灰色
秋の終わりだった。
空気が乾き、森の匂いが薄くなる頃。
村に馬が入ってきた。
硬い蹄の音。
見慣れない鎧。
王国の紋章。
金糸で縫われたその印が、鈍い秋の光を受けて揺れる。
胸の奥が、わずかに縮む。
視界の端が、ひりつく。
一瞬だけ、あの玉座の間が脳裏をかすめた。
冷えた石床。
書類をめくる音。
青錆の浮いた硬貨。
喉の奥が乾く。
自分でも分かるほど、口元がわずかに歪んだ。
笑ったのか、引きつったのか。
どちらでもない、曖昧な形。
すぐに消す。
何事もない顔に戻す。
娘が俺の足にしがみつく。
小さな手の温度が、現実へ引き戻す。
伝令は村長の家へ向かった。
ほどなくして、村中に知らせが回る。
王国が、城壁の強化を進めているという。
魔王との戦争が本格化するらしい。
足場用の木材が大量に必要になった。
近隣の村の木こりに、切り出しの要請。
報酬は、通常の一倍半から二倍。
破格だ、と誰かが言った。
冬を越すには十分すぎる額。
森は豊かだ。
切れる木はいくらでもある。
村の男たちは顔を見合わせる。
金は魅力だ。
戦の影は、もっと現実的だ。
伝令は言った。
「急ぎだ」
期限もある。
量も多い。
俺はもう一度、鎧の胸元を見る。
あの紋章。
かつて、自分を値踏みした国の印。
今は、ただの仕事の依頼としてここにある。
胸の奥に、古い痛みがかすかに動く。
怒りでもない。
恨みでもない。
もっと乾いた何か。
娘が俺を見上げる。
何も分かっていない目。
澄んだ目。
妻は、静かに俺を見る。
あのときと同じ目だ。
信じている目。
「あなたは、ちゃんと帰ってくる人だから」
その言葉は、言われなくても聞こえた。
森がざわめく。
風が少しだけ強い。
三年間、穏やかだった空気が、わずかに軋む。
まだ壊れてはいない。
だが、どこかで何かが動き始めている。
俺は斧を見る。
万物を両断できる力。
王国のために振るうのか。
村のために振るうのか。
それとも――
今度は、何を切ることになる。
___
男たちは森へ入った。
斧の音が規則正しく響く。
乾いた木肌に鉄が食い込む音。
汗の匂い。
土の感触。
いつもと変わらない労働だった。
王国の依頼は重いが、悪い話ではない。
冬を越すための蓄えができる。
村も、家族も、守れる。
そう思っていた。
昼を過ぎた頃。
不意に森の奥が騒いだ。
鳥が一斉に飛び立つ。
一瞬の静寂。
次の瞬間、悲鳴。
矢が飛ぶ。
喉を裂かれ、男が崩れる。
盗賊だった。
数が多い。
統率も取れている。
ただの飢えた山賊ではない。
木こりたちは斧で応戦する。
だが戦い慣れていない。
一人、倒れる。
また一人。
血が土に染みる。
主人公は斧を振るう。
迷いなく。
かつて戦場に立った者の動き。
盗賊が二人、三人と崩れる。
だが背後で仲間が斬られる。
叫び声が、途中で途切れる。
「村も終わってるぞ!」
誰かが笑いながら叫んだ。
その言葉が、胸に刺さる。
時間が歪む。
斧の軌道が鈍る。
次の瞬間、肩を裂かれる。
視界が揺れる。
だが、倒れない。
倒れられない。
隙をついて森の斜面を転がる。
矢が地面に突き刺さる。
背後で断末魔が重なる。
振り返らない。
振り返れば、止まる。
止まれば、終わる。
走る。
ただ、走る。
森を抜けた瞬間、空気の味が違った。
灰を溶かした水を飲まされたような、ざらついた苦味。
煙はもう勢いを失っているのに、匂いだけがしつこく残っている。
生木の焦げた匂いではない。
それよりも甘く、重く、どこか鉄に似た匂い。
足が自然と速まる。
心臓が嫌だと言っているのに、身体だけが前へ行く。
村は、音を失っていた。
風が瓦礫を撫でる音だけが、乾いた楽器のように鳴る。
誰もいない。
いや、いる。
動かない形で、そこかしこに。
見知った背中が、顔が、土と混じっている。
目を閉じる暇もなかった者たちの瞳が、曇った空を映している。
