<プロローグ>
彼は自身の腕を噛みちぎった。
噴出する血液に浸りながら、彼は一心不乱に啜り、貪り、喰らっていく。
その強烈な鮮血は、僕がこれまで見たどんな色よりも赤かった。
部屋を満たす彼の匂いに、僕の脳味噌は次第に侵され酔っていく。明滅する視界。そしてこみ上げるものを抑えきれず、僕は吐瀉物を床に撒き散らせた。しかし、吐くだけ吐いてもまだ頭はハッキリとしない。ただ胃酸で焼けた喉元に激痛だけが残り、僕の意識を保っていた。
「済まないな」と、彼は言った。
「こうでもしなけりゃ、身体が持たん」
息も絶え絶えなその言葉は、声というより吐息に近い。
見たくは無い。
でも見なくてはならない。
僕は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を擦り、前を向いた。
彼の腕は、噛みちぎられた端から黒炭になっていく。床を覆っていた真っ赤な血液も、今では黒くて脆い、炭の層になっていた。
「最後の一体だ」
歯を食いしばる。それは彼も同じだった。
壁を支えに立ち上がり、残った腕で脚を抑える。身体を壁に預けながら、彼は覚束無い足取りで進んでいく。
どう見ても限界だった。僕は思わず走り出す。その瞬間、彼の膝がガクリと折れた。
「危ない!」と身体を持ち上げる。
その時、僕は気づいてしまった。
彼の身体には大凡、体重と呼べるものが無くなっていた。
僕よりも遥かに大きな彼の肉体はもう、がらんどうになっていたのだ。
こんな事、自分で分からないハズが無い。
「なぁ、おい…………」
「……」
彼は何かを言おうとしていた。その表情は影になって見えないけれども、僕にはそれがどんな顔なのかが、手に取るように分かっていた。
「どうしました?」
外では雨が降っている。冷たい雨だ。その勢いは強く、視界を遮ってしまう。
僕たちは今、その先へと向かっているのだ。
「俺は…………、人間なのか?」