〈1ー2〉
僕たちはその後、高架下に来ていた。街の歴史を物語る、錆と汚れたコンクリートのその場所は、雨の簾に遮られ、一種の空間として成立していた。
「それであの、貴方は一体誰なんですか?」
急かされここまで走ってきたせいで、僕の身体は汗をかいている。それは張り付いた服に染み込むと、あの怪物の体液と混じり合って、凄まじい悪臭を放っていた。走り疲れて火照った身体が、辺りの湿気を加速させる。額から一筋、何ともつかない液体が、僕の頬を伝って落ちた。
しかし膝に手を付き息を切らせる僕とは対照に、隣の男はスラリと立ったままだった。
彼はというと、冷たい風に揺れる簾の先に眼を凝らし、その僅かな機微を確かな目線で見つめていた。先程まではフードに隠れていたその顔も、今ではその全貌を知ることが出来る。獣のように鋭い眼光を放つ、青年だった。髪は鋭くボサボサで、僕はその姿に狼を連想した。
「気配は無いが、時間も無い。手短に話すぞ」
そう言うと、彼は屈み、僕に目線を合わせた。
「お前は今、殺し合いに巻き込まれている」
殺し合い。
その余りに非現実的な言葉は、実感として身体で感じる事はない。ただその時の僕は、なるべく呼吸を整え耳を傾ける事だけが冷静に出来ていた。
「俺やさっきの奴を含めて、総勢十体の【ゴースト】がこの街に溢れている。それぞれが検体番号の下一桁で呼称され、G7が奴の事。G2とは俺の事だ。そうして各々が最後の一体になるまで戦闘行為を続ける。この雨が止むまで、だ」
「【ゴースト】……? そんな非科学的なものが、この街にいるって言うんですか!?」
「お前の知識では追いつかないだけで科学的だ。そうしてお前は、この戦闘における俺の【使役者】という立ち位置にいる」
「【使役者】……?」と、僕は身体を起こして彼に尋ねた。彼は「そうだ」と答えると、後ろを一瞥し、再びコチラに顔を向けた。
「使役者は戦闘に参加する条件であり、的だ。これを定めないゴーストは【ダスト】と呼ばれ、積極的に組織から排除される。但し、もしも一旦定めた使役者を失えば、その戦闘ではもう使役者を定めることが出来無い。ゴースト同士の戦闘は、基本的に互いの使役者をいかに早く殺すかにかかっている」
彼の説明は正しく『かいつまんで』という言葉がよく似合うものだったが、それでも、凡人でしかない一高校生にも理解が及ぶところはあった。
「つまり、さっきみたいな化物が、今度は積極的に僕を殺しにくる……。そういう認識でいいんですね?」
彼は再び「そうだ」と言うと、再び後ろを向いた。そうして今度はコチラを見ずに、絞るような声で言葉を吐いた。
「組織からは逃げられない。済まないが、お前には今から命をかけてもらう」
「…………」
彼の言葉は低く、澱んだままに紡がれて、その心中を察する事はできない。ただ、何か諦めめいたものだけが、そこから見えるほどに漂っていた。
僕自身も、この混沌とした状況にどうするべきかという答えを見いだせてはいない。
唐突過ぎた。今日だって、久方ぶりの豪雨に不満を漏らしながら友人と登校し、退屈な授業をやり過ごし、くだらない事で大笑いして、明日の約束を取り付けて。
帰り道を歩いていた。
ただそれだけ、何時もとなんら変わらぬ、普通の日常を過ごしていただけだ。
それが、どうしてこんな事に。
帰り道。登校路と少し離れた所を歩いていた。
久方ぶりの短縮授業に心浮かれていた僕は、遠く回り道をしながら家路を進んでいた。
ふとした時、見た事もない路地から悲鳴が聞こえて、なんとは何しに覗いてしまった。
最近では、学内でも学生の事件解決に対する表彰があったばかりで、あわよくば自分もそんな場面に遭遇できるかもと、そんな軽い気持ちの事だった。
だから携帯を取り出して、何も考えずにそこに向かってしまった。
そこでは白い花柄を真っ赤に染めた女性の身体と、血のあぶくを滴らせる化物がいた。
女性の下半身は既になく、よく乾いた洗濯物みたいに、両手を上げて地面に転がっていた。その化物が二つになった女性の残りを飲み込んだあたりから、僕の意識は覚醒した。
非現実を受け入れた僕の脳が、喉を介さず悲鳴をあげた頃、僕の身体は走っていた。
時折後ろを振り返ったが、二三もせずに直ぐ止めた。どれだけ速く走っても、そいつととの距離は縮まる気配を見せなかったからだ。
あれはなんだという思考はあった。もうだめだという思考もあった。
それでも身体は動いて、見知らぬ路地を疾走した。
そうしてたどり着いたのが、あの袋小路だ。
今から思えば、きっとあそこに行くことは決まっていた、運命のようなものだったのだろう。
きっと、あの帰り道を選んでしまった時点で、僕の人生は、こうなるように出来ていたんだろう。
あの袋小路はもう逃げられない僕の運命を表していたんだ。
そうして後ろからやってきたあいつに、僕は喰われて……―――――
その時、僕の耳に雨の音が入ってきた。
滝のように流れ、反響を繰り返すその豪雨の中で、僕は彼を発見したのだ。
「でも……、あなたが僕を守ってくれるんですよね?」
声が出た。
何を考えていたわけでもない。ただ、事実と未来が僕の脳内にはあった。
「あんな化物を倒してしまえる、あなたが、僕を守ってくれるんですよね?」
――――、喰われなかったじゃないか。
逃れられぬ運命は、彼の手によって可能性を得たのだ。
「あぁ、それは約束しよう……。この戦い、俺がお前を守る。」
諦めるのは、まだ早い。
僕ははっきりとした眼で、簾の先を見つめていた。