【4】 最終話
艶やかな黒髪は、唯一彼女が自前で自慢できるものだった。
髢という垂髪をつけ、檀紙で包み水引で縛り、
絵元結いと呼ばれる髪飾りを施したその巫女は、
真っ白な上衣と緋袴の装束がパンパンで、今にもはちきれそうな体型をしていた。
黄色味を帯びた木の葉が、ひらりひらりと舞い落ちる。
ここは鎮守の森。
清められた神域。
「あ、森のエビフライ……美味しそう」
松ぼっくりをリスが食べた痕の形が似ていることから、
そう呼ばれている『森のエビフライ』が境内の所々に落ちていた。
秋の味覚が美味しくて、最近また太ってしまったと実感する今日この頃。
いつしか辺りは、セミの声と入れ替わった秋虫の大合唱が賑々(にぎにぎ)しい。
なのに、風もひんやりと冷たく感じられるせいか、秋空が心に虚しさを覚えさせる。
バカだから、どの大学も自分を受け入れてくれないような気がして、
進学するのはあきらめた。
アルバイトをしながら、小説家を目指すのも悪くはないが、
両親に反対をされ、最悪家を追い出される可能性も否定できない。
異界神社は、さほど大きくはないこじんまりとした神社なので、巫女はいなかった。
姫子はそれでも巫女の格好をしながら、
手伝いをするつもりでこうしてタダ同然で働いていた。
高校を卒業した今、ある意味自由にはなったけれど、
あまりの自由さにこれといってしたいことも見つからず、
心にポッカリと穴が開いてしまっている。
新月の丑三つ時が、もう何度巡って過ぎて行ったのかはわからない。
あれからもう半年以上が過ぎているも、
その度に心待ちにしている自分がいたこともまた事実。
しかし、彼が訪れることはなかった。
もう自分のことなど忘れてしまったのか、
ひょっとするとシャルロット姫と幸せになったのか、
そもそも最初から相手にされていなかっただけなのか、
それともあれは単なる夢だったのか――
(どうせ私なんて――)
「……よそう」
考えれば考えるほど自分が惨めになっていく。
姫子は新鮮な空気を深く吸い込んで、重々しく吐き出した。
「バカみたい。本気になんかしちゃって」
苔むした石段を、竹ぼうきで掃き清めながら、落ち葉をかき集める。
こうして境内で仕事をしている時が一番心が安らぐ――
だけど、少しだけ、ウソ。
かえって色々思い出してしまって、心が乱れ狂うのだ。
そっと、唇にひとさし指を触れてみた。
思い出すだけでカァッと燃え拡がる全身に、
初めてのキスのぬくもりが呼び起こされる。
(――でもやっぱり……)
つぅと涙が流れていった。
「会いたい」と心が叫んでいる。
「夢でもいい。お願い神様! もう一度あの夢を見させて! 彼に会わせてぇ!」
とめどなく溢れる涙で視界が歪み、「あっ!」姫子はつまずいた。
と同時に、「グエッ!」と苦しそうなカエルの鳴き声が腹の下から聞こえた。
「お……もい……。早く……どいて……くれ……」
全体重をかけ押しつぶしてしまった人間に気がついて、姫子は慌てて身を起こす。
「ごっ、ごめんなさい! 大丈――」
語尾が立ち消え、姫子は狛犬のようにその場に固まってしまっていた。
空色の双眸と黒髪の、西洋人と東洋人のハーフの如き美貌の青年に釘づけとなる。
「ああ、私はまた夢の続きを見ているのね」
「じゃあ、俺とのキスも夢だったというつもりか?」
後頭部に手が伸びきて、以前とは全く異なる姫子の顔をグイッと近づけさせられた。
美しすぎる男の唇が近い。
姫子の両目から涙が、滝となって流れ出す。
「オイオイ。美女ならともかく、お前に涙は似合わねーぞ」
「死ね!」
ドンと押され、
「ゲッ! ロゲ――ロ――……」
石段を転げ落ちていくカエル王子。
***
「それで、いつこっちへきたの?」
奇跡的に、かすり傷一つ負わなかったアクージャ兼ド・エームに、
姫子は次々と質問を浴びせかけていた。
「今日の丑三つ時、つまり深夜だ。で、さっきまでこの世界を探検してきた。
お前の生まれ育った世界がどんな所か見ておきたくて」
「全然違うでしょ? てか、よく生きて戻れたわね。
あんたのいた世界とは比べ物にならないほど、危険なものがいっぱいよ」
「俺を見くびるなよ、お前。
まぁ確かに動くでかい鉄の塊に、危うくひかれそうには何度もなったがな」
案の定、車や電車のことを言っているのだろう。
「危ないから、今度街へ行く時は私を誘うのよ!
