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夜行く人々  作者: 能上阿萬
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聞き屋の夜

 その男、今泉幸治は今夜もカウンターの中から出入り口のガラス戸の外を眺めていた。あいにく、その夜は19時半を境に客足が途絶えてしまい、それ以降30分近く手持無沙汰な状態が続いていた。大将の野上はさっきから壁に据えられたTVでバラエティー番組を見ていた。番組では芸人とグラビアアイドルが磯辺で釣りをしていた。釣り上げた魚を巡って騒いでいる様子を見ながら自然と魚の種類を特定していた。ディスプレイの向こう側で釣り上げられた魚は「メジナ。」だった。彼にとって魚は生活に密接したものだった。彼は魚を捌くことで生計を立てていた。彼は横浜西口の小さな居酒屋『隠れ庵しらいと』で働く調理師だった。その店は駅から10分ほど離れた裏路地にあった。

 今泉は芸人たちの騒ぐ様子に飽きて、店の前の様子をガラス戸越しに眺めているのだった。下手なバラエティーよりも、店の前の路地の往来を眺めているほうがずっと面白かったからだ。

 あらゆる人がそこを通った。傾向として、仕事上がりの男性サラリーマンが通ることが多かったが、土日になるとそこに男に連れられて歩く女の姿や、きょろきょろとあたりを見回しながら飲む店を探す大学生くらいの若者の姿が混じるようになった。集団で路地を行く者たちがいれば、一人きりで彷徨う者もいた。そうした路地行く人々の様子をつい観察してしまうのは、今泉のみならず大将の野上にとっても癖のようなものだった。職業病と言い換えても良いかもしれない。ガラス戸越しに外を見て、来店してくれるのではないかとつい期待の眼差しを向けてしまうのだった。

 客がいなければ特にすることがないというのは彼の職場でも言えることだった。もちろん、客が来る前に調理の仕込みをしたり、客が帰った後に食器の片づけをしたりする仕事はあったが、仕込みは開店前に一通り終わらせてしまっていて追加でやらねばならない準備もなかった。また、30分前に帰っていった客の使った食器の片づけについてはバイトの坂本に任せたので、今泉がすべきことは何もなかった。手際良く仕事をするのは彼にとって得意なことの一つだったが、おかげで手持無沙汰を感じることになってしまっていた。

 そういうわけで、今はただひたすらに往来の様子を眺めることくらいしかやることがなかったのだ。

 10分、20分と外の様子を眺めた。その間たくさんの人間(多くはスーツを着込んだ中年男性だった)が店の前を行き交った。しっかりした足取りで周囲の様子を眺めながら行く集団。千鳥足になった者の肩を二人がかりで支えながら駅方向に戻る集団。大抵の場合そのどちらかだった。共通しているのはどちらのパターンであっても、『しらいと』に注意を払うことはないということだけだった。

 それでも根気強く眺め続けた。結局のところ、今泉にできることは根気強く外を眺め続けるか、根気強く面白くもないバラエティー番組を眺め続けるかのどちらかしかなかったからだ。そして、自分とは無関係な人々が脚本に沿って騒いでいるだけのバラエティー番組よりは、日によって様子が微妙に違ってくる店の前の往来の様子の方が面白かった。

 しばらくすると、一人の若者が『しらいと』に興味津々といった様子で店内を覗き込んでいた。店の前で立ち止まって見入ってくれる人は見込みがある。ひょっとしたら入店してくれるかもしれないと思い、今泉もその若者の様子を窺った。

 若者は二十代の男だった。学生か、せいぜい社会人になって数年といった歳のころだろう。今泉は短い間に若者の頭から足まで視線を這わせた。すると、一瞬ののちに今泉の視線と若者の視線が交わった。視線同士がぶつかる音なき音を今泉も聞き取ったし、その若者も聞き取ったようだった。

 「あれ。この人最近見たことあるな。」今泉がそう考えるのと殆ど同じタイミングで、その若者は路地の先にそそくさと去っていき、見えなくなった。

 その若者を一体いつ見たことがあるのか、今泉はしばらくの間考えた。彼の生活圏は自宅のある天王町と店との往復が殆ど全てだった。徒歩で通勤しても20分そこそこで到着する狭い範囲だった。休日はどうしても土日以外になってしまうため、家族と外出する機会も少なく、週一回の休日も大抵は家の中で横になって怠惰に過ごすことが多かったから、休日にプライベートで会ったというのでもないだろう。恐らく、この店にやってきた客のはずだ。

 そうあたりを付けてから最近店に訪れた客を思い返してみた。常連ではない。常連であれば、すぐに分からないはずはないからだ。一見さんのはずだ。最近の記憶から徐々に古い記憶を漁っていき、ちょうど一週間分ほど思い返してから、その若者の姿に思い当たった。彼は先週の土曜日に来店し、日本酒を好んで飲んでいた客だ。確か初めての来店だったはずだと今泉は思い当たったのだった。

 その客は一人で来店し、しばらくの間は料理をつまみ、酒を飲みながら文庫本を読んでいたはずだ。今泉は小説を読む習慣が無いので、若者が読んでいた本が何なのか知らなかった。表紙には大きな字で『痴呆』だか『阿呆』だかという題名が書かれていたような気がするが、なんだか小難しそうでしっかりとは記憶しなかった。たまにこういう客が来る。連れがいるわけでもなく、待ち合わせているわけでもなく、終始一人で酒を飲み、本を読む手合いだ。今泉個人としては気障な趣味をした人間だなと思うのであったが、料理人としてはそういった客はゆっくりと読書を楽しみながら長々と酒や料理を注文してくれるから悪い客ではなかった。その客も正にそういったタイプの飲み方をしていた。

