〈1-1〉
僕は今、生涯最大の敵と対峙していた。
外は豪雨で、世界中のあらゆる観測者は、僕を除いてその姿を見ることは無いだろう。
僕はまず、そいつの眼が気に入らなかった。
取り柄もなく飯を食うだけの分際で、そいつの眼は大きく、飛び出していた。
まるで触覚のようにそいつを器用に動かして、そうしてコチラの顔を伺うようにしているのだ。
僕はその動作が堪らなく嫌いだった。生理的な嫌悪感を抱かずにはいられないのだ。
ついでに言うならその背中に載っけた殻にもムカついていた。
背骨もない分際で、まるで天下をとったような自信をそれは漂わせていた。許せない。
理由は無いが、僕はそれに対し、無性に腹を立てていた。
そして何よりも一番僕の気に障ったのが、その大きさだ。
僕は今、とある路地裏にいた。使い捨てられた木材が、行き止まりの暗がりに放り出され、捲れ上がったブルーシートは、この雨の中で音を奏でている。
それらを背にして、僕はそいつと対峙していた。
そいつは道いっぱいに身体を伸ばし、大きな目で僕を見下していた。
あるはずの無い鋸のような歯をぎらつかせて、まるで猫のように笑っているのだ。
時折、首を傾げてコチラを覗くようなその動作に、僕は、激しい焦燥を感じていた。
雨が冷たい。
僕のさしていた傘は、今あいつの腹の辺りに刺さっている。そこからは紫の筋が入った白濁の液体が止めどなく流れ出し、その身体のうねりに合わせて波打っていた。
「誰か……、いやだ…………」
僕の口は陸に打ち上げられた魚のように、空気を食んでいた。そこから何かの音、恐らくは声らしきものが漏れていたが、それはこの場にあってはさして意味の無いことだった。
何しろ豪雨。世界中のあらゆる観測者たちは、奴を除き僕を見ることは無いのだから。
奴の身体は音も立てずに近づいてくる。
そうしてよく伸びた首をもたげ、僕の頭を覆うように口を開いていった。
「誰か、助けてくれェェェェェェ!!」
破裂音が響いた。
空気をその頬に溜めるだけ溜めた風船みたく、膨れ上がっていたそいつの身体は、この豪雨の中、ハッキリと耳に残る音で、僕の目の前から弾けて消えた。
残った下半身から噴出する体液は、先程から流れていたものより一層に濃く、ガムの原料みたいな色をしていた。その飛沫を受けて、僕の身体は全身紫に染まっている。その匂いは夏場の台所で発見した牛乳のようで、立ち込める雨の匂いをかき消すように、僕の鼻腔に侵入していった。
「うっ、…………ッ!?」
この雨が洗い流してくれるだろう。そう信じて、僕は止めどない嘔吐を繰り返した。
その後は半狂乱になりながら身体中に付着した液体を拭った。なりふり構わず袖や掌を擦りつけてた。その粘性の無さに少し感謝を覚えた頃、僕は漸く、自分の命が助かった事を実感した。
「何が……ケホッ、……何が起きたんだ?」
奇跡でも何でも良かった。
ただ、何が起きたのか、それだけが知りたくて、僕は辺りを見回した。
そうして、発見する。
「…………」
そこにいたのは奇跡でも何でも無く、一人の男性だった。
真っ黒のレインコートで頭まで覆っていたが、僕にはそれが、男性であることがハッキリと分かった。理由は直感だが、まず間違いが無かった。
彼はまるで爆心地のように凹んだコンクリートの上に立っていた。辺りには僕を含め、爆散したあいつの残りとその体液だけがあったように思えたが、彼は最初からそこにいたように、悠然とした態度で立っている。そして不思議な事に、彼の体には一滴たりとも紫の液体が付着してはいなかった。
「あ……、あなたが、奴を?」
僕は尋ねた。そうせざるを得なかった。
暫くの沈黙が、雨という静寂と共に流れた。
「おい、少年……」
男が口を開く。
低く沈み込むようなその声は、今の風景の中に溶けいる程に、似合っていた。
「これはお前の持ち物か?」
その手には、何やら棒っきれが握られている。彼の言葉の意図を探るため、僕はその正体を見極めようと眼を凝らした。だけれども、それは考えるまでもない事で、僕の脳内は半ば反射的にその正体に気が付いた。
「僕の傘だ……」
複雑な形になってはいたが、未練たらしく垂れ下がる布地の色合いや、持ち手の部分の趣味の悪い緑色は、大凡この街で僕だけが持ち得るものだった。
「そうか。なら、G7……、さっきの化物に一撃を加えたのも、お前か?」
軽く頷く。
「あの……、無我夢中で……。気づいたら刺してて……」
深い溜め息。伸びる腕。
胸ぐらを掴まれた僕の身体はいとも容易く宙に浮き、彼の放つ冷たい匂いに包まれて、自由を奪われてしまう。
「お前。どうしてコイツに手を出した!?」
「あの……っ、ちょっと……っ!?」
射抜く程の視線を寄越す彼の双眸は、僕の脳内までもを覗くようで、大凡人間の者とは思えなかった。
「どうしてなりふり構わず逃げなかった! お前はもう、巻き込まれてしまったんだぞ!」
「そ、それはどういう……?」
彼の言葉は半分も理解出来なかった。ただ、『巻き込まれてしまった』という言葉が、僕の脳裏に焼き付く。だがその言葉の意味を探る前に、僕の身体が地面に下ろされる。
圧迫感から解放された喉が、頻りに咳を吐く。彼はと言うと、何かを探すように辺りを見回していた。
「……、今ならまだ、間に合うかもしれない。少年、今すぐここから逃げろ」
そう言う彼の語調は何処か悲しく、そして温かい。事態の把握を後回しに、僕の身体は彼の言葉通りに動き出そうとしていた。
しかし――――
「悪いが、それは許可できない」
彼の後ろから声がする。重く、太い声だった。
その姿は彼の影になって見ることは出来無い。
「この少年は部外者だ! この傘だって、偶然刺さったものだ! だから――――」
「ダメだ」
彼は後ろも見ぬままに叫んだが、その言葉は後ろの声に遮られた。
「重要なのはG7の身体に被害が出た事と、その要因となった人物がまだ生きている事。そして、それをお前が助けてしまった事だ」
「え?」と僕の口から言葉が洩れた。
そうして顔を上げて覗くと、彼は酷く険しい顔をして、歯噛みしていた。
「もしも貴様が、その少年が殺されてからG7を撃破していたら、彼を巻き込む事は無かった。この事態はお前の甘さが招いた結果だ。我ら【アテナの灰羽根】はその少年をG2、貴様の【使役者】と確定する。詳細はお前の口から伝えろ。以上」
そう言い残し、声はとんと消え去った。
後ろを振り向く彼の影から覗いたその場所には、雨の白さだけが存在していた。