四章 3
僕は伊緒里ちゃんの弟くんたちに頼まれて、この一週間ほど伊緒里ちゃんを影ながら護衛しているけど、傍目には僕と弟くんたちが遊んでいるようにしか見えないはずだ。
ヤツ《・・》が殺気立っているという情報も入っているから、思い切った行動をしないかが不安だ。誰も傷付けずに伊緒里ちゃんを護り抜く。それが弟くんたちの条件でもあるから、難易度はS。新米海軍士官の僕には、正直荷が重すぎる任務なんだ。
でもがんばる。愛しの伊緒里ちゃんのために。だって男の子だもん。
「威くん、……あのね、気分悪くしたらごめんなさい。えっと……」
朝の清々しい空気の中、まだだれも登校していない教室で、僕と伊緒里ちゃんは黒板を掃除していた。
僕はみなもと顔を会わせたくなくて、毎朝早々に基地を出てきてたから、早めに登校してくる伊緒里ちゃんと教室ではちあわせても、さほど不自然には思われなかった。
いつも教室の美化に勤しむ伊緒里ちゃんを手伝ううちに、僕の呼称もいつの間にか南方くんから威くんへとチェンジした。
今日の僕は後の黒板をピッカピカにしたところなんだ。
伊緒里お姉さん、僕けっこうがんばったんだよ! ほめてほめて!
……とか思ったら、伊緒里ちゃん、なんだか微妙な顔をしているぞ。
「ん? どこか間違ってた? ぞうきんで水拭きしたし、黒板消しもクリーナーで――」
「そうじゃないの。お掃除の方は完璧よ? 私でもこんな、おろし立てみたいにキレイには出来ないわ。私が言いたいのは、えっと……」伊緒里ちゃん、なんだか言いづらそうにしている。「威くん、どうして朝教室で軍人さんのごはん食べてるの?」
「レーションのこと? タダでもらえるんだよ。炊き込みご飯すごい美味いんだよ。あとね、分厚いたくわんがまた絶品でねえ――」と、苦笑しながら言い訳をする僕。
「威くん、それマジボケなの? ふざけて言ってるなら窓から捨てるわよ?」
捨てるというのは、無論僕自身をである。掃除の時間に黒板消しクリーナーが故障して、僕が外壁でパンパンやってて、うっかり四階の窓から校庭に落ちたことがあるんだけど、飛び降りショーをしてもへっちゃらな僕だから、尻をパンパンして、そのまま校庭から窓までひょいっと飛んで戻ってきたんだ。人狼の弟(陸くんのことだ)がいる伊緒里ちゃんが僕を窓からポイ捨てするお仕置きを思いついたのは自然な流れだったんだろう。
「マジ……ですが。僕、ボケてるつもりはないですよ?」
伊緒里ちゃんは、ふぅとため息をつくと、両手を腰に当てて言った。
「あのね、どうしてちゃんと基地で朝ごはんを食べてこないのかって聞いてるの。育ち盛りのイクサガミ様にキチンとした食事も与えないなんて、海軍は一体なにをしているの? 今後も改善されないようなら、私が怒鳴り込んで待遇改善を訴えてあげるわ!」
「い、いや自主的に食堂に行かないダケだけです……」
だってみなもと会いたくないし。
「……そっか。ずっとみなもちゃんと夫婦ゲンカしてるから、でしょ」
「夫婦じゃないし! 婚約者でも恋人でもないし! ただの同僚で幼馴染みなだけだし! それにケンカ売ってるの向こうだし、こっちは……一方的に被害受けてるだけだし」
自分で言ってて、なんだか情けなくなってくる。
「……付き合って、ないんだ。ふぅん……」伊緒里ちゃん、微妙に嬉しそうな微笑。
もしかしてこれって脈アリなのかな? いやいや、僕なんか、あり得ないあり得ない。
「じゃ、うちで朝ご飯食べればいいわ。大したものは出せないけど、ごはんだけなら何杯食べてもいいわよ? 琢磨様にはおばさんの店、とてもひいきにしてもらってたし」
僕は身を乗り出した。「マジで? ホントに行ってもいいの?」
「うん。じゃ、明日からいらっしゃい。一人くらい増えても大して変わらないから」
「やったあ! 正直、レーションじゃ食い足りなかったんだ」
……なんて無邪気に喜ぶ僕の横で、伊緒里ちゃんは生徒手帳に何かを書き込んでいる。もしかして、買い物メモでも追加してるのかな? 基地戻ったら、おかずになりそうなものでもPXで物色してこようかな。やはりタダ食いはよろしくないもんな。
いままで僕は、みなもの実家で食事の世話をされていた。みなもや、おじさんおばさんたちと食卓を囲んでいた頃が、なんだかとても遠くに感じる。
でも、これで良かったのかもしれない。みなもが欲しかったのは、兄貴や店長みたいな本物の『イクサガミ』なのであって、僕自身じゃないんだって分かったから。
僕があいつに見捨てられたのは、あいつに恋をしてない、というのが本当の理由かどうかわからないけど、どのみちあいつにとって僕の価値がなくなったのなら、
――好きにしても、いいよね。
そう、僕はいま、伊緒里ちゃんに恋してるんだ。もちろん、初めての恋だ。
みなもに感じたことのない、
『胸がドキドキして苦しくて、のどがつかえたり、頭がぼーっとしたり、他のことが一切考えられなくなったり、死ぬほど自分のものにしたくなったり、少しでも離れてると不安でたまらなくなったり』する症状が恋だ、というみなもの言葉が正しいのなら、僕は間違いなく伊緒里ちゃんに恋している。無論オカズにしたことは一度は二度どころの騒ぎじゃない。訓練を始めた日からこっち、みなもには指一本触れてない。今なら、みなもで勃たない自信がある。
――ん?
僕はふと、教室の戸口に一瞬誰かの気配を感じた。クラスのヤツなら真っ直ぐ中に入ってくるはずだし見物人なら隠れる理由もない。
ヤツ《・・》……なのか。
僕は黒板消しを放り出し、床を蹴って一瞬で戸口まで移動した。はたから見ると僕が消えたように思うだろう。
「お前ッ――――――あれ?」
しかし賊の姿はどこにもなかった。
(ん? 廊下の窓が開いているぞ)
僕は開け放たれた窓から校舎裏を覗き込んだ。
……やっぱり。
僕は『伊緒里ちゃんを狙う例の賊』が花壇の脇を高速で走り抜けていくのを確認した。
背後に気配を感じ振り返ると、そこに伊緒里ちゃんが立っていた。
「黒板消し床に放り出して、どうしたの? 雨降りそうだから窓閉めておいてね」
「う、うん。ちゃんと閉めておくよ」
――気付いて、ない?
伊緒里ちゃんは学級委員然としたクールさで言うと、登校してきたクラスメートに涼やかに挨拶をしながら教室に入っていった。