97 私はまだ答えを知らない
結局その日は仕事がまったく手につかなかった。
経営者として失格なのだろうがアリスにとってはそう考える余裕もなかった。
「……できないよ」
今動かなければ後悔する。そうわかっていてもアリスは動くことができなかった。もうあのとき教会から助けてもらったときから状況が変わってしまった。小さい商会であればまだ何とかなったのかもしれない。しかし、大きくなった商会のトップはそうはいかない。ましてやクリスは女性。同性愛など宗教上許されるはずもなく、そのことを敬遠した貴族は取引をやめるかもしれない。しかし、振ってしまえばクリスは去ってしまうかもしれない。
ちゃんと周囲を見ていなかったから、仕事が忙しいから、経験がないから。言い訳ならいくらでもできただろう。ただ、それは単に逃げているだけだったし再び同じことが起きれば結局同じ決断をする悪い逃げ場を作るだけだったし、その前例を作るのは後々自身の判断力を鈍らせる原因になる。その選択はアリスにはできないことだった。
「どうすればいいのよ」
アリスは頭を抱え、かれこれ何時間も考えてみるがどうしていいのかわからなかった。
そして、仕事時間が終わってからどれくらい時間が経っただろうか。突然、ノックもなしに会長室のドアを開ける音が聞こえた。
その行動をとる人には覚えがあった。
「アイリス……」
「何か……あったようね」
アイリスは部屋に入ってくるやすぐに察したららしい。ただ、それで慌てて帰るわけでもなくむしろ話せといわんばかりにどうどうと入ってきてアリスのそ傍にやってきた。そして、そのまま座るアリスの後ろに回ると突然アイリスがアリスが優しく抱きついてきた。
「え?ちょっ」
アリスはアイリスの突然の行動にアリスは思わず振りほどこうとしたが両腕も包むように抱きしめられてしまっていてうまく振りほどけない。そんなアリスを見透かしたようにアイリスは語りかけてきた。
「何を恐がっているの?」
「私はただ急に抱きつかれたから」
「本当にそれだけ?」
「え?」
アリスは振りほどこそうとする動きを止め、アイリスの方に顔を向ける。
アイリスはなぜか優しく微笑んでアリスの頭を撫で始めた。
……あれ?この状況どこかで
なんとなく一度知っているような感覚を受けつつも身を任せたくなるような心地よさを感じて気持ちが落ち着いていくような気がした。
「ねえ、アリス。恐がらなくていいのよ」
「私は別に……」
恐がってなんていない。そう言おうとしてアリスは言葉に詰まる。その自身の言葉にすら自信がなくなっている。そんな感覚に襲われたのだ。
「大丈夫よアリス。自分を信じて。私を信じて」
そう言われてアリスはアイリスをじっと見つめるがアイリスは優しく微笑むばかりだった。
「大丈夫。今回は周囲を気にする必要なんてないの。素直になって」
『周囲を気にする必要なんてない』アリスは出会ってからそれほど長くないはずのアイリスにすべてを見透かされている気がした。実際これまでの生き方がそうだった。幼少は父の仕事の邪魔にならないように。少女時代の学業では期待や評判に応えるために、成人では営業では相手の機嫌を伺い父の名に恥じないために、そしてローズ商会を持ってからはみんなが無理をしたいように、そして路頭に迷わせないために手を尽くし、決断してきた。
こうして積み上げてきたものをアイリスは要らないという。アリスには言っている意味がわからなかった。
「アリス、みんなの最善を選ぶ必要はないの。あなたにとっての最善を選びなさい。大丈夫、あなたが選んだ事ならきっとあなたの周りの人は理解してくれるわ。今まで頑張ってきたね」
その言葉を聞きアリスはなぜか目から涙が滴り落ちた。
常に周囲を気にしてきたアリスにとってその言葉が今一番言って欲しかった言葉だった。
「……ありがとう。私、頑張る」
「ええ、私はちゃんと見ているから」
「ありがとう」
アリスは少しの間だけ泣いた。そして、その間、アイリスはずっと抱きしめ続けてくれた。
ただ、いつまでもそうしている訳にはいかなかった。アリスにはまだやることがあった。
アイリスはアリスが泣き止むと抱きしめていた手を離す。
「じゃあ、気持ちが落ち着いたら庭に行ってみなさい。きっとクリスはそこにいるわ」
「アイリスは?」
「私はもう少しすることがあるから」
「そう、そうね。ありがとう」
「ええ、もし不安になったら私を信じなさい。なんたって私は神様なんだから」
「ありがとう」
アイリスは場を和ませるために言ったのだろうがアリスは素直に嬉しかった。アイリスは神様。それが本当だとしたらそれほど心強い言葉なんてなかった。
そして、アリスはアイリスが会長室を退出していくのを見送り、少ししてから自身も立ち上がった。目指す先はクリスの所だ。
そして、夜の屋敷内を歩き、庭の方へと向かう。
扉を開けて見えた光景は月明かりに照らされつつも薄暗い庭と綺麗な星空だった。
ここのどこかにクリスが居るらしい。アイリスの言葉を信じて周囲を見渡してみるが薄暗くてよく見えない。
「どの辺りにいるかまで聞いておくべきだったわね」
庭と言ってもそれ程広くはない。ただ、夜では捜している最中に入れ違いになることだってある。アリスは扉で少しだけ悩んだものの、今も居るかわからない相手にここで待つのも変だと思い、捜してみることにした。そして、少し歩いていると程なくして人影らしき姿を見つける。
「あ、いた!」
そう思ったときだった。その人影がアリスの方に顔を向けてきて思わず反射的に隠れてしまう。
……うぅ、私何やっているのよ。こ、心の準備ならもうできているはずなのに。
なのにクリスに話かけることになると思うと急に恐くなってしまい、気づけば手は振るえ、心も高まって急に動けなくなってしまった。
「……ど、どうしよう」
一度隠れておきながら出てくるには気まずかった。どうしようかと思案していると、クリスが近づいている足音が聞こえる。
震える手と鼓動を抑えるように胸に抑えつつ、息を殺して必死に隠れる。
だが、隠れるということがあまり得意ではなかったアリスには無駄な努力だったらしい。
「あ、アリスさん!?」
クリスの驚きの悲鳴で見つかったことを悟る。
「あ、えーと、その……」
隠れていることがばれたことが気まずくアリスは恥ずかしがりながら苦笑いをした。
そんな姿にクリスも苦笑いしてアリスの手をとり立ち上がらせてくれる。
「え、えっと……まあ、こんな場所で話すのもなんですから私の部屋まで来ますか」
「え?ええ」
……え?
動揺のあまりアリスは話の内容を聞かずに頷いたものの、後でクリスの言っていた言葉が頭に入ってくる。
言葉の意味がわかって驚いたものの、相手が男性ならともかく女性であるクリスなら襲われる心配もない。
素直にクリスに手を引かれながらついていくことにした。




