慣れる
筆舌に尽くしがたい、とはこの事を言うのだろう。この苦しさは、まるで重機に押し潰されたようなものだった。それほどの衝撃をミノルは体感した。
文字通り前転して受け身を取る前回り受け身は問題なくできた。しかし、問題は後ろに倒れる後ろ受け身だった。
ミノルは、女子部員たちが難なくこなしているのを見て、これも簡単にできるのだろうと侮っていた自分を呪った。息ができない。
「あら、だから中腰から始めれば良いって言ったのに。大丈夫?」
練習が始まるまで、と言うよりも桜がやってくるまでは、まるで暴君のようにミノルを虐げていた姫子が、うって変わって優しく背中をさする。
「受け身だけじゃなくてさっきのブリッジもそうだけど、プロレスの技術は慣れが大事なものが多いのよ。焦らずじっくり慣れていきましょう。とりあえず休憩して」
リングの脇に用意された椅子に座って回復を待つことになったミノルの隣に、桜がやって来た。
「大丈夫ですか?」
桜は、心配そうにミノルの顔を覗き込んだ。
リング上では基礎練習が終わり、スパーリングが始まった。
「だ……だいぶ、良くなりました……」
まだ回復しきってはいなかったが、桜があまりに深刻な顔をするのを見て、ミノルはカラ元気を出してできるだけ平気なふりをした。
「そうですか……。あまり、無理しないでくださいね。ケガをしてはどうにもなりませんから」
「は……はい」
「後ろ受け身は、とにかくしっかり顎を引いて倒れること、背中が床に着くのと床を手で叩くタイミングをしっかり合わせること、あとは、倒れる前に一度胸の前に真っ直ぐ出した両手を交差させて、勢いよく叩くこと。そこをしっかり意識すれば大丈夫ですよ。見たところ、タイミングがバラバラです。それを修正するには、そうですね……やっぱり中腰か、もしくはしゃがんだ状態でタイミングを合わせることを覚えた方が良いですね」
「石嶺さんってプロレスに詳しいんですね。経験があるんですか?」
「あ……、ま、まあ、ちょっとだけ、やったことがあるだけです。ちょっとだけ。才能が無かったから、すぐ辞めちゃいましたけど」
桜は、なぜか取り繕うようにそう言った。どこか寂しげに、ミノルには思えた。
「桜ちゃん」
まるで赤子の手を捻るかのように、ヒカルを押さえ込んでいた姫子が、会話を聞きつけて桜に声をかけた。練習前にミノルに駄々を捏ねたとは思えないような、厳然とした声だった。
「橋塚クンも仲間になったんだから、仲間に嘘をついてはダメよ」
姫子の言葉に、桜は顔を曇らせる。
「私はあなたがこの学校に入学したと聞いて、真っ先にあなたのところに行ったわ。あなた、中学チャンピオンじゃない。でもやりたくないって言うから、頼み込んでマネージャーをやって貰っているんじゃない」
「え、そうなんですか!?」
「姫子先輩、その話は……」
桜の顔がますます曇る。
「姫子、その辺にしてあげて」
朱鳥が言った。
「朱鳥、私は今大事な話をしているの。口を挟まないで」
「違う。ヒカルの方。さっきから、タップしてる」
「あ……」
話はそこでお流れになったが、ミノルは桜の遣る瀬無さそうな表情を忘れることができなかった。
「石嶺さん!」
練習後、ミノルは桜に声をかけた。
「橋塚さん、どうしました?」
「さっき千光寺さんが言ってたこと、本当ですか?」
「あ、あれは……。はい……私は、中学の時プロレスをやっていました。でも、今はやりたくないんです。別に、プロレスを嫌いになったとか、そう言うことじゃないんですよ。そうだったら、マネージャーだって引き受けてません」
「だったらどうして……?」
「さっきも言いましたけど、私には才能がないんです」
「え?中学でチャンピオンだったんでしょう?」
「確かにそうです。けど、私なんかより強い人はたくさんいるんです。姫子先輩だって、私よりずっと上手なんですよ」
「だとしても、勿体無いと思いますよ」
ミノルの言葉に、姫子は小さく溜息をついた。
「そう言われるのは慣れてます」