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世界の断頭(仮)  作者: でいおん
第一章 値札のついた命
5/28

鬼子(オーガ)

足音が、完全に消える。


瓦礫を踏む音も、罵声も、笑いもない。


風だけが残る。


焼け落ちた家々の骨組みが、軋む。


主人公は、まだ立っている。


立っているつもりでいる。


斧は手の中にある。


指は、もう感覚が曖昧だ。


肩から流れたものが乾きはじめ、

皮膚を引きつらせる。


脇腹の奥が、ゆっくりと冷えていく。


一歩、出そうとする。


足が上がらない。


地面が、やけに遠い。


視界の端に、黒いものが揺れる。


焼け焦げた柱。


その向こうに――


小さな、影。


目が動く。


焦げた地面に横たわる、かつての温もり。


形はもう、以前のそれではない。


風が吹く。


灰が舞う。


その灰が、細い髪に積もる。


主人公の喉が動く。


声にならない。


名前も出ない。


ただ、空気が抜ける。


視線がずれる。


少し離れた場所。


倒れたままの身体。


衣は裂け、土に貼りつき、

空を向いた手が、何かを掴もうとしたまま止まっている。


世界は、静かだ。


あまりにも静かだ。


怒りが、湧かない。


涙も、出ない。


胸の奥が、空洞のように軽い。


軽すぎて、立っていられない。


膝が折れる。


斧が地面に落ちる。


音が、遠い。


地面に手をつく。


土が冷たい。


その冷たさだけが、はっきりしている。


視界が傾く。


空が広い。


雲が流れている。


昨日と同じ空だ。


何も変わらない。


自分の中だけが、消えている。


息を吸おうとする。


うまく入らない。


もう一度、吸う。


痛みが遅れてやってくる。


それも、どこか他人事のようだ。


身体が横に崩れる。


頬が地面に触れる。


土の匂い。


焦げた匂い。


鉄の匂い。


混ざる。


遠くで、何かが鳴いた。


鳥か、風か。


わからない。


まぶたが重い。


閉じる。


音が遠ざかる。


意識が沈む。


深い水の底へ落ちるように。


光が、細くなる。


そして――


何もない。


___


闇は、重さを持っていた。


音もなく、形もなく、ただ沈んでいく。


底はない。


上も下もわからない。


身体があるのかどうかさえ曖昧になる。


どこか遠くで、水が滴る。


ひとつ。


また、ひとつ。


その音だけが、闇に小さな穴を開ける。


冷たい。


頬に触れるものが、土ではない。


もっと湿っている。


石の匂い。


苔の匂い。


焼け焦げた匂いは、ない。


代わりに、ひやりとした空気が肺に入る。


胸が軋む。


痛みが、遅れて戻る。


それは鋭さではなく、

鈍く、内側から広がる重さ。


意識が、浮上する。


まぶたの裏が薄く明るい。


開く。


光は弱い。


揺れている。


炎だ。


小さな焚き火の、橙色。


天井は低く、岩肌がむき出しで、

煤けた影が揺れている。


洞窟。


知らない場所。


身体を動かそうとする。


右腕が言うことをきかない。


遅れて、強い痛み。


包帯の感触。


布が巻かれている。


脇腹にも、胸にも。


呼吸を深くすると、世界が白む。


ここはどこだ。


なぜ、生きている。


問いが浮かぶ。


答えはない。


次に浮かぶのは、映像。


灰。


小さな影。


空を向いた手。


胸の奥が、ひどく静かだ。


泣きたい、と思う。


だが、何も出ない。


涙は来ない。


代わりに、乾いた息だけが漏れる。


「……」


声が出ない。


喉がひび割れている。


焚き火の向こう、岩壁にもたれる小さな影がある。


角。


人のものではない輪郭。


長い髪。


細い身体。


少女。


こちらを見ている。


だが、何も言わない。


その視線は、同情でも慈悲でもない。


ただ観察している。


生き物を見る目。


主人公はゆっくりと天井を見上げる。


岩の隙間から、わずかに青が見える。


夜か、明け方か。


わからない。


あの丘はない。


あの空もない。


村もない。


妻も。


娘も。


敵も。


怒りも。


残っているのは、

傷だらけの身体と、空洞だけ。


胸の奥に手を入れられたように、

何かが完全に抜け落ちている。


復讐を誓う気持ちさえ、まだ形にならない。


ただ事実だけがある。


