報告
翌朝。
――いや、朝と言っていいのかも分からない。
窓の外には、低く垂れ込めた灰色の雲。
陽の光はほとんど差さず、世界は薄暗いまま沈んでいる。
目を覚ました瞬間、全身に残る鈍い重さで思い出す。
昨日は戻って、そのまま倒れ込むように眠ったのだと。
夢は見なかった。
いや、覚えていないだけかもしれない。
ゆっくりと上体を起こす。
骨が軋むような感覚。だが動ける。
緋色の弾丸の反動も、棍棒の打撃も、ポーションのおかげで表面上は収まっている。
それでも奥に残る疲労は消えない。
腹が鳴った。
静かな部屋にやけに大きく響く。
階下へ降りる。
宿屋の一階は、昨夜の喧騒とは打って変わって静かだった。
数人の冒険者が眠たげな顔で椅子に腰かけ、湯気の立つスープをすすっている。
主人公は余計なものは頼まない。
黒パンと薄いスープ、少量の干し肉。
簡単に済ませる。
味は覚えていない。
ただ栄養を流し込む作業。
食事を終えると、立ち上がる。
装備はそのまま。
銀のアクスを腰に。
投げ斧を固定。
赤のリングは静かに沈黙している。
一瞬だけ、自分の手を見る。
震えはない。
そのまま宿を出て、石畳を踏みしめる。
灰色の空の下、ギルドへ向かう。
任務完遂の報告をするために。
外へ出ると、灰色の雲が垂れ込めているにもかかわらず、意外なほど明るかった。
青空が見えない分、空気は重たい。それでも反射する光が石畳を白く照らし、わずかに目を細める。
この街の朝は、いつもこうなのだろうか。
活気は薄い。
人の往来はあるが、どこか沈んでいる。
市場の前を通る。
並ぶのは、色の抜けた野菜や、斑に汚れた果実。
魔王戦争の影響で土壌が荒れ、まともな作物は滅多に育たないと聞いた。
薄暗く、劣化した屋台の列。
客足が遠のくのも無理はない。
視線を逸らし、ギルドへ向かう。
重厚な扉を押し開けると、外界とは別の空気が流れていた。
落ち着いた静けさ。木と紙とインクの匂い。
だが今日は、人の集まり方が違う。
掲示板の前に、数人が固まっている。
内容は見えないが、ひそひそと声が漏れる。
「“剛腕の盗賊”を討伐したの誰だ?」
「あの剛腕だぞ? 物理なんて碌に効かないって話だろ」
「腕も立つやつだったらしいぞ」
「あのガマガエル面の外道が消えたのは助かるけどな」
「ただ、上位ランカーが潰れたら報復が怖い……」
「このギルドの人間じゃないといいが」
喜びと、怯えが混じる。
主人公は足を止めない。
――正直に話さない方がいいか。
思考を一瞬巡らせ、受付へ向かう。
昨日の受付嬢が、こちらに気づき微笑んだ。
「おかえりなさいませ。戻られて何よりです。昨日来られた時の傷も、もう大丈夫そうですね」
昨夜、装備点検の合間に摂取したハイポーションのおかげだ。
「すまない。助かった」
自然と口から出た言葉に、受付嬢がわずかに目を見開く。
それでもすぐに、業務の顔に戻った。
「今回の討伐任務、改めてお疲れ様でした。報告の際は、こちらの翡翠石に手を置いてください。倒した人数や個体数を計測できます」
カウンターの上に置かれた淡い緑の石。
「討伐方法までは分かりませんが、単独か協力か程度は識別されます。……嘘だけはつけない仕組みですので」
剛腕の盗賊。
その名が、内部表示に出るはずだ。
一瞬、躊躇する。
だが動揺は見せない。
ポーカーフェイスのまま、翡翠石に手を置く。
石がわずかに光る。
受付嬢の前にだけ見える魔法モニター。
視線が流れる。
だが、彼女は動じない。
事務的に確認を進める。
やがて、静かに頷いた。
「では、今回の報酬です。銀貨一枚になります」
銀貨が差し出される。
想像より、軽い。
討伐方法について問われるかと思ったが、何もない。
受付嬢は軽く頭を下げ、「失礼します、ただもしよければギルド内でお待ちください」と言い残しと席を外す。
そのまま奥へ。小さな別室。
扉の上には、この世界の文字で――
《ギルドマスター》
おそらく、剛腕の件で報告に行ったのだろう。
数分後。
受付嬢が戻ってきた。
「申し訳ありません。こちらへ……ギルドの外に出て、裏口からお入りください」
裏口?