全く、どこぞの国の原住民じゃないんだから……まぁ、似たようなものだけど」
「――お前に……会いにきた」
唐突に言葉を切って、伸ばされた腕に抱きしめられた。
「遅い、わよっ……! 待ちくたびれたじゃない!」
「悪かった。色々と忙しくて……。俺を――待っていてくれたんだな」
「……うん……」
急にしおらしくなった姫子が愛おしくて、抱きしめる腕により力が込められる。
姫子は顔を赤らめながら、うっとりまぶたを閉じていた。
「お前の抱き心地は、細かった以前よりずっとイイな」
(人のことを、抱き枕かぬいぐるみみたいに……)
「一緒に暮らそう。俺、しばらくこっちの世界で暮らすことに決めたから」
(はい――?)
「暮らすって、どこに住むつもりなの?」
「お前んち。空いてる部屋の一つや二つあるだろ?」
「ちょ、何勝手なこと言ってんのよ!」
「不服なのか? ああ、俺と一緒の部屋がいいのか。無論、大歓迎だ」
「あのねぇ! 私は神子になるのよ! 家業を継いで、ここの異界神社の!」
思わず口から飛び出た決意に、彼女自身が目を大きく見開いて驚愕していた。
そんなことは一度だって思ったことも、誰にも語ったことすらない。
「継げばいい。俺はお前を全力で支えてやろう。
まぁその前に押しつぶされるかもしれないけどな」
「一言余計なのよ!」
***
「母が言ってた。巫女は、神子、神楽女、御神子、
御巫、八乙女……などと呼ばれていたそうだ」
千早に緋袴姿で楚々と敬虔な心で舞を舞う清楚な神子が、
一瞬、姫子の脳裏をかすめていった。
神子だった王子の母、彼女の昔の姿が――
「へぇ、私より詳しいじゃない。あんたの母さんと王様は、幸せそうだった?」
「ああ。お忍びで逢引している時が一番な。
まぁ今でも、年甲斐もなくイチャついてるけどな」
「え? あんたの母さんって生きてたの?」
「勝手に殺すなよ。オンボーロの城下町で占い師をしている。若い女に大人気なんだぜ」
意外だった。
神子が異世界で魔女と呼ばれ、挙句、占術師として大人気とは……。
「そうだ。リッチ国のシャルロット姫が、近くデュラスと結婚することになった」
「デュラスと!? まさか、どうして!?」
「元々恋仲だったそうなんだが、
近頃はあまりの熱烈ぶりに見ていられないと嫌気が差した周囲が、
さっさと結婚させて落ち着かせろとうるさかったそうだ。
だがあの様子じゃ、結婚したらますます燃え上がりそうな気もするなぁ」
ニヤニヤと思い出し笑いする様子を見て、
姫子はそれは見ない方が無難かもしれないと姫子は悟る。
人の熱々ぶりを見せつけられるものほど、げんなりするものはないと、
十八年彼氏いない暦の経験がものをいう。
でも、幸せとは伝播するものなのかもしれない。
「――愛は身分を越えるのね」
「――異世界だって越えるぜ?」
空色の目を伏せ、あの甘やかな唇が近づいてくる。
何度も夢にも見た、希ったぬくもりが……。
触れるか触れないか、というその時。
「ところで俺にも母につけられた和名というものがあるんだが、
その名で呼んでくれるかヤマタヒメコ。
特別に教えてやろうヤマタヒメコ」
(年号を語呂合わせで覚えるみたいな呼び方ってどうなのよ)
せっかくのムードが台無しだ。
ハァ……と、呆れの混じる溜息が漏れ、脱力しかける。
「別にいいわよ。アクージャかド・エームって呼ぶから。犬のようにね」
子犬のような悲しげな瞳で見つめられるのは、反則というものだ。
「……ああ、もうわかったわよ。じゃ、後で聞いてやるから。
その代わり私のことも今後は、ただの『姫子』って呼んでよ?」
「わかってるって。タダノヒメコ」
「アホなの? 嫌がらせなの? 絶対わざとでしょ?
こんな先が思いやられるようじゃ、やせたくてもやせられないわ」
そんな気はサラサラないのだが。
「それには心配は及ばないぞ。俺は押し倒されるより、押し倒す方が好きだからな。
お前を愛してやれば、自然とやせられる。何なら今すぐにでも、ここで試してみるか?」
「え? ちょ、ちょっと――……んぅっ!?」
背後のケヤキの幹に姫子は押しやられ、伏し目がちになった男に深い口づけを交わされた。
その勢いでズルズルと地面に二人は崩れて行き、姫子の両手が王子の首へ回される――
寸前、彼女は巨体をひねらせ王子を背にする。
「あんたはドMでしょ――ッッ! とりゃぁあああ――!!」
ドドスーン。
おごそかだった聖域の中で、見事な背負い投げが一本決まった。
(了)