖津宏一。どうも最近、叶音の周りでは懇意にしていた者たちが次々にいなくなってしまう。沖津宏一の件はともかく、他の二人については自分の人生について前向きに取り組んでいる結果ではあるのだけれど、やはり残された者にとってみれば寂しさを感じるのだった。

「がっかりさせてしまって申し訳ないのですが、その代わりお酒の方はいつも通り最高のものをお出ししますよ。何になさいますか?」

猿渡が言った。叶音達三人の間に漂う落胆の空気を取り払おうとするかのように、努めて明るい調子で。叶音達も猿渡の気配りの意図を感じ取ったので、極力明るい声色で各々の注文を返した。

暫くして三人の前にマンハッタンと、ソルクバーノと、カルーアミルクが並んだ。三人で乾杯をして、一息ついた。マンハッタンを一口飲んでから遥香が望美に言った。

「渡辺君のことで忘れちゃいそうになっていたけど、望美が私たちに聞いてもらいたいって言っていたことって何なの?」

叶音も興味津々といった様子で、望美の顔を見つめた。化粧っ気の少ない望美の顔は、いつ見ても少女らしさを感じさせた。叶音と遥香が着実に大人の女性の色気を獲得してきたのに対して、望美はいつまでも幼さを感じさせるところがあった。実際、高校生だと名乗っても誰もが信じることだろう。さらにその上に銀縁の眼鏡をかけているので、高校生の真面目な学級委員長という雰囲気が漂っている。

望美はその綺麗な顔を少し赤らめて言った。

「実は、この間三人で飲んだ時の、遥香の話を聞いてから、私も自分の周りを見渡してみたんだ。そしたらね…。」

望美はカルーアミルクを何度も口に運びながら語った。

郵便局に勤める望美は主に不在荷物の受け渡し窓口を担当していた。郵便受けに不在票が入っていた人は、電話で連絡して再配達してもらうこともできるが、直接窓口に来て荷物を受け取ることもできる。望美はその受け渡しを担当していた。

望美が語ったのは少し風変わりな話だった。

望美の担当する窓口に、およそ半年前から毎日同じ男が訪れるようになったのだという。年の頃三十歳前半から、三十歳半ばといったあたりだった。望美が言うところによると、整った顔立ちをしている割に、表情が暗く、始めのうちはいつも最低限のこと(望美の言ったことに対する「はい」「いいえ」の返事だとか、不在番号だとか)しか口にしなかったという。

男が訪れるようになって一週間が経ち、望美も流石に男が頻繁に訪れることが気になり始めた。さらに二週間が経つと、郵便局の同僚も男が連日訪れていることに気付いた。「流石に多いね。毎日荷物が届くらしい。」とか「しかも毎日、荷物を受け取れないでいるみたいね。配達員も行くだけ無駄足で可哀想。」などと噂をし始めた。望美も同僚のそうした感想に概ね同意しながらも、男が毎日訪れる真相は確かめようがないなと思っていた。

そこまで語ったところで叶音が活き活きとした表情と声色で望美の語りに割って入った。

「分かった。その人、望美が可愛いからって毎日会いに来ていたんでしょ。そうとしか思えない。」

遥香も同じことを考えていたようで、しきりに頷いていた。そして、「叶音の言うことに私も一票。」と言った。

二人の横やりに望美も首を縦に振った。

「確かに、一か月も経つ頃になると、同僚もみんなそんなことを言い始めたわ。私は勿論否定していたけど、周りに言われると自分自身もそうなのかなと少し思い始めた。

でも、その人が実際どう思っていたとしても、彼は自分の本心なんて何も明かさなかったし、ただ淡々と荷物を受け取りに来るだけだったのよ。」

しかし、そうした単なる窓口係と受取人の関係も、徐々に親密さを帯びてきたという。男が窓口を訪れるようになって二か月ほど経つと、それまでの最低限の会話以外にも、簡単な世間話も混じるようになった。男が毎日窓口を訪れていることは紛れもない事実で、謂わば常連客だった。いつまでも淡泊な対応をしていたら、常連客となった男も不満に思うかもしれない。そう考えて自然と望美も常連客に対する親しみを態度に織り交ぜるようにした。そこには同僚たちの言葉(男が望美のことを気に入っているから毎日通っているんじゃないの?)の影響も多少はあったかもしれないが、望美としてはあくまでも常連客に対する気安さの表れだと考えていた。

望美がより親しい態度を取るようになったからか分からないが、男の方も次第に態度を軟化させていき、荷物の受け渡しの際に笑顔を浮かべることすら増えてきた。

叶音が再び望美の語りに割って入ってきた。

「その人、何歳くらいの人なの?やっぱり望美の郵便局の近くに住んでるの?」

「名前はもう聞いたの?」

遥香も便乗して質問をした。しかし、望美は首を横に振って言った。

「もちろん、その人が何歳でどこに住んでいて何という名前かは知っているよ。だって、毎日窓口に来て、荷物を受け取るときに身分証明書として免許証を見せてもらっているんだから。そういう個人情報は嫌でも目に入るし、半年間毎日来られたら、嫌でも覚えちゃうよ。今だって言おうと思えば言えるよ。」