――すべて終わった。


守れなかった。


遅かった。


生き残った。


どうして。


どうして自分だけ。


その問いが、ようやく痛みに変わる。


息が荒くなる。


傷が開く。


包帯に滲む。


だがそれでも、涙は出ない。


少女が、火に薪を足す。


ぱち、と音が鳴る。


その音がやけに大きい。


世界は続いている。


火は燃える。


空気は流れる。


自分が壊れていても、関係ない。


その事実が、何よりも重い。


主人公は、ゆっくりと横を向く。


背を丸める。


膝を抱えることもできない。


ただ、目を閉じる。


闇に戻りたい。


だが、もう沈めない。


現実は、戻ってきた。


そしてそれは、焼け跡よりも冷たい。


ここで初めて、

かすかな感情が形を持つ。


怒りではない。


悲しみでもない。


空白を埋めようとする、鈍い衝動。


それが、まだ名を持たないまま、

胸の奥で微かに蠢く。


少女は言わない。


助けた理由も、問いも。


ただ、静かに見ている。


燃え尽きた人間が、

次に何を選ぶのかを。


洞窟の火が揺れる。


影が揺れる。


主人公の目は、もう一度開く。


そこに映るのは、岩壁。


そして、何もない未来。


絶望は、叫びではなく、

静かに、確実に、内側を満たしていく。


音もなく。


____


焚き火がはぜる。


主人公はまだ横たわったまま、天井を見ている。


喉が動く。


何かを言おうとする。


空気だけが擦れる。


その前に、声が落ちる。


低くも高くもない。


乾いた、平坦な声。


「自分が今、この世界で一番不幸だという顔だな」


間を置かない。


「気に食わない」


焚き火の向こうで、少女は腕を組んでいる。


瞳は揺れない。


「あなたのような境遇の人間は、地を這う虫ほどいる。村が焼かれた? 家族を失った?珍しくもない」


言葉は刃物のように正確で、無駄がない。


主人公の呼吸がわずかに乱れる。


怒りか、否定か。


だが身体は動かない。


少女は続ける。


「助けた理由?」


一瞬、火に薪を足す。


ぱち、と音がする。


「特にない。道端に残されたバウを拾っただけのこと」


視線が主人公へ落ちる。


「生きるか死ぬかは、興味がなかった。ただ、そこにあったから拾った」


冷たい。


淡々と。


そこに悪意はない。


だが温度もない。


主人公の喉が震える。


「……なぜ」


掠れた音。


それ以上、続かない。


少女はわずかに鼻を鳴らす。


「治療?」


「匂いが臭くてたまらなかったから封をしただけだ。血と焼けた肉の臭いは嫌いだ」


視線を外す。


まるで本当にそれだけの理由であるかのように。


主人公の胸の奥に、何かがひび割れる。


慰めを期待したわけではない。


だが、否定されるとも思っていなかった。


「……俺は」


言葉が出ない。


何者でもない。


被害者でもない。


特別でもない。


ただ、拾われた存在。


少女は立ち上がる。


洞窟の天井に角の影が伸びる。


「勘違いするな」


一歩、近づく。


焚き火の光が彼女の顔を照らす。


「あなたは選ばれていない。

 救われてもいない。

 ただ、まだ死んでいないだけだ」


その言葉は、静かに落ちる。


「絶望している暇があるなら、決めろ」


声が落ちる。


「このまま傷口から腐敗が上がり、脳まで侵されて死ぬか」


「みっともなく傷を抱えたまま、生き恥を晒して足掻くか」


視界が、わずかに滲む。


怒りではない。


胸の奥が、ぎし、と軋む。


家族の顔は浮かばない。


灰も、焼け跡も、出てこない。


代わりに浮かぶのは――


“虫ほどいる”


その言葉。


喉の奥が焼ける。


歯が、きしむ。


動かないはずの指先が、わずかに岩を引っ掻く。


爪が欠ける。


痛みが走る。


それが、やけに鮮明だ。


自分は、特別ではない。


救われてもいない。


ただ拾われただけ。


胸の奥の空洞に、

小さな砂が落ちる。


音はしない。


だが確かに、何かが引っかかる。


少女は背を向ける。


「私は世話係ではない」


乾いた声。


「ここは仮の寝床だ。歩けるようになれば出ていけ」


足音が、二歩。


それだけで十分だった。


主人公の呼吸が荒くなる。


吸う。


浅い。


吐く。


途中で止まる。


どうして自分だけ生きているのか。


その問いが、今になって形を持つ。


“虫ほどいる”