 「しかし。」と今泉はさらに思い出した。しかし、途中で同じく一人で来店した女性客がいて、互いに面識は無いようあったが暫くすると二人だけで会話を楽しむようになったのだった。そんな二人の客を気遣って、大将の野上とともに厨房の奥まで下がって小声で世間話をして、若者同士の時間を邪魔しないようにしたのだ。そう頻繁に見られる状況ではないので、記憶に残っていた。

 思い出し、今泉は「なるほどな。」と納得するのだった。結局、あの若者は先週の女客がまた今夜も来店しているのではないかと期待したのだ。二人の客が来店したのはちょうど一週間前の土曜日、時間も今と大体同じくらいだった。思い返してみれば、あの時あの若者は女客とえらく淡泊に別れた。大抵、そういう場合には男から「もう一軒行かないか。」と誘うものだが、それが無かった。そこも珍しいことなので、彼の記憶に残っていたのだ。

 彼もだんだん思い出してきた。そうすると、あの若者はきっと一週間前の未練を抱えてきたのだろう。

 しかし、そんな若者の下心に気付いても、今泉は彼のことを特に軽蔑もしなかった。寧ろ、今泉が既に失ってしまった若い情熱を感じ取ることができ、微笑ましいような気すらしたのだ。

 やがてまた、店の前で店内を窺う二人客が現れ、二言三言相談した後に入店してきた。あいにくその客たちは二人とも男ではあったが、約一時間ぶりの客なので、今泉や野上にとっては歓迎すべき客だった。

 「いらっしゃいませ。」

 彼らの挨拶には自然と熱が籠った。

 その後は客の注文に応え、酒に料理にと準備に忙しい時間が過ぎた。酒はバイトの坂本に注がせればいいし、食器洗いも奴でよい。今泉は豚肉のローストを作り、野上は刺身盛を作った。客に料理を出しては、しばし何もすることのない時間が来た。そして、また次の注文を受け、また用意した。それを三回ほど繰り返した。

 男たちは同じ会社の社員だが、別の部署で働いている同期の社員らしく、それぞれの課の不満をこぼしていた。

 「そっちは良いよ。徳松さんスケジュール管理しっかりやってくれてるみたいだし。こっちは最悪。今回もまた納期に間に合いそうにないから、近々また残業地獄突入するのが目に見えてるもん。本当にリーダーの質って大事だと思うよ。」

 「加藤さん色々杜撰だからな。ご愁傷さまとしか言えない。でも、徳松さんは徳松さんで仕事に対して意識高すぎて疲れるところもあるよ。どっちもどっちかな。」

 その後も、職場の話が続き専門用語が飛び交う話になってきたので、今泉はまた路地の様子に注意を向けた。

 残念ながら、それ以降またぱたりと客足が途絶えた。ずっと外を見ていても、店の前を通り過ぎる人影すらなかった。時計を見ると、21時を過ぎていた。酒を求める人も既にどこかしらの店に吸い込まれている時間帯だ。この時間帯はいつも路地の人通りが目に見えて少なくなるのだった。

 店内BGMとして流しているビートルズの『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』と、控えめな音量のTVの音声に客の低い声が混ざり合っていた。どれも小さな音で耳に届いていたので、音として意味を為していなかった。メロディーはところどころ欠落し、芸人の言っていることは理解できず、客の話題もつかめなかった。茫洋とした時間だ。その時間に浸りながら、今泉は相変わらず店外の暗闇を見つめていた。入り口のガラス戸は外の闇に染まり、まるで黒い鏡のように外を眺める今泉の姿自体を映していた。今泉は外の様子を見ているようで、実際には自分自身の様子を見つめているに過ぎなかった。

 「そういえば俺、この間面白い奴に会ったよ!」

 右側の席に座った男の方が、急にそれまでの会話のトーンより幾分語気を強めて話題転換をした。その切り出し方の唐突さや、言葉に含められたテンションの高さに今泉はつい注目した。外の暗闇から目を離した。

 「面白い奴ってどんな奴だよ。」

 左側に座った男は、それまでと同じトーンで聞き返した。彼はまだ、右側の男の話にさほど関心を持っていないようだった。

 「聞き屋って名乗ってるやつに会ったんだよ。この間の水曜だったかな。」

 右側が答えた。左側はよく意味が分からないと言った様子で質問を重ねた。

 「だから、その『聞き屋』って何者なんだい。どこで会ったんだ。」

 「ああ、会ったのはすぐそこさ。横浜駅西口、相鉄線改札前あたり。ほら、地下街に降りる階段があるでしょ。レンタルビデオショップの近くに降りる階段さ。あの階段の周りに汚らしい植木がぐるっと植えられてるじゃん。そのあたりで会ったんだけどさ、なかなかユニークな奴だったよ。」

 今泉は右側の男の話に耳を傾けながら、脳裏に客の言った場所辺りの様子を思い浮かべた。相鉄線はたまに利用するから、客の話している場所の近くはよく理解していて、想像がついた。よくパフォーマーが立っているところだ。バンドマンが歌っていたり、パントマイムをするピエロが立っていたりする場所だ。すると、「聞き屋」というのも大道芸の親戚のようなものなのだろうかと今泉は思った。

 「お兄さんも、あそこ知ってますよね。」

 唐突に右側の男が今泉に話しかけてきた。当の今泉は自分に会話の矛先が向けられるとは思っていなかったので、ややまごついた調子で答えることになった。

 「ええ、ああ、はい。駅西口の辺りですよね。たまに駅前に買い物に行くときなんか、よく通り過ぎます。」

 「でしょう。ほら、このお兄さんだって知ってるってよ。有名なんだって、もう。」

 右側は酒で饒舌になっていて、鬱陶しい態度で左側に絡んだ。左側は、さも迷惑人物を眺めるようなしかめ面で右側に言った。

 「だから、場所は誰だって分かるっての。この辺りを多少なりとも利用してりゃあな。俺が聞いてるのは、その『聞き屋』ってのがいったい何者なのかって話だよ。ねえ、お兄さんも知らないよねえ。」

