1 彼女の名前は春原シャイン
九月二日 市立鈍色高校 新校舎二階 三年B組 HR前
気を失いそうだった。
二か月近くに及ぶ長期休暇――夏休みが終了した翌日。俺は教室の黒板から一番遠い窓際、すなわち担任が入ってくるだろう黒板側の入り口からもっとも遠い隅に追い詰められていた。
逃げ場がないように俺を取り囲む三人の不良を順番に見ていく。
正面が金髪でリーダーの服部。
左に取り巻きA……いや佐島。
右に取り巻きB……もとい三田がいる。
ニタニタと底意地の悪さがにじみ出ている笑顔を浮かべた札付きのワルを自称する三人が、珍しくHR前に登校してきたと思っていると、彼らは「如月ィ! ちょっと顔貸せや!」と言ってにじり寄って来たのだ。
「如月ぃ……もう一回言ってみな?」
服部が思い切り猫背になり、上目づかいになって話し出した。言えというなら何度でも言ってやる。今更後には引けないんだ。
このままではせっかく目立たず騒がず、湖の水面のように静寂に包まれて過ごしてきた俺の残り少ないスクールライフを「あいつ」のように惨めに過ごす羽目になる。
「おい如月よお! 服部さんが話してるなぅだろお? だっちゅーのにてめ、どこ見てんだよああん?」
昔からいじめられっ子で不登校がち――その薄暗い雰囲気と自己主張の少なさがいけないのか、入学当初から服部たちからいじめを受けているあいつ――新野の黒縁眼鏡を見ていたら、左の佐島が崩壊した日本語で怒鳴った。
現代文どころか国語の授業からやり直せとまでは言わないし、俺だって正しい日本語だけを使って普段から会話しているわけじゃない。わけじゃないが、「なぅ」の乱用はよくない。バカみたいだぜ? 佐島。
「ミスター如月、ちゃんと聞いてますか? ミスター服部さんのクエスチョンにきちんとアンサーしなさい」
さらに右に控える自称「エリートヤンキー三田」は、英語の動詞「アンサー」に日本語の動詞「する」を追加し、敬称を重ねるという愚昧っぷりを惜しみなく晒していた。
お前が敬愛する服部が言ったのは質問ではなく「もう一回言え」という命令だよ。
まったく魚類のケツの穴からぶら下がっているだけで偉そうにしているアホ丸出しの……いやもういい。三田の間違いを指摘する前に、早いところこの状況を脱しなくては。
「いや、だから……夏休み中に、彼女ができたんだよ」
「それはさっきも聞いたぜぇ……?」
服部がニヤニヤしながら吐いた言葉に対して、もう少しでため息をつくところだった。右大臣と左大臣が先ほどから責め立てているように、彼は俺に対してある命令をした。それは「もう一回言え」だった。
俺は間違いなく、もういっぺん言った。彼のオーダーを正しく理解し、きちんと対応したはずだ。自分で繰り返せと言ったくせに、「それはもう聞いた」とはなんだ。
「……で? お前と付き合うことになったのは、どこの誰だってぇ?」
俺の嘆きなど知る由もない。不良グループのリーダー、おサルの大将服部が馬鹿にした口調で言い、再び俺の顔を覗き込んだ。
今度こそ質問を投げかけてきた男の目は鋭いが、けして猛禽の目などではない。同じ日本人であることを呪いたくなるほど暗く濁った黒い瞳は、ただただ相手を貶め、辱めようとしている彼の意志をそのまま反映していた。その暗い光は、腐肉を漁るハイエナを連想させた。
俺は憤然とその目を見返すことはなく、自分が吐いた一世一代の大嘘をどのように処理するかを考えていた。
今の気分は、さながら超難解な三次元関数の問題に真面目に取り組んだおかげで、試験終了までに全問解答することすら不可能なのではという思考に陥ったときのようだった。全てを投げ出したくなる気持ちを抑え、強いストレスから激しい便意を催しているあの時――寄せては返す波のように、ある時は猛烈な嵐のように襲ってくる腹痛。しかしトイレ休憩などに立てば、甚大なタイムロスとなる。まるでその荒波に揺られる小舟のように体を前後に揺すりながら、試験官の「トイレか?」と訝っているに違いない視線を躱している――そんなプレッシャーを感じながら、俺は服部の目を見返した。
定期試験や模擬試験――大学受験ですらそうだが――終わればひとまず解放される。結果が出るまでは自由の身だ。
しかし、服部の質問に対する答えには、俺の高校生活最後の半年がかかっている。考えろ。考えるんだ、悠人!!