そこまで言うと、カルーアミルクを一口飲み干して、また続きを口にした。

「でも、名前も住所も今はそれほど重要じゃないんだ。」

望美は結局、その後も数か月、その男と親密な会話を織り交ぜながら対応した。最初は暗い雰囲気を帯びていた男も、望美の明るい対応の成果もあってか徐々にその暗い雰囲気を内面に押し込み、少なくとも表面上は明るく振る舞うようになった。表情には笑顔が増え、言葉には冗談が織り交ぜられるようになった。そうした男の変化を望美も喜びながらも、一方で彼が持っている暗さというのはあくまで内面に押しやられただけであって、完全になくなったものではないということも見抜いていた。確実な根拠があるわけでもないが、ふとした瞬間に見せる曇った表情がそれを告げていた。

だが、男は少なくとも望美の前では極力明るく振る舞った。郵便局に入る前と入った後男の表情の差が大きいほど、望美は男が本来身に纏っている暗さの根は深いものではないかと感じた。

「どうして私の前では明るく振る舞おうとしているのかなって考えると、やっぱりその人は同僚のみんなが言うように私に好意を持ってくれているのかもしれないって思ったの。」

望美はグラスを撫でながら言った。叶音は尋ねた。

「それで、望美は?望美自身は、その男の人のことどう思っているの?好きとか嫌いとか。」

簡潔な叶音の問いに、望美は少し言い淀んだ。しばらく考えを整理すると、口を開いた。

「最初に言ったようにその人は顔立ちが整っていて悪い印象じゃなかったわ。確かに暗いとは思ったけど、その印象は時間が経つにつれて少しずつ気にならなくなった。

でも一方で、この人が消そうとして消し切れていない暗さはどこから来るんだろうという風にも思った。

その好奇心にも似た気持ちを持って彼と毎日世間話をするうちに、少しずつ惹かれていったのかもしれない。」

遥香が首をかしげながら言った。

「よく分からないんだけど、それって結局好きってこと?」

望美は言った。

「好きと断言できるわけじゃないの。私が言っているのは『好きなのかもしれない。』ということ。現時点で言えるのはそれだけ。あと断言できるとすれば、私は間違いなくその人に興味を持っているということ。その人の内側に押しやられたものが何なのかも知りたいしね。

まだそんな段階なんだけど、私がその『好きなのかもしれない。』ってことを認めようと思ったのは、前回遥香の話を聞いたからなんだよ。」

叶音も遥香も顔を見合わせた。望美の言わんとしていることが伝わっていないようなので、望美は続きを語った。

「ほら、前回遥香はその19世紀的な青年と会って、機会があればもう一回会って話をしたいって言っていたよね。そのために『しらいと』の店員さんにも伝言を頼んで。それって凄く行動力あると思うし、ポジティブだと思う。

そんな遥香の様子を見ていたら、私も自分の身の回りで、私が行動を起こすことで変えられるものがあるんじゃないかなって思ったんだ。そして、その『変えられるもの』っていうのが、その半年間毎日窓口に来ている男の人との関係だったの。ううん、『変えられるもの』と言うよりは『変えたいもの』なのかもしれない。

今までみたいに、ただなんとなく親しげな雰囲気で世間話をしているだけでも全然かまわないと言えばその通りなんだけど、折角その人が私に対して好意を持っているのなら、私の方からも一歩歩み寄ってみても良いかもしれないと思ったんだ。」

少し頬を染めながらも、確かな口調で語る望美を見て、叶音と遥香は喜んだ。

「そう言ってもらえると私もあの話をした甲斐があるよ。」

遥香はまるで自分の手柄であるかのように喜んだ。叶音は二人の友達がそれぞれに新たな出会いを持ち、前向きに行動しようとしているのを少しまぶしく思った。

「二人とも良いわねぇ。なんだか私だけ置き去りにされたみたいな気がする。私も二人を見習って行動していかなきゃ駄目だね。」

そう言って笑う叶音に、遥香は冗談めかして言った。

「叶音は綺麗なんだから、その高すぎる外見のハードルさえ下げればいくらでも良い人は見つかると思うんだけどね。」

遥香が言うことにも一理あると考えた叶音は、「おっしゃる通りでございます…。」とやはり冗談めかして答えた。そんな二人のやり取りに望美は微笑みながら、「でも、遥香の言うように叶音なら本当にすぐいい人が見つかると思うよ。」と優しくフォローした。

二人の励ましを受け、叶音は少し背筋を張って見せて答えた。

「よし、私も二人に続けるように前向きに生きて行くぞ。」

威勢のいい宣誓に二人はつられて笑った。その夜も、終電間際までオールドマップで酒を飲み、各自帰っていった。


翌週の土曜日、叶音が死んだ。


正確に言えば、小杉叶音は殺された。

そのことを遥香に知らせたのは、望美だった。望美は電話口で泣きじゃくって、何を言っているのかよく分からなかった。辛うじて、「テレビ、テレビ。」と繰り返しているのが聞き取れた。