 左側に同意を求められ、今泉は短く「はあ。」と答えた。左側の客も右側の客とは、また酔いの方向性や癖は違えど、確かに周囲の人々に絡む状態になっていた。今泉は為すすべもなく、二人の酔客の会話の只中に引き込まれていた。大将の野上は、今泉が絡まれて会話に巻き込まれている様子をカウンターの端から面白そうにニヤニヤ顔で眺めていた。

 「それでね、その聞き屋って奴はさ、まあ、俺たちより十は若い若造でさ、フレッシュマンスーツみたいなのを着込んでビシッと決めた身なりをしてた。そして折りたたみ式の椅子に座ってさ、ほらよく子どもの運動会なんか行くときに持っていく簡単な椅子があるじゃん、座るところがちょっと丈夫な布でできてて、ぱかっと足を広げると椅子になるやつ。それに座って、じっと通りを眺めてたの。俺はそのとき丁度今日みたいにこの辺りで飲んでてさ、ああ、どこで飲んだんだったか、ここだったような気もするけど、ふう、ちょっとちゃんとは思い出せない。どうだったかな。」

 右側はそこで口を閉じ、右手を側頭部に添え、真剣な表情で記憶を漁った。今泉は、ただ静かにそんな酔客の様子を見守ったが、同期社員である左側は痺れを切らして、隣の男の左肩を軽く小突いて言った。

 「別にお前がそのときどこで飲んでたかなんて興味ないよ。どうせ、大して関係なんかありゃしないんだろ。もったいぶってないで、さっさと続きを話せっての。」

 右側は「なにすんだよう。」と言いながらも、思い出すのを諦めたらしく、素直に続きを語り始めた。

 「どこかしらから帰るときにさ、その男に会ったわけ。何してるのか分からなかったけど、身だしなみも悪くない若い男がそんな風に座って通りを眺めてるから不思議に思ったんだよ。ホームレスには見えなかったからね。何だろう、こいつは。ってね。バンドマンか何かが休憩でもしてるのかなとも思ったけど、周りには楽器もスピーカーもありゃしない。ただ男の正面、20㎝くらい離れたところに、男が座っているのと同じ折りたたみ椅子があるだけだった。対面するような位置でさ。なんかそれ見てたら段々気になっちゃってさ、すぐに通り過ぎようと思ってたんだけど、フラフラとそっちに引き寄せられちゃって、すっとその椅子に腰かけちゃったんだよ。」

 そこまで話して、右側はビールグラスを空にして「生、もうひとつ。」と声をかけた。今泉は厨房の奥へ行き、中ジョッキにビールを注いだ。自分がビールを注いでいる間に、先の展開を話されていたら嫌だなと思ったが、カウンターに戻ってみると右側の男の姿はなく、どうやらトイレに入ったようだったので、今泉の心配は杞憂に終わった。一時的な空席となった場所にカタンと音を立ててジョッキを置いた。冷えたビールを抱え込んだジョッキは見る見るうちにその表面に結露を蓄え、右側の男がスツールに戻るまでに幾筋もの水滴をカウンターに垂らした。今泉はそれが流れ落ちる様子を見るともなく眺めながら、男が戻るのを待った。

 程なくして男が戻ってきた。席に戻るなりジョッキを手にし、ゴクリゴクリと大きな音を立て、喉ぼとけを何度も隆起させながらビールを胃袋に流し込んだ。一息ついて、また話が再開された。

 「えっと、どこまで話したっけ。……ああ、そうだ、俺が折りたたみ椅子に座ったところまでだ。それで俺聞いたんだよ、何してるんですかって。そいつは『僕は聞き屋をしてます』なんて言うんだよ。正直、最初は『キキヤ』ってなんだ、何語だろうなんて思ったよ。俺が分からねえなって顔してるとさ、そいつスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して、一枚抜き取って俺にくれたんだ。その名刺に書いてあったよ、『聞き屋』ってな。その肩書の下に本名も書いてあったけど、何だったかなあ。宮なんとか。宮って字とか雅って字とか書いてあった気がするんだけど思い出せない。財布に入れといたかな、名刺。」

 男はズボンのポケットから財布を引き出し、さらにその中からクレジットカードやらポイントカードの類、レシートの類を取り出して探してみたが、入っていないようだった。

 「なくしちゃったか。まあいいや。名前は。それで俺聞いたの。聞き屋って何なのよ、ってな。するとそいつは『なんでも、誰でも話したいと思っていることがあれば聞くのが聞き屋です。僕に聞いてほしいことがあれば何でも遠慮なく。』って答えたんだよ。」

 同僚も今泉も、男の話の奇妙さに引き付けられていた。なおも右側の男は話した。

 「だから俺聞いたの、何が目的でそういうことやってんの。話のネタ集めて本でも作る気、それとも人と話す練習か何かしてる噺家さんか何か、ってね。でも、そいつは言ったね。『自分は聞いた話で何かを作ったり、表現したりしようとしてるんじゃない。別に話す練習をしてるわけでもない。そもそも、僕は聞き屋であって噺家じゃない』ってね。『単に、いろんな人の話を聞くのが好きで興味があるだけ。』って言ってたっけ。」

 そこまで話すと男はジョッキ3分の2ほど飲み干した。そろそろ、また次の注文が入りそうだ。

 「占い師の類でもない、ただいろんな人の話を聞いてみたいだけだって言うんだよ。なかなかそういう馬鹿げたことをする奴もいないし、面白いなと思って俺もしばらくそいつの酔狂に付き合ってみたんだ。」

 右側は残りの3分の1も飲み干して、再び生ビールを注文した。店には相変わらず新たな客が入ってくる気配もなかった。おかげで今泉はその妙な出会いの物語に耳を傾け続けることができていた。

 右側の男は聞き屋の男に色々なことを聞いてもらったと語った。仕事の愚痴(無能な上司である加藤について)や、一人息子が小学校で友達を蹴飛ばして両親ともども学校に呼ばれた話や、故郷長野に一人きりで残してきた母親の話など。およそ右側の男を構成している悩みごとの全てを聞き屋に話した。右側の男は、誰かに打ち明けたいけれど、個人的過ぎて誰にでも打ち明けられるわけじゃない話を聞き屋に聞いてもらった。

 「そういう話ってお前には以前から聞いてもらっていたし、話せるけど、それ以外の人にはなかなか話せないんだよ。仕事の愚痴はまだしも、家族の問題ってさ。でも、自分と全く関係のない奴が相手だったから、不思議と素直に全部話せたんだよな。」

 右側の男はそう言って、カウンターに出された新たなジョッキに口を付けた。


 その日は今泉にとって珍しく何も用事のない休日だった。週休二日を理想としながらも、実情としては週に二日も休めることはなく、だいたい週に一度の休日という勤務体系だった。それももちろん土曜日や日曜日に休めるはずもなく、月から金までの間のどこかで休めるかなといった様子だった。いわば不定休である。限られた休日も、大抵は妻の咲江から食料品を買いに行くように頼まれたり、一人息子の遊び相手を務めるように頼まれたりしていて、何やかやで忙しかった。

 だが、その日は今泉にとって完全な形での休日だった。咲江は彼に何も用事を頼まず、また今泉自身もその日のうちにしなくてはならない用事は持ち合わせてなかった。まるで南極のペンギンのように一日ずっとその場に立ちすくんでいたとしても、何ら問題のないくらいに用事が無い一日だった。妻は臨月を迎え、一人息子の春人とともに茨城県の故郷に里帰りをしていた。だから、今泉に買い物を頼む人もいなければ、遊んであげるべき息子もいなかった。こんなに彼自身の自由が確保された休日は息子が生まれて以来初めてだった。息子が生まれたのは4年前のことだ。当時、今泉は自分が父親になるという実感が何も沸かないままに咲江の腹が大きくなっていく様を眺めた。眺めているうちに春人が産まれた。そして、彼は父親になった。

 父親になる実感というのは後から湧いてきた。春人は確かに自分の遺伝情報を受け継いだと分かる鼻の形をしていた。耳朶の形は咲江に似ていた。他の部分も、どこかしらが彼と彼女に似ていた。紛れもなく春人は彼らの息子だった。その事実が今泉の心に重くのしかかった。逃げられないのだと。

 目の前にいる春人は間違いもなく、彼の子どもであり、彼をこの世に生み出したのは今泉だった。生み出した以上、春人を大切に育て成長させる義務と責任がある。それを否応なく感じた。それからは、義務と責任に突き動かされる日々だった。今泉は妻と息子のために土日もなく働いた。咲江に頼まれれば息子の世話も惜しみなくやった。そんな忙しいばかりの生活も、彼にとっては喜びだった。

 そんな折、咲江が再び身籠った。

 春人は大喜びした。「ぼく、お兄ちゃんになるんだ。」と。二人目を授かったことも嬉しかったが、兄になることを喜ぶ春人の様子を見ることは今泉にとってなおのこと喜ばしかった。もっと、頑張らなければと思った。

 そうして今まで以上に自らを奮い立たせて家族を支えてきた数か月だったが、妻と息子は先週から里帰りしていた。毎日妻に電話をし、息子とも話して互いの様子を確かめ合っていた。しかし、それ以外の時間は完全に今泉のものだった。

 その日は朝八時に目覚めると、まず布団を庭先に干した。息子が生まれた年に35年ローンで購入した一軒家の庭先だ。確かに猫の額のような狭い庭ではあったが、家族三人分の布団を干しても余裕があるくらいの広さはった。四人目の布団が加わったとしても、充分干せるくらいの広さはあった。布団を干し終えると、家中に掃除機をかけた。一階も二階もくまなくかけた。次に息子の制服にアイロンをかけた。そして、風呂掃除。今泉は家族が傍にいなくとも、その生活すべてを家族のために捧げることが染みついてしまっていた。

 そうした家事をこなすうちに正午を過ぎた。今泉はインスタントの焼きそばに湯を注ぎ、それを昼食とした。仕事では毎日料理を作っているからこそ、自宅では一切料理をしないようにして気持ちを切り替えていた。インスタントでも自分の腹を満たすだけなら事足りるのだ。

家事全般を終え、今泉は手持無沙汰となった。

 「何をすればいいんだ。」

 つい、彼はそう一人呟いた。彼にとって一人きりで過ごす時間は持て余してしまうのだ。貴重な休日は刻々と終わりに近づきつつあった。結局、一人きりの休日と言っても何か特別なことをするわけでもない。

 せめて休日らしいことをしようと思い、自宅を出た。

 まだ彼が結婚していないころ、彼には同じく独身の友達が何人もおり、メールを一つ送りさえすれば、いつでも一緒に酒を飲んでくれた。だが、今泉自身も当時の友達の多くも、今では妻や子というある意味では枷となる存在(しかし大切な存在)を得ており、以前のように気安く集まって酒を飲むことは不可能になっていた。せめて、自分一人でもささやかに酒を飲もうと思い、自宅を出て横浜駅西口に向かった。

 結局のところ、そこは職場の近くであり、仕事だろうと休みだろうと行き場はここしか無いのだと言われているような気がした。そして、実際にその通りと言わざるを得なかった。彼はもう以前ほど遠くに行くことはできない。

 どぶ川沿いの細い道を歩いた。この街も日本の都会の例に漏れず、場所によってはどうしようもなく汚らしかった。だが、今泉自身は特にその汚さには頓着していない様子だった。美しいとか醜いとか、そういった見方をしていなかった。ここにはただ、彼の職場があるだけだった。そこでは外観の美醜は求められていなかった。

 何度か角を曲がると、パチンコ屋が視界に入ってきた。今泉も咲江が身籠ったことを知るまでは、よく通ったものだった。基本的には負けるのだが、たまに大きく勝つこともあり、その時の快感は今でも思い出すことができた。「久しぶりにパチンコでもするか。」と、一瞬心が揺れたが踏みとどまった。結局、今泉がパチンコを辞めたのは、子が生まれるというのにこんな下らない遊びで金を失うリスクを負ってはいられないだろうと考えたからだった。今は妻と息子が実家に戻っているとはいえ、その時の誓いが揺らぐものではなかった。ましてや二人目の子も生まれようとしているのだ。彼はその自動扉の前に立てるはずもなかった。

 その一瞬の心の迷いと、それに対して自分が出した答えは、そもそも「酒でも飲もうか。」と家を出てきた今泉の考えに水を差した。酒など飲んでいる場合なのかと。彼は基本的には、第二子懐胎を喜んでいたが、一方で金銭的な不安も抱えていた。居酒屋の料理人というのは決して高給取りではない。彼の勤める『しらいと』は小さい店ながら評判が良く、同じ規模の個人経営店と比べると、価格設定がいくらか高くても客が入ったので売り上げ自体は良かった。そして、彼の給料にもその分反映されはしたが、昨年購入した自宅のローンと家族三人の生活を支えるにはカツカツのものだった。さらに四人目が増えるとなれば、余計な出費は抑えたかった。外で酒を飲むこと自体が相応しくないように思えた。

 迷いながらも横浜駅構内を突っ切って、西口出口方面へ出た。お金がもったいないという思いと、折角酒を飲むために出てきたのだからという思いの間で揺れ動いた。

 今泉は一旦、酒を飲むべきか飲まざるべきかという問題を保留することにした。まだ時刻は15時を回ったばかりだ。酒を飲むにしても早すぎる。宵が深まるまでに酒の誘惑との決着の付け方を考えねばならない。

 すぐさま酒を飲むわけではないということになると、ここでもまた手持無沙汰になった。自宅にいても家事が終わればやることがなく、外に出てきても結局は自身の懐状況を思うと気前よく酒を飲みに行くこともできず行き場のないまま漂うだけだった。自分はいつからこんなに不自由になったのだろうと今泉は自身を情けなく思った。

 無論、パチンコ屋に行って夜を待つわけにはいかない。ただでさえ今夜の酒に金を払うかどうかで迷っているのに、さらなる浪費を呼ぶというのは問題外だった。パチンコで資金を増やすなどという自分に都合の良い考え方ができるほど今泉は若くなかったし、それを許してはくれぬ状況があった。

 迷った末に、横浜駅西口の大型家電量販店に行くことにした。

 地下街に降り、何度か曲がり角を折れて量販店に向かった。地下街ですれ違う人々は性別も年齢も身なりも異なっていたが、今泉は誰も彼もが自分より自由を謳歌しているように見えてならなかった。自然と足が重く感じた。

 元々、今泉は家電の類を眺めるのが好きだった。職業柄台所周りの家電には興味があって、家電量販店に来ると冷蔵庫やミキサーのあるフロアを見て回った。台所家電に限らず、パソコン関連商品を見るのも好きだったし、キャンプ用品を眺めるのも好きだった。定期的に新商品が並ぶし、それぞれに魅力的な機能が備わっていて、どれだけ見てても飽きなかった。

 地下二階のスマートフォン、タブレット関係のフロアから順に上に上がっていき、パソコン、台所家電、エアコン、大型ディスプレイ、キャンプ用品と順番に見て回った。それだけで一時間半近く時間が経っていた。

 まだ酒を飲むには早い時間だった。今泉はさらに上のフロアに行った。

 6階はおもちゃ、ゲームコーナーだった。春人にせがまれてたまにここに来ることもあるが、彼一人で6階に立ち寄ったのは今回が初めてだった。おもちゃにせよゲームにせよ興味のない今泉にとっては特に見るべきものもないフロアではあったが、夜まで時間を潰さなくてはならないので仕方なくここも見て回ることにした。

 周囲を見渡すとなかなか人で賑わっていた。当然ながら子どもが目を輝かせてあちこちを見て回っている。その近くには大抵の場合、母親か父親、あるいはその両方が付いて回っていた。その親たちは息子や娘にせがまれて、予定外の出費を迫られてしまうだろう。今泉も父親として同情してしまった。

 そんな親子連れに紛れて、子を連れていない若者や中年も多く混じっていた。上手くおもちゃやゲーム離れをすることができなかった人々だ。今泉にとっては無関係な人々なので、特に非難するつもりはないけれど、子にせがまれているわけでもないのにそうしたものを買わざるを得ないというのも大変だろうなあと思った。

 春人と来るときの癖で、男児向けのヒーロー商品が並んでいるブースから回った。商品箱には今年のヒーローと、その変身グッズがプリントされていた。中身は彼が子どものころのおもちゃと比べれば随分豪華なものにはなっていたが、結局のところプラスチックの塊でしかない。多少音が鳴ろうと、光ろうと、値札に書かれている値段に相応するものとは思えなかったが、子どもにとってはこの上なく魅力的なアイテムらしかった。息子の誕生日とクリスマスは毎年頭が痛んだ。

 そのブースを通り過ぎ、普段来たことのなかった女児向けのおもちゃブースまで足を運んだ。男児向けとは当然ながら商品のラインナップは異なるものの、結局のところ子どもの憧れを誘う品物が陳列されているのだ。近々生まれる娘も、少し成長するとすぐにこうしたおもちゃをねだるのだろう。そう思うと、今泉はため息をつきたくなるのだった。

 さらに奥へ行くと、赤ちゃん用のおもちゃを扱うブースがあった。こういったものも一から買い集めるとそれなりの出費になるのだ。春人の時に買ったので知っていた。今回は春人のおさがりを与えれば良いので買わずに済みそうだ。

 子どもにとっては心が弾むおもちゃフロアかもしれないが、今の彼にとっては金がより必要になるという現実を突きつけられてひたすら気落ちさせてくれるフロアだった。

 酒を飲もうか迷っているときに来るべき場所ではなかった。出費に敏感になっている今泉としては先々の出費の具体的一例を目の当たりにしたのだ。いっそのこともう帰ろうかとすら思った。

だが、本当にもう今だけなのだ。確かに先々金が要り用になることもあるだろう。だけど、今はまだ浪費を許されるはずだと自分を励ました。時計を見ると17時をいくらか過ぎていた。家電量販店を出ると、そのまま足は大衆バー『Hub』に向かった。

 「せめて今夜までは気楽に飲ませてくれよ。」と誰にともなく呟いて、扉を開いた。彼自身、自らを顧みてみると外で酒を飲むのは二年ぶりくらいだった。自分は毎日仕事として客に酒を注いでいるのに、今泉自身は家の外で酒を飲む機会はほとんど持たなかった。

 彼のささやかな息抜きは、誠に慎ましやかなものだった。飲んだ酒はスコッチ一杯のみ。それをちびちびと舐めるようにして長時間そこに滞在した。食べ物も余分なものは買わず、ミックスナッツのみ買って冬ごもり前のリスのようにカリカリとそれをかじりながら、できるだけ最小限の出費で、最大限「酒を飲んでいる」という実感を味わおうとした。贅沢するのは忍びなかった。

 結局そのまま二時間近く、居座った。

 飲んだのは僅か一杯のウィスキーではあったが、久しぶりに飲む外の酒ということで心地よい酩酊を感じることができていた。もともと酒に強いわけでもない。彼にとってはこれだけでも充分すぎるほどだ。頬を紅潮させた今泉は、自宅に向けて帰路に就こうとしていた。

 途中、横浜駅相鉄線改札出口に差し掛かった。二日前、『しらいと』に来た二人客が語っていた「聞き屋」のことをふと思い出した。彼らが語っていた「聞き屋」がいるというのは、この辺りのはずだった。酔いで浮足立った今泉の両足は、僅かな好奇心に唆されて、自然と「聞き屋」がいるという地下街入り口付近へと向かっていた。

 地下階段入り口にはそれらしい人物はいなかった。多いとは言えないが、途切れない程度には人が上り下りしている階段の入り口だ。そこに陣取っている人物がいるはずがなかった。今泉は階段入り口の真逆の位置に回り込んでみた。丁度、酒を求める人々と我が家の光を求める人々が交わるあたりの地点に、その男はいた。

 事前に聞いていたように、清潔感のある風貌をしていた。こんな場所にドレスコードがあるはずもないのだが、その男はダークスーツを上品に着こなしていた。まるで今から大口の商談が待っているハイクラスのビジネスマンのようだ。今泉とは住む世界が違う人々の格好だった。また、髪形も爽やかなクルーカットで印象が良かった。目じりには僅かに刻まれた皺があるものの、それを除けば張りのある若々しい顔つきをしていた。今泉自身、自他ともに認める童顔だったが、その男はそれ以上に色艶の良い張りのある容貌をしていた。それでいて、幼い印象を与えることはなかった。まるで、永遠に精悍な顔つきの高校生であるかのように思えるほどだった。

 その男の様子を探る今泉の視線と、通りを見渡すその男の視線が交わった。その男は、にこりと愛想のよい笑みを浮かべた。男であれ女であれ、その笑顔を見れば一段階警戒心を緩めてしまうような、そんな笑みだった。

 「もし良かったら、そちらにお掛けになってお話しされていきませんか。」

 男が言った。男の左隣には立てかけ式のホワイトボードが置いてあり、そこには「聞き屋」と大きな文字で書かれていた。さらに、その文字の下には「なんでも聞きます。どうぞご自由に。」と書いてあった。今泉はちらりとそのホワイトボードに目を走らせ、男の顔と見比べた。先日の二人客の言っている通りなら、単純に人の話を聞きたがるもの好きでしかないはずだ。妙な勧誘をして来たり、面倒に巻き込まれたりすることもないだろうと思い、男の向かいに置かれた折りたたみ椅子に腰を下ろした。

 「あの、これって一体何なんですか。」

 今泉の率直な問いに男は答えた。

 「はい。僕は『聞き屋』と言いまして。たまにここで色々な人の話を聞かせてもらっているんです。…あ、お金は頂いていません。商売ではありませんから。単純に、私の趣味でやっていることです。」

 受け答えもまた、とても好印象だった。そこに嘘偽りの響きは感じられなかった。

 「そう言われてもなあ。こういうことは結構長いことやっているんですか。」

 「十年ほどになります。」

 「毎日やってるんですか。」

 「いえ、僕も勤めを持っているので、聞き屋として活動できるのは、こういう金曜や土曜の夜くらいですね。」

 「毎週ですか。」

 「いえいえ。別にこれを生業としているわけではないので、基本的に自分の都合の良いタイミングでやってます。真冬の寒い時期はどうしても足が遠のいてしまいます。最近やっと暖かくなってきたので、これからの時期は段々頻度が上がっていくでしょうね。」

 「こういうことしている人って他にもいるんですか。私、初めて『聞き屋さん』というのに会ったんですけど、結構メジャーな存在なんですかね。」

 「さあ、別に全国協会があるようなものでもないですから、僕も日本中にどれくらい、こういうことをしている人がいるのかは知りません。ただ、都内だと渋谷や池袋に同じことをしている人がいるのは知っています。」

 「そうなんですか。お友達か何か。」

 「いえ、そうではないです。そもそも私がこういうことをしようと思ったきっかけになった人が池袋にいたんです。僕もその人に、ちょうどあなたのように聞いてみたんです。何してるんですか、って。そして、それから当時の悩みのようなものを聞いてもらって。何度か通ううちに、自分も聞き屋をやってみたいと思って、その人に相談して暖簾分けのような形で私も始めたんです。暖簾のようなものは何もありはしないんですけどね。渋谷にも同じことをしている人がいると、その人から聞きました。」

 「結構たくさんの人が話をしに来ますか。」

 「一晩ここにいれば、10人から20人くらいは、その椅子に腰かけてくれますね。長々と話していく人もいれば、すぐに興味をなくしてしまって帰っていく人もいます。」

 今泉は背後の通りを振り返った。時刻はまだ20時をいくらか過ぎたころだ。確かな足取りで歩いていく人々は、これから酒を飲みに行く人たちだ。怪しい足取りで歩いていく人々は、我が家を目指して行く人たちだ。仕事柄、酔客の観察にかけてはちょっとした一家言のある今泉だ。通りを行く人々の様子を見れば、それら二つの人種を見分けることができた。

今泉たちの脇を、ベニヤ製の看板を掲げた法被姿の匹夫が通り過ぎた。看板にはピンクや黄色の派手な色合い、肩から下げたショルダーバッグはポケットティッシュでパンパンに膨れていた。ティッシュを掲げながら道行く女性たちに声をかけていた。風俗の勧誘を生業とする輩だ。汚らしいこの街にとっては最も似合いの通行人だろう。その滑稽な姿を視界の端から追いやり、改めて目の前の男の風貌に目をやった。件の匹夫ならともかく、こんな一角の人物然とした男がこんな酔狂な真似をしていることが、とても不思議だった。だが、こういう人物だからこそ行動の胡散臭さや信用の置けなさが、かなり減じられていて自分も何か話を聞いてもらっても良いかもしれないという気持ちに段々となってきていたのだった。

 「話をしていく人たちは、どんなことを話していくんですか。」

 聞き屋は、左目を一瞬キュッと閉じて、申し訳ない、といった表情を作った。

 「一応、話される方の個人情報を聞きだしている側なので、聞いたことをおいそれと他の人にお伝えすることはできません。ですが例えば、自分の悩みや、職場の愚痴といったものが大半です。たまにとてもユニークなお話をされる方もいますが、それはまあ個人情報に絡むということで、お話しできませんが。」

 「なるほど。でも、それを聞いて逆に安心しました。何を話しても問題はなさそうだ。」

 今泉は聞き屋に対する警戒心をまた一段階下げた。なおも今泉は質問した。

 「どんな人たちが話をされていくんですか。」

 「それも様々です。若い人も年配の方も。男性も女性も。それでも話を伺っていると、現役で働いている社会人の方が多いようです。仕事を終えたサラリーマン、終電を逃した水商売の女性。私もそうですが、日々社会で戦っている人たちは多かれ少なかれ話を誰かに聞いてもらいたいと願っているようです。多分ですが、あなたもそうじゃありませんか。」

 聞き屋は品の良い微笑みを浮かべて言った。その笑顔は、同性の今泉から見ても思わず唸ってしまうくらい見事に好感度の高いものだった。

 「ええ、まあ。確かに言われてみるとそうかもしれないですね。」

 「なんでも聞きますよ。遠慮せずにどうぞ。あなたがそこに座ってから、寧ろ私の方がたくさん話しています。これではまるで『話し屋』です。さあ、話すのは私の本業じゃありませんので、あなたのお話を聞かせてください。」

 促されて、今泉は暫し考えた。他人に無条件で個人的な話を聞いてもらえる機会など今までなかった。見知らぬ相手だからこそ話せることもある。話したいことを決めると、彼の口からは滔々と言葉が溢れてきた。

 「うまく話せるかわかりませんけど、折角なんで…。実は自分、来月には二児の父親になるんです。ええ、二人の子の親です。一人目は男の子。春人って名前なんですけどね。あ、今年で4歳になる息子です。その春人も来月にはお兄ちゃんになるんです。二人目は女の子だって定期健康診断で既に分かってるんです。でも春人にはまだ伝えてません。春人も赤ちゃんが生まれるのを楽しみにしてるから、生まれてからのお楽しみにしてあげようと思って、あえて男か女かもう分かってるってことは伝えないでいようって妻と決めたんです。おかげで春人は毎日『弟かな、妹かな。』なんて言いながら楽しみにしてて。あ、でも春人も今はうちにいないんですけどね。妻と一緒に妻の実家のある茨城に行ってるんです。そりゃ一人で気楽と言えば気楽ですけど、やっぱり寂しいかな。あと何より気が紛れないというか。つい同じことを考えちゃうっていうかな。」

 酔った今泉は普段よりも饒舌になる。一方的に喋り立てていることに気付いた。

 「ああ、いけない。話が脱線しちゃってた。別にそのことを言いたいわけじゃなくて、単純に二人目が生まれるってことだけを言いたかったんですよね。」

 聞き屋は無言で笑顔を浮かべながら「どうぞ続けてください」と言うように軽く頷いた。

 「まあ、要するに家族が増えて賑やかになるし、僕も父親として一回り大きくなるっていうかな。」

 そう言って気恥ずかしそうに「ハハ。」と笑って見せた。そんな今泉の様子を、聞き屋は洗練された笑顔を浮かべて眺めた。「でも。」と一言、聞き屋が呟いた。その呟きは短いものだったけれど、今泉から話の続きを引き出すのに充分な効果を持っていた。