自分だけが、遅れて帰ってきた。
自分だけが、息をしている。
家があった場所が、赤く燻っている。
梁は崩れ、屋根は落ち、炎は小さく舌を出している。
かつての生活が、音もなく崩れた跡。
その前に、小さな塊がある。
娘だった。
森を駆け回った影は、もう影ですらない。
黒く縮み、風が触れるたびに、かすかに形を崩す。
あれほど軽かった身体が、今は動かない重さになっている。
近づくたびに、熱が頬を刺す。
遅い。
すべてが遅い。
手を伸ばす。
だが触れれば、壊れると分かる。
守るための手が、守る相手を失って宙に止まる。
息がうまく吸えない。
空気が肺に入らない。
胸がひしゃげた箱のように軋む。
焼け落ちた壁の影。
そこに妻がいる。
倒れ方が、ただ事ではない。
布は裂け、赤は乾ききらず、地面に重たく沈んでいる。
彼女の周りだけ、時間が濃い。
抵抗した跡がある。
土を掴んだ指先。
割れた爪。
引きずられた線。
最後まで抗ったことが、嫌というほど伝わる。
守ろうとした。
娘を。
家を。
未来を。
それでも、間に合わなかった。
顔は空を向いている。
目は閉じられていない。
何かを待ったままの目。
帰りを。
約束を。
「あなたは、ちゃんと帰ってくる人だから」
耳鳴りの奥で、その声が響く。
帰ってきた。
だが、この有様だ。
膝が崩れる。
地面に触れた掌に、ぬるい感触が広がる。
灰と、乾ききらない赤が混じっている。
それは温度を持っている。
まだ完全に冷えていない。
それが、何より残酷だ。
空は晴れている。
雲ひとつない。
三年間の穏やかな日々と同じ空。
娘の笑い声が跳ねていた空。
洗濯物が揺れていた空。
何も変わらない。
変わったのは、ここだけだ。
胸の奥で、何かが崩れる音がする。
怒りではない。
悲鳴でもない。
もっと深いところ。
芯が抜かれる。
世界を支えていた柱が、一本残らず折れる。
涙が出ない。
代わりに、感覚が遠のく。
音が薄くなる。
色が抜ける。
赤だけが濃い。
それ以外が、灰になる。
斧が手から落ちる。
乾いた金属音が、やけに長く響く。
その音が、終わりの合図のように思える。
三年という時間が、紙の家だったと知る。
雨にも耐えられない、薄い幸福。
守れたつもりでいた。
だが実際は、借り物の静けさだった。
森が揺れる。
風が吹く。
世界は、続いている。
娘も妻もいないのに。
それが、底のない絶望だった。
暗闇ではない。
光の下で、すべてを奪われること。
主人公の中で、何かが静かに死ぬ。
まだ怒りは生まれない。
ただ、空洞。
音もなく広がる、深い穴。
その穴の底で、わずかに何かが目を開ける。
それが何かは、まだ分からない。
だが、もう以前の男ではない。
___
瓦礫の陰から、盗賊が現れる。
四人。
煤と血にまみれた顔。
目は濁り、口元は緩んでいる。
「王国は魔王との戦で手一杯だ」
一人が唾を吐く。
「騎士も見回りに来ねぇ。今が一番の稼ぎ時だ」
笑い声。
焼け跡に響く。
主人公はまだ膝をついている。
娘の前で。
手は灰に沈んだまま。
足音が近づく。
「生き残りか」
刃が抜かれる音。
ようやく、身体が反応する。
足元に落ちていた斧を掴む。
錆びている。
柄もざらついている。
重い。
こんなにも重かったかと思う。
立ち上がろうとして、ふらつく。
肩の傷が開く。
血が、脇を伝う。
呼吸が浅い。
盗賊が一人、躊躇なく踏み込む。
振り下ろされる刃。
見える。
だが、身体が遅い。
半拍遅れて斧を持ち上げる。
金属がぶつかる。
衝撃が腕を痺れさせる。
手が滑る。
斧が弾かれそうになる。
必死に握り直す。
力任せに押し返す。
形も何もない動き。
ただ、押す。
叫びながら。
盗賊が苛立ち、蹴る。
腹に入る。
空気が抜ける。
視界が暗くなる。
倒れかける。
その拍子に、斧が横薙ぎに振れる。
偶然に近い軌道。
鈍い手応え。
盗賊の身体が崩れる。