いつもは穏やかで冷静な望美がこんなに取り乱しているということは、ただごとではないことが起きたのだと思い、電話越しに望美を宥めながらテレビの電源を入れた。NHKのニュースで、見慣れた叶音のアパートが映されていた。画面下のテロップには「アパート住民、首を絞められ死亡」という文字が表示されていた。その風景と文字を見た瞬間、遥香の心臓は激しく脈打ち始め、それまで望美にかけていた言葉も途絶えた。男性アナウンサーがNHK独特の深みのある穏やかな声で事件を伝えていた。画面が切り替わり、警察官が叶音のアパートに出入りしている様子とともに、叶音の顔写真と名前が画面端に映し出された。小さな四角形に切り取られた証明写真のような叶音の顔写真。遥香はそれが一昨年の夏に遥香たち三人で旅行に行ったときに撮った写真から引用していることに気付いた。叶音は、あの時の写真を現像して部屋に飾っていたし、実家にも送っていたはずだ。旅行写真の楽しそうな顔の下には、極めて無機的な書体で「小杉叶音(26)」という文字が並んでいる。明るく楽しそうな表情の写真と、必要最低限の情報を伝える素っ気ない文字の与える印象はとてもアンバランスだった。

アナウンサーは淡々とした調子で事件を伝えていた。

「アパート住人の小杉叶音さんは、昨夜11時過ぎに自宅で首を絞められて殺されているのが発見されました。現場には争ったような形跡はなく、また金品などを盗まれた形跡もないので、警察は被害者と顔見知りの人物の犯行であると見て捜査を進めています。」

アナウンサーの言葉は、真っ白になっている遥香の頭の中に厭らしいくらいに染み込んできて、遥香にこれでもかというくらい叶音が死んだ事実を突きつけた。

電話の向こうでは相変わらず望美が泣きじゃくっていた。遥香は叶音の身に起きた恐ろしい現実と、自分に降りかかった決定的な喪失を実感した。涙は流れなかった。感情が受け止めた現実についてきていなかった。遥香は感情の籠らない呆然とした声で望美に言った。

「落ち着いて、望美。私もいきなりのことで、正直どう考えていいのか分からないの。少し時間を頂戴。落ち着いて、もう少しまともな気分になったら、また連絡するわ。」

望美は電話越しに「うん、うん。」と答え、電話を切った。最後まで泣き止むことは無かった。

遥香は寝起きのぐしゃぐしゃな髪をかき上げ、しばらくテレビの報道を見続けた。しかし事件はまだ発覚したばかりのようで、それ以上新たな情報は上がってこないようだった。じきにニュースは中東の不安定な情勢を伝え始めた。テロ組織がまた文化遺産を破壊しているようだったが遥香にしてみればどうでも良いことだった。遥香はテレビの電源を消すと、ベッドに倒れ込んだ。今日は日曜日だし、今はまだ午前8時を回ったばかりだ。本当なら一週間の中で一番幸せな時間帯のはずだった。だが、起きて早々に遥香は自分から大事なものが失われたことを突きつけられてしまった。叶音が死んだ。今まで望美と叶音と三人で、いろんな場所に行き、いろんなことをし、いろんな話をした。もう既に、その三人の時間はどこにも存在しない。その事実が、ベッドに横になっているうちにじわじわと遥香の胸に食い込んできた。遥香は声を押し殺し、顔を枕に埋めながら泣いた。いつまでも、いつまでも泣いた。何度も呼吸困難のようになって咽かえった。それでも遥香は泣き止まなかった。


遥香が泣き止んだのは、玄関の呼び鈴を鳴らす音が聞こえたからだ。無視してしまおうと思ったが、呼び鈴はしつこく何度も鳴った。くぐもった声で「すみません、塚元さん。塚元遥香さん、いらっしゃいませんか。」と呼ぶ声が聞こえた。玄関先で名前を連呼されるのも嫌だと思い、仕方なく泣きはらした目のまま玄関先に立った。覗き穴から外の様子を窺うと、スーツ姿の男が二人立っていた。遥香は扉のチェーンをかけ、パジャマのボタンを一番上まで留めてから恐る恐る玄関の扉を開いた。

玄関先に立った男は年配の男と二十代と思われる男の二人だった。年配の男の方が、目に見えて愛想笑いと分かる笑みを浮かべ、親小さな子供に言い聞かせるような口調で言った。

「ああ、塚元さん。お忙しいところすみません。ああ、私たち怪しいものではありませんのでご安心ください。」

遥香は「怪しいものではないので。」なんて言い回しをする人が、今でもいることに驚きながらも、警戒したままじっと男を見つめていた。

「ああ、私たちは警察です。私は狭間、こっちは小川といいます。神奈川県警の刑事です。

ああ、そのご様子だと既にお友達の事件はご存知のようですね。ええ、小杉叶音さんのことです。ああ、お心を痛めていらっしゃるところ、誠に申し上げにくいのですが、その事件のことでぜひ塚元さんに協力していただきたいのです。」

