ぼくがレスラーになった理由
プロレスという競技が市民権を得て、野球やサッカーのように学校の部活としても盛んに行われるということは、昔は考えられなかったことだった。と、古い本には書いてあった。ぼくはその昔を知らないけれど、その時代からきっと、プロレスラー達は文字通り骨身を削って死闘を繰り広げていたんだろう。
世間の評判なんてものは時が経てばコロコロ移り変わってゆく。世間ですらそうなんだから、ぼくの認識だって例外じゃない。元々、ぼくはプロレスなんて興味がなかった。スポーツでいえば、サッカーなんかが好きだった……もっとも今でも、観るのは好きだけど。
とにかくこの物語は、ぼくと、ぼくを取り巻く様々な人が、プロレスという競技を通じて紡いだものだ。ぼくの青春そのもの、といっても過言ではないだろう。話はぼくの母校、神楽高校の体育館裏から始まる……。
…………
ミノルのふくらはぎに乱暴な痛みが走った。まだ新しい制服をわざとらしく着崩した、明らかに不良といった風情の少年は、仰向けに倒れた彼の脚を両腕で抱え、下卑た笑い声を上げた。
「これ、アキレス腱固めって言うんだぜ」
もう一人の不良少年は、ミノルが苦痛に顔を歪ませるのを少し遠巻きに眺めながら、ニヤニヤとほくそ笑んでいる。
「俺たちのナンパの邪魔をするからこうなるんだ。こんなヒョロい足、折ってやってもいいんだぞ」
不良少年はミノルの脚を、筋肉が軋む音すら聞こえそうなほど力を入れて絞り上げた。
「おい、そろそろ言えよ、ごめんなさいって。本当に折れちまうぞ」
不良少年の言葉が聞こえないのか、ミノルは歯を食いしばり悶絶している。
「お前らなんかに、なんで謝らなきゃいけないんだ!」
ミノルは絞りだすように言った。
「は?まだそんな口を利くのか?やっぱり痛い目見なきゃわかんねえようだな!折ってやろうじゃねえか!!」
不良少年は腕に更なる力を加え、ミノルは言葉にならないうめき声を漏らす。
「ダメダメ、そんなんじゃいつまで経っても折れないわよ」
「まだ言いやがるかテメェ!」
「アキレス腱固めはね、そんな少しずつ力を加えてちゃダメなの、貸して」
「うるせえ!黙って……え?」
不良少年の脚を、いつの間にか現れた少女が抱えていた。脚の締め付けが緩まり、ミノルは這々の態で拘束から逃れることができた。
「お前……さっきの女!?」
「ごきげんよう。で、一番まずいのは深く入りすぎていることね。これじゃふくらはぎ固めじゃない。こうやって足首に近いあたりをホールドしてね……」
初夏の日差しの下には幾分か不釣り合いな、黒っぽい紺が基調の冬用セーラー服を身にまとった少女は、不良少年の左足に自分の腕を巻きつかせた。
「一気に極きめるの!」
不良少年は、学校中に響き渡るほどの悲鳴を上げた。
「今は折りはしないけどね、でも痛かったでしょ?これが、アキレス腱固め」
優雅な身のこなしで立ち上がりながら、少女は言った。
「テメエ!何しやがる!」
もう一人の不良少年が少女に駆け寄り、掴みかかる。少女は不良少年の手を瞬時に掴み返し、そのまま投げ飛ばす。
「胸倉を掴む時って、手首を捻るじゃない。自分から関節を捻るなんて、そのまま極きめて下さいって言ってるようなものよ」
投げた後も少女は腕を離さず、そのまま捻り上げた。
「関節を取られたら、男も女もないの。どうするの?あそこで寝転んでる不良クンを連れて私の前から消えるか、それとも……」
「わかった!わかった!勘弁してくれ!謝るから!離して!」
「お願いしますは?」
「は……はい!許して下さい!お願いします!!」
「ヒーローくん、大丈夫?」
泡を吹いて伸びている相棒を引きずりながら逃げる不良少年を見送って、少女はミノルの手を取り、引っ張って立ちあがらせた。
「はい……」
「ありがとう、ヒーローくん。不良に絡まれてる私を助けてくれて」
「ヒーローなんて呼ぶのはやめてください。ぼくは……」
「そういうことは言わないの。せっかく私が感謝してるんだから」
少女は後ろで縛ってある長い髪を指でとかしながら、ミノルの言葉を遮る。
「私はね、キミがたとえ力及ばなくても、私を助けようとした勇気に感謝してるの。そういう勇気のある人を、ちょうど探してたところだし」
「探してた……?」
「うん。私ね、こう見えてもプロレス部の部長なの」
「こう見えてもって……」
「プロレスに一番必要なのって、勇気なのよ。今はまだわからないかもしれないけど、とにかく、私はキミみたいに勇気を持ってる人を探してたの」
ミノルの頭をポンポンと軽く叩きながら、少女は言った。
「言い忘れてたけど、私は千光寺 姫子っていうの。よろしくね」
右手を差し出しながら続けた。
「ねえ、プロレスやってみない?」
…………
これが、ぼくとプロレスとの出会いだった。ぼくを救ってくれた千光寺 姫子という少女、この時は救世主のように見えたのだけれど、そんな都合のいい存在じゃないとわかったのは次の日のことだった……。