驚いた顔のまま、地面に沈む。
自分でも、何が起きたのか分からない。
息が荒い。
指が震える。
残り三人が一斉に動く。
囲まれる。
足場は灰。
滑る。
二人目が背後から掴む。
首に腕が回る。
締め上げられる。
視界が赤くなる。
息が入らない。
斧を振ろうにも、角度がない。
必死に肘を打ちつける。
当たらない。
焦る。
娘の焼け跡が視界の端に入る。
その瞬間、恐怖ではなく、拒絶が湧く。
ここで死ぬわけにはいかない。
喉を締める腕に、噛みつく。
血の味が広がる。
盗賊が叫ぶ。
力が緩む。
転がる。
灰が舞う。
咳き込む。
二人目が刃を突き出す。
避けきれない。
肩を裂かれる。
熱が走る。
だが距離が近い。
近すぎる。
斧を振りかぶる余裕はない。
両手で柄を握り、突き出す。
刃ではなく、重さごと叩き込む。
鈍い音。
肉を打つ感触。
もう一度。
叫びながら、振り下ろす。
形もない。
技もない。
ただ、壊すように。
二人目が動かなくなる。
主人公は立っていない。
膝をついたまま。
肩から血が流れ続けている。
呼吸が乱れ、視界が揺れる。
手は震え、斧を落としそうになる。
残り二人が、距離を取る。
今度は笑っていない。
焼け跡の風が吹く。
灰が舞う。
主人公は、自分が戦えていないことを知っている。
勝ったのではない。
まだ、生きているだけだ。
血の匂いが濃くなる。
耳鳴りが戻る。
ここから先は、もう余裕はない。
___
二人が倒れている。
灰の上に、動かない影が二つ。
主人公はその間に立っている。
立っている、というより――
折れかけた柱のように、かろうじて地面に刺さっている。
肩から流れる赤が、腕を伝い、指先から落ちる。
脇腹の裂け目は、呼吸のたびにじわりと色を滲ませる。
それでも、斧を握っている。
錆びた刃が震えている。
残る二人は、すぐには来ない。
さきほどまでの笑いは消え、目が細くなる。
「……まだ立つのか」
一人が吐き出す。
主人公は答えない。
一歩、前に出る。
足元の灰が沈む。
赤い足跡が残る。
身体は明らかに限界を越えている。
立っているのが不思議なほどだ。
だが、その“不自然さ”が、二人の足を止める。
今にも崩れそうなのに、
崩れる前に何かを道連れにしそうな目。
空っぽの目。
怒りも涙もない。
ただ、何も失うものがない者の静けさ。
主人公は斧を持ち上げる。
腕が震える。
刃先がわずかに揺れる。
振り下ろす力は、もうない。
それでも前へ出る。
まるで倒れる方向を、敵に向けているかのように。
「放っとけ」
もう一人が低く言う。
「深い。あれは放っておいても長くねぇ」
肩から溢れる赤は止まらない。
呼吸は浅く、胸はうまく膨らまない。
このまま立っているだけで、命は削れていく。
それが、見て取れる。
二人は視線を交わす。
「割に合わねぇ」
舌打ち。
後ずさる。
主人公は追わない。
追えない。
ただ、ゆらりともう一歩出る。
その動きに、二人は完全に背を向ける。
瓦礫を踏む足音が遠ざかる。
やがて、静寂。
風だけが、焼け跡を撫でる。
主人公はまだ立っている。
斧を握ったまま。
だが指の力が抜ける。
刃が傾く。
ぽたり、と赤が落ちる。
それをぼんやりと見つめる。
娘のいた場所。
妻の倒れている場所。
視界が揺れる。
空がやけに広い。
青い。
あまりにも青い。
三年前と同じ色。
その色が、遠い。
膝が折れる。
斧が地面に落ちる。
乾いた音が響く。
身体がゆっくりと前へ崩れる。
灰が舞う。
頬に冷たい地面。
鉄と土の匂い。
呼吸がうまくできない。
一度、大きく息を吸おうとして――
途中で止まる。
視界が細くなる。
音が遠ざかる。
焼け跡の中心で、主人公は崩れ落ちる。
赤が静かに広がる。
村と同じ色に溶けるように。
風が吹く。
灰が、彼の背に薄く積もる。
まるで、村そのものが彼を覆い隠そうとするかのように。
そして――
動かなくなる。