二人の警官はよく刑事ドラマで見る場面のように、スーツの内ポケットから警察手帳を取り出して、よく見えるように広げて見せた。狭間良平と小川辰彦という名前が書かれていた。遥香は警戒心を一段階だけ解いて、それまでよりも少しだけ扉を広く開けた。

「塚元遥香さんは、亡くなった小杉叶音さんと親しかったと聞いています。頻繁に会っていたこともあると。何か最近の小杉叶音さんの様子で気付かれたことや、気になっていることが無いか伺いたいのです。」

年配の狭間の隣に立つ体格の良い若者が口を開いた。

「今、ここで、ですか?」

遥香が恐る恐る尋ねると、狭間が右手をブンブンと勢いよく振りながら答えた。

「ああ、いやいやいや。流石にここでは近所迷惑でしょうし、立ち話の長話もなんですからねえ。ああ、出来れば私たちと一緒に来ていただいて、ああ、署の方で話を聞かせてもらえればと思っとるんですがね。」

「事情聴取、というやつですか?」

狭間はさらに愛想笑いの度合いを強めた。

「ああ、いやあ、そう構えるようなものでもないですよ。ああ、確かに事情聴取と言えばそうですが、事件に関することを聞くというよりは、被害にあわれた小杉さんの人となりについて、かねてからのご友人であった塚元さんに教えていただこうと、ああ、こういうわけなんですね。」

「叶音のことをお話することが、犯人を突き止める助けになるってことですか?」

小川が太い首を縦に動かして力強く答えた。

「必ず。伺った情報をもとにして、突き止めて見せます。」

遥香は腫れぼったくなった目元をごしごしと揉み解し、いつもの現実的で実務的な自分自身を取り戻して言った。

「こちらこそ、お話をさせてください。」


パジャマから着替え最低限の身支度をするために、15分ほど時間を貰ってから、遥香は狭間と小川に連れられてパトカーに乗った。パトカーに乗るのは当然ながら初めての経験だったが、今の遥香にはそんなことどうでも良かった。

警察署に着くと小さな会議室に通された。ドラマではコンクリートで四方を囲まれたマッチ箱のような小さな部屋で事情聴取をするし、遥香もそれを覚悟していたのだが思っていたよりも小奇麗な部屋に通されたので些か肩透かしを食らった。

それを素直に二人の刑事に伝えると、年配の狭間が笑い声を上げた。この時の笑いは愛想笑いではなかった。

「ああ、確かにね。そういうイメージでしょうな。分かりますよ。ああ、でもねえ、流石に容疑者でもない善意の情報提供者をあんな部屋には通せませんよ。失礼ってもんです。ああ、確かに、イメージされたような取調室も署内にはありますけどね。塚元さんのような協力者をそこに通すようなことはまずありません。我々が言うのも何ですが、あの部屋はストレスが溜まるばかりで、良いことはありませんからな。」

「お飲み物をお持ちします。」

小川はそう言うと大きな図体に似合わない、小さなメニュー表を遥香の前に差し出した。遥香は「それじゃあ、アイスコーヒーで。」と答えた。

暫くすると小川がアイスコーヒーを三つ持って部屋に戻ってきた。狭間はガムシロップとミルク両方をグラスに注ぎ、ストローでかき混ぜた。小川は何も入れずストローも差さずに直接グラスからコーヒーを呷った。

「ああ、塚元さん、どうぞご遠慮なさらずコーヒーをどうぞ。」

狭間は署に戻ってリラックスしたのか、玄関先で話した時よりも少しだけ本当の笑顔に近い表情を浮かべていた。しかし、遥香はここで落ち着いて休憩をするつもりはなかった。

「ありがとうございます。でも、今は叶音の事件について協力したいし、知りたいんです。一体、叶音に何が起きたんですか?」

狭間は「ズズッ」とコーヒーを啜ると、ストローから口を離した。

「ああ、そうでしたね。うん。あの、塚元さんは今回の事件をどの程度、ああ、ご存知ですかね?」

「いえ、あまり。私も今朝起きて、友達に事件のニュースが報道されていることを教えてもらって、NHKのニュースを見ただけですので。昨日の夜11時に叶音が、その、死んでいるのが見つかったということと、首を絞められていたということだけで。」

不意に遥香の両目にジワッと涙が溢れてきた。言葉にしたことで、こんなにも感情が高ぶるとは遥香自身思っていなかった。慌てて小川がボックスティッシュを差し出した。

「すみません、泣くつもりはなかったんですけど。」

狭間は同情心たっぷりの表情を浮かべながら言った。

「ああ、いい。いい。無理なさらんでもいいんですよ。まあ、あまり事件のことをご存じないということですので、塚元さんが落ち着かれるまで、ああ私らの方で事件のことを少し説明させてもらいますね。小川。」

そう言うと、小川刑事が事件の詳細について話し始めた。

報道されていた通り、叶音が発見されたのは昨日、4月2日土曜日の夜11時16分。首を絞められて殺されているのが見つかった。発見したのは二つ隣の部屋に住んでいる40代の男性で、夜食を買うためコンビニに向かおうとしたところ、叶音の部屋の前に「助けて。」と書かれた紙と、その上に置かれたスマートフォンを見つけた。スマートフォンは叶音のものだった。