わずかに眉を動かすが、何も言わず頷く。
言われた通り、ギルド横の脇道へ回る。
石壁に挟まれた細い通路は昼でも薄暗い。湿った空気がこもっている。
奥に、目立たぬ木の扉。
周囲を確認し、そのまま中へ入る。
そこは、受付窓口の“内側”だった。
カウンターの裏手。
帳簿や魔道具が並ぶ事務空間。
冒険者からは一切見えない、完全な死角。
なるほど、と内心だけで呟く。
さらに奥。
目の前の木扉を押し開けると、空気が変わった。
応接間。
王朝に置かれていそうな重厚な木製の低机。
深紅のソファ。
壁には、竜と戦士が激突する劇画が豪奢な額縁とともに飾られている。
スコンスから伸びる蝋燭の炎が、ゆらりと揺れる。
火が瞬くたび、部屋の陰影が形を変える。
静かだが、どこか圧のある空間。
部屋の奥には、異様な存在感を放つ巨大なランスと盾が立てかけられていた。
禍々しいほど大きい。
まるで――
かつてこの部屋の主も名のある冒険者だった、と主張するかのように。
視線を巡らせている、その時。
自身が入ってきた側とは別の、大きな扉が開く。
重厚な音。
そこに立っていたのは――
二メートルを優に超える、筋肉質の男。
整えられた髭。
威圧感のある体躯。
だが身に纏うのは、品のあるドレスコード。
背後には、先ほどの受付嬢。
書類を抱え、静かに控えている。
空気が、わずかに張り詰めた。
筋肉質の男は、低く響く声で言った。
「お前が剛腕をやった新人か?」
確かに、それは自分のことだ。
翡翠石の判定から隠す術はない。
主人公は静かに頷いた。
「やはりそうだったか……お前が、ね」
男は上から下まで視線を走らせる。
装備の細部。
刃の摩耗。
革の擦れ。
手袋の縫い目。
「ほぉ……くすんでいて、あまり使えん装備の数々に見えるが……実に陰湿がましい」
口元がわずかに吊り上がる。
「持っているものはまずまず、といったところだな。……まぁこれなら剛腕を倒せても驚きはしない」
受付嬢から差し出された書類を受け取り、男は目を通す。
いくつかの項目で頷き、紙を返した。
「いや、すまんな。よければ座れ。……冒険者にしては礼儀正しいやつだ」
主人公は無言で腰を下ろす。
「申し遅れた。俺はここのギルドマスター兼、現役冒険者だ」
名乗りはしない。
それだけで十分という態度。
「今、受付嬢から“剛腕を倒した冒険者が判明した”と報告を受けてな。お前の身の安全のために、裏から入ってもらった」
腕を組む。
「いやぁ……こんな小さな街で剛腕が落ちるとは、正直驚いた」
一拍。
「お前は、不思議に思わなかったか? なぜ剛腕が倒された情報が、すぐに出回ったのか」
――確かに妙だ。
もし第三者に見られていたなら。
緋色の弾丸を目撃された可能性もある。
それは、まずい。
わずかに緊張が走る。
だがギルドマスターは続けた。
「実はな、賞金首や討伐対象の“生存確認”ができる魔道具がある。『千里眼』という翡翠石に似た代物だ。各ギルドに一つは置いてある」
部屋の奥を顎で示す。
「剛腕も登録対象だった。同業者――つまり盗賊に殺されたり、寿命で死ねば、情報は完全に消える。だが、登録冒険者に討伐された場合は違う」
指を立てる。
「千里眼で確認した際、名が“緑色に光る”仕組みだ」
なるほど。
だから早かったのか。
「ちなみに今回の剛腕……賞金首ランクとしては、ゴールド寄りのシルバーだ」
視線が鋭くなる。
「お前さん、相当の腕と見える」
だが、すぐに表情を緩めた。
「安心しろ。俺も冒険者の端くれだ。互いの手の内は明かさない。それがモットーだ。無理な詮索はしない」
重い沈黙。
「ただな。今後、“剛腕を倒した冒険者がこの国内にあるギルド所属”という話は人伝に広まる」
だからこそ、裏口。
「功労者に対しては失礼な扱いだったな」
ギルドマスターは、わずかに頭を下げた。
「改めて謝らせてほしい」
しばしの沈黙の後、彼は受付嬢からもう一枚の書類を受け取る。
「ちなみに今回の報酬だが――」
机の上に革袋が置かれる。
重い音。
「金貨一枚、銀貨八十枚、銅貨五枚」
視線をこちらへ向ける。
