三章 17
「ぼ、僕、そういう趣味ないですよ! かかか、カンベンして下さい」
と言って後ずさる僕の肩を両手でガッシと掴むと、難波さんは、ちげーよ、と呟いた。
「じゃ何なんですか」
急に深刻になった難波さんに戸惑いながら僕はおずおずと訊ねた。
難波さんは難しい顔で、冷えた琥珀色の液体をもう一口含むと、静かに語り始めた。
「俺はお前の味方だ。お前がこーんなに」と言って子供の身の丈を示すような仕草をして続けた。「小さいときからずっと見てたんだ。可愛くねぇわけねーだろ?」
難波さんは配達をしてたときの人懐っこい笑顔で、僕の頭をぐしゃぐしゃ、と撫でた。
「だろ? って言われても……。でも、まあ、そう……ですよね」
思い起こせば彼は、公園で遊んでいたときにアイスを奢ってくれたり、雨の日には僕とみなもを配達の車に乗せて、学校から家まで送ってくれたこともあった。他愛のない事ばかりだけど、難波さんとの思い出だって数だけならたくさんある。可愛くねぇわけねーだろ? という難波さんの言葉には、ウソがあるとは思えなかった。
「この命、お前のために捨てる覚悟は出来ている。横須賀に出向いた十年前にな」
「――ッ」僕は息を飲んだ。「……任務、だからですよね」
難波さんはフッと笑った。
「そうだ。任務だからだ。大人にゃぁな、それぞれ立場ってもんがある。その立場における制約の中でベストを尽くす。そして、それを日々淡々とこなしていく。それが、真っ当な大人だ。俺は死んだお袋に、そんな大人になれと教えられた」
「真っ当な大人、か……」
僕の周りはダメな大人ばっかりだ。親父は放任、兄貴はいい加減。店長はちゃらんぽらん。みなもんちのおじさんとおばさんは、趣味がちょっとアレなだけで普通の人だけど。
「今の俺がどれだけソコに近づけたかわからねぇが、俺は真っ当な大人として、軍神の盾として、誇りあるこの任務を果たすつもりだ。
威、この任務はな、タダのガキのお守りじゃねえんだ。選ばれた者にしか出来ねぇ、身に余る程の名誉ある仕事なんだ。だからよ、」
そこまでしゃべると、難波さんは少し薄くなったジンジャーエールを空け、そのまま氷も全部口の中にガラガラと流し込むと、ボリボリと噛み砕いて飲み下した。
「……だから?」
「こんな仕事を俺にさせてくれたお前に、感謝している。たとえお前がどんな危険な海に行こうとも、俺はどこまでもついていく。そして、この命尽きるまで、お前の盾となって護り抜いてやる。皇国のためじゃねえ。お前のために、だ」
僕は絶句した。
難波さんにここまで言わしめる程のものなのか、イクサガミって。
僕にとってはただの家業だったし、拘束されるからヤメろって兄貴にも言われてきた。だから、そんなご大層なもんだという実感が本当になかったんだ。
女医の先生が言ってたとおり、確かに日本に住む全ての人外の人権と引き替えに、僕らの任務はある。でも……別に今さら皇国にちょっかいを出す国なんてない。手を出した挙げ句ウチの親父にひどい返り討ちに遭って、周辺諸国は懲りている。僕一人いなくたって大丈夫だろって、正直思ってた。
僕は、この人に命を賭けてもらえるような男なのか。――そんなわけない。でも、難波さんが本気なのは見て分かる。
でも、すごく嬉しかった。僕のことを近くで見守り続けてくれた人が、みなもの他にもいた。そしてこれからもずっと見守ってくれる。その事実がすごく嬉しくて、それだけで僕は、この島で、軍でやっていけそうな気がした。
いつしか啜り泣いていた僕の頭を、難波さんはぞんざいにがしがしと撫で付けた。
「あー、もう一つ大事なことを言っておく。絶対忘れるなよ」
「ぐすっ……なん、ですぅ?」ベソをかきながら僕は聞き返した。
難波さんはカウンターに片肘を突いて体を預けると、半身をこちらに向けてよじった。「俺は公僕である以上、上からの命令には逆らえない。だから、いつかお前は、俺に裏切られることがあるかもしれん」
あ…………。そうか。
「軍人だから仕方ない、ですよね……」
命令だから仕方ない、任務だから仕方ない、子供の頃からそんなことばかり言われて、僕は大人の都合に振り回され続けてきた。仕方ない、は僕が一番嫌いな言葉だ。
僕が物心ついた頃に兄夫婦と暮らすようになったのだって、両親が遠い北方の基地への赴任が決まったからだ。
はじめのうちは、僕を連れていってくれなかった両親をひどく恨んでいた。でも、仕方ない、仕方ない、って思うようになり、親のこと自体を考えないようにした。ゲームにのめり込むようになったのだって、いろんなことを忘れさせてくれるからだったんだ。
――そして僕は、いつの間にか、何でもすぐ諦める子供になっていた。
手元のアイスティーのグラスが、カラリと鳴った。
せっかく伊緒里ちゃんが入れてくれた紅茶だけど、いまは溶けた氷で薄くなるに任せている。
「だが、心配はいらん。俺すらも頼れなくなった時にはな、威」
と急に力強く言う難波さん。
「は、はいっ!」
そして今度は、急にトーンを落として難波さんは言った。
「迷わず、神崎閣下を頼れ」
「店長……ですか?」
明日華ちゃんにボッコボコにdisられてた、あの店長?
婚約者を暗殺されて、ショックで百年もこの島に引きこもっているダメ男を?
ああ、と難波さんは言った。
「この島で一番立場が自由なのは、階下にいる閣下だ。この島の主であり、軍とも、出雲政府ともしがらみがない。国とて閣下に手を出せばタダでは済まないことを重々承知している。――彼はお前等軍神達の最後の切り札だ」
出雲政府は、日本の人外を管理する機関だ。政府、と言ってはいるものの、日本政府の入れ子状態だから実質的な権限はほとんどない。人間で言えば、外国の大使館とか、在留国民の互助組織のようなものだ。
出雲が自治体のような機関となったのだって、神崎元帥の功績あってこそだった。でも、あの人が出雲とも無関係なのが何故なのか、僕にも分からない。そもそも出雲と無関係な人外なんて、皇室がらみの天津神くらいなもの……と兄貴から聞かされている。
「あんな、だらしないおっさんが? 切り札?」
「そうだ。だらしなくても、だ。いいか、忘れるなよ、威。絶対にな」
「はい」僕は大きくうなづいた。
難波さんがこんなに必死に言うんだから、きっとマジで切り札なんだろう。たしかに、あんなgdgdなおっさんでも、皇国の救世主には間違いない。だって誰の目からも敗戦間違いない、という事態をひっくり返したんだ。あのおっさんがいなければ、とっくにこの国はどっかの植民地になり、全てが消滅していたのだから。