「塚元さんもニュースでご覧になったこともあると思いますが、こうした書置きと貴重品を玄関前に置いておく殺人事件が、ここ横浜ではたびたび起こっています。この発見者も、事件のことをご存じだったようで、慌てて近所の派出所の方に電話連絡を入れてくださいました。」

小川が話したように、似た事件がこの三年ほど、横浜市を中心として立て続けに起こっていた。事件が起こる周期はまちまちで、二週間連続で起きることもあれば、数か月全く音沙汰なしということもあった。この奇妙な書置きの他にも、犯人は必ず被害者を絞殺するという決まったパターンがあった。また、被害者は決まって女性だった。殆どの場合被害者は20代だったが、たまに30代の女性も被害にあっていた。三年以上に渡って恒常的に行われる殺人事件は、神奈川県警にとって正に目の上の瘤のような存在であり、その解決に躍起になっていた。

「じゃあ叶音は例の殺人犯に殺されたっていうことですか?」

狭間は申し訳なさそうに上目遣いで遥香を見て言った。

「我々は今、その線で捜査をしております。ああ、仰りたいこともよく分かります。早く犯人を逮捕できていればお友達は被害に合わずに済んだと。私共としても、ご意見には賛成ですし、一刻も早く逮捕しようと努力し、行動しております。ですので、少しでも多くの情報を頂ければと、ああ、こう思っておる次第です。」

すっかり恐縮してしまった狭間をよそ目に、小川が言った。

「もう少し、現場の様子をお話しましょうか?」

小川の申し出に遥香は頷いた。

「ええ、他にも教えてほしいことがあります。叶音はどんな状態だったんですか?苦しんだんでしょうか?それと、その犯人に乱暴されてしまったんでしょうか?」

遥香は話しながら泣きたくなってきた。今自分が口にしたような出来事が無二の親友である叶音の身の上に降りかかってきたと想像するだけで、遥香自身とても辛かった。

小川は冷静に答えた。

「まず最初に安心していただきたいのですが、小杉叶音は強姦…失礼、性的な乱暴を受けた形跡はありません。殺されてしまったのですから、乱暴されていようといまいと変わらないとは思いますが。」

それを聞いて遥香は少し胸を撫で下ろした。

「本当ですか。…良かった。」

自分でも不思議なくらい涙が流れた。死という結果が同じであれ、その過程で受けた恥辱の有無は女にとっては大きな違いだった。再びティッシュで涙を拭うと、遥香は小川刑事に先を促した。

「死因は報道されている通り絞殺です。首を絞められたんです。これは残念ながら、苦しまれたことと思います。失禁された形跡もあります。

ただ、この犯人の他の事件でも見られた特徴ですし、この事件についても既に報道機関には知れ渡っているのですが、今回の事件についても犯人は被害者の失禁の形跡を完全に消しています。綺麗に拭き取り、汚れた下着を着せ替えたりもしています。犯人なりの美意識なのか、この犯人に共通の行動です。」

狭間も口を挟んだ。

「そういう意味では、叶音さんは犯人に下着を取り換えられており、暴行はされていないまでも女性として恥ずかしい思いをさせられてしまったかとは思います。ああ、嘆かわしいことです。」

「小杉叶音さんは下半身には下着を着け、上半身にはブラジャーのみを身に着けた状態でした。そして、その上にベッドから持ってきたと思われる毛布が掛けられていて、丁度眠っているかのような状態で見つけられました。

現場の様子から、恐らく凶器は叶音さん自身が脱いだブラウスだと思われます。遺体の近くに、くしゃくしゃに皺が付いたブラウスが落ちていました。また、遺体の首に残された絞殺のあとも、ロープや素手ではなく、布のようなもので絞められたことを示していました。」

遥香は小川に説明された状況を思い浮かべながら聞いていた。しかし、説明されたことを忠実にシミュレートしてみると、どうしても腑に落ちないことがあった。

「でも、それじゃあまるで…。」

言いかけた遥香を、小川は押しとどめて言った。

「そう。まるで小杉叶音さんが自ら洋服を脱いだようだと思われますよね。これも過去の事件から判断すると、恐らく間違いないことでしょう。この犯人の起こした事件はいずれも絞殺という一点以外で手荒な点が見られません。過去にも裸同然の状態で殺されている被害者はいましたが、ブラウスのボタンは綺麗に外され、ブラジャーのホックも自分で外したように綺麗なままでした。今回の小杉叶音さんの場合も同じ特徴がみられます。

ということはつまり、脅されていたのでないのであれば、被害者自身が進んで衣服を脱いでいったということになります。」

遥香には何が起きているのか全く分からなかった。土曜の夜に叶音は何を考え、何が起きたのだろう。遥香はただ茫然と目の前に置かれたアイスコーヒーの入ったコップ表面に浮かぶ水滴の動きを眺めていた。

