月には兎さんがいるんだ
「平和? いきなり言われても分からないわよ。というか、あんたはどうなのよ?」
ルフェンス王城の中庭では、アリアが日課である鍛錬を行なっていた。槍を振るい、汗を流すその姿は、以前は荒々しいだけだった。
だが、今では少し色気を感じる。出会ってから二年近く、アリアも成長していると言う事だろうか?
「俺の平和?」
アリアに平和についてたずね、そして逆に聞き返された俺は腕を組んだ。少し俯き、俺は自分の心を正直に声に出す。
「修羅場が起きなければとりあえずは平和かな」
宝玉内では、三代目が大笑いをしていた。
『アハハハ、確かに死活問題だもんね!』
誰のせいでこうなったと思っているのか? まぁ、俺の責任でもあるので、歴代当主たちの責任だけではない。
アリアは俺を引いたような感じで見ながら、タオルで汗を拭いていた。タオルを肩にかけ、そして槍を地面に突き刺す。
「……そう言うのは、全部終わってから考えた方がよくない?」
「全部終わって、と言われてもなぁ……ほら、基本的にセレスに勝っても、問題は勝った後だから。凄く忙しくなるのは間違いないから」
今の内に考えられることは考えておきたかったのだ。
アリアは俺の方を見ながら。
「まぁ、平和とか言われても想像つかないのよね。バンセイムにいた時も毎年どこかで小競り合いが起きていたから。国境で数千人規模の戦争とかあると、活躍した騎士の名前とか子供がよく口にしていたし」
日常からして、どこかで戦いが起きているのは当たり前だった。アリアは、平和と言われてもピンとこないという表情だ。
「まぁ、私はセレスに勝ってから考えればいいと思うわよ。勝たないと、それこそ考えているだけ無駄だから」
それは間違いない。そう思った俺は、肩をすくめるのだった。そして、アリアは言う。
「それで? あんたはノウェムと仲直りしたの? 喧嘩をされても困るんだけど」
「別に喧嘩じゃないんだけどなぁ」
ノウェムと俺の仲が悪くなると、困ると言うアリアは少し口を尖らせた。
「あのね。ノウェムが色々とバランスを取れたのは、あんたに一番近いからよ。そこで何か起きれば、ノウェムのこう……は、発言力? 的なものが弱くなるの。このまま色々と嫁を大量に押し込まれても知らないわよ」
それは困る。そう思った俺は、ノウェムと話をする事にした。
ノウェムの部屋。
ヴァルキリーズが見張りに立ち、ノウェムを一時的に軟禁状態にしていた。本来ならやって貰いたい仕事も多いのだが、今は休みも兼ねて部屋にいて貰った。
俺が部屋に来ると、ノウェムがお茶の用意を始めた。
「お菓子の用意は出来ていません。頼んでおきましょうか?」
ノウェムが使用している部屋は、掃除はされているがノウェムが持ち込んだような荷物は少ない。
思い返してみれば、ノウェムは必要最低限のものしか買っていない。色々と小物などをプレゼントしたこともあるが、そうしたものは大事にしまっていた。
「いや、お茶だけでいいや。それと……前の件なんだけど」
ノウェムがお茶を煎れる手が止まったように見えた。宝玉内の三代目も、反応を示す。
『ノウェムちゃんが動揺しているのを見るのは珍しいというか、ここまで気にするのか』
しばらく無言でお茶を用意したノウェムは、ソファーに座ると自分で用意したお茶を一口飲んでから口を開いた。
「……歴代の当主様たちも聞いておられるのでしょうか?」
宝玉に向けられた視線に、三代目は答えなかった。
「今は三代目だけが残っている。他は……俺に色々と託して役目を果たしてくれたよ」
すると、ノウェムは少しだけ微笑んだ。
「役目を果たされたのですね。それは良かった。ただ、少しだけ残念ですね。お会いしたかったのですが」
宝玉内では、三代目がボソリと。
『会うべきじゃないと思うけどね。色々と謎な部分も多いから』
俺はノウェムに対して、宝玉の話から逸らすために聞きたいことを聞くことにした。
「それはそうと、ノウェム。俺が平和を目指したら悪いのか?」
ノウェムは手に持ったカップに視線を落とすと、ぽつり、ぽつり、と話を始めた。
「ライエル様、平和とはなんでしょう?」
「曖昧で分からないな。まぁ、俺個人や周りの人間に聞いてみたら、自身と周囲の平穏だと答えが返ってきたよ。人間、身近な事にしか意識が向かないのかも知れないな」
自身とその周囲が平和なら、きっと他の事は対岸の火事である。そうでない人間が、いったいどれだけいるのだろうか?