◇
「いやあ……実は冗談だったんだよ……だ、騙された?」
「ああ!? 冗談?」
服部の目が猛禽のそれに変わった。完全にロック・オンだ。
「今更冗談だったで済むかよ! なあ?」
水を得た魚のごとく、服部が纏っていた気怠そうな雰囲気が吹き飛んだ。彼は左右に控える佐島と三田に確認した。
「まったくです。服部さん! It is no use crying over spilt milk. 覆水盆に返らずとはこのことですよ、ミスター如月?」
三田の英語は間違っていなかった。彼も調子が上がってきたようだ。
「三田の言ってることはよくわかんねーけど、服部さんは嘘が嫌いなんだぞ! わかってんのかコラ!」
佐島、頭髪検査の時に金髪を指摘され、「地毛だけど、何か?」などと言う日本人は嘘に塗れているよ。
それにしても、やはり冗談が通じる相手ではなかったか。
「ははは……今のは冗談ていうのが、冗談だったんだよ……ね?」
ひとまず時間を稼ぐために、俺は話の軌道を修正した。
「ああん? くだらねーこと言ってんじゃねえよ……じゃあ、誰と付き合ってるのか言ってみろや!?」
「あはは……」
我ながら苦しい。なんて苦しい展開なんだ。
始業式の帰り道、夏休み中のムフフな英雄譚に花を咲かせるクラスメイトに後れをとるまいと、ついつい我が鈍色高校男子全員の、教師ですら憧れを抱く隣町の女子高――静蘭女学院の生徒と付き合うことになったなどという大嘘を吐き、それが翌日にはクラス中に広がって不良どもの耳に入ったという未曽有の危機を打破する答えは「ウソぴょん」ではなかったか。
言語脳が崩壊している不良どもに通じる語彙は少ない。限られた選択肢の中から、靴底に張り付いたガムの表面が黒く固まっており、これなら剥がせるかと思いきや内部はまだまだ元気ですよ~と爪の間に入り込んできたときのような粘着性質をもつ彼らがあっさりと手を引く言葉を選べ――。
◇
「……彼女の名前は、シャイン」
「…………?」
ダメだ。何一つ思いつかない。白旗を上げそうになった俺は、あらぬ方向から聞こえた声に目を丸くした。声がした方を振り返った服部達はおろか、教室が静まり返っていた。
「如月の彼女は、春原シャイン。白人とのハーフでね。一学期までは静蘭に居たんだよ。両親がフランスに転勤するんで、中退したけどね」
我らが三年B組に在って滅多に口を開くことがない人物が、唖然とする周囲を置き去りにして意外にも良く通るバリトンボイスで流暢に語り出した。
「ちなみに俺とシャインは遠い親せきでね。なんなら携帯で連絡を取ってもいい。彼女は今、長めの夏休みで暇してるはずだ」
そう言ってポケットから今どきそれかよと思うほどチープな造りのPHSを取り出したのは、俺が断固回避したい最悪の未来の象徴――いじめられっ子の新野だった。
「坊や……お前何言ってんだ?」
まるで俺の気持ちを代弁するかのように、服部が新野を振り返って言った。当然刺すような視線を送っているはずだが、新野は不良たちからどんな嫌がらせを受けようと、亀のように身を縮めて耐えるだけの弱々しかった姿からは想像もつかない堂々とした態度でそれを見返していた。
「別に。如月は嘘なんかついてないって言いたかっただけさ。どうせ君らは証拠を見せろとか言うんだろ? さあ、如月、電話しよう」
そして、しっかりとした足取りで歩いて俺たちの間に割って入り、すでに番号がプッシュされているPHSを手渡してきた。
「ちょ、新野くん?」
「いいから、電話して。それで全部、解決するんだ」