「ああ、塚元さん。大丈夫ですか?少し休憩されますかな?」

狭間が心配そうな表情で尋ねた。遥香は狭間の言葉で我に返った。自分がショックを受けていても叶音のためにはならないのだ。

「いえ、大丈夫です。それで、ええと。ということは、叶音と親しい関係にあった男性が怪しいということになるんですね?」

小川は大きく頷いた。

「早い話がそういうことです。我々も、小杉叶音さんと交際していた、あるいは小杉叶音さんが思いを寄せていた男性が犯人なのではないかと考えて捜査をしているところです。今回、塚元遥香さんに来ていただいたのも、小杉叶音さんと親しかったあなたなら、我々の捜査よりも深いところを知っているのではないかと思って、お連れした次第です。」

やはり、と遥香は思った。ここまでの話だと、小川刑事が言うように、叶音と知り合いで尚且つ叶音が思いを寄せている相手だという気がした。遥香が知る限り、一人しかいなかった。

「叶音が最近まで付き合っていた人がいて…。」

「存じています。」

またもや小川が割り込んだ。

「沖津宏一さん、ですね。彼については我々も把握していて、既に沖津宏一さんに事情を伺って、昨夜のアリバイも確認しています。」

警察の捜査が早いこと以上に、沖津の居場所も警察にとってみれば簡単に見つけられることに驚いた。二人に沖津の居場所が今まで分からなかったということを伝えると、二人とも少しにやりと笑った。

「ああ、人の居場所を突き止めるなんてのは、よっぽどの場合でなければ、ああ、我々の仕事の中では一番楽な部類ですからねえ。」

小川の話では、沖津宏一がしばらく連絡を取っていなかった理由は分からないが、この事件にはかかわっていないことが確認されたということらしかった。しかし、そうなってくると、遥香にも全く犯人の見当がつかない。

「さっき話に出た沖津さん以外に、私が知っている叶音周辺の男性はいません。ただ、沖津さんと別れたあと、何度か叶音と私ともう一人の友達と飲んでいた時に、叶音は『私も新しい出会いを見つけたい。』みたいなことを言っていました。それが確か、二週間くらい前、ええと3月18日。金曜日でした。そして、先週も一緒にお酒を飲みに行ったんですけど、その時はまだ新しい出会いの話は何もしていませんでした。それは、3月25日の金曜日の出来事です。」

小川は身を乗り出して聞いた。

「具体的な出会いとか相手の話でなくても、何かそれを匂わせるような発言や素振りはありませんでしたか?」

遥香は考え込んだ。どんな僅かな気付きでさえ、叶音の無念を晴らす助けになるかもしれない。そこで叶音の行動について可能な限り思い出したが、これと言って決定的な何かを思い出せるわけではなかった。

しかし、何が捜査の助けになるか分からないと思い、思い出せる範囲で直近の飲み会で語られた話や、叶音の様子を伝えた。遥香が語り始めると、狭間が聞き役に戻り、小川は遥香が語ったことを逐一、記録用紙にメモした。

2時間近くかけて、出来るだけにつぶさに全てを話した。話が終わるころには小川も右腕を摩りながら、記録用紙の束を眺めていた。

「私がお話しできるのはこれくらいです。お役に立てればいいんですけど。」

「ああ、いやいや。大変貴重なお話を聞かせていただきました。我々の方でも徹底的に調べ上げていきますんで、ああ、また何かありましたらご連絡ください。」

狭間は真面目な顔で名刺を差し出した。小川も続いて、遥香に名刺を差し出した。

すると、小川が急に思い出したように声を上げた。

「そうだ、塚元遥香さん、大事なことを尋ねるのを忘れていました。小杉叶音さんはご自宅の鍵のスペア、合鍵を作っていましたでしょうか?そして、その合鍵を持っている人物をご存じないですか?」

そう問われて、遥香は思わず首をひねった。合鍵?記憶をたどった。

「そういえば、叶音の家に行ったとき、玄関先に鍵が2つぶら下がっていたのを覚えています。一つはいつも叶音が持ち歩く鍵で、もう一つはスペアだって言っていました。合鍵はあるけど、多分持っている人はいなかったはずです。例の沖津さんも同棲しているわけではないし、渡していなかったはずです。でも、それがどうかしたんですか?」

遥香の話を聞いて小川は凄い勢いで記録用紙に書き加えた。

「貴重な証言ありがとうございます。合鍵はあったんですね?いえ、小杉叶音さんの玄関の鍵は、発見当時締まっていたんですよ。呼べど叩けど出てこないので、アパートの管理会社に連絡し、マスターキーを持ってきてもらって玄関を開けたくらいです。

部屋の中を調べても鍵は彼女のバッグの中に入っている一本だけで、合鍵が見つかりませんでした。」

「と言うことは、犯人がそれで鍵を閉めて、鍵は盗み出したということですか?」

二人の刑事は顔を見合わせ頷いた。

「ああ、どうやらそのようですな。こりゃ確かに、ああ貴重な証言です。例の連続殺人犯は犯行後に合鍵を持ち出して施錠してから現場を去るというこだわりがあるようでしてね。奴のこれまでの犯行で施錠しなかったのは、そもそも合鍵を作っていない被害者の場合のみでした。

今の証言で、今回の犯行も例の犯人の仕業である可能性が高まりました。もし、また何か思い出したら、いつでもいいので、ああ、さっきの名刺の番号に電話してください。直通で私らのデスクにかかるようになっています。」

遥香は二人の刑事に見送られ、警察署をあとにした。叶音の巻き込まれた事件のことが大分客観的に見えてきた。今回の事件、望美はどの程度知っているのだろう?遥香は家に帰りつくとすぐに望美に連絡した。


遥香と望美はいつも通り「オールドマップ」にやってきていた。いつものテーブル席に対面して座り、いつも通り遥香は強めのウィスキーを両手に握りしめていた。望美もいつも通り甘めのピーチフィズを注文し、目の前にグラスが置かれていたが、望美はグラスには触れず、両手は固く握られたまま、彼女の両膝に押し付けられていた。

いつも通り小さな音量でジャズが流れる「オールドマップ」店内でいつもと違うのは、ただ叶音がいないということだけだった。決定的で、取り返しのつかない違いだった。

既にニュースでも報じられているので、猿渡と石垣も当然ながら、叶音が巻き込まれた悲劇について知っていた。猿渡は二人の席までやってくると一言「私も今回のことは残念です。お二人は尚更でしょう。」とだけ言って、一礼し、カウンターに戻っていった。二人は猿渡の後姿を眺め、彼がはっきりと気落ちしていることを感じ取った。きっと私達も猿渡と同じような空気を漂わせているに違いないと二人は思った。

「それで、どう?少しは落ち着いた?」

遥香が切り出した。望美の目は充血し、腫れぼったくなっていた。これもまた、自分自身も同じ顔をしているのだろうと遥香は思った。一日中、泣き腫らして過ごしていたのだろう。

「うん。朝は私も気が動転しちゃって…。よく意味が分からない電話をかけちゃってごめんね。落ち着いたかと聞かれると、表面上は落ち着いたつもりだよ。だけど、内心は…。」

「分かるよ。私だって望美と同じような状態だよ。内心落ち着けるわけない。そもそも、どうしてこんなことになったのかさえ、まだ分からないんだから。」

遥香は思わず涙声になって言った。起きてすぐに知らされた悪いニュースを聞き、遥香は泣いた。次に二人の警察官と出会い、警察署で二時間以上話をしたことで、一時的に落ち着きを取り戻した。しかし、ここに来て望美と会ったことで安心したのだ。緊張の糸で無理矢理締め上げていた感情が、糸が解けたことで一気に溢れだしそうになった。

望美は遥香の感情の揺らぎを感じ取ったのか、慌てて遥香のフォローに回った。

「そうだよね。まだ、何も分からないんだもんね。でもね、私少しだけ事件のことで分かったことがあるよ。」

「分かったこと?」

首を傾げる遥香に、望美は続けて言った。

「そう。実は私、今日のお昼ぐらいから警察の事情聴取に行ってきたんだ。そこで、私…。」

「えっ?望美もなの?私もだよ。私も今朝ニュースを見てからしばらくして、家に警察官が来て、警察署に呼ばれたんだ。事情聴取に協力してきたの。」

望美も遥香の反応に驚いていた。二人はそれぞれ、自分が話したことや警察官から聞いたことを伝え合った。二人とも神奈川県警の本庁で事情聴取を行われていた。時間帯もほとんど同じだった。今回の件で二人以外に事情聴取を行われた人物がいるかは分からない。もしかしたら沖津宏一も呼ばれたのかもしれない。遥香の事情聴取の中で小川という若い刑事が沖津宏一の動向について触れていた。あれも単に住所を調べ上げて玄関先で尋ねただけということも無いだろう。恐らく、警察も今回の件では真っ先に叶音の元恋人である沖津宏一を怪しんだはずだ。誰よりも先に彼を呼び出したことだろう。

他には誰に事情聴取を行ったのだろうと遥香は思った。叶音の両親は千葉県に住んでいる。そう遠い距離ではないし、事情聴取を受けていると見るのが妥当だろうと思った。

二人が警察官に話したことや、警察官から聞いたことは概ね同じだった。恐らく警察官も叶音の交友関係について間違いのない情報を得るために、遥香と望美の二人を呼んでそれぞれに事情を聴いたのだろう。結果的に二人が話した内容は齟齬のないものだったので、警察も信用してくれたことだろう。

「ねえ、私、警察の人に叶音のことを色々と話していて思ったんだけど…。」

互いに今日起きた出来事を伝え終わった後に望美が言った。

「叶音はさ、きっと誰かに出会って、その人を好きになってしまったんだよ。そう思わない?だって、最後に『しらいと』で飲んだ時も、その前にここで飲んだ時も、新しい出会いを探したいみたいなこと言っていたじゃない。あの後、最後に会ってから事件が起きるまでに、その出会いがあったんだよ。そして、その人を家に呼んでしまったんだ。」

遥香も、その意見に同意した。沖津宏一が犯人でない上に、部屋も荒らされてなくて強盗じゃないのなら、そうとしか考えられない。しかし、いくら遥香と望美が事件について考えたところで、事件の真相にはたどり着けそうになかった。

「悔しいけど私達には犯人の見当もつかない。望美もそうでしょう?仮に叶音が誰かと新たに出会っていたとしても、私はそのことについて叶音から何も聞いてない。」

「ひょっとしたら、叶音もこの週末にでも新しい出会いについて私たちに報告しようとしていたのかもしれないね。」

二人はそのまま暫く黙した。幸い、今日は客が多く、二人が黙ったままでも店内には絶え間なく人の話し声が響き続けていた。耐え難い静寂はそこには無かった。

「今日はもう帰るね。」

望美が口を開いた。

「朝から泣き疲れて、慣れない事情聴取にも行って来て、もうくたくた。遥香も今日は早く寝た方が良いよ。」

そう言う望美の目は確かにとろんと眠そうだった。泣きはらした目が尚更眠そうな印象を与えているのだった。

遥香にしても今日一日の疲れは尋常ではなかった。望美の言うように今日はもう帰って眠った方が良いと思った。二人は残ったお酒を飲み干すと会計を済ませた。その際、猿渡は再び深々と頭を下げ、「ご愁傷様です。」と言った。石垣もそれに倣った。

二人は入り口の木製扉を押し開いて、再び夜の横浜へと足を踏み出した。二人とも横浜駅までは同じ道のりだった。歩きながら遥香が言った。

「でも、叶音は少なくとも新しい出会いを見つけることはできたんだよね?きっと。」

望美はそれについて少し考える素振りを見せながらも歩き続けた。そして言った。

「確かに、そうでしょうね。ただ、不幸にも、恐らくその相手は…。」

「もちろん、最悪な相手だったことは間違いないと思うよ。でも、少なくとも叶音は最後に求めていた出会いを見つけることができたんじゃないかな。」

遥香は半ば自分に言い聞かせるように、そう言った。望美はまた遥香の言った言葉について吟味をしているようだった。

会話が無いままに、横浜駅改札前に着いた。望美は京急線、遥香はJR線を利用する。二人はJR線改札前で立ち止まった。望美が言った。

「さっきの話だけど、遥香が言うように叶音は求めていた出会いを見つけることができたんだと思う。でも、それは叶音が心の底で求めていたものと引き換えに得られた出会いでしょう。そう考えると、どうしようもなく…。」

「そうね。分かるよ。ごめんね、私も変なことを言っちゃったみたい。」

「疲れているのよ。」

二人は互いに「気を付けてね。」と声を掛け合い、各々の電車ホームに向かった。

遥香は電車がホームに来るまでの短い時間、叶音のことを考えずにはいられなかった。望美が言っていた「叶音が心の底で求めていたもの」というのは、きっと誰もが求めている、多くの人が手にすることのできる、普通の幸せのようなものだろう。叶音はよく沖津宏一との将来について楽しそうに遥香たちに語っていた。沖津宏一が急に音信不通になるまでは、三人の中で叶音が一番最初に結婚し、当たり前の家庭を築いていくものだと思っていた。本人もまたそれを望んでいるようだった。だが、それは最早叶わぬ願いだった。それは大それた願いではないはずだ。多くの人が実現していく人生の通過点に過ぎない。しかし、叶音には永劫叶わぬ夢となった。

「私は叶音が求めたような生き方ができるのだろうか?」と、遥香は思った。叶音が求め、与えられることなく終わったもの。少なくとも、それは遥香自身が動かなくては与えられないはずだ。

遥香は、つい二週間前に自分がした約束を思い出した。「しらいと」に二週間に一度は訪れると約束をした。店員と交わした約束だが、自分自身に立てた誓いとも言える。この約束を守ることが、叶音が求めたものを得るための一歩であるような気がした。今はまだとても足を運べる状態ではないが、落ち着いたら訪れてみようと遥香は思った。

目の前で電車が停止した。たくさんの人が降りてくる。夜はまだ始まったばかりで、人々は一様に急いでいるようだった。彼らの人波を避け、電車に乗り込むと、エアーコンプレッサーの音を鳴らしてドアが閉まった。電車は遥香を彼女の家の最寄り駅へと運んで行った。

その夜も、横浜駅周辺には多くの人がやってきていた。この街は夜を過ごすには明るすぎた。その明るさに集められる羽虫のように人もまた寄せ集められていた。明かりに集まった人々は、そこで綺麗に輝く光を手にすることができるのだろうか。あるいは光の熱に焦がされてしまうのだろうか。光に寄せ集められるのは羽虫だけだが、羽虫に寄せ集められる鳥などの捕食者もいる。現状、横浜駅周辺に集まる人々の中に鳥のごとき人間も混じっているのは間違いのないことだった。

そんな不穏な空気を孕みながらも、街はやはり人々を呼び寄せ続けた。人々も、悪いニュースなど幾らも気にせずに、街に集まり続けた。悪いニュースは身近なところで囁かれなければ、何の意味も無いのだ。

横浜駅西口は今夜も下品な光と、底の見えない人々で賑わっていた。

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