ギルド
朝、目覚めて窓を開けても、空は重く曇っていた。灰色の雲が低く垂れ込み、青空の面影はどこにもない。
王国と魔王との大戦が始まってから、すでに三年。
かつて清らかだったこの国の空は、戦火で立ち上った黒煙や魔法の炸裂跡が影を落とし、もはや青を取り戻すことはほとんどない。
環境は荒廃し、曇りや黒い雨、時には赤い雨が降ることもあると、宿屋の掲示板に小さく書かれていた。
街角には、「植物も食べられなくはないが、汚染されていることは自己責任で」と注意書きされた張り紙もあり、戦争の爪痕は日常のすぐそばにあった。
斧を肩にかけ、装備を整えると、重い足取りで宿屋の外へ出る。
灰色の光が街を染め、風が湿った匂いを運ぶ。生き延びるための一歩は、今日もまた、曇天の下から始まった。
街は、夜の喧騒が去ったあとよりも、さらに静寂に包まれていた。
街路を歩く足音さえ、自分の胸の鼓動にかき消されそうだ。
酒場では、昨夜まで飲み騒いでいた兵士たちがぐったりと眠っている。
どうやら酒場の主人に担ぎ出されたのか、彼らはゴミの山の隣に寄せられていた。
教会の前には、避難してきた村民たちがちらほらと集まり、炊き出しをしている姿も見える。
人々の顔には疲労と安堵が混ざっていたが、戦争の爪痕は消えることなく、その背後に影を落としている。
街の道端には、まだゴミや汚物が散乱し、石畳を覆っている。
街と呼べど、環境が良いわけではなく、荒廃した空気が全体を包んでいた。
やがてギルドの前に着くと、そこも酒場と同じように静まり返っている。
人の気配はほとんどなく、入口の扉は重苦しい空気に押されるように待っているだけだった。
ため息をひとつ吐き、扉を押し開ける。中に足を踏み入れると、木の軋む音が薄暗い空間に響き、外の静寂とはまた違った緊張が漂っていた。
扉を押して中に入ると、思ったよりも室内は綺麗だった。だが所々埃が舞い、天井の隅には蜘蛛の巣がかかる。外の灰と騒音に揉まれた心が、少しだけ安堵する――とはいえ、肩と腕の鈍い痛みはまだ残っている。
手前にはたくさんの机と椅子が並び、奥に受付カウンター。カウンターの横には階段があり、上階へ続いているらしい。
冒険者はまばらだ。五人で今からクエストに向かおうと話すパーティ、掲示板を見つめて渋い顔をするドワーフ、朝から酒をあおる中年、そして隅でこちらを見てひそひそと話し合う人間。皆、扉を開けた瞬間こちらを見たが、ありふれた光景にすぐに興味を失い、それぞれの世界に戻っていく。
足元の痛みをこらえ、机と机の間を抜ける。肘がわずかに椅子の角にぶつかるが、無言のまま歩を進める。人の視線や小さな音に無意識に神経を張り巡らせつつ、受付カウンターへと向かう。
外の荒廃した街と比べ、ここは確かに静かで安全な空間だ。しかし、埃と蜘蛛の巣が示す通り、完全な安息ではない。肩の痛みを感じながらも、わずかに心を落ち着け、深呼吸ひとつで自分を整え直す。
カウンターに立つ者の顔はよく見えないが、目の前に立つと、自然と体が硬直する。だが、この静けさの中で、まずは情報を得ることが優先だ。
受付カウンターの向こうに立つ女性は、身なりがきちんとしていた。
シャツにベスト、ノーバングの小麦色の髪は整えられ、白い肌と澄んだブルーの瞳は誰の目にも育ちの良さを示していた。
こちらの灰まみれで傷だらけの格好を一瞬見て、軽く目を見開く。しかしすぐに表情を切り替え、淡々と、しかし明瞭に話し始める。
「別の街からの冒険者ですか?」
「いいえ、新規登録です」
まだどこのギルドにも所属していない、全くの新規だと伝える。
彼女は頷き、登録用紙や必要な手続きについて手際よく案内する。灰まみれの服や傷跡を気にかける余裕もなく、手続きの指示に従いながら、視線は次の行動に向けられている。
受付嬢は資料を広げ、声を落ち着かせながら説明を始めた。
「ご存知の通り、王国は今、魔王との戦時下にあります。対魔王軍の討伐依頼も多数あり、冒険者の需要は尽きません」
指先で紙をなぞりながら、続ける。
「近隣では魔物の動きが活発化しています。中には凶暴化しているものもあり、注意が必要です」
一瞬視線を上げ、主人公を確認する。こちらの表情を読もうとするようだが、感情は何も返さない。彼女は言葉を続けた。
「ですが、環境汚染による土壌の劣化や作物の不作など、国力は低迷を続けています。その影響で、経済的に困窮しており、以前よりも報奨金は低く設定されています」
さらに小さな紙切れを差し出す。
「冒険者を辞め、盗賊や山賊、あるいは賞金稼ぎに転身する者も珍しくありません。しかし『盗賊』『山賊』は違法行為です。法に触れる行動は、たとえ生き残りをかける理由があっても許されません」
説明を受けながらも、主人公はただ淡々と聞き流すだけだ。情報はすべて、次に行動するための指標でしかない。
「これが実は一番重要事項です・・・」
最後に受付嬢は一つだけ付け加えた。
「どんな形であっても、ここに戻ってきてくださいね」
その声は、無理に励ますものではない。妻も同じような言葉を残していたことを思い出す。感動や悲壮ではなく、心の奥で静かに、しかし確かに燃え上がる炎のように。胸に残る言葉の重みを、斧を握る手の痛みと共に感じ取る。
受付嬢は作業を続けながら、こちらに向き直った。
「現在のランクはカッパーです。ミッションは掲示板に貼ってある白紙、または黄紙から選んでください」
掲示板のことを頭に入れたまま、こちらは一つ質問する。
「その中に、盗賊の討伐はあるか?」
受付嬢の表情が一瞬曇る。苦い顔で、しかし正直に答えた。
「はい……あります。数は多いです」
多くの討伐依頼が、目の前の現実を映す。迷いはなく、ただ冷徹に次の行動を決めるための情報として受け取る。
受付嬢は静かに説明を続けた。
「先ほども言いましたが、国力が低下している今、盗賊や山賊は増える一方です。特に盗賊には種類があります。一般人からなるケース、冒険者からなるケース、そして、魔王軍を抜け出した、いわゆる爪弾きにされた者たちがなるケースもあります」
言葉の端々に、現状の厳しさが滲む。
「盗賊討伐の依頼は、国家や街から出るものではありません。襲撃された村からの依頼です。そのため報奨金は、さらに低くなるのが現実です。正直なところ、この町で商売を始めた方が、安全に稼ぐことができるくらいです」
少し視線を落とし、数字を淡々と告げる。
「難易度が読みにくい分、割に合わないこともあります。これまで当ギルドでの盗賊討伐の生還率はおよそ八割ですが、通常の魔物や魔獣討伐と比べても、明らかに低い数字です」
言葉は冷徹で、無駄な感情は一切ない。ただ、事実を伝えるためだけの声。
主人公はそれを受け止め、胸の中で計算を巡らせる。感情は交えず、次に取るべき行動のみに集中する。
説明を受け終えると、自然と足は掲示板へ向かう。
数枚の白紙や黄紙の中から、目当ての依頼を探す。
一番近い村からの盗賊討伐依頼。汚れた紙の端を掴むと、手元に力が伝わるような感覚があった。
掲示板の端で依頼を眺めていたドワーフが、こちらをちらりと見る。渋い顔だ。
「……お前、これで大丈夫か」とでも言いたげな、眉間に皺を寄せた視線。無言の警告のようにも受け取れる。
依頼を手にしたまま受付へ戻ると、受付嬢は少し厳しい表情を見せたが、すぐに手元の小箱から小瓶を取り出した。
「必ず生還して戻ってください――ですが、あなたの姿は……ほとんど亡者に近い状態です」
そう言いながら、ハイポーションを差し出す。光を帯びた液体が瓶の中で揺れた。
「討伐に出る前には、必ず万全な状態で行くように」
その言葉に、心が揺れたり感謝の感情が芽生えるも言葉にはできない。
手にした依頼とハイポーションを握り締め、街の扉を押して外へ踏み出す。
宿屋の自室に戻ると、扉を閉め、机の上に荷物を広げる。
朝の灰色の光が窓から差し込み、積もった埃の粒子をわずかに浮かび上がらせる。
まず、手に取ったのは銀のハンドアクス。刃の重み、柄の握り心地、バランスを指先で確かめる。
刃は鋭利で欠けもない。だが、長時間の使用による微細な摩耗は僅かに残っている。振った感触を確かめ、刃先が想定通りに振動するかを確認する。
「問題なし」とだけ、心の中で呟く。
次に投げ用の斧を二本。片手で握り、軽く回して軌道を確認する。
重心の偏りはなく、投げた際の回転が安定する設計。投げた後に受け取る感覚も念頭に置く。
一方、手首への衝撃は小さいが、連続投擲では確実に負担が増す。数回、机の上で軌道を再現してみて、微調整を頭の中で行う。
魔石が埋め込まれた指輪が四つ。赤・緑・青・薄紫。
指に通すと、微かに魔力の流れを感じる。
赤は火炎魔法の出力補助、緑は回復補助、青は水性魔法の補助、薄紫は特殊効果の触媒用。
それぞれの指輪が持つ魔石の性質と自身の力の共鳴を確認し、どの場面でどの指に装着するかを計算する。
使う順序や組み合わせで戦闘効率が変わることを知っている。
ポーション類も並べて確認。ハイポーション二本、スタミナポーション二本、毒消し二本。
ラベルの文字を読み、液体の色と濃度を確認する。
どれも使用期限や魔力保持時間がかすかに違う。戦闘の局面で瞬時に判断できるよう、位置を決めて机の上に置く。
薄汚れた旧貨幣の袋、小麦粉袋、爆薬も一応確認する。
旧貨幣は価値がないと知っているが、盗賊相手なら一瞬の隙となり、それが最大の武器となる。
小麦粉袋は必要に応じて火薬と組み合わせる可能性を想定。
爆薬は感覚で重さと状態を確かめる。湿気で劣化していないか、導火線の状態は正常か、指先で軽く叩き確認する。
机の上に並べた全てを見渡す。
一つ一つは単なる物だ。だが戦いの局面では、命を預ける道具となる。
息を整え、再度手元を確認する。
全ての装備を身につけ、机の前で最終確認を終える。
だが、銀のハンドアクスだけは、どうにも使用感に違和感が残った。
刃の重みや柄の感触は正確だが、振り抜いた際の微妙な反動が、手首や肩に予想外の負荷を与える。
仕方なく、街の鍛冶屋へ足を運ぶことにした。
店内に入ると、鍛冶師は寡黙に作業中。
ドワーフと人間のハーフだろうか、豊かな髭を蓄え、頭髪はない。汚れたシャツにオーバーオール、長靴。腕には鍛冶特有の厚手の手袋を着けている。鍛え抜かれた体格が、その存在感を際立たせていた。
「研ぎは15分で仕上がる」との言葉を受け、店内を見渡す。
目に留まったのは、少し変わった投げ斧。
斧といえば通常、刃と柄の構造だが、この斧は柄がほとんどなく、斧腹の中に柄が埋め込まれている。見た目には刃しか存在しない異様な作り。
鍛冶師によれば、投げることだけを目的に作られた斧で、ナックルのように打撃としても使えるはずだという。だが、扱いが難しく人気はないらしい。
「よければ試しに使って、使用感を確かめてみるか?」
素手で握り、軽く振ってみる。確かに習熟には時間が必要そうだが、使いこなせば実戦でも十分に役立つだろうと判断する。
十五分後。
鍛冶師は無言のまま、銀のハンドアクスを差し出した。
刃は研ぎ澄まされ、光を抑えた銀色が静かに輝いている。握った瞬間に違いが分かった。重さは同じはずなのに、振り抜きの軌道がぶれない。反動も収まり、手首に吸い付くように馴染む。
軽く一振り。空気を裂く音が、先ほどよりも鋭い。
鍛冶師は何も言わない。ただ、その目だけが出来を物語っていた。
短く礼を述べ、代金を置く。
そして例の投げ斧も手に取る。
柄のほとんどない異形の刃。腰のベルトに固定し、従来の投げ斧二本と合わせて配置を確認する。抜き差しの動線を頭の中で何度もなぞる。問題はない。
銀のハンドアクスを背に回し、全ての装備を改めて確かめる。
指輪の位置、ポーションの順、爆薬の重み。
準備は整った。
鍛冶屋を出ると、街の空気は相変わらず重い。
昼に近いはずなのに、空は曇天。遠くで黒煙が細く立ち上っている。
石畳を踏みしめ、門へ向かう。
教会前では炊き出しが続いている。避難民の列は短くも長くもない。ただ、諦めに似た沈黙が漂っている。
路地裏には、膝を抱えたまま動かない者。
酒場の前には、昨夜の兵士がまだ横たわっている。
門番は形式的な確認をするだけで、すぐに通した。
その視線は装備を見て一瞬だけ険しくなるが、何も言わない。
門をくぐる。
街の喧騒が背後に遠ざかり、前方には灰色の道が伸びる。
銀のアクスの重みが背中に伝わる。腰には投げ斧。
風が吹き抜ける。
目的は明確だ。
感情は不要。
足を一歩、外の世界へ踏み出した。