「剛腕に関してはな、あらゆる街や村、はたまた個人から依頼が出ていた。積み重なった結果の額だ。膨れ上がった報酬と見てくれていい」
金貨が袋の中で鈍く鳴る。
「本音を言えば、これを機にお前をカッパーではなくゴールドランクに引き上げたいところだ」
だが、と首を振る。
「それをすれば、余計に個人が特定される可能性がある。今はまだ早い。一旦見送りだ」
鋭い視線が、こちらを射抜く。
「なに、君のような冒険者であれば、ゴールドなどすぐに届くだろうさ」
軽く笑う。
「長々と話してしまったな。……何か聞きたいことはあるか?」
主人公は一拍置いてから口を開く。
「名持ちの盗賊とは、なんだ」
「それと……トップランカーの盗賊は、どれだけいる」
ギルドマスターの目が、わずかに細まる。
「ほぉ……そこを聞くか」
背もたれに身体を預ける。
「名持ち、というのはな。単なる盗賊ではない。“二つ名”が流通している者だ」
「剛腕、毒牙、影縫い……そういった呼称が自然発生的に広まり、各地の依頼書に記されるようになる」
「つまり、“実績が積み上がった犯罪者”だ」
蝋燭の火が揺れる。
「トップランカーは、国内で数えて十を少し超える程度だな」
「ゴールド級は三人。プラチナ相当が一人いる、という噂もある」
部屋の奥の巨大なランスへ一瞬視線をやる。
「連中は単なる力だけではない。資金、情報網、裏の加護。時には貴族や魔王軍残党との繋がりも持つ」
再び、見る。
「剛腕は、その入口に立ったばかりの男だ」
静かな声。
「お前は、その入口を踏み潰した」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「だからこそ、これからが本番だ」
「ちなみに――お前はどこまで自分がやれると思う?」
ギルドマスターの目が、試すように細められる。
「名持ちの盗賊は相当強い。今回の剛腕を“入口”とするなら……どこまで打倒できる?」
沈黙が落ちた。
剛腕に勝てたのは、緋色の弾丸を使ってこそだ。
万物を両断できる力――確かにある。
だが、まだ使っていない手札もある。
それは、相手も同じこと。
慢心は死に直結する。
だが。
盗賊への復讐を誓った、あの日から決めている。
どんな相手であろうと、自分の目が黒いうちは斬り続けると。
盗賊と名の付く者がいる限り、借りは全て断ち切る。
それが、絶対。
だからこそ、口をついて出た答えは一つだった。
「――全てだ」
空気が凍る。
蝋燭の火さえ、揺れるのを忘れたかのようだった。
数秒。
やがて。
「はは……ははははっ!」
ギルドマスターが吹き出す。
受付嬢は渋い顔をしている。いや――心配しているのだろう。
「剛腕は貪欲な男だと聞いていたが……」
豪快に笑いながら続ける。
「お前は負けないくらい貪欲だ!」
大きな手で机を叩く。
「面白い。その力、存分に震わせろ。これからも盗賊絡みの依頼は優先的に斡旋してやろう」
目が鋭くなる。
「ただし、名持ちクラスの報告は、今後もこの部屋だ」
「これはお前の名が上がる仕事ではない。名声も勲章も与えん」
わずかに口角を上げる。
「……だが、お前はそれを望んでいない顔だ」
静かな圧が部屋を満たす。
「そして覚えておけ。もしお前がくたばっても、俺は何もしない。干渉もしない」
一歩、前に出る。
「だが、口を割った瞬間――俺が首を刎ねる」
重い沈黙。
「この条件でどうだ?」
「問題ない」
短く、そう返す。
すると、横に立っていた受付嬢が小さく息を吸った。
「……ただ、一つ問題があります」
視線はギルドマスターへ向けられている。
「これはお金の流れについてです。今後、名持ちの依頼を継続してこなした場合、どこかで資金の流れから辿られる可能性があります」
淡々とした口調だが、その内容は重い。
「どこのギルドが討伐を担っているのか、いずれ気付かれるでしょう。無闇にこなせば、それだけ危険性が増します」
もっともな話だった。
盗賊の手先がどこに潜んでいるかもわからない。
情報も金も、力と同じ武器になる。
ギルドマスターは腕を組み、鼻を鳴らす。
「そこは君の腕の見せ所だろう。ギルド内で金勘定を一番取りまとめているのは君だ」
「それは少し難儀すぎます……また残業が増えてしