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夜行く人々  作者: 能上阿萬
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段ボールルーム

男の職場は横浜市西区みなとみらいにあった。知らない者にとって「横浜」というと、それだけで華やかな都会のイメージを持つことが多いが、実際は都会であっても華やかなんて言葉とは縁遠い汚い場所であることは当の横浜に住んでいる人にとっては周知の事実だった。

しかし、ここ「みなとみらい地区」だけはそうした美しい「横浜」のイメージを概ね守ることができている数少ない場所だった。

海を臨むこの場所は、その多くが埋立地であるために区画整備がその他の場所に比べて行き届いていた。謂わば、土地造成の段階から街のデザインに手を入れ、理想的な都市を作ることができた場所なのだ。その歴史は古く、最初に海を埋め立てたのは明治時代にまで遡る。そこから年月をかけてじわじわと侵食するかのように工事を重ね、海面を土が覆って行った。現在のような形に作り上げたのは今から30年ほど前のことだ。現在では、かつての海面上に美しいビルや観覧車、ライブドームなどが鎮座していた。

中でもひときわ目を引くのは桜木町駅から徒歩二分ほどにある大きなビルだ。駅から出ると嫌でも目に入るだろう。ランドマークタワー。その巨大な楼閣の中に彼の勤めるオフィスがあった。

 高層39階の一角に居を構えたオフィスの入り口にはブロンズの板に「クラウン設計株式会社」と社名が刻印されていて、見栄え良く金色で装飾が施されていた。クラウン設計株式会社は、主に日本の遊園地に置いてある遊具の設計および製造を専門に扱う会社だった。遊園地の遊具以外にも公園向きの遊具も作らないことはなかったが、この会社では主にメカニカルな遊園地向け遊具を扱っていた。一般の設計会社が扱うような住宅や公共インフラの設計などは取り扱っていなかった。極めてニッチなジャンルのみを扱っていたが、それでもこの横浜市の一等地の巨大ビルの一角にオフィスを構えることができていたのは、そもそも遊園地遊具という商品を設計し製造する会社が日本国内に僅か三社しか存在せず、殆ど独占状態の市場だったからだ。この会社の他に東京に一社、京都に一社のみ。それで日本全体の遊園地を網羅していた。

 設計した遊具は煌びやかな物だが、業務内容は殆どが細かな設計作業で地味というより他なかった。その男も今日一日ひたすら遊具の接地部分の強度を上げるためにパソコンを使って様々な試算をしていた。

 それについて、とりあえずの仮説を立てるところまで辿り着いて、本日の業務を終了した。高層の窓からは、橙色に染まった海が見えた。定時だ。

 この仕事は大抵の場合、大掛かりなプロジェクトの一環として仕事を受注する。個人が個人の都合に合わせて、好きな時に建設を依頼する一般住宅と異なり、遊園地の遊具の設計を頼むというのは何年も前から綿密な計画を立てて実行するものだ。今回の依頼も実際に工事に着工するのは二年後であり、一日二日の残業を必要とするような、規模が小さく、ちまちまとした仕事ではなかった。だから、この職場では残業をする者は極めて稀だった。

 それに男は仕事の後に、ある予定を立てていた。パソコンの電源を切り、デスクの上の設計資料を鍵のかかる引き出しに仕舞った。最後に、僅かにコーヒーの残ったマグカップを右手で持ち、休憩室の流し台に向かった。

 そこでマグカップを洗い、社員共用の食器棚に収めた。

 ついでに手を洗い、ハンカチで手を拭きながらデスクに戻る途中、女性社員に呼び止められた。男は手に持っていたハンカチをダークスーツのズボン右ポケットに入れて振り向いた。

 「あの、今晩同期のみんなと一緒に飲むんですけど、良かったら一緒にどうですか。」

 女性社員は頬を赤く染めて言った。確か、男よりも10は若い社員だ。昨年だか一昨年だかに入社してきたばかりだ。以前から男の周りをちょろちょろとうろついてみては期待を込めた眼差しで見つめたり、甘い声で話しかけてきたりしていた。彼は彼女の意図を充分に汲み取りながらも、済まなそうな表情を作って答えた。

 「ごめんね。行きたいのはやまやまなんだけど、これからちょっと用事があるんだ。また機会があったらね。」

 「ええ…。分かりました。」

 彼女の気落ちがあからさまに声色に反映されていた。期待に背くのは申し訳ないが、彼には他にやりたいことがあった。

 デスクに戻ると事務社員の内藤が彼を待っていた。

 「お、もう帰るところだろ。良かった、間に合って。先月の出張旅費が出てるから帰る前に受け取ってくれよな。俺もこの仕事を終えて週末を迎えたい。」

 内藤は彼と同期採用の事務員であり、主に会計事務を担当していた。歳が近いこともあり、割と仲良く話す間柄だった。

 「臨時収入か。ありがたいね。」

 「だろう。お前の趣味に合うようなお高いスーツは買えないだろうが、今夜楽しく酒を飲むくらいの金はあるぞ。」

 そう言って内藤は楽し気に笑った。

 「酒は飲んだら終わりだ。新しいスーツを買うときのために貯金しておくよ。」

 彼は冗談めかして言った。内藤も「つまらない奴だな。」と憎まれ口を叩いて笑う。

 「まあ、金の使い方は好きにするがいいさ。俺が欲しいのはお前の受領印だけだ。さ、ここに書いてくれよ。」

 内藤は彼の前に領収書と出張命令簿を差し出した。男はその二枚の紙に判子を捺すとともにボールペンで名前を書いた。「宮前雅史」と。


 宮前は軽やかな足取りでオフィスビルから出てきた。装いはシックなバーバリーのスーツ。常にスーツを着こなすのが彼のポリシーだった。

 彼のクローゼットの中にはたくさんのスーツが吊るされていた。毎日、日替わりで着ていっても全部のスーツに袖を通すのに一か月以上かかるほどだ。個人が保有するには常軌を逸していると言っても良い数のスーツがあった。いずれも大衆店で安売りをしているような代物ではない。一着の値段で、一人暮らしの慎ましい修道女なら三か月は生活できるだろう。

彼がスーツに稼ぎの大半を注ぎ始めたのは、まだクラウン設計に入社する前のことだった。当時、彼は東京にある別の遊園地遊具設計会社に勤めていた。クラウン同様、その会社も規模の大きな会社だった。なんと言っても日本に三社しかない遊園地遊具設計会社であり、東京に居を構えている分、関東以北はもとより名古屋周辺まで手広く商売をしていた。(近畿以南は京都の設計会社の縄張りだった。)

大学卒業後すぐに彼は東京の設計会社に入社した。大企業に入社したということもあり、それまで安物のスーツしか持っていなかった宮前も初めてテーラーに仕立ててもらうオーダーメイドの高級スーツを購入した。自分の体にフィットする感覚を感じながら初めての仕事に取り組んだ。

様子が変わってきたのは入社後三か月ほど経ってからだった。彼は早くも二着目の高級スーツを仕立ててもらっていた。その後も、一か月ほどで新たに一着。さらに翌月も一着。二週間後にも一着と日を追うごとに増えて行った。

当時の彼は自分のやりたいことと、現実のギャップに苦しんでいた。もともと彼はメリーゴーランドの設計をしたくて遊具設計の会社に入社した。彼にとってメリーゴーランドは一番心惹かれる遊具だった。派手な仕掛けがあるわけではないし、ひたすら同じところを回っているだけだが、それでも木馬や馬車に乗っている人々はとても幸せそうな表情をしていた。速さで魅せる遊具の良さも分かるし、アニメや映画とコラボレーションした大掛かりなアトラクションの良さも分かるが、彼にとってはメリーゴーランドの魅力には勝てなかった。子どもの時分に彼と彼の妹と一緒にメリーゴーランドに乗ったときの楽しい思い出が、彼にとって回転木馬に対する憧れの原体験となっていた。「大人になったら自分が一番良いと思えるメリーゴーランドを作ろう。」と思い、子ども時代を過ごし、めでたく新卒で遊具設計会社に入社することができた。だが、彼の会社は主に大型テーマパーク用のアトラクションや大型のジェットコースターの設計を担っていて、オーソドックスなメリーゴーランドやコーヒーカップのようなレトロな遊具の設計からは緩やかに撤退している最中だった。彼は来る日も来る日もアトラクションのギミックとは無関係な外観の設計ばかりしていた。

その頃から彼は思うように進まない現実から目を逸らすように高級スーツを買い漁り始めた。幸い収入は多かったので、多少高額のものを買い続けても生活は成り立った。その買い物は一種の現実逃避だったのだろう。同僚は羽振りの良い新入りを見て、「身だしなみから一流になろうとしている意識の高い奴」と思っていたが、実際はストレスから浪費をしているだけのことだった。

最初の数か月はそれでも自分を騙しながら仕事をし、高級スーツを買いつつも生活費を切り詰めてなんとか成り立っていた。さすがに一か月のうちに四着の高級スーツを仕立てたときには貯金が底を尽くかと思ったが、直後にボーナスが支給されたことでなんとか残高が残った。半年後も再び同じような状況になった。恐らくそのままであれば、いずれ破産の危機が訪れたであろうが、その後とある出来事が起こり、彼はその会社を辞めた。クラウン設計に再就職したのはその頃のことだ。

クラウンは彼にとって理想的な会社だった。経営規模自体は以前の会社に一歩ひけを取るものの、メリーゴーランドを始めとして広く遊具を作っていた。彼は思うままに回転木馬たちと向き合うことのできる環境に身を置いた。それからは彼を苛むストレスも無くなり、以前のような無茶な買い物は無くなった。しかし、スーツの収集は彼にとって数少ない趣味道楽の一つとして残った。無理のない範囲で節度を守って買い続け、入社から10年経った今ではクローゼット一杯の高級スーツが並んでいるのだった。

仕事後、彼は桜木町駅から電車に乗り、横浜駅に向かった。この日は金曜日。彼のもう一つの趣味をする日だった。

相鉄線改札脇の出口から5番街方面に出ると、人波で溢れかえっていた。横浜駅西口はいつ来てもこんな有様だった。彼は人の合間を掻い潜って、地下街に降りる階段の裏手に回り込んだ。

鞄から二脚の折り畳み椅子とホワイトボードを取り出した。小汚い生け垣を背にし、折りたたみ椅子を一脚、その向かい20㎝ほど離れた位置にもう一脚を置いた。生け垣側の一脚に腰を下ろし、ホワイトボードに文字を書き付け、通りに面するようにして自分の左横に置いた。ホワイトボードには大きく「聞き屋」と書いてあり、その下には幾分小さな文字で「なんでも聞きます。どうぞご自由に。」と書いてあった。彼はこの場所で「聞き屋」として活動していた。


「聞き屋」とはなんなのか。それは商売ではなかった。それは酔狂な趣味に過ぎない。話を聞くことに報酬を要求しない代わりに、特に相手へのアドバイスをする必要もなく、単に話を聞くだけだ。宮前は10年前から、この酔狂な活動を始めていた。

彼が理想と現実のギャップに耐えきれず高級スーツを買い漁っていた頃、当時の職場の近くである池袋で、偶然「聞き屋」に出会った。宮前も最初は得体のしれない人物に対する好奇心と警戒心を抱いて話を聞いてもらった。彼が語ったのは当時の彼が置かれた生きづらい状況についてだ。作りたかったメリーゴーランドが全く作れない職場に来てしまったこと、長年の夢を叶える手立てを見失ってしまったこと、そのストレスでかなりのハイペースで高級スーツを買い続けていること、この調子で買っていくと早晩破産しかねないこと、現状を変えたいのにその足がかりが見つからないことなどを延々と聞いてもらった。

基本的に「聞き屋」は話を聞くだけで、相談役ではない。つまり、話されたことに対する個人的見解を述べる義務は持たないのだが、宮前が出会った「聞き屋」は彼に対して自分の考えを伝えてくれた。語られたのは特別なことでもなく、宮前自身もずっと考えてはいたが決めかねていた転職を勧める言葉だった。赤の他人に自分の状況を伝え、そのうえでやはり「やりたいことをやれる環境に身を置いた方が良いよ。」と背中を押してもらえたことで彼の生きづらさに風穴を開けてることができた。「聞き屋」は話すことが本分ではないので、そこでは特別に含蓄のあることを語られたわけではないのだが、却って彼の朴訥とした語り口は宮前の心に染み入った。

ほどなくして宮前は会社を辞め、クラウンに入社した。「聞き屋」との出会いが無かったら、彼は今頃高級スーツの山に埋もれ破産していたかもしれない。

転職後も彼は聞き屋に会いに行き、その都度近況を語った。そうして話を聞いてもらっているうちに、宮前も「聞き屋」として活動してみたくなった。聞き屋に「自分も『聞き屋』として活動してよいか。」と尋ねると、「別にライセンスがあるわけじゃないから、好きに名乗って良いんじゃないかな。」と言われた。その頃には宮前の職場は今の横浜市西区みなとみらいに移っていたので、彼は人通りの多さを考慮し、横浜駅西口で「聞き屋」として活動を始めることにした。これがおよそ10年前のことだった。

それからは気候が穏やかで予定のない週末の夜は大体いつもこの場所に居座った。もちろんこの活動は仕事でもないし、義務でもないから気分次第で休むこともあったが、自分とは何の接点もない人々から語られる話は面白く興味深いものだったので、別に誰から強制されているわけでもなかったけれど活動の頻度はとても高いものだった。

人々は誰かに何かを聞いてもらえることを心底望んでいる。それは宮前が10年間聞き屋として活動してきて確信したことだった。最近話をしていった人々も、仕事のできない無能な上司を持ったことを嘆く愚痴や、最近急に意識し始めた異性についての甘い想いを気の向くままに話して行った。わざわざ人に話すまでもないくだらないことや、知人に話すには小恥ずかしいようなことも赤の他人である聞き屋には話しやすいのだ。聞き屋はどんな話でも話し手に寄り添って聞いてくれるし、守秘義務も守るので秘密も保たれる。話を聞いてもらう相手としては正にうってつけだった。

今宵も何人かの人々が宮前の向かい側に座った。兄と仲違いしてしまった弟の悩みを聞いた。「かつては仲が良かったからこそ、一度こじれた兄弟関係は戻しようがなく、これからは他人と考えて生きて行こうと思う。」と男は語った。それに対して宮前は答えを持ち合わせていなかったし、男も端から答えなど求めていなかった。

脱法ハーブを興味本位で使ってしまい、深刻な後遺症に悩む女の話を聞いた。記憶力が目に見えて落ち、時間の感覚が引き裂かれた感覚を味わっている。「気が付いたら延々と同じことを考え続けて、思考が先にぐるぐると進まないの。」女はそう言って頭を抱えた。確かに女の語り口には何かしら躓きのようなものを感じた。それも脱法ハーブの後遺症の一つなのだろうか。女は宮前にひとしきり語ると、西口5番街に消えて行った。ドラッグジャンキーと横浜駅西口の組み合わせには希望は見出せなかった。

仕事に疲れた心理カウンセラーの男の話を聞いた。他人の悩みを聞いて適切なアドバイスを処方するのは楽なことではなかった。時にはクライアントの悩みの重さに引きずられてしまい、自らのメンタルヘルスに影響を受けてしまうこともあるらしい。まだ若いカウンセラーだった。「聞き屋さんはいろんな話を聞いていて重荷に感じることは無いんですか?」と尋ねてきたが、宮前は持ち前の愛想の良い笑顔を返すだけだった。聞き屋はカウンセラーと違って適切なアドバイスを返す責任が無い。だからこそ宮前は今まで多くの人の深層に触れてきていながらも、自分自身が影響を受けてしまうことが無かったのだ。

酔ったサラリーマンが絡んできた。特に何を聞いてほしいというわけではなく、ただ聞き屋についての疑問をぶつけるだけの人だ。10年やっていれば、こんな人たちには本当に数えきれないくらい会った。正直な話、一晩活動すれこのタイプの人は必ず一人以上やってきた。一人であれば少ないくらいだ。おまけに目の前の酔客は酒の勢いに任せて口汚く宮前を罵った。「おめぇ、こんなことやって何しようってんだよぉ。胡散臭いんだよぉ、お前はよぅ。」顔を真っ赤にしながら怒鳴る男にも控えめな笑顔を向けてその場をやり過ごした。

その後も何人かの話を聞いた。既に3時間が経過していたが、まだ終電までは時間がある。できるだけ長い時間人々の話を聞いて帰ろうと思った矢先に、雨が降ってきた。生温かな雨だった。冬の冷気を温め、春の空気を作り出す雨だ。ちょっとやそっとで収まりそうな振り方ではない。宮前は仕方なく片づけをし、帰路に就いた。

結局、翌日も雨が降り続き、彼の聞き屋としての活動は金曜夜の僅か3時間だけとなった。


次の週の水曜日、宮前は設計資料の整理を行っていた。資料の大半は社内サーバーに保存したデータ上で編集を行うのだが、クライアントに渡す資料としてはデータと合わせて紙媒体の設計資料も一緒に渡すのがこの業界の習わしだった。結局のところ、設計の現場ではデジタル情報よりも手に取れる紙媒体の情報の方が早いし、それなら最初にクライアントには紙で設計図を渡すほうが親切なのだ。彼は来週月曜日に渡す予定の設計図を種類別に分けているところだった。

一通りの整理がつくと、もう昼飯時だった。独り身の宮前は毎日オフィスビルの下層にある喫茶店やレストランで食事をした。今しがた整理した資料を再び引き出しの中に仕舞いこみ、オフィスを出た。

エレベーターで1階まで降りると彼に声をかける者がいた。

「おい、宮前。お前も昼飯か。俺も食おうと思ってたところだから一緒に付き合えよ。」

振り向くと事務の内藤が嬉しそうな表情を浮かべながら近づいてくるところだった。

「ああ、いいよ。ただ、午後すぐにちょっとした会議が入ってるんだ。あまりゆっくり食べる余裕はないから、そのあたりの喫茶店で軽く済ませたいんだけど、それでいいかな。」

「いい、いい。そうは言ってもあと50分はあるんだから、それなりに喋りながら飯を食うことはできるだろう。」

そう言って宮前の背中を叩いた。一階は様々なショップやレストランが入っている階だった。エレベーターから降りてすぐ左手に曲がると、そこにはTully'scoffeeがある。二人はそこで珈琲と簡単なサンドを注文し、席に着いた。

内藤はホットコーヒーにガムシロップを垂らしながら言った。

「そういえば宮前。俺聞いたぞ。お前、千恵子ちゃんの誘いを断ったって?」

その声色には妙に恨みがましい響きがあった。だが、宮前は「千恵子」という名には覚えがなかった。

「誰のことを言ってるんだ。」

「はあ…。宮前君は女子社員のことなんか眼中にないって言いたいんですかねえ。お前、千恵子ちゃんって言ったら、去年入社してきた滅茶苦茶可愛い女の子じゃん。先週の金曜日、お前を飲み会に誘ったけど、用事があるとかで断られたって風の噂に聞いたぞ。お前、よくあんな美人の誘いを断れるよな。千恵子ちゃんレベルはお前にとっては珍しくもないってことかい。」

内藤はガムシロップを二つも入れたコーヒーを呷った。宮前自身、その女子社員の名前には心当たりがなかったが、さすがに内藤からその話を聞いたら、「あの時の女の子のことか。」と思い出したのだった。

「ああ、あの時の…。もちろん、覚えてるけどね。ただ、あの時は僕も用事があってさ。」

「用事ねえ。俺だったら千恵子ちゃんレベルの女の子から誘いがあったら、どんな用事が入ってても全部キャンセルしちゃうね。ほんと。」

昼飯時のTully’scoffeeは客の数も増えてきてはいたが、基本的には物静かに食事を摂る人々が多かったので、内藤の恨み節は店内に若干煩い騒音として響いていた。

「内藤、もう少し声のボリューム下げなよ。それに、そうは言っても予定ってものがあるから、当日に言われたら僕も都合つけられないよ。」

幾分声を潜めて内藤が言った。

「だからさ、お前が毎週のように金曜の夜に入れてる用事ってのは何なんだよ。お前、その話題についてはあまり掘り下げさせてくれないよな。はあ、俺も千恵子ちゃんに誘われてえ。俺がお前だったら、そのチャンス迷わず拾う。というよりもつかみ取りに行くんだけどな。」

宮前は同期の恨み節を笑いながら軽くかわし、サンドを頬張った。内藤もその後はしばらく食事に集中した。

宮前は食事と珈琲を飲み終えると、スーツのポケットからハンカチを取り出し、口元を拭ってから言った。

「内藤はさ、多分がっつきすぎてるんだよ。女の子に対して。異性を求める人ってのは似たもの同士でしょ。ある意味同類。磁石で言えば同極同士なんだよ。そして、同極の磁石は反発し合うよね。内藤もそれと同じような物なんだと思うんだけど。却って、異性を求めていないタイプ、つまり極の違う磁石の方が引き寄せるんじゃないかな。僕はそういうの求めてないし、余計にその『千恵子ちゃん』だっけ、そういうタイプの女の子を引き寄せてしまうのかもしれないね。」

内藤はポカンと口を開けて宮前を眺めた。

「お前、上手い事言うなあ。そして自信過剰すぎるだろ。敵わないわ。」

そう言ってクツクツと笑った。宮前は「別に気取ったつもりはないんだけど。」と言いながら一緒になって笑った。

彼らの短いランチタイムは間もなく終わった。彼らはオフィス階に戻り、残してきた仕事と対面し、その喫茶店に残った客たちはその後も延々と自由な時間を謳歌した。

その週の金曜日から日曜日にかけて長く細い雨が降った。どれだけ雨脚が弱くても、聞き屋の活動は常に屋外で行われるので、少しでも雨が降るとあまり積極的に行いたいと思えるものではなくなる。義務でやっていることではないので、できるだけベストなコンディションで活動をしたいからだ。そういうわけで、宮前はその週の金曜日は珍しく残業した。雨の日の金曜日は残業をする日なのだ。

この日もまた内藤が宮前のデスクに足を運んできた。内藤は滅多に残業をしない。効率の良い有能な社員なのか、仕事に情熱を持たない社員なのか、公私の区別をしっかりとつけることのできる社員なのか、それは人によって評価が異なるだろう。だけども、本人はいたって暢気なもので、毎週のように金曜のアフターファイブに宮前のデスクを訪れて管を巻いていくのだった。

「お、今日は宮前君も残業する日なんだな。ここ二か月くらいなかったろ。」

そう言いながら、内藤はなんの断りもなく宮前のデスクの上に置いた卓上カレンダーを手に取って捲って見せた。特に意味のある行為ではない。

「今日は別に早く帰らなくちゃいけないわけでもないからね。来週の週末のために少しでも今夜仕事を片付けておくよ。」

宮前はろくに内藤の方も見ずに答えた。

「なんだ、お前今晩暇なのか。じゃあさ、後輩連中誘って一緒に飲みに行こうぜ。たまにはさ。」

内藤は卓上カレンダーを元あった場所とは違うところに置いてから言った。彼は決まって最初に置いてあった場所とは違う場所に置くのだ。それも持ち主の許可も取らずに手に取って。宮前は彼のそんな癖を迷惑だと思う以前に面白いと感じていたので、特に咎めることはなかった。

「いや、だからさ来週のために今夜は少し遅くまで仕事をしていくよ。」

「はあ、またそれか。来週の金曜の夜にいったい何があるってんだ。ご自慢の高級スーツを着て、お高いドレスコードの設定されたパーティーでもあるってのかい。」

「ある意味ではね。」

「またはぐらかす。」

そう言われて宮前は軽く笑った。宮前が聞き屋として活動していることは、社内の誰にも言っていない。この10年間、一度もだ。隠しているわけではないのだが、敢えて言う必要を感じなかった。もしも、彼が聞き屋として活動しているところを偶然同僚に見つかれば素直に説明しようという気持ちはあったのだが、不思議とこの10年の間、横浜駅西口で同僚と会うことが無かった。一つには、彼の会社は日本でも有数の遊具設計会社であり、そこで働く社員は須らく収入的に恵まれている人々だった。そういう人々はわざわざ休日前の金曜日の夜に横浜駅西口になど行くことは無い。極東のソドムとでも言うべき横浜駅西口に好んで行く者は人生の落伍者だ。そして彼の職場に、そういった人々は殆ど誰もいなかったのだ。よしんばいたとしても、彼らは常に上を向いて歩く上昇志向のある人々だ。宮前が聞き屋として腰を据える横浜駅西口の地面近くの低い位置になど視線を落とすことは無いのだろう。

そういう事情により、宮前が聞き屋として毎週末に横浜駅西口で人々の話をひたすら聞き漁っていることを知っている者は誰もいなかった。それは宮前と比較的仲の良い内藤とて例外ではなかった。

「まあ、いいや。お前が週末に何をしてるのか、いずれ話してもらうからな。」

そう言い残して内藤は自分のデスクに戻っていった。


翌週の金曜は快晴だった。

暦は既に新年度を迎えており、彼の職場でも新たな社員が初々しい様子で自己紹介をしたり、先輩社員にいちいち細かく質問しては教えてもらったことを手帳にメモしたりしていた。そんな風景の溢れる一週間だった。

定時になると宮前は速やかに帰宅の準備をした。今日は珍しく内藤の姿が見えない。これ幸いと宮前は急いでオフィスを出たのだった。

エベーターでランドマークタワーの三階まで降り、タワーの外に出た。時刻は17時過ぎで、春が来たと言っても空は既に薄暗くなる気配を漂わせていた。しかし、だからと言って人波が消えるかと言うとそうでもなく、男女カップルを中心として、夜のみなとみらいを楽しもうという人々がたくさん押し寄せていた。宮前はそうした人々を掻き分けるように桜木町駅へと向かった。

オートウォークは人で溢れかえっていて、目的地に向かうには却って不向きだった。宮前は自分の足で桜木町駅まで向かった。

京浜東北根岸線に乗り、横浜駅に向かった。幸い天気が良かったので、いつもの汚い生け垣の前に着くと、すぐに折りたたみ椅子やホワイトボードを用意し、聞き屋の活動に取り組むことができた。

この日も雑多な人々が、「聞き屋」という看板の醸し出すフェロモンのような魅力に誘われ集まってきた。

レズビアアンの中学校教師がやってきた。年齢は40手前ということでなかなかの貫禄があった。恐らく職場でも一定の発言力を持った中堅の教員なのだろう。だが、今目の前にいる女性は酷く傷つきやすそうに見えた。彼女は「私自身を素直に表現すると職場からも世間からも弾き出されるんです。そうなったら、もう生きていけない。だって、私の職場は他の職場にもまして保守的なんだから。本当のことなんて言えない。でも、本当の私はレズビアンの私なの。私は今付き合っている彼女がいるわ。彼女といると、とても気持ちが安らぐし充実してる。彼女なしでは教員としての私の生活も成り立たないの。でも、それを告白することは私の職業的にはあり得ないことなの。どうやって生きていけば良いのか、ずっと悩み続けてきた。気が付いたら独身のまま40歳に近づいている。このまま死ぬまでこんな人生を歩まないといけないのかしら。」

恐らくとても真面目で優秀な教員なのだろう。それは彼女が語る様子から充分に想像ができた。聞き屋には語られたことに適切な答えを返す義務は無いが、彼女の真摯な話し方に、宮前も誠実な態度で応えたいと感じた。

「真実を語ることが必ずしも誠実な生き方ではないと思うし、真実を隠して生きることが必ずしも卑劣な生き方ではないと思いますよ。」

それはこの短い時間で知り合った一人のレズビアンの教師に対して向けることのできた最も真摯な言葉であった。彼女はそれを聞くと頸を振り、静かに立ち上がって横浜駅改札方面に向かって行った。彼の答えは彼女を満足させたのか、失望させたのか知る由もなかった。聞き屋の活動は往々にしてそういうものだった。

その日二人目の訪問者は、宮前と年の頃が同じくらいの男だった。ラフなボタンダウンシャツの上に綿のジャケットを羽織り、グレーのチノパンツを履いていて、一見すると小奇麗な趣味をしていた。他の人が見れば極めて充実した日々を送っている人のように見えるだろう。しかし、この場所で長い間たくさんの人々を観察し、話を聞いてきた宮前には、彼が生きづらさを抱えながら生きているといことを察知することができた。

男は少し離れた場所から宮前のことをじっと眺めていた。その視線を感じて宮前が顔を向け微笑むと、男は気まずそうに人込みに消えた。しかし、しばらくすると別の方向から聞き屋の看板を眺めているのだ。また離れて行ってしまうかもしれないと思い、今度は敢えて彼の存在に気が付かないふりをして、視界の端で男の動向を探った。男は何度も何度もホワイトボードに書かれた文句を見ては、自分の抱え込んだものを聞いてもらうかどうか考えているようだった。

西口を行く人たちは誰であれ行き先を持つ人たちだった。飲み屋に行く人、家に帰る人。建物の陰でじっと立ち尽くしている人も、いずれは待ち人に会い、目的地に向かうのだった。しかし、聞き屋に視線を送る男は行き先を持たない案山子のようにただ立ち尽くしていた。いや、一つだけ行き先があるとすれば、それは聞き屋の向かいに置かれた折りたたみ椅子だけだった。

男は遠巻きにこちらを眺めながらも少しずつ距離を詰め、ついに思い切って折りたたみ椅子に腰を下ろした。

男の表情は固かった。宮前は聞き屋として活動するときは特に笑顔を浮かべることを信条として、この場所に佇んでいる。今だってとても愛想のよい笑顔を向けていた。だが、男にとっては全く眼中に入っていないようだった。表情も変えず、ただじっと宮前の両眼だけを覗き込んでいた。きっと笑顔だけでなく、宮前の風貌全てが男の関心の外にあったのだろう。男はただ宮前の隣に置かれたホワイトボードに書かれた「何でも聞きます」という文言に惹かれただけなのだ。

「なんでも聞いてくれるんですか…。」

男は掠れた声でボソボソと呟いた。宮前は笑顔の度合いをさらに一段階愛想の良い方にシフトチェンジし、「もちろんですよ。」と答えた。

「何でも聞きますし、秘密は守ります。お代もいただいていないですし、どうぞご自由に話してください。」

そう言われても、目の前の男はまだ決めあぐねているようだった。宮前は彼が話し始めるのをただ待った。その間、男の様子を静かに観察した。

まず分かったことは、彼は独身者だということだ。少なくとも左手に結婚指輪ははめていない。既婚者でも指輪を嫌ってはめない人もいるが、目の前の男はそれに加えて数日分の無精髭を伸ばしていた。こだわりで伸ばしているという風ではなく、ただ髭を剃るのを怠った結果伸びてしまったという伸び方だった。配偶者のいる男はなかなかここまで無精な風体にはなれない。恐らく独り者で間違いないだろう。そして、そういう独り者は男であれ女であれ、聞き屋に引き寄せられる割合が高かった。大抵の場合、人生に行き詰っているのだった。だからこそ話を聞いてほしいし、聞き屋以外に心底を打ち明ける相手を持たない孤独な人々なのだ。

宮前が男を観察しながら彼の置かれた状況のアウトラインを推察していると、やっと男は口を開いた。

「よくインターネットで買い物をするんです。」

10年聞き屋として活動をしているが、これまで聞いたことの無い語り始めだった。自分語りから始めるタイプであれば珍しくはない。しかし、自分が利用しているサービスを語ろうという人は殆どいなかった。この男はここからどんな話を展開しようというのだろう。

「あなたも利用しますか。インターネットでの買い物。大手通販サイトや家電量販店の通販サイト。」

「ええ、たまに使います。届くのが早いし便利なので。急ぎで使いたい、でも買いに行く暇がない、なんてときに使いますね。」

「発達しましたよね、そういったサービス。私たちが子どもの頃はこんな便利になるなんて想像しなかった。」

「確かに。今やインターネット検索エンジンで『あ』と入力するだけで大手通販サイトの名前が予測変換されますからね。」

宮前は男の話のペースに合わせて適度に会話の流れに乗った。こんな世間話をするかどうかをあんなに長い時間迷っていたわけではないはずだ。聞き屋として活動をしていると、時として目の前に座った人が本心で語りたいと思っていることをどう引き出すか、促すかということにやりがいを感じるものなのだ。宮前は男に次の一手を打たせるべく、言葉を発した。

「あなたもよく利用するんですね。」

人々が聞き屋に何か聞いてもらいたがっているとき、いきなり本題に入らない場合であっても、最初に語った内容が本筋に大きく絡むことが多かった。本当に語りたいと思っていることに遠回りしながら近づこうとしているのだ。男は宮前の誘いに乗って続きを語り始めた。

「ええ、よく利用します。いや、『よく』なんて言葉は正確ではないですね。毎日、利用していたくらいです。ここ半年毎日。」

「毎日、ですか。そんなに利用する人には僕も初めて会いましたね。お仕事で必要なものを毎日届くようにしているんですか。」

そう問うと、男は軽く顔を歪めた。恐らく笑って見せたかったのだろうけれど、それを笑顔と言うにはなかなかに無理があった。

「いやいや、仕事なんかじゃないですよ。他愛のないものばかりです。レトルト食品から文房具、工具やら電池など。あと娘のための玩具や妻へのプレゼントなんかも。そういったものを毎日注文し、毎日届けてもらうんです。」

娘?妻?子どもも伴侶もいたのか。独身者であるという宮前の見立ては間違っていたようだった。

「へえ、なかなかそういう方にはお会いしたことが無いですね。まあ、確かに翌日には家に届けてくれるから便利はありますけどね。」

男は首を振り、言った。

「便利なんかじゃないですよ。家に届けてくれやしませんからね。…いや、ちょっと違いますね。もちろん荷物を届けてくれはしますけど、荷物を自宅で受け取ることは無いんです。毎回。だから、わざわざ自分で受け取りに行かなくてはならないんです。配送業者は郵便局なんですけどね。最寄りの郵便局まで車で行って受け取ってるんです。それも毎日ね。おかげで私の家は荷物を梱包している段ボールでいっぱいなんです。毎週段ボールを資源ごみに出したとしても、また次の一週間で段ボールが溜まってしまって、足の踏み場もないんです。こんな生活を始めて間もなく、段ボールを捨てようという気は無くなってしまいましたよ。おかげで部屋中の至る所に段ボールの箱が積んであります。その大半は中身の商品も出してない状態だから、捨てるに捨てられないっていうのもあって、まるで段ボールの壁が至る所にできているような有様なんですよ。」

男はそう言うと自嘲気味に笑った。不思議と今回の笑いはちゃんと笑顔に見えた。本心から自分自身を笑っているのだ。

男の笑い声は本人が考えていたよりも大きく、彼の背後を行き交う通行人たちの視線を集めた。通りがかりのサラリーマン風の男がこちらをちらと眺め、次いでホワイトボードに書かれた文字を読んでいた。こうして人目を引くことは次の来訪者に繋がるが、あまり大きな声を出されて迷惑だと思われてしまうと警察を呼ばれかねない。実際、宮前自身は警察を呼ばれた経験はないが、彼が池袋で出会った先輩聞き屋は何度となく警察を呼ばれ、活動場所を転々としたと聞いている。そんな面倒は御免だった。

「なぜそんなにインターネット通販を利用するんですか。利用するにしてもまとめて注文して届けてもらえば、段ボールも必要最低限の量で済むじゃないですか。」

宮前の指摘に、男は「尤もですね。」と同意してから、その理由を語った。長い話だった。

「確かにあなたの言う通り、まとめて注文するのが効率的ですよ。それは分かってるんです。でも、私は効率を求めていないし、さらには商品も求めてはいないんです。生来、私は物欲に乏しい人間でした。いえ、今だって変わらず物欲は乏しいです。あれが欲しい、これが欲しいというのは殆どなくて、必要最低限日常生活を送ることができる物があれば充分だと思っているんです。よく、次から次に欲しいものがあって、給料日のたびに浪費をしてしまう人がいますよね。あれって私にはよく分からない。例えばゴルフクラブを新調したり、洋服を買ったり、女の人であれば既に持っているはずなのに化粧品を買い足したり。無駄遣いだよなと思いながら、そういう買い物をしてしまう人たちのことを見てしまいますよ。でもね、今の私はもう彼ら彼女らのことを笑うことができません。何より私自身が度を越した浪費家になってしまったんですからね。

ですが、それでもなお私は物欲が乏しいタイプの人間だと言い切れます。なぜなら私が欲しているのは品物ではなく、品物を届けてもらうという状況そのものだからです。

半年ほど前のことでした。ある時、必要に迫られてインターネット通販を利用したんです。その頃とても忙しくて、なかなか買い物に出かける暇がありませんでしたから、通販を利用したんです。買ったのは確か、そう洗濯機の排水バルブのパッキンです。ゴムパッキンが経年劣化で割れてしまって、そこから洗濯排水が漏れ出して床一面水浸しになってしまったんです。横浜の大型量販店まで出てきて買う時間の余裕がなかったから通販で買いました。ただ、翌日は用事があって外出していて、荷物を受け取ることができなかったんです。家に帰ると不在票が入っていて、当日の再配送受け付けの時刻を既に過ぎていました。でも、パッキンが無ければ洗濯もできません。できれば、その日のうちに手に入れたいと思いました。幸い、再配送受付は終わっていましたが、自分から荷物を受け取りに行けばまだ間に合う時間でした。その時の配送業者は郵便局だったので、私は最寄りの郵便局に向かいました。

わざわざ郵便局まで行って荷物を引き取るのは初めてでした。不在票が入っていても、それまでは翌日以降に再配達をお願いしていましたからね。緊急の時でなければ、恐らくほとんどの人がそうするでしょう。わざわざ自分から足を運んで荷物を受け取り、持ち帰るなんてことはしません。だから、私もその時が初めてだったんです。不在荷物受け渡し窓口に行くのは。

そして、その窓口の受付の女の子に出会いました。歴史的に美しい女の子でした。ここでいう『歴史的』というのは、私の人生史のことですが、日本史的だとか世界史的という風に言っても過言ではないと、私自身は思っています。小野小町やクレオパトラと言ったところです。私は、その歴史的に美しい女の子に心を奪われてしまいました。」

「では、その女の子に会うために、わざわざ郵便局まで荷物を受け取りに行っているということですか。」

宮前がそう問うと、男は恥ずかしげもなく頷いた。

「簡単に言えばそういうことになります。」

そう聞いて宮前の好奇心は一気に目減りした。何か並々ではない話を聞けるかと思えば、単なるストーカーまがいの経験談だった。たまにこういう手合いがいるのだ。聞き屋は守秘義務を守るからと言って、自分が今までに犯してきた犯罪すれすれの行為、あるいは出頭すれば十数年服役することになりそうなおぞましい行為を話そうとする輩だ。犯罪自慢も突き抜けていれば好奇心を刺激するが、好きな異性を付け回したという程度の話はもう聞き飽きていた。

だが、何かが宮前の頭に引っかかっていた。この男は娘もいる既婚者ではなかったか。それなのに「歴史的に美しい女の子」とやらに夢中になっていて、家族は何も言わないのだろうか。

「先ほど娘さんがいると言っていましたよね。娘さんや奥さんには内緒で郵便局に足を運んでいるわけですか。」

すると男は酷く沈んだ表情を浮かべた。

「いえ、娘にも妻にも内緒にしてます。でも、私がそういう下心から郵便局に足を運んでいることを二人はもう知っているのかもしれませんね。妻も娘も死んだんです。もう四年前です。まだ娘が妻の胎の中にいるころに妻が交通事故にあいまして。2tトラックのタイヤに巻き込まれてしまい、母子ともども死にました。私も当時は際限なく泣きました。立ち直ることなんてできないだろうと思いました。実際、今だって立ち直っているのかと聞かれればノーと答えます。あの出来事は、私の人生を根元から崩していきました。

妻と娘をひき殺したのはトラックの運転手ですが、実際に二人を殺したのは私自身なんです。別に二人が死んでしまったことに悲観して自分を責めているのではありません。そうであったらどれだけ良いだろうかと思いますが、私の現実はそんな甘えを許してくれません。実際のところ二人を殺したのは私なんです。実行犯がトラックの運転手だというだけで、原因は私です。四年前のあの日、私は妻に酒を買いに行かせました。もう夜だというのに、妻は妊婦だというのにです。もともと酒が好きだった私は、毎晩晩酌せずにはいられない人間でした。その日はたまたま買い溜めしていた酒がなくなってしまい、仕方がないから自分でコンビニまで買いに行こうとしたんです。すると妻が言ったんです。『仕事から帰ってきたばかりなんだから、先にお風呂に入ってていいよ。コンビニすぐそこなんだから私が買ってきておいてあげる。お風呂上りには冷たいビールが飲めるわよ。』って。今でもこの時の会話の一言一句、妻の細かい身振り手振り、妻の髪の絡まり方まで思い出せますよ。できた妻でした。そんな妻の思いやりに甘えてしまい、私は妻を思いやることを怠ったんです。

妻の勧めの通りに私は風呂に入りました。気持ちの良い風呂でした。一日の疲れと垢を流せる風呂でした。妻がトラックのタイヤに巻き込まれたとき、近所中に大きな物音と叫び声が響いていたそうですが、恐らく丁度そのとき私はシャワーを浴びていたんでしょう。その異音に全く気付きませんでした。風呂から上がっても、暢気に『酒以外にも色々買い足しているんだろう。』などと考えながらニュースを見ていました。暫くすると、マンションの一階に住む高橋という名の老婆が私の家のドアを叩き妻が交通事故にあったことを知らせてくれました。私はパジャマ姿のまま家を飛び出しました。気が付けば事故現場にたどり着いていて、たどり着くまでの記憶がありませんでした。玄関を出たと思ったら、次の瞬間には血の海を見ていました。トラックの下には布の塊のような流木のようなものが横たわっていましたが、それが妻でした。」

「ちょっと待ってください。今のお話が本当なら、さっきの『娘のための玩具』や『妻へのプレゼント』というのはどういうことだったんですか。」

 宮前は話に割り込んだ。彼が考えていた以上に、男の話は暗いものだった。初めはストーカーの犯罪自慢かと思えば、実のところ自分の犯した罪に潰されそうになっている男の自分語りだった。男は自分の罪だと考えているし、実際にそういった見方ができないわけでもないが、宮前に言わせれば男もまた被害者であり加害者とは言えなかった。それでも男はひたすら自分を責め立てているのだった。

 「ああ、玩具もプレゼントも言葉通りですよ。事故が4年前だから娘も生まれていれば3歳か4歳といった歳頃です。だから、その年ごろの女の子が好みそうな玩具を、娘へのプレゼントと銘打って買っているんです。妻へのプレゼントも、妻の誕生日に始まり私たちの結婚記念日から交際開始記念日、果ては妊娠判明記念日まであらゆる記念日を見つけてきては購入してきました。」

 「それも全て、不在荷物受付の女の子に会うためですか。」

 「そうです。そう。そうです。言いたいことは分かります。私もそのことで胸が痛まないではないです。ですが、あの女の子に会うためなら何だって買う。そういうつもりでこの半年生活してきました。」

 なぜそこまで入れ込むことができるのか宮前には分からなかった。宮前自身も独り身だ。今までに交際した女の数は少なくはないが、どれもそこまでの思い入れはなかった。少なくとも自分の死んだ娘をダシにしてまで接点を持ちたいと思うような女は誰一人としていなかった。

 「何があなたにそこまでさせるのでしょう。ここまでの話を聞いていると、今一つ腑に落ちないんです。私は今まで結婚したことも、子を持ったこともないのであなたの体験したことを実感を持って捉えることはできませんが、一般論として死んだ娘や妻への贈り物を騙ってまで気に入った女と近づこうという人はあまりいないと思うのですけど。」

 普段ならあまり立ち入った質問を返すことは無いが、今回に限ってはどうしても聞かずにはおれなかった。そして聞かれた男の方も、それを尋ねられるのを待っていたのだった。

 「一般論を言えば、確かにそうですね。私もそれは分かります。ですが、あの受付の女の子は、本当に歴史的に美しい女の子だったんです。そう、私の人生史において最も美しい女の子に並ぶほどにね。

 彼女は私の死んだ妻に瓜二つでした。私も初めて郵便局で彼女を目にしたときは驚きました。妻が死んだ時と髪形さえ同じでした。軽くウェーブのかかったボブカット。少女のような狭い肩幅。きめ細やかで綺麗な肌と小さな卵形の顔。そして、そこに掛けられた銀縁の細い眼鏡まで。何もかもが妻と同じでした。

 目にした瞬間、私は言葉を失いました。受付の女の子が何度か私に呼びかけた声で我に返りました。彼女は『不在票はお持ちですか。』と尋ねていました。慌てて不在票を差し出すと、彼女はとても手際よくそこに記された番号をメモして、『しばらくお待ちください。』と言い残してバックヤードに消えました。彼女がバックヤードに消えていく後姿すら妻の歩き方とそっくりで魅力的でした。私は彼女の行動一つ一つに目を奪われました。

 彼女が荷物(中身はゴムパッキンです)を抱えて窓口に戻ってくるまで、私は自分自身の置かれた状況の奇妙さに翻弄され続けていました。見間違いなのではないかと思いましたが、間もなく彼女が再び妻と瓜二つの姿を現し、ようやく現実だと悟りました。世の中には同じ顔の人間が三人はいると言いますが、彼女が正にそれでした。世の中に三人もいるのであれば、そのうちの一人と出会うこともあり得ない話ではありません。

 結局、その日はその出会いに上手く対応できず、夢でも見ているかのようなぼんやりとした状態で郵便局を後にして、自宅に帰りました。」

 「でも、それで話が終わりというわけではないんでしょう?」

 「ええ、もちろんそうです。話はさらに半年分続きますし、今現在も続いているところです。あれから私は歴史的に美しい受付の女の子に会うために、毎日のように、いえ正確ではないな。毎日、インターネット通販で買い物をしては自宅で受け取らずに直接郵便局に足を運びました。自宅にいても居留守を使って荷物を受け取らないんです。私にとって必要なのはどんな荷物よりも、彼女と対面できる時間でした。」

 宮前は先ほどまで感じていた退屈さを忘れ、男の話に食いついた。惚れた女のために死んだ娘や妻へのプレゼントを装ってまで買い物を続けている男など、なかなかお目にかかることはできない。今夜は久しぶりに興味深い話を聞くことができるかもしれないと思った。

 「家に帰ると、私は早速翌日届く分の商品を注文していました。適当に両面テープを一つ注文しました。翌日、仕事から帰り自宅に着くと、荷物は郵便受けの中に入っており、不在票はありませんでした。これでは郵便局に荷物を受け取りに行くことができません。あまり小さな品物だと、住人が不在でも荷物を郵便受けに入れてしまうのです。これでは注文をする意味が無いです。さらに翌日、私はコーヒーメーカーを注文しました。すると案の定、それは郵便受けに入れられる大きさではないので不在票が入っていました。私は喜んで不在票を片手に郵便局に向かいました。

 二度目に彼女に会った時も、やはり彼女は妻の生き写しであり、歴史的に美しい女の子でした。二度目だからこそ確信を強めました。彼女は二度目の時もマニュアルに従って不在荷物の受け渡しをしてくれたのだと思いますが、どんなこと言われたのか全く覚えていません。ただ、彼女と妻の共通点にだけ目が向けられていました。不在票番号を入力しているときの真剣な表情も、かつて妻がよく見せていたものと同じでした。

 また翌日も注文し、わざと荷物を受け取らずに、受け取り窓口に行きました。何を注文したのか覚えていません。私の頭の中にあったのは、彼女について一つでも多くのことを知りたいということだけでした。とりあえずは名前を知りたいと思いました。

 しかし、それは思いのほか難しいことでした。郵便局の職員は、職員証を首から提げているので、それを見ることができれば名前を知ることはできます。ですが、彼女の職員証はいつも決まって裏を向いていて、名前が書かれている方が見えませんでした。

 名前を知ることができないまま三週間以上経過しました。その間、毎日窓口を訪れては中身もよく覚えていない荷物を受け取り、自宅には空の段ボールや、中身の入ってままの段ボールで溢れかえりました。そんな段ボールの部屋を作り上げて得られたことは、ただ彼女が独身であるという事実だけでした。彼女は結婚指輪をはめていませんでした。」

 そこまで話すと、彼は自分自身の左手に視線を落とした。宮前も同じく彼の左手を見た。最初に宮前が気付いたように、彼の左指にもまた結婚指輪は無かった。男がそこで話を中断し、自らの左手に視線を落としたことに、意図を感じた。彼は自分の結婚指輪についても聞いてほしいのだろう。宮前は言った。

 「あなたも結婚指輪をしていませんね。それは何か意味があるのでしょうね。」

 男は再び視線を上げた。

 「聞き屋さんは独身ですか?指輪は二人の誓いであると同時に、戒めなんです。他の異性に惑わされてはいけないぞ、という。私は妻と指輪を交換した時からそう捉えていました。

 妻が娘とともに死に、実質的に独り身になってしまってからも、私は指輪を大切にはめていました。ですが、その歴史的に美しい女の子に繰り返し会いに行くようになってから、指輪をはめているのがつらくなり、外してしまいました。」

 「罪悪感ですか?」

 「ええ、まあ。」

 男は素っ気ない返事を返すと再び黙り込んだ。まだ何か打ち明けていないことを話そうかと迷っているように見えた。

 周囲には明らかに駅に向かう人々の数が増えていた。時刻を確認すると九時を過ぎていた。男が話し始めてから一時間半以上が経過していた。一人の訪問者がそんなに長い時間語ることはそう多いことではない。もちろん、たまには積もる話を聞き屋に全て聞いてもらいたがる人もいるが、大抵は興味本位で近づいてきて二言三言どうでもいいような話をしていく人が大半だった。だからこそ、この指輪をはめることのできなくなった憐れな男のように、じっくりと一つの話を掘り下げていってくれる訪問者は珍しく、宮前にとって聞き屋冥利に尽きるのだった。

 「私、この半年毎日注文して、毎日受け取りに行っていると話しましたよね。そのお金は全部、妻を轢いたトラックの運転手から支払われた賠償金で支払っているんです。事故後、私は仕事ができる状態ではなくなりました。会社に事情を説明し、とりあえず一時的に休職扱いとしてもらいましたが、結局その後辞めました。今は賠償金で生活を支えている有様です。あと、妻の生命保険の死亡保証金も使って生活をしています。」

 「では、奥さんが亡くなったことで得たお金を、受付の女の子に会うために使っているというわけなんですね。」

 彼の指輪に対する罪悪感の根は一つではないのだ。妻以外の女に心を惹かれ、妻に対して立てた誓いに背いてしまったことが罪。そして、妻が死んだことで得た金で他の女との接点を持とうと買い物を続けていることが罪。二重の罪が彼を苛んでいたが、彼を苦しめているのもまた彼自身だった。

 「間違ったことだと分かっていましたが、受付窓口に行けば妻と瓜二つの女の子に会うことができたんです。止めることができませんでした。」

 「あなたは受付の女の子に会いに行ったのですか。それとも、亡くなった奥さんの面影に会いに行ったのですか?」

 「私が受付の女の子に惹かれた理由は間違いなく妻に似ていたからです。でも、だからと言って死んだ妻への申し開きができるというわけではないでしょう。『君以外に心を惹かれる女の子に出会ったんだ。だけど、私が君以外の女の子に惹かれた理由は、彼女が君に似ていたからなんだ。』なんてとても言えません。」

 「それでも、あなたは不在荷物を延々と受け取りに行ったのでしょう?」

宮前には男が感じている葛藤が十全には理解できなかった。亡くなった妻にそれほどの誠実さを自らに課しているのであれば、彼の奇妙な行いを止めればいいのだ。それが半年も続いていることが、宮前には今一つ理解できなかった。

「ええ、その後も郵便局に通い続けました。通い続けるうちに彼女が毎日勤務しているわけではないことを知りました。当然ですよね。彼女は不在荷物受付窓口の妖精ってわけじゃないんですから、決められた勤務体系にしたがって勤務しているんです。彼女は金曜日と土曜日が休みでした。また、常に窓口業務に立っているわけではないらしく、夕方5時くらいまでは窓口に姿を見せませんでした。きっと奥のオフィススペースで何か事務仕事をしているのでしょう。

最初の頃はそういったことがよく分かっていなかったので、窓口に行き、彼女がいないことにショックを受けました。彼女の代わりに頭の禿げあがった男性職員が不在窓口に立っていたのです。あまりにも私が何度も訪れるから嫌になって勤務地を変えてしまったのかと思いました。

翌日行くと彼女はそこにいました。そこで初めて勤務日というものがあることに思い当たりました。逆に言うと、そのことがあるまで彼女はそこにいて当たり前の存在だと疑うことなく思い込んでいたのです。我ながら滑稽ですが。

それから彼女が窓口に立つ時間帯も、繰り返し郵便局を訪れる中でつかんでいきました。昼間にも受付に立つことはありますが、日によって立つ時間帯はまちまちのようでした。確実なのは夕方6時以降です。私は夕方6時以降を狙って郵便局を訪れるようにしました。」

男の話は宮前の好奇心を刺激した。宮前は相変わらず愛想の良い笑みを顔に浮かべていたが、それはもう作り物ではなく、本心からの笑みだった。彼は男の話す物語に引き込まれていたのだった。

「失礼ですが、それはストーカー行為として罰せられる可能性があることではないですか?あなたの言うように彼女が不審に思って警察に訴えれば、何らかの措置が取られる危険があるのでは?」

「間違いないでしょうね。でも私は、警察に通報されるほどの行為は何も行いませんでしたし、今だってそうです。ただ私はインターネット通販を利用したけれども自宅で受け取ることができず、直接郵便局に荷物を受け取りに行っただけにすぎません。それ以上のことをしようとは思いませんでした。」

「もし、あなたがそこまで『歴史的に美しい女の子』に入れ込んでいるのであれば、直接彼女に声をかけ、個人的な話をする場所を設けることだってできたのではないですか。」

男は同性の宮前から見ても好印象な風采をしていた。一般的に女受けのする容貌だ。彼の罪の話を聞いてしまった後だから、心なしか暗い影を背負っているように見えなくもなかったが、仮にそうした陰気な雰囲気が事情を知らない女性に感づかれたとしても、少し陰のある二枚目として映っただろう。また、死んだ妻に対しても誠実であろうとしている男だし、自分の形なき罪をずっと心に抱き続けるほど真っ直ぐな男だ。外見だけでなく、内面も好ましい人間であるように思える。彼なら、その持ち前の誠実さで女性に声をかければ、少なくとも話し合う機会くらいは設けてもらえることだろう。彼はそれをしなかったのだろうか?

「受付の女の子と個人的な話ですって?聞き屋さん、それはちょっと勘違いをしていますよ。私が受付の女の子に心を惹かれたというのは本当のことです。そして、ここで言う『心惹かれる』というのは文字通り心だけの所謂プラトニックなものではなく、あくまで肉体的に、性的にも惹かれたという意味です。可能であれば彼女と寝たいとも思いました。

ですが、私は彼女に声をかけようとか、個人的なつながりを持とうとか、そう言ったことは全く…。」

そう言うと男は首を振った。

「いや、違いますね。もちろん私もその可能性は考えました。ですが、違うんです。仮に私が彼女に、今話したようなことを話したとしてどうなります?『心から愛していた妻と生まれてくるのを心待ちにしていた娘をトラック事故で失ったんだ。妻は濡れた流木のような塊に変わり、娘は望んだ形とは違う形で世に出てきてしまった。僕はそんな光景を目にして傷ついて生きてきた。でも、郵便局で君に出会ってから、また僕の人生に光が差したんだ。君は僕の死んだ妻に似ている。本当に妻に瓜二つなんだ。姿形も、声や仕草も。こんなこと嘘だと思うかもしれないけれど、本当のことなんだ。僕は妻に似ている君に惹かれている。どうか僕と寝てくれないか。』

そんなことを言ったとして、彼女はどう思いますかね。僕なら、それこそ勤務地の変更を申し出ますね。関わりたいと思わないでしょう。」

「ですが、それは言いようでしょう。そこまであけすけに伝えなくても。」

「聞き屋さんの言うように、今私が言ったのは極端な言いぶりですよ。それは分かります。ですけど、結局のところ私が彼女に惹かれた理由と彼女と果たしたい未来についてはさっき言った通りなんです。もしも彼女と親しくなった場合、いずれそれを伝えないわけにはいきません。そうなれば遅かれ早かれ勤務地異動届を出されてしまうことになりますよ。」

「半年も郵便局に通い続けるほどの情熱がありながら、それを果たさなくても良いのですか?」

宮前が来訪者の話にここまで食いつくのは異例のことだった。彼は自分自身を聞き屋として定義していた。それはつまり、聞くに徹する人のことであり、人々が話す内容に相槌を打つ人のことだ。求められれば宮前の見解を伝えたりすることはあったが、宮前から質問を投げかけるというのは今まで殆どないことだった。