「平和と言うのは幻です。そうですね。雲のようなものですよ。そこにあるように見えて、実際は掴むことも出来ない。風に流され形を変える。形などほとんどないものです」
俺はノウェムに対して。
「だから目指してはいけないと?」
ノウェムは顔を上げた。真剣な表情だ。
「……他の誰かが言えば世迷い言で済まされます。ただ、ライエル様が口に出せばそれは未来に大きな影響を与えるでしょう。ライエル様の言葉は曲解され、後世の人間にいいように利用され、ライエル様自身をおとしめます」
そこまで凄い人間でもないのだが? まぁ、皇帝を目指し、その椅子を手に入れれば確かに歴史に名は残るだろう。
しかし、そこまでだろうか?
「いつまでも無駄に争い続けなくても、魔物や賊だと多いんだ。せめて、もう少し平和な世界を目指してもいいじゃないか。それに、数百年から数千年後なんてどうなっているか分からないんだし」
そこまで言うと、ノウェムは俺を見て力なく笑った。
「もしも大陸を統一し、ライエル様が良き治政を行なったとしましょう。大陸は多いに発展し、そして数千年――いえ、数百年もあれば人は月にだっていけますよ。いえ、ダミアン教授やオートマトンのモニカさんが本気を出せば、数十年で月までいけるでしょうね。そうした世界……ライエル様は、魔物や賊が脅威になるとお思いで?」
宝玉内からは、真剣な声で。
『月、か……僕は浪漫派だからね。月に兎がいると嬉しいな。五代目がいたら、きっと狂喜乱舞だっただろうね。月にいる兎って、喋れるのかな?』
……黙っていて欲しい。
「月ね。まぁ、ダミアンが本気を出せば色々と出来そうだけどね。でも、本人はあの通りの変態だから、そういうのに興味がないと思うよ」
ノウェムは俺を見ながら悲しそうに。
「いえ、ダミアン教授の願いは月に行けば叶うでしょうね。正確には、大きく前進すると思いますよ。あそこにはまだ……古代の施設が保存されているでしょうから」
「施設? 遺跡じゃないのか?」
俺が驚いて口を開いたが、聞きたいのはそこではない。
―― どうしてノウェムは、そんな事を知っているのか? ――
邪神の記憶? そう思っていると、ノウェムはお茶をまた飲んで、そして俺から視線を逸らした。
「きっと、宝玉内で色々とお聞きになったのでしょうね。どこまでお知りになったので?」
俺は正直に話した。
「ノウェムが邪神――邪神であるノウェムの記憶を引き継ぎ、セレスが女神であるセプテムの負の記憶を引き継いでいる事くらいは。それと、お前の一族が俺の一族を影ながら支え続けた理由も、かな」
ノウェムは微笑んだ。
「そこまで知っているなら話は早いですね。そうです。ライエル様には大陸をその手にする権利があります。かつてバンセイムに奪われた全てを、ウォルト家が取り戻す時が来たのです」
俺はお茶を飲むと、宝玉内で三代目が興味なさそうに。
『……でもさ、ご先祖様が横取りされたのも無理ないよね? それを権利があるとか言われても、バンセイムは怒ると思うよ。というか、逆の立場なら何を言っているんだ? ってなるね。まぁ、僕はそれでもライエルに勝たせるために知恵を貸すけどさ。繁栄と衰退はセットのようなものだし』
「話が見えないな。結局、それと平和と何の関係があるんだ?」
ノウェムは俺に対して無表情で。
「ありますよ。かつて地球を飛び出し、月にまでその生活圏を広げた人類は――平和の中で緩やかに滅びたのですから。全滅ですよ。そして、ライエル様の手によって、その滅びが再び起こる可能性があります」
俺は驚いて、手が震えた。カップの中に残っていたお茶が揺れ、そしてノウェムを見て息をのんだ。
「滅んだ? いや、まぁ……確かに、古代文明は滅んだけど、全滅というのは流石に」
全滅していれば、俺たちはいったいなんなのか? すると、ノウェムは薄暗い笑みを浮かべた。
「お聞かせしてもよろしいですよ。いかにして人類が全滅したのか? とても愚かな話で、面白くもありませんけどね。ただ、私が言いたいのはそういう事です。平和がもたらしたのは人類の繁栄だけではなく、滅亡という種としてもっとも避けるべき結末でした」
