1話
「透吾ぉ。あんま遠ぐまで行ったらわがんねえどお」
「何が分かんないのー?」
「わがんねえはわがんねえだあ」
お盆、山の中、じいちゃんち。
虫は多くて蛙もうるさい。よく知らない鳥か何かの鳴き声も遠くから聞こえる。静寂とはほど遠い、イメージする通りの田舎の中の田舎。コンビニまでも車が必要、そこまでの道のりは舗装すらされていない。
Wi-Fiもないようなところには正直来たくはなかったけれど、小学生の俺がたった一人で留守番を許されるはずもなかった。ちょっとの我慢だからと両親に連れられて渋々と父さんの生まれ育った「実家」とやらに押し込まれている。
自宅から車でほぼ半日、高速道路は渋滞していて行きも帰りもかったるい。持ち込んだゲーム機は早々に没収されてしまった、自然が近いんだから外で遊びなさいって言われたところでどう遊んだら良いのか俺にはちっとも分からない。
じいちゃんちに来るのは一年ぶりだ。今年の正月は雪が凄いから来るなと逆に言われてしまって機を逃していた。
去年までは四つ上の従兄が遊んでくれていたが、今年は受験生なので来られないらしい。遊ぶと言ってもインドアな俺たちはトランプやゲームで茶を濁し続けていたが。だから尚更困っている、一人な上にゲームを取り上げられては一体何をして過ごせば良いのか。
キンキンに冷えたコーラが飲みたい。青空を見ながら思った。
でも自販機を最後に見たのはどこだっけ。もしかして帰るまで飲めないのかもしれない、それは結構絶望。俺二泊も耐えられるのかな。
庭をうろつているだけで汗が凄い、持ってきていたキャップではガードしきれない首筋がじりじりと熱い。これは焼けそうだ、と思っていたらいつの間に近付いていたのかじいちゃんが後ろから話しかけてきた。
こっちの方が良いど。ちくちくとした麦わら帽子。大人向けなのか俺にはかなり大きそうだったが、確かにそっちの方がカバー力が良さそう。礼を言ってそれを受け取る。
代わりにじいちゃんが俺のキャップを尻ポケットに捩じ込んで、うん、と満足そうに一つ頷いて畑の方に歩いて行った。なんとこの家、敷地内に畑まである。
会えても年に二回程度の孫の俺に、じいちゃんもばあちゃんもとても優しい。
優しいのは良いのだけれど、訛りがきつくて今一つ何を言っているかの全貌は不明。父さんは普段標準語しか話さないし、母さんの実家も自宅からさほど遠くないから会話が通じないということはない。
じいちゃんばあちゃんの言葉全部理解出来たらバイリンガルって名乗れそう。そんなことを考えながら辺りを見回す。べらぼうに広い敷地には何だか分からない建物がある。住んでるとこと、さっき入った物置きと。あれは何だっけ、作業場とか言っていた気もする。農作業とかするんだと思う。
作業場を覗いてみよう、と足を踏み出すと、透吾ぉ、とじいちゃんのしゃがれた声がかかった。
「なにー?」
「暇だごってほっちのや、作業場の端っこ見てみろ。春から犬飼ってっから」
聞こえたワードから断片的に情報を拾い上げる。作業場、端っこ、犬。もしかして犬がいるのか。
犬? そう尋ねると、んだ、と返事が返ってくる。犬!
「噛む?」
「噛まね。ああ、わがんね。大人には噛まね」
微妙。じいちゃんも笑っている。犬はまだ子供と接した事がないらしい。
名前はと聞くと、特級のトクだと真面目な顔で答えられる。農家ジョークだろうか、俺にはよく分からない。
触って良いか尋ねると、んでじいちゃんも着いて行くとゆったりと近付いてくる。タンクトップで首にタオルを掛けたじいちゃんは何だかとてもワイルドだ。
「トクー」
古ぼけたシャッターの隣に確かに犬小屋が存在していた。グレーのペンキが塗られたそれは既製品には見えなくて、見上げたじいちゃんが俺が作ったのだと誇らしげに笑っている。
じいちゃんすげえ。でも犬どこなん。空っぽの犬小屋を覗きながらそう告げると、あれやあ、とじいちゃんも困ったように覗き込んでいる。
「また逃げたでや。あの馬鹿タレ犬」
「え」
よっく逃げんだ。腕組みしながらそう言うじいちゃんに、慌てて大丈夫なのかと問いかける。
「大丈夫ではねえな」
「ええ……」
「探すべでや。お父さん呼んできてけろ」
そうして里帰り一日目のイベントが始まった。
ミッション、赤犬のトクを探せ。多分散歩コースにしている家の裏の山に入っているのだろうとじいちゃんは頭をガシガシと掻いている。
「トク、赤いの?」
「柴犬みたいな色の犬だよ。茶色い犬のこと」
運転して疲れてんのによー、と父さんが腰を摩っている。情けねえごど、とじいちゃんがぶつくさと言って、父さんの尻を叩いている。じいちゃんが屈強すぎるのではないだろうか、と腕の太さを見比べて思った。とても老人には見えない体躯をしている。
「俺も探していい? 暇だし」
「えー? 熊とか出るかもよ」
「んだ。危ねえから透吾は家さいろ」
「絶対一人になんないから! じいちゃん熊も追い返せそうじゃん」
「熊はさすがにじいちゃんも勝てねど」
じいちゃんが顔を皺くちゃにして笑っている。しばしの押し問答の末に俺は山への通行手形を手に入れた。こんなイベントはそうそうない、俺は少しわくわくしていた。
「透吾ぉ。あんま遠ぐまで行ったらわがんねえどお」
「何が分かんないのー?」
「わがんねえはわがんねえだあ」
じいちゃんから離れんなよお。言われたそれに大きな声で返事をした。
散歩コースはじいちゃんしか知らないので、じいちゃんの後ろに着いて回るように歩く。まあまあな登り坂に息が少し上がるけれど、じいちゃんは全く意に介していない。さすが地元の人だなと思う、俺のが断然遥かに明らか若いのに。
「トクー!」
じいちゃんが名前を呼んで、俺はドッグフードの袋をがさがさと揺らす。食い意地の張った犬だからこれで食い付く可能性があるとのことだ、じいちゃん談。俺は知らない人間だから名前は呼ばない方がいいんじゃないかと言われた。ちょっとさみしい。
父さんは別ルートで熊鈴とスプレーを手に持った母さんと探し回っている。あちらは餌皿をチャンチャカ鳴らしているそうだから、どちらかで引っかかれば良いなと思う。
「トク、賢い?」
「賢いっちゃ賢いなあ。山で生まれでんだ、あのあほたれ」
どうやらトクも俺たちのように里帰りをしているらしい。繋いでも繋いでも気付けば首輪を抜けて実家に帰っているそうだ。
家の中で飼わないの。そう聞くと、泥棒避けだったんだけど、その方が良いかもなあ。じいちゃんがタオルで汗を拭きながらしんみりとそう返した。
「あんなあほたれ入れたら家ん中荒らされそうでやあ」
「んふ。躾けるしかないね。熊もいるんでしょ?」
「躾なあ。透吾やってってけろ」
「俺え? 出来るかなー」
まず噛まれないかどうかだね。んだなあ。背の高くなっていく草を横目にざくざくと山を上がる。ばあちゃんに預けられた熊鈴が腰でりんりんと鳴り続けている。音はでかいけど意外と綺麗な音だな、と思う。
ふと、微かな鳴き声が聞こえた気がした。
「じいちゃん、なんか鳴き声しない?」
「犬か?」
「多分。ひゃんひゃん言ってる気がする。どっかで」
その情けない声はトクだべなあ。じいちゃんが頷いた。どの辺や、と聞かれるけれど遠くの方、としか返せない。土地勘もクソもないのだ。
あっちの方かなあ。指差した方角を見てじいちゃんが渋い顔をした。
「沢の方だな。落っこったんでねべか」
「トク、上がれるの?」
「どうだべな。行ってみっか」
沢の方へと近付くと、水の音が段々大きくなってくる。比例するように犬の鳴き声も大きくなって、ああ、トクだ、とじいちゃんがぼそりと呟いた。
「あそこでないか」
「どこ、……うわっ!」
「透吾!」
じいちゃんが指差した方を覗き込もうとした瞬間に地面が消えた。ばしばしと足やお尻に痛みが走る。瞬間、全身に浮遊感を覚えた。
何が起きたか分からなかった。どすん、と一瞬の強い衝撃のあとで、草むらの向こう、慌てた様子のじいちゃんが俺を見下ろしていた。
草むらが急に途切れていた、どうやら崖のようになっていたらしい。大人に肩車して貰えばどうにか届くだろうかという高さ。傾斜は強く、降りることは出来ても一人で登るのは道具なしには難しそうだ。
すぐ傍の川のほとりで、うろうろと彷徨う柴犬みたいな犬が居た。柴犬を少し大きくして耳を垂れさせたような、明らかに血統書付きではなさそうな顔付きの犬。
そいつとばちりと目が合って、途端に犬は大きな声で鳴き出した。尻尾はぶんぶんと弧を描いている。
「大丈夫か、透吾!」
「すげー痛いけどとりあえず大丈夫そう! 多分!」
「待ってろな、じいちゃんすぐ縄っこ持ってくっからよ!」
立ち上がって手を振ると、じいちゃんはほっとしたような顔をした。擦り傷が少し出来てはいるけれど大したことはなさそうだ、その場で軽くジャンプもしてみる。捻挫なども心配はなさそう。
じいちゃんが声を出すと、またひゃんひゃんと鳴き始めたトクが頭上のじいちゃんを追うように追いかけ始めた。よほど不安なのか離れたくなさそうだ。しずね、とじいちゃんが何事かトクに怒っている。
「透吾、携帯持ってっか?」
「まだ買ってもらってなーい!」
「じいちゃんも持ってねんだよな」
とにかく急ぐからよ、ごめんな。眉を下げながらじいちゃんが答える。ひゃんひゃん。トクの声がこだましている。一体何時に逃げ出したのか、お腹でも空いているのか。じいちゃんの顔と俺の手にあるドッグフードの袋を交互にちらちらと見ているのが分かった。
「これあげてても良いー?」
「ちょっとずつやってでけろ。餌食わせれば多分懐くべから」
動くなよ。ごめんなあ。じいちゃんはそう言い残して小走りで俺たちから離れた。がさがさと草を掻き分ける音が遠ざかっていく。
「えっと、トク」
じゃりじゃりと細かい石を踏む軽い音が鳴り止まない。落ち着かない様子のトクが俺の周りをうろうろと歩き回っていた。
俺が持ったドッグフードが気になるのかじいちゃんが消えた方向とこちらを交互にちらちらと眺めてきゅうきゅうと甲高い声を上げている。犬って触ったことないんだけど、なんか大丈夫そうだな。ちょっと笑いながらドッグフードの封を切った。
「ほら。食べな」
握れるだけ取り出してトクに手のひらを見せる。首を伸ばして少し警戒するように覗き込んできていたが、辛抱出来なかったのか数秒後には俺の手に鼻先を突っ込んできた。
ぽりぽりと食べる毎に勢いが増して、比例するように尻尾も左右に動き始める。丸まった尻尾が可愛いけれど、触ったらさすがに怒りそうだ。
「あれ、全部食べたの? でもじいちゃんちょっとずつって言ってたから」
多分。翻訳機能に自信はないけれど。
もう少しだけ袋から出すと、またふがふがと食べ始めた。溢れる方が多そうな気もする。
また後でね。あっという間に食べ終わったトクにそう言って頬に触ると、不安そうな目で俺を見上げてきた。
「ねー、お前ここが実家なんでしょ。お前が怖がってたら俺も怖いんだけど」
「ここ実家じゃねえぞそいつ」
「え」
「もっと上だよ」
急に混ざったその声に慌てて振り向いた。さっきまで誰もいないと思っていたのに。
二メートルほどの幅の川が流れている。その川べりに、農家には見えない青年がしゃがみ込んでいた。向こうを向いていて顔は見えない。
根本が黒くなっている長めの金髪を一つに結んで、派手な柄の赤いシャツを身に付けている。デニムの下には素足の踵が見える、あれビーチサンダル履いてるんじゃないか。
とても山歩きをするようには見えなかったし、見落とすような保護色の服にも見えなかった。いつから居たのだろうか。
「え。誰」
「誰ってなあ。小豆洗いだよ」
「小豆洗い? 小豆洗ってんの?」
ちらりと見下ろしたトクは首を傾げてこちらを見ている。警戒する様子もなさそうだったが、普段のトクも分からない。行こ、と声をかけるとかしこい犬は素直に俺について来た。
「それ小豆なの」
「そうだよ」
青年は桶みたいな物を持ってざぶざぶと川に浸しながらその中身を洗っているようだった。
小豆洗い。何だっけそれ。どこかで聞いたような気もする。
覗き込んだ桶の中身は確かに豆がたっぷりと入っていた。赤飯のあれじゃん、と思う。
「今日食べるの?」
「食わねえよ」
「食べないの? 洗ってるのに?」
「洗いたいから洗ってんだよ」
「趣味なの?」
「アイデンティティってやつ?」
ふと手を止めて青年が俺を見上げた。ガニ股でしゃがむ青年は眉毛の薄さも相まって何だか昔の不良みたいだ。父さんのアルバムを見たときにこんな人が写っていたような気がする。
手にした桶が妙にアンバランスだった。
「お前保之んちの孫か?」
「保之? じいちゃんの名前だよ」
「合ってんじゃん。親父どっち?」
「父さんは宗佑」
「宗佑の息子か」
あんま似てねえな、宗佑はすげえ人見知りだったけど。
それだけ言うと、そのひとはまた桶に手を突っ込んだ。ざらざらと豆が動く音がする。
「父さんの友達?」
「あいつはびびって俺に近付いたことねえよ」
青年が答える。
じゃあじいちゃんの友達なの、と俺が聞くと、人間の友達は居ねえよとにやりと笑った。
「動物の友達しかいないの?」
「怪異の友達しかいねーの!」
小豆洗いって言ってんだろ、と呆れたように青年が答えた。
ひゃん! トクが鳴いて走り出す。がさがさと崖の上から掻き分ける音がした。
「透吾! 大丈夫だかあ」
「じいちゃん!」
待ってろなあ、今縄っこ結ぶからよ。じいちゃんのその声に分かったと返事をして川に向き直る。
そこには誰もいなかった。ただ河原の石がびっしょりと濡れて、そこで洗っていた痕跡だけが残されていた。