 「そう、『でも。』なんですよね。確かに僕も息子も、もちろん妻も家族が増えることをとても楽しみにしてる。それはホントですよ。ただなあ、なんというか僕は自分が人の親であることについて、あまり自信が持てないっていうかな。そんな立派な人間じゃないぞ、って思っちゃうんですよね。そりゃあ、今だって僕は春人の父親だけど、春人が産まれたときはあまり『父親とは。』というようなことを深く考えてなくて、気が付いたら父親になっていたって感じなんです。だけど、あの子が段々と成長してきて、立ち歩いたり言葉喋ったりするようになるにつれて僕も父親の自覚が芽生えてきたんです。そして、それを意識すればするほど、相応しくないと思えてきてしまって。僕はね、料理人なんです。しがない料理人。この近くで働いているんですけどね。なんとか家族三人分の食い扶持は稼いでるけど、それで精いっぱいで。もうあっぷあっぷって感じですよ。それなのに四人目を作ったっていうんだから、我ながら無計画さには呆れます。できるとは思ってなかったんだよなあ。油断してました。」

 俯き、首を横に振って見せた。自分自身の無計画さを責めているのだ。

 「また少し話が逸れてきました。もちろん、二人目を無計画に作ったことや、かつかつの稼ぎしかないことも凄く気にしてることなんですけど、それよりなにより自分自身が人の親になるほど立派な人間だって思えないってことなんですよ。学もなければ教養もないし、稼ぎだって良くない。僕なんて老けた中学生みたいなもんで、この年になっても半人前でしかないんです。まあ、こんな顔なんで、あまり老けてると言われることはありませんが、それでも年齢は誤魔化せません。あと何年かしたら四十になろうというのに、僕は何者でもありはしないんです。こんな僕が人の親になるなんておこがましいことです。そういう風に考え始めると、どこまでもグルグルと考えが堂々巡りしちゃうんです。参っちゃいますよね。息子がいることも娘が産まれてくることも、とても嬉しいし幸せなのに、同時にとても重いんです。そう、心に重いんですよ。」

 そう言うと今泉は深いため息をついた。

 「たまに未婚の友達に会うと『父親になったなんてすごいな。俺なんて人の親になる資格が無いし、子どもなんて作れないよ』なんて言われることもあります。だけど、そんなの俺だって持ってないです。親になる資格なんて免許センターも発行してはくれませんからね。ただなってしまっただけ。親になったからには責任を果たそうと思って頑張ってるだけなんだけど、彼らにはそれが伝わらない。別に彼らに分かってほしいわけじゃないです。子どものいない彼らには、どれだけ説明しても伝わらないと思うし、彼らの理解はなんの助けにもなりませんし。ただ、たまにしんどいなと感じることがあるんです。こんなこと誰にも言ったことはないですけど。」

 「僕のことは地面に空いた穴だと思ってください。」

 聞き屋は両掌を自分の顔の前で静かに合わせて言った。

 「『王様の耳はロバの耳』。あの物語に出てくる穴のようなものです。なんでも言ってくれて構わないですよ。あのお話と違って、私は語られた内容を誰にも言わないので気兼ねなく話してください。」

 「そう言ってもらえると、こちらも話しやすいですね。でも、今のところ聞いてほしいことは大体話しました。結局、二人目が生まれることに緊張してるんですよ、僕は。一人目の時は実感が沸かないままだったけど、それから四年も経った今では流石に父親としての責任みたいなものを自覚しないわけにはいかなくなりました。だから今回は楽しみである一方で憂鬱だし、自信が持てないんだと思います。でも、今夜はそんな不安を聞いてもらえて少し気持ちが楽になりました。結局、どれだけ僕が不安だろうともう産まれてくることに変わりはないんです。春人の時みたいに状況に流されて、状況に押し出されて、そして新しい立ち位置を見つけます。幸い、安月給ですけど仕事もありますから。」

 そう言って折りたたみ椅子から立ち上がった。

 「なんだかとりとめのない話を聞いてくれてありがとうございます。聞き屋って良いものですね。」

 そう言うと今泉は横浜駅西口五番街の雑踏に身を翻した。その瞬間、聞き屋の声が彼に届いた。

 「ちょっと待ってください。」

 今泉が振り向くと、聞き屋も折りたたみ椅子から立ち上がっていた。立ち上がると今泉より10㎝は高い長身だった。そのスマートなダークスーツの内ポケットから革製の名刺入れを取り出した。

 「これ、名刺です。良かったらまた来てください。」

 聞き屋は名刺入れから一枚取り出し、今泉に差し出した。今泉がその紙切れの表面に目を落とすと、「聞き屋」という肩書が大きく書かれ、その下に「宮前雅史」という名前と、メールアドレス、電話番号が書かれていた。

 「毎日ここにいるわけじゃないと言いましたが、もしそのアドレスにメールを送ってく、れれば、私がここに来る予定の日をお教えします。」

 そう言うと聞き屋(宮前氏だ)は持ち前の品の良さで軽く頭を下げた。今泉も慌てて会釈し再度礼を言った。

今泉は家族がいずれ戻ってくる我が家を目指して歩き始め、聞き屋は再び折りたたみ椅子に腰を下ろした。今宵この時、まだ九時を少し過ぎた頃合い。卑しい者たちのパレードを眺めながら聞き屋はその場に佇み続けた。次なる話し手が現れるまで。

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