俺はノウェムに問うために口を開こうとすると、部屋のドアが物凄い勢いでノックされた。驚いてドアの方を振り返ると、返事をする前にシャノンがは言ってきた。
「ラ、ライエル!」
「な、なんだよ! 少し驚いたじゃないか! 止めろよ。あのタイミングで乱暴なノックとかやめろよ!」
暗い笑みを浮かべたノウェムの顔が怖かった。美人ではあるが、それが余計に怖かった。そして、これ以上先を聞くなら覚悟を決めろと、無言の圧力を感じたのだ。そこから驚かすようなノック音に、俺の心臓は音が聞こえそうなほどに脈打っていた。
「ノウェムも来て! モニカが新しい情報が入った、って! セ、セレスが――」
俺はセレスの名前を聞き、ソファーから立ち上がった。
このタイミングで攻め込んで来たのか? そう思ったからだ。
集まったのは、会議室ではなく俺たちが使用する食堂だった。
そこにはモニカやヴァルキリーズが、紙に絵を描いていた。まるで画家のように詳細に描くモニカやヴァルキリーズだが、その絵には芸術性と言うよりも不気味さの方が勝っていた。
モニカは、俺が到着すると手を止める。シャノンは、モニカたちが書き起こした絵を見て俺の後ろに隠れた。
「ヒッ!」
そこに描かれていたのは、まさに地獄だった。
「なんだよ、これは」
その中の一枚を手に取ると、集まった全員が顔をしかめていた。モニカが俺に言う。
「派遣したヴァルキリーズからの情報です。マイゼル・ウォルトの墓を建造したようです。大規模な物のようで、それに数万人が駆り出され作業を行なったようです。関わった人間だけでも数十万人でしょうね」
この時期に人手をかき集めるのも驚きだが、それだけの規模で人を動かせばどう考えても収穫に問題が出てくる。都市部の人間だけをかき集めた訳ではないだろう。セレスが何をやっているのか本気で理解できない。
「墓? ……おい、少し待て。なら、この絵はなんだ? なんで父上がここにいる?」
モニカは、真顔だ。俺に冗談を言う感じではない。まして、こんな慰め方などしないだろう。
「情報通りなら、間違いなくマイゼル・ウォルト――チキン野郎のお父上ですね」
そこには、自分の墓を見学に来た父の姿が描かれていたのだ。そして、違う絵には――。
「そして、こちらがその時の状況です。寂しくないようにと、作業に参加した者たちを生き埋めにしています」
とにかく気持ち悪かった。どうして、こんな事が出来るのか?
そういった疑問を持っていると、ノウェムが俺の持っている絵を見て。
「……セプテムが作りだしたスキルですね。どうやら、複数のスキルを使いこなせるようになってきたようです」
俺はノウェムの方を見て。
「どんなスキルだ? まさか、父上を生き返らせたのか!」
そんな事まで出来るスキルが存在するのか? そう思っていると、ノウェムは俺に向かって言うのだ。
「ライエル様、女神も邪神も、人がそう呼んでいるだけです。私たちにそこまでの力はありませんよ。遺体の一部から記録を抜き出して再現していると思われます。スキルの使用者の人形とでも言えば良いでしょうか」
生き返ったわけではない。残念に思う一方で、それでいいのだと俺は心の中で思っていた。
その場を、ミランダが仕切る。
「……これはバンセイムの周辺国に伝えましょう。もう、正気じゃないわ。バンセイム打倒の大義名分にもなるわよ」
三代目が、俺に対して。
『ライエル、ミランダちゃんはライエルが落ち込んでいると思って、この場を仕切ってくれている。その事を忘れてはいけないよ。それと……話が大きくなりすぎたね。古代人がまさかの全滅。それに色々と知っているノウェムちゃん……少し、話をしないか』
三代目の意見に同感だった。俺はミランダに視線を向けながら。
「悪い。俺が言うべきだった。モニカ、資料をまとめろ。それと、エヴァ」
「な、なに?」
青い顔をしているエヴァに、俺は言う。
「……歌を広めろ。バンセイムの非道を歌って貰う。そのための金は用意しよう。悪いが、利用できる物はなんでも利用する」
まるで、俺たちに大義名分でも与えるようなセレスの行きすぎた行動を前に、俺は不安が大きくなるのだった。