PHSを無理やり右手に握り込まされた。そのまま耳元に持っていかれ、古臭いデザインの無線通話装置が耳に押し当てられた。さらに左手にも何かを握り込まされた。ひ弱だと思っていた彼の腕力は尋常ではなく、俺はまったく抵抗できなかった。眠たげな新野の半眼が見開かれ、黒縁眼鏡の奥に光る瞳が俺を捉えて放さなかった。
「彼女が電話に出たら、これをそのまま読み上げろ。そうすれば、君の思った通りに彼女は話す」
新野は素早く耳打ちすると、手を離した。左手を確認すると、そこには一枚の紙片があり、何やら走り書きがしてあった。呆気にとられている間に、彼はゆっくりとした足取りで自席に戻って行った。
「おいニーニョ! てめえ何のつもりだ!?」
服部がそれを追い、取り巻き二人もそれに従った。今教室中が、突然活動した新野に注目していた。
「――もしもし」
呼び出し音が止まり、涼やかな女性の声が僕の鼓膜を通じて脳に伝わった。まるで高原に吹く風のように、それは俺の中に優しく浸透していった。
「…………」
「如月!! 早く読め!!」
女性の声だけで陶然となっていた俺を、新野の怒号が襲った。
突然の怒号に驚いた俺は、慌てて彼が渡した紙片の文字を読み上げた。
「我はアダム。汝の名を示せ」
なんだこりゃ。
そう思った瞬間、クラスの喧騒がまったく聞こえなくなった。
「我の名はシャイン。主の僕」
代わりに涼やかな声が、再び俺の体内に響き渡った。
◇
「それで、新野君――」
「ニーニョでいいよ。それから、本性を出したらどうだい?」
放課後である。
HR前に起きた珍事について説明を求めるため、さっさと帰ろうとする新野を追い旧校舎裏へ誘った。早速とばかりに切り出した俺を制した彼は、黒縁眼鏡を外してケースにしまうと、眠たげな半眼を三白眼にして言った。
どうやらこいつには、俺が肚で何を考えているかはバレているらしい。
「それじゃあニーニョ。電話の相手はいったい誰なんだ?」
バレているなら隠す必要はない。俺は意識的に柔らかくしていた口調を止めた。
「春原シャイン。今日から君の彼女さ」
「意味が分からない」
「だろうね」
ふふんと鼻を鳴らしたニーニョは、頭の後ろで組んでいた腕を戻し、学校指定鞄――服部達のやくざキックを幾度となく受け、上等な牛革は見るも無残な状態だった――を開けると、一冊の本を取り出した。
「これ。読めばわかるから」
それを差し出したニーニョは、早く受け取れと催促するように突き出した。
「なんなんだよ。それは」
「説明書さ。彼女の――っ!!」
「はあ? お前何い――!?」
急に表情を変えたニーニョに、分厚い表紙の本を無理やり持たされた。相変わらずとんでもない力だ。
「彼女が来る。いいか、眼鏡をかけろ。そうすりゃ読める。それからPHSも絶対無くすなよ! それと如月……死ぬなよ」
そして安っぽい造りの眼鏡ケースを俺に押し付けると、ニーニョは最後にボソッと不吉なことを呟いて走り去った。その速さも尋常ではなく、あっという間に新野の背中は見えなくなった。
「おーい……」
呼んで聞こえる範囲からはとうに脱出したであろうと分かっていたが、念のため呼んでみた。
「はい。マスター」
「……え?」
誰も居なかった。校舎裏には確かに誰も居なかったはずだった。しかし、朝PHSから聞こえた涼やかな声が、俺の背後から聞こえたのだった。
ギギギと音が聞こえるのでは思えるほどぎこちなく、俺は正体不明の存在の声が聞こえた背後を振り返った。
そこには、静蘭女子の制服を身に付けた美少女が立っていた。