「結局のところ、私が求めていたのは妻の面影なんですよ。それは受付窓口に行けば得られるんです。私にとっては、それで充分でした。だから、その後も毎日荷物が届くように注文を繰り返し、毎日居留守を使っては、不在票を手に入れ、不在票を片手に郵便局の受け取り窓口へ足を運びました。」

男が歴史的に美しい女の子との接点を求めていながら、自らその接点から遠ざかろうとしているのが不思議だった。男の中で未だに閊えているのは妻に対する不義理の念か、娘に対する憐れみか。いずれにしても男が頑なに自分を戒め続けているのは分かった。

「そうして窓口に繰り返し通ううちに、彼女の名前を知ることができました。それまでは胸元の職員証がいつも絶妙に裏返しになっていて名前を読み取ることができませんでした。いつも目を凝らして名前を読み取ろうとは思っていたのですが、職員証がぶら下がっているのは彼女の胸元です。あまり凝視しすぎるのは良くないと思い、いつも控えめに様子を窺うに留めていましたから、なかなか名前を読み取ることができませんでした。

その日も、いつものように窓口まで出向きました。不在通知を差し出し、荷物を受け取ろうとすると彼女は言いました。

『すみません。こちらのお荷物、ただいま持ち出している最中のようで、現在局に置いていないんです。』

私は彼女と少しでも長い間、話していたいと考えました。

『じゃあ、明日再配送してもらいたいんですけど、ここでその手続きはできますか。』

彼女眼鏡の奥の澄んだ黒目が、私のことを真っ向から見つめていました。その整った顔立ちに妻の面影を感じながら、私は少しどぎまぎとしてしまいました。彼女はとても真面目な表情をしていました。きっと仕事に対して、そういう真面目な態度で臨むことが習慣的に身についているのだと思います。彼女は言いました。

『ええ、できますよ。』

続いて、再配送日時についても尋ねられ、私は翌日の午前中を指定しました。しかし、端から自宅で荷物を受け取る気はありませんでした。また不在票を入れてもらい、明日再び不在窓口を訪れようと思っていたのです。指定した午前中であれば、一般的に人々が働いている時間帯なので不在票を再び入れられていても不自然ではないように思えたのです。でも、後になって考えてみれば、こちらから午前中を指定しておきながら指定した時間帯に家にいないというのは不自然でしかありません。彼女を前にして、正しい判断ができなくなっていました。

『では、こちらへの記入をお願いします。』

再配送依頼票でした。それまでは再配送を利用したことが無かったので、その時に初めて書きました。

名前と住所のみ書き込み、『これでお願いします。』と言って手渡そうとした瞬間に気が付きました。依頼票の左下に『担当 藤後望美』と書いてありました。

彼女の名は『藤後望美』という名でした。偶然、その名を読み取れた日は喜びで舞い上がりそうになりながら帰路につきました。

名前を知ったからといって如何なる進展があるわけでもありません。ただ、彼女の名を知っただけ。ですが、それまでの二か月間、私は彼女の名を知ることだけを目的に生きてきたようなものでした。だから、たかが名前と言えど、私にとっては大きな発見でした。

それからも変わらず淡々とした日々が続きました。私は荷物を受け取りに行く、彼女は不在票番号を読み取ってはバックヤードから荷物を持ってくる。

そんな日々が続きました。初めのうちは食料品を中心に買っていた私も、次第に『こんなにたくさん買っても食べきれない、飲み切れない』ということに気付き、食料品以外のものを頼み始めました。」

「食料品以外と言うと、最初に言っていたように娘さんへのプレゼントなどですか?」

「娘へのプレゼントも相当買いましたね。最初にお話ししたように、私自身は物欲に乏しい人間ですから、既に数か月は食べきれないほどのインスタント食品の類を買ってしまったら、私自身が欲している物は何もなくなりました。

娘へのプレゼントは新生児が必要とする紙おむつや哺乳瓶を始めとして、時が経つにつれて、まるで死んだ娘が成長していっているかのように娘の架空の成長に合わせて変化していきました。娘の服も徐々に大きめのサイズになっていきました。

また、妻へのプレゼントも買いました。既にいない人間のための服や靴も買いました。妻との結婚記念日には、ペアルックの時計も買いました。

それらはいずれもまだ段ボールから出していません。既に充分に不毛な行為をしているという自覚があるのに、買った品物が目に触れたら、きっと私は不毛さの海に飲み込まれて、無力感に包まれてしまうでしょう。そんな自分が簡単に想像できてしまうから、届いた荷物は、インスタント食品を別として殆ど開封していないんです。おかげで、ひたすらに段ボール箱が我が家に積み重なっていきました。部屋の中はもちろん、廊下にも段ボールがうず高く積まれています。今では私の居場所の方が少ないくらいです。すっかり段ボールルームに成り下がってしまいました。」

そう言う男を見つめ、宮前は思った。この男は何故ここまで間違った場所に来てしまったのだろう、と。確かに男の妻子を襲った事故は不運だった。そうとしか言いようがない。だが、その後の奇妙な運命については、この男の内側にもともと潜んでいた歪みが、事故をきっかけとして露呈してしまったのではないかという気がした。

「それが約4か月ほど前のことですか?では、それから歴史的に美しい女の子との間に何か進展はあったのですか?」

男は首を横に振った。

「流石に数か月も通えば常連です。彼女も私のことは覚えてくれたらしく、挨拶を交わしたり、『今日も不在票が入っていたんですね。』とかなんとか話しかけたりということは増えてきました。ですが、それくらいです。」

「今後も、不在荷物を受け取り続けるつもりですか?」

宮前は男が『イエス。』と答えるという前提で尋ねたのだが返ってきた答えは彼の予想を裏切った。

「いいえ、私はもう郵便局に行くことはありません。そもそも最初から私は『この半年間毎日、利用していたくらいです。』と過去形で語ったかと思いますが、私の半年間の郵便局通いは既に終わりました。」

彼の答えは宮前に自分の耳を疑わせるのに充分なものだった。彼には男がそこまで歴史的に美しい女の子に執心であるなら、当面は彼女に心を奪われているのだろうと思われたからだ。

「なぜ止めてしまったんですか?歴史的に美しい女の子でも、奥さんの面影でもどちらでも良いですが、結局彼女に会うために半年生活してきたのでしょう。何かきっかけでもあったのですか。例えば、彼女が思っていたより奥さんに似ていないことに気付いたとか、考えていたほど美しくなかったとか。」

宮前としては珍しく、質問を畳みかけていた。興奮気味の宮前とは対照的に、男はいたって落ち着いて宮前の言い分を聞き、答えた。

「先ほども話したように、徐々に私自身が常連になり、彼女も徐々に常連である私と顔馴染みの親しみを感じてきているようでした。そのことに気付いた私は、郵便局に通い続けることができなくなりました。」

男の説明は宮前を納得させるには足りない。「よく話が見えないのですが…。」と聞き返す宮前に男は答えた。

「端的に言ってしまえば、私自身、自分がおぞましい人間だということを実によく分かっているから、ということなんです。」

おぞましい人間。その言葉が意味するのは、彼が説明したように亡き妻の面影に会うために亡き妻が残した金を使ったり、死んだ娘をだしに女との接点を持とうとしたりしたことを指すのだろうか。宮前は思ったことを率直に伝えた。

「勿論、それもあります。だけど、ここで問題にしているのは、そんな綺麗な言葉でくくれることではありません。私に言わせれば聞き屋さんの言ったことは、滅菌消毒された言葉です。

おぞましさも、汚らしさもない。

一見、自分のしたことを恥じているように思える言葉だけど。

よくよく考えれば自分の犯した罪を大層な言葉でラッピングしたような、そう、嘘くさい言葉です。」

男は一語一語、言葉を探り出しながら言った。

「彼女の名前を知って以降、私は歴史的に美しい女の子のことを内心では『藤後望美』という名で呼びました。実際には本名どころか、『受付係さん』だとか『お姉さん』だとかいう風にも呼びませんでした。呼ぶ機会もありませんでした。ですが、名前を知ってしまった以上、その名を意識しないわけにはいきません。

それによって私は彼女に対しての親近感をより強くしました。私が一方的に彼女との距離を近く感じるようになったのです。

私が彼女の名を知ったことが何らかの形で影響したのかは分かりませんが、確かにその頃から彼女も私に対して気安い態度で話しかけてくれるようになりました。話しかけてくれるとは言っても、『こんばんは。』に付け加えて『今日もいらっしゃいましたね。』と言ったり、『今日のお荷物は大きいですね。』と言ったりする程度ですが。通常であれば、『お待たせいたしました。不在票をお持ちですか。』と言うくらいなので、それと比べれば格段に距離が縮まったと思っても良いでしょう。それは今でもそう思っています。」

「会話ができるようになってきたなら、もう少し自然な形で距離を詰めることもできると思うのですが…。」

宮前の指摘は、またしても男にとって的外れなものだったようだ。男は宮前を鼻で笑って言った。

「私も中学生の男の子じゃないんだから、男女の間合いのようなものは分かっているつもりです。聞き屋さんが言うように、やりようによっては、個人的な話に持っていくこともできたでしょう。

ですが、そこに妻と娘の問題が立ち上がってきます。聞き屋さんの言うところの『妻の面影のために妻の死亡保険金を使ったり、娘をだしに死んだ妻にそっくりな女に近づこうとしたりする』後ろめたさというものです。真っ先に思い浮かんだのは確かにそのことでした。この後ろめたさがあるから、あと一歩の距離を詰められないというのは、ある意味では誰の前に出しても恥ずかしくない、大義名分のある理由でしょう。これなら過去の罪悪感と将来への希望の間で板挟みになる男を演じることができるし、そんな私を見た周りの人々も憐れんでくれることでしょう。」

