第四章10 『日の入り』
臭い。
汚い。
ぬるく、粘ついた何かが、口の中へ、鼻の奥へ、耳の奥へと流れ込んでくる。
自分のものなのか、他のものなのかもわからない。
ただ、不快で――生々しい。
(……何が……起きた……)
意識が揺れる。
ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、その一瞬が、まるで何時間も引き延ばされたように重くのしかかる。
体を動かそうとする。
だが、動かない。
指先一つ、言うことを聞かない。
遅れて、痛みが押し寄せてきた。
全身を内側から引き裂くような痛み。
骨が軋み、肉が裂け、内臓が潰れているのがわかる。
――ああ、これが。
内臓が破裂するっていうのは、こういうことか。
妙に冷静な思考が浮かぶ。
(……動け……)
命じる。
だが、身体は応えない。
まるで、拒絶しているかのように。
――もういい。
――お前はよくやった。
そんな声が、どこかで響く。
休め、と。
もう終わりでいいと。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
(……これで……終わりか……)
ぼんやりと考える。
復讐を追い続けた男の末路。
こんなものか。
(……滑稽だな……)
力が抜けていく。
感覚が遠のく。
だが――その時。
閉じた瞼の向こうで、確かに“光”を感じた。
眩い。
強烈な光。
太陽でも、火でもない。
これは――
(……光の……魔法……?)
微かに意識を引き戻される。
教会の方角から、無数の光が交差する気配。
それは、ここにまで届き――そして、消えた。
(……あいつか……)
思い浮かぶのは、一人。
あの学者の少女。
怯え、諦め、ただ流されるように生きていた少女。
――違う。
(……立ったのか……)
あの少女は、立ち上がった。
戦っている。
(……なら……)
重い瞼を、無理やりこじ開ける。
滲む視界の中で、ぼやけた世界を見渡す。
泥。
瓦礫。
そして――白骨。
誰かの亡骸。
冒険者のものか。
その手に、何かを握りしめているのが見えた。
ハンドアクス。
(……まだ……)
残っている。
わずかな力をかき集める。
腕を動かす。
痛みが、悲鳴のように走る。
それでも、止めない。
震える手で、その斧を掴む。
骨から、引き剥がすように。
「……すまない……」
かすれた声で、呟く。
「……これを……借りる」
握る。
その瞬間、わずかに現実が戻ってくる。
まだ――終わっていない。
(あなたならできる)
――その声は、確かに聞こえた気がした。
亡くしたはずの温もりが、背中にそっと触れる。抱きしめられるような感覚と共に、軋んでいた身体の奥に、ほんのわずかな熱が灯る。
痛みが消えたわけではない。だが、確かに――動ける。
泥と血にまみれた水面を押し上げ、顔を出す。肺が焼けるように空気を求め、荒い呼吸が喉を震わせた。全身が悲鳴を上げている。骨が軋み、内臓が捻じれているような錯覚すらある。
それでも、足は折れていない。腕も、まだ握れる。
――なら、十分だ。
回復の指輪に意識を向け、強引に魔力を流し込む。経験のない内側の修復。正しいやり方かどうかなど分からない。それでも、放置すれば確実に死ぬ。
ならば、やるしかない。
肉が焼けるような違和感と共に、わずかに感覚が戻る。完治には程遠い。だが、戦うには足りる。
ゆっくりと水辺から這い上がり、地面に手をつく。指先に力を込めると、泥がぐしゃりと潰れた。
「……まだ、終わってない」
吐き捨てるように呟き、立ち上がる。
教会へ続く廊下は、先ほどまでの静寂が嘘のように荒れていた。壁は抉れ、床には瓦礫が散乱し、どこからか煙のような埃が漂っている。
足を引きずりながらも、歩みは止めない。
呼吸を整えろ。痛みは無視しろ。崩れるな。
瀕死であることを悟られた瞬間、それが終わりになる。
だから、平然を装う。
何事もないかのように、一歩ずつ。
やがて大広間へと辿り着く。
そこに広がっていた光景に、思考が一瞬だけ止まった。
異形のカラスは、無数の光の刃に貫かれ、地に縫い付けられている。黒い巨体はもはや動きを失い、ただ痙攣のように微かに揺れているだけだ。
だが、それで終わりではなかった。
その眼窩から、根のように伸びたものが――
少女の身体を、貫いていた。
白骨化したシスターの亡骸。その腕に握られた細い十字架が、学者の少女の脇腹に深く突き刺さっている。
血が、床に広がっていた。
一瞬の判断だった。
右手に握ったハンドアクスを、躊躇なく振り抜く。
乾いた音と共に、刃は亡骸を断ち割った。抵抗はほとんどない。骨は脆く、砂のように崩れ、形を保てずに散っていく。
呆気ないほど、あっさりと。
「……これで、終わりか」
誰にともなく呟きながら、すぐに少女の元へ駆け寄る。
傷口は深い。だが、まだ間に合う。
血の流れ方、呼吸の浅さ――経験則が、そう告げている。
「死ぬなよ」
短く言い、すぐに視線を異形へ戻す。
カラスの巨体は、徐々に輪郭を失っていく。溶けるように崩れ、黒い液のように地面へと広がり、やがてその中心に残ったのは――
鱗のような装甲と、無数のロザリオ。
そして。
その先に、ひとりの男。
かつての面影すらないほど痩せ細り、骨の上に皮を貼り付けたような身体。無数の傷が刻まれ、血はほとんど流れていない。
それでも、首だけがゆっくりと動き、こちらを見る。
濁った瞳。
だが、その奥に宿るのは、消えきらない執着だった。
「……許さない……」
掠れた声が、空気を震わせる。
「俺を……こんなふうにして……神が……黙っていないぞ……」
その言葉に、返すものはなかった。
ただ、静かに見下ろす。
男の視線は、どこか遠くを見ていた。
「あぁ……シスター……」
口元が、わずかに歪む。
「久しぶりに……膝枕を……してほしいなぁ……」
そのまま。
動きは、止まった。
静寂が落ちる。
崩れた教会の中、風が割れたステンドグラスを抜け、乾いた音を運んでいく。
戦いは、終わっていた。




