プロローグ(表紙絵あり)
絵:東雲飛鶴
時は二十一世紀。第二次世界大戦に勝利した世界線の物語。大皇国日本では、顕現した軍神が抑止力「イクサガミ」として国防を担っていた。
西暦二〇五X年の初夏、皇国海軍の駆逐艦「ゆきかぜ」が、謎の巨大生物の攻撃に遭い沈没。軍神である艦長の南方琢磨とその妻は、混乱に乗じてどこかへ逃亡。この事故を受け、急遽琢磨の弟、高校生の南方威が軍に招聘されることになった。威は、隣家の幼なじみ以上恋人未満な橘みなもと一緒に基地のある島の高校に転入し、学生生活の傍らイクサガミとしての訓練を始めるのだが……。
――神の領域を侵すな。
未曾有の大災害『バビロンの黄昏』は、愚かなる人類に突きつけられた警告だ。
だが、進化の時計を巻き戻すほどの痛みは、
はたして人類に自覚を促すに至ったのであろうか。
■プロローグ■
「俺には……無理だ」
そう呟いた男の顔は、血の気を失い、ひどく引きつっていた。
年の頃はまだ二十代も半ばといった所だろう。凜々しさの権化ようなその男は、若さに似合わぬ豪奢な装飾を施した黒鞘の軍刀を腰に下げ、逞しい双肩を彩る階級章は、彼が大皇国日本の海軍中佐であることを示していた。
そして、彼の胸で金色に輝く七支刀をモチーフとした徽章こそ、この国にたった八柱しか存在しない『イクサガミ』の証であった。
男の名は、南方琢磨。
国津神にして軍神、そして現在は、皇都を遠く離れた南西の島、ニライカナイに籍を置く皇国海軍の新鋭駆逐艦ゆきかぜの艦長だ。近海の警備任務の最中である。
その彼が今、特大級の災難に見舞われていたのだ。
ついさっきまで海は凪ぎ、微塵の風もなかった。今宵は、いつも彼がそうしているように、水鏡に写る満月を、誰もいない甲板で缶ビール片手に独り楽しむつもりだった。
しかし今は、激流を下る小舟のように、そして満月に狂乱する人狼のように、彼の乗った船は『ありえない角度』で揺さぶられていた。船体が『何か』に『ありえない角度』で揺さぶられるたび、彼の首からぶら下げた双眼鏡が胸元で踊った。
大きくうねる艦橋の中で、彼は最前部の艦長席の背後に掴まって、必死に姿勢を保とうとしていた。まるで何かから身を隠すように姿勢を低くしながら――。
床には書類やカップ、そして基地近くの小学校から贈られた、色とりどりの千羽鶴がちぎれて散乱していた。狭い艦橋には警報音が鳴り響き、大きく揺れるたびに悲鳴や怒号が飛び交っている。船の外では『ありえない何か』が甲板に幾度も強く叩きつけられた。鳴り止まない打撃音と、軋む船体から湧き出す金属質な不協和音が入り混じり、人ならぬ感覚の持ち主である南方にとって、拷問に等しい状況であった。
……だが、いま甲板上で繰り広げられている惨劇に比べたら、この拷問を夜明けまで受け続けた方が遙かにマシだ、と南方には思えた。
……さっきから何度も自分を呼ぶ声がする……。
…………その意味するところは重々承知している…………。
――――――――だが、断るッ! 剛、却下だッ!