そう言って男は居住いを正した。

「もう一つ、人前に出すのを憚る理由もあります。誰にも話したことが無いし、今後も話すことは無いでしょう。『墓場まで持っていく』という言い回しがありますが、私が抱えたもう一つの理由も正にその手のものです。今日話したこと全てが今まで他の誰にも話したことが無いことでした。ですが、ずっと誰かに話して、聞いてもらいたかったことでもあります。だから、聞き屋さんに会って、こうして聞いてもらえているというのは私にとってかなりありがたいことなんですよ。折角です。ついでにもう一つの理由も聞いてやってください。

もう一つの理由というのはつまり、私が彼女、『藤後望美』に対して性欲を感じていたということです。単純な話ではあります。男が女に惹かれる理由というのは突き詰めればそれしかない。特別な話ではないです。ですが、私には自分のその感情、情欲が酷くおぞましいものに感じるんです。

死んだ妻に対しても勿論そうした情欲を抱くことはありました。人生のパートナーとして選んだのだから当たり前のことです。ですが、ともに過ごす時間が増え、結婚して家族になるにつれて、それは情欲ではなく愛に変わっていきました。性だの欲だのというものが直截的に関わってこない、混じり気のない愛です。家族愛。妻と娘が死んだ頃、私が二人に抱いていた感情は正に家族愛でした。

藤後さんに出会って一目見て心惹かれたとき、私は『妻に瓜二つだから、こんなにも心惹かれるのだ。』と思いました。あくまでも私の心のうちにあるのは亡き妻の面影であり、他の女である藤後さんに惹かれたのは、未だに妻への未練を抱き続けているからだと考えました。そう考えることで、妻以外の女に惹かれた自分に対して言い訳をしていたのです。

藤後さんの名前を知った頃から、彼女も常連の私に対して親しく話しかけてくれたり、笑顔を作ってくれたりするようになりました。そうなると、私も単純に嬉しくて彼女への愛着が強くなりました。

我が家で過ごしていても、至る所に積んである段ボールを見ると、藤後さんのことを思わずにはいられません。いてもたってもいられなくて、段ボールルームから出ても最終的に行き着くのは郵便局しかありません。そこで彼女に会って一日が終わるのです。

そんな毎日を繰り返し、彼女と日常的な世間話をすることもできるようになりました。今にして思えば、どこにも行きつかない繰り返しの日々です。どこにも行着きませんが、私の内面は少しずつ変化していました。藤後さんの姿、立ち居振る舞いに対して、妻や娘に対する家族愛とは言えない感情を抱いていることに気付きました。」

「彼女に欲情していることに気付いたということですね?」

宮前の問いに男は悲しそうに頷いた。

「残念ながら、その通りです。私は自分の感情に『気付いた』と言いました。でも、正確に言えば『気付いていることを誤魔化していることに気付いた。』と言うべきかもしれません。

さっき言いましたね。男が女に惹かれる理由は性欲しかないと。分かっていながら、私は『妻によく似た女に、妻の面影を重ねてしまい心惹かれた。』という、どこに出しても恥ずかしくない清廉な人物然とした理由を飾り付けたんです。私のおぞましい劣情をそうやって立派に飾り付けたんです。死んだ妻と娘を使って。

そのこと自体が汚らわしく、おぞましい。郵便局で藤後さんの綺麗な姿を眺めるたび、対照的に醜くおぞましい自分を感じるようになりました。聞き屋さんに実感できるものか分かりませんが、そのギャップを自分一人で感じることは思いのほか苦しいことです。」

男は口を閉じた。宮前も黙って男が話し始めるのを待った。二人が黙っていても、辺りには音が溢れていた。夜が深まったことにより、周囲にはアルコールに飲まれた人々の姿が、そこかしこに見られるようになった。そうした人々の呼気から目に見えないアルコールの粒子が振りまかれ、宮前たちの周りに漂っているような気がした。周囲の喧騒は底抜けに明るく、その明るさは宮前の前に座った男の醸し出す空気と混ざり合い、どこかしら上滑りな明るさに感じられた。

「今ではもう、ネット通販も使いません。郵便局に足を運ばないのはもちろんですが、ポストすら使いません。歴史的に美しい彼女、藤後さんとは可能な限り距離を取ろうと思っているんです。幸か不幸か、手紙を送る相手もいないので、意識せずとも自然と郵便局から足は遠のくでしょう。

気が重いのは、家に積まれた段ボールを眺めて生活しなくちゃならないことですね。あれを見るたび、この半年の行いが嫌でも目に浮かびますから。捨てればいいんですが、大半が未開封なので、捨てるのも一苦労です。仮に苦労を押して開封したとして、中に入った品物を見ると今度は妻と娘のことが目に浮かぶでしょうね。妻のことを思うあまり半年にわたる郵便局通いをし、娘のためのプレゼントを買うことで、藤後さんとの接点を持った。そのことを思い出さずにはいられない。そして、それを思い出すことがどれだけ堪えることか、聞き屋さんにも想像がつくんじゃないですか。」

宮前にも男の言わんとしていることは分かった。

「あの段ボールは開封しようがしまいが、私にとっては罪と自己嫌悪の象徴なんです。見たくもないけど、目の前から無くそうとすると嫌でも直視しなくてはならない。それができないから、こうして我が家を段ボールに圧迫されたまま、日々を過ごしているんですよ。」

「あの、郵便局に通わなくなってからどれくらい経つんですか?」

宮前の問いに、男は顎に手を当て無精髭を摩りながら考えた。

「一週間というところでしょうか。」

男はそう言うと、「さて。」と息を吐き出すついでに言うように声を上げ、両膝に手を当てて勢いよく折りたたみ椅子から立ち上がった。

「長居してしまいましたね。そろそろ三時間くらい経ちます。色々つまらない話を聞いてもらって、ありがとうございました。」

宮前も思わずその場に立ち上がり、言った。

「最後にもう一つだけ聞いても良いですか?例の歴史的に美しい女の子とは、もう二度と会わないつもりなんですか?」

男は答えた。

「二度と、です。」

そう言う男の顔は明らかに寂し気だった。

その後、男は話を聞いてもらった礼を重ねて口にして、横浜駅西口の人波に消えて行った。彼は帰っていったのだ。彼の段ボールルームへと。


時刻を確認すると21時をいくらか回ったころだった。いつもなら23時過ぎまで聞き屋としての活動をしている宮前だったが、今日はそれ以上その場に留まる気にどうしてもなれなかった。折りたたみ椅子やホワイトボードを手早く片づけ、帰路に就いた。

最寄駅へと向かう京浜急行線の中で宮前は思った。あの男は歴史的に美しい女の子に出会うことで一時は生に潤いを与えられたのだ。それは砂漠の中のオアシスのごとく、湧き出る岩清水のごとく、どこまでも澄んで光り輝く潤いだ。しかし、その潤いはあまりにも澄んでいて、あまりにも輝きすぎていて、あまりにも美しすぎたのだろう。その美しい水面は、男の言うところの『おぞましい』彼自身の姿を反射させ、彼に直視させたのだ。

彼は藤後望美という希望を得ることによって、妻と娘を失った事実を再び痛感させられたのだ。自分自身の卑しさを突きつけられることとともに。

まだ終電には遠い時間帯。別の言い方をすれば、計画的に酒を飲むことのできる人間がこぞって電車に乗り込む時間帯だ。電車の中は人で溢れかえっていた。宮前は、ずっと憐れな男のことを考え、ただ何を見るともなく正面を向いていた。

すると、ふいに人の視線を感じた。両目だけを左右に動かし、視線の源泉を求めてみると、右前方に座った若い女性が宮前に視線を送っていた。顔見知りではないし、今日の宮前の格好は特に人目を引くような奇抜なものではない。

「男が女に惹かれる理由は性欲しかない。」と男は言った。逆もまた然りだろう。視線の主はそこまで具体的な形をもっているわけではないだろうが、欲の根のようなものは根付いているのかもしれない。

最寄り駅に着き、自宅まで4分の距離を歩きながら宮前は思った。

 「『千恵子』という名の後輩女子社員もまた、自分に対して性欲を抱いているというのだろうか。内藤も彼女は俺に対して気があると言う。今日出会った段ボールルームの住人は、男女が惹かれ合う理由は突き詰めれば性欲しかないと言った。

 人の欲を軽蔑するつもりはないが、俺にとって殊に性欲というのは優先順位の低いものだ。俺にとってはこうして、人々の話を聞く日々を送ることで得られる充実感こそが何よりも優先される。

 それに、人の話を聞くことは人の欲に触れることでもある。自分一人のちっぽけな欲に振り回されるより、雑多な人々の欲に触れている方が面白い。」

 宮前は玄関のドアに手をかけた。その瞬間、玄関先から廊下、部屋に至るまで壁の両側に屹立する段ボールの箱を想像した。

 そんな部屋がこの神奈川県のどこかに存在する。ただ整理のできていない部屋というのではなく、後悔や戒めの詰まった部屋だ。そんな快適と言えない部屋の中で、住人は何を感じ、何を考えているのだろう。

 誰もが一人一人にとっての地獄を抱えて生きている。彼にとってはその段ボールルームが地獄の象徴だった。聞き屋を訪れる人々も大抵は胸の内に地獄を抱えて生きているのだ。宮前は、その地獄の一端を覗くのが好きなのかもしれない。では、宮前自身の胸の内にはどんな地獄があるのだろうか。彼は決して自分自身の地獄には向き合わない。代りに他人のそれに目を向ける。彼の整った高級スーツの内側には何があるのだろうか。

 彼の部屋には物言わぬ数十着の高級スーツが並んでいたのだった。

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