なら、なぜ自分はまだここにある。


死ななかった。死ねなかった。

拾われた。無様に。


喉の奥から、何かがせり上がる。


涙ではない。


叫びでもない。


ただ、圧力。


「……」


声にならない。


奥歯が軋む。


唇の端が裂ける。


血の味。


ようやく、言葉がこぼれる。


「……殺す」


小さい。


洞窟の火にも負けるほどの音。


それでも、確かに外へ出た。


誰を、とは言わない。


盗賊か。


王国か。


世界か。


それとも――


この状況そのものか。


少女は振り返らない。


「そうか」


温度のない返答。


肯定でも否定でもない。


ただ、受け取っただけ。


主人公の胸の奥で、

空洞だった場所に、

細い針のようなものが刺さる。


痛い。


だが、その痛みは消えない。


さきほどまでの“何もない”とは違う。


明確な不快。


明確な衝動。


復讐という言葉には、まだならない。


だが、


“朽ちる”という選択肢を、

拒絶するだけの何か。


主人公は、ゆっくりと目を閉じる。


逃げるためではない。


沈むためでもない。


初めて、自分の意思で。


洞窟の火が揺れる。


暗闇の奥で、

小さな何かが、形を持ち始める。


それは炎ではない。


刃でもない。


ただ――


まだ終わっていない、という感覚。


そしてそれが、

彼にとって最初の“選択”になる。


焚き火の向こうで、少女がわずかに目を細める。


「燃え滓かと思っていたが――」


視線が、主人公の胸元へ落ちる。


「存外にも、小鳥の目ほどの火種は残っていたか」


皮肉とも観察ともつかない声。


主人公の喉が鳴る。


言い返そうと、わずかに肩を動かす。


その瞬間、脇腹が裂ける。


息が止まる。


視界が白く弾ける。


焚き火の橙が歪み、細く引き延ばされる。


歯を食いしばる音さえ、自分のものとは思えない。


少女の姿が、二重に揺れる。


「……弱い」


それが最後に聞こえた言葉だった。


闇が、再び落ちる。


今度は速い。


抵抗する暇もない。


___


水音。


ぽたり、と落ちる滴。


冷たい布が額に触れる。


意識が浮上する。


まぶたを開くと、天井は同じ岩肌。


だが焚き火の位置が変わっている。


炎は小さい。


身体の痛みは、鈍い重さに変わっていた。


刺すような鋭さはない。


代わりに、全身が借り物のように遠い。


包帯は巻き直されている。


血の匂いは薄い。


呼吸が、少し深く入る。


「起きたか」


声が近い。


視線を動かす。


少女は、さきほどよりも距離を詰めている。


焚き火を挟まず、同じ岩壁に背を預けている。


角の影が、壁に淡く映る。


主人公は喉を鳴らす。


今度は、音になる。


「……どれくらい」


「半日」


短い答え。


「死ぬには足りない時間だ」


皮肉でも慰めでもない。


ただの事実。


少女は、じっとこちらを見ている。


「恐ろしくないのか」


唐突に問う。


「私が鬼子であること」


洞窟の空気が、わずかに冷える。


角は隠していない。


瞳も、人のそれとはわずかに違う。


主人公はしばらく黙る。


考えているのか、言葉を探しているのか。


やがて、掠れた声。


「……特に」


それだけ。


少女の眉が、ほんのわずかに動く。


「知識がないのか」


間。


「それとも、ただの愚か者か」


主人公は視線を逸らさない。


恐怖は、ない。


あの日、すでに焼き尽くされた。


鬼だろうが、人だろうが、違いは薄い。


「……どちらでも」


力のない返答。


だが嘘はない。


少女はしばらく沈黙する。


焚き火が、小さく鳴る。


やがて、視線がわずかに細まる。


「先ほど、言ったな」


洞窟の空気が、少しだけ重くなる。


「殺す、と」


その言葉は、前よりもはっきりと形を持つ。


逃げ場はない。


「誰を」


間。


「何を」


さらに一拍。


「なぜ」


少女の声は変わらない。


冷たいまま。


「意味は理解しているのか」


「殺す、とはどういうことか」


焚き火の光が、二人の間で揺れる。


主人公の胸の奥で、

あの小さな火種が、わずかに明滅する。


まだ炎ではない。


だが、消えてもいない。


問いが、初めて彼に突き刺さる。


“殺すとは何か”


洞窟は静まり返る。


答えを急かす者はいない。


少女はただ、待っている。


その火種が、言葉になるのを。

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