百年前、神の御技を護国に用いてしまったあの日から、顕現していた軍神たちを国家が管理し、その強大過ぎる力を国土防衛のための『抑止力』として使ってきた。その後、幾度となく大国の侵略を退けた彼等こそ、世界中から忌み懼れられた、大都市を一瞬で消し去るほどの力を持つ『イクサガミ』と呼ばれる『戦略級大量破壊兵器』なのである。
……が、そんな南方でさえ、ガラス窓を隔てた向こう側に存在する『何か』には、全く勝てる気がしなかった。それは、人の身ならぬ彼にとって、決して対峙することの出来ない、とてつもなく忌避すべき敵であった。いや、人ならぬ事とソレとの因果関係は明確には証明されていないものの、少なくとも海軍中佐・南方琢磨にとって、ソレは絶対かつ究極に抗えない、恐怖以外の何者でもなかった。そして今ここで、その理由を知る者は、悲鳴を上げながら艦橋の床を転げ回っている南方の妻、『戦巫女』の南方薫ただ一人……。
「聞こえない聞こえない聞こえない……あーあーあー、聞こえなーい、聞こえない……」
無様な格好でイスにしがみつきながら、南方は独り念仏のように呟き続けていた。
「か、艦長! 艦長ってば! 聞こえてるんでしょ! 返事して下さい!」
(誰だ、俺をしつこく呼ぶヤツは……)
「……聞こえない聞こえない……ブツブツブツ……」
「艦長! かーんーちょー! この艦の装備では敵に対応出来ません! お願いです! その刀でアレをどうにかして下さい! アレと戦えるの艦長しかいないんですから! このままでは、本当にゆきかぜは沈んでしまいますよぉぉ!」と、声の主と思しき男が、絶叫しながら南方の足首をガッチリと掴んだ。
先ほどから南方を呼ぶその男は、副長の石津だ。その石津が必死に、傾いた床の上を南方の足元まで這い寄ってきたのだ。
「無理! ムリムリムリムリムリ! あんなんと戦ったら俺しんじゃう。つかマジ無理」
南方は副長の願いを全力で拒否しながら片方の手でしっかりイスを掴むと、軍刀の鞘の先で石津の頭をガシガシと小突き回した。普段なら難なく避ける石津だが、この状況ではその術がない。とにかく今は緊急事態なのだ。絶望的な事態を打開出来るのは、軍神のくせにイスに隠れて震えている情けないこの男の他にない。軍刀の鞘先が頭にヒットするたびに小さなうめき声を上げつつ、石津は再度南方を説得しはじめた。
「いつがんばるの艦長、今でしょ! 貴方がここで頑張らないとみんな死んでしまうんですよ! 駄々こねてないでさっさと片付けてくださいよ! マジ船沈むから! あ、 そうやって顔背けてもダメです! も~~薫姫様からも何とか言ってくださいよぉぉぉ!」
当の薫姫――南方薫大尉は、悲鳴を上げながら遠くの床を転がっている。
「うっせ、バカ! 足離せ石津! ヤなもんはヤなんだ! 絶対に、いーやーだ!」
その時、船が逆方向に大きく傾くと、薫が悲鳴と共に夫の足元までコロコロと転がってきた。二十代半ばほどの大和撫子的な美人だが、転がっている間に長い髪がグチャグチャになり、パンストがあちこち破れたり、わがままナイスバディを窮屈そうに包んでいた制服のボタンがいくつか爆ぜ、胸元があられもなく開いてしまい、純白のブラジャーが丸見え……という、残念なようなそうでもないような有様だった。
「た、たすけてぇ~、琢磨くぅん~~」と悲壮な声で夫を呼ぶ薫。
「なんちゅー格好してんだお前、どう見てもレイプ後だぞ」南方は石津を小突き回すのをやめ、愛妻のあられもない姿に眉をしかめながら、彼女を床から抱き上げた。
「琢磨くん、もー何でもいいから早くなんとかしてよっ。艦長さんが、生理的にダメとか言ってる場合じゃないでしょ?」
「うっせぇ、わかったよ! …………どうにかすりゃいいんだろ、どうにか」
そう吐き捨てながらも、苦いものでも口にしたかのように、南方の表情はひどく歪んでいた。数秒思案を巡らせた南方がふと足元に視線を落とすと、床の上でニヤニヤしている石津に気付いた。薫を視姦していた部下を、苛立たしげに踏みつけて言った。
「副長!」
「は、はひっ」石津は反射的に、青あざだらけの顔をグイっと上方にもたげて答えた。
「総員退艦! 本艦は敵殲滅のため、未確認物体と共に自沈する!」
南方の命令が艦橋を一瞬凍らせた。机などにしがみつきながら、困惑した様子でお互い顔を見合わせるクルー達。その表情には一様に『マジか!?』と書いてあった。
「そ、総員退か――」
石津が復唱を始めた瞬間、轟音と共に正面の窓が一斉に割れた。あられのように砕けたガラス片が南方たちの頭上に降り注ぎ、海水とは異なる生臭い匂いが流れ込んできた。
巨大なムチのような『ありえない何か』が、艦橋の窓へと横薙ぎに打ち込まれたのだ。
――すまん、威。兄ちゃん、帰れねぇや……。いろんな意味で…………。
西暦二〇五X年、皇国海軍の駆逐艦ゆきかぜは、南西諸島の外れで一柱の軍神のしょうもないわがままにより自沈した。それ以降、南方夫妻の消息は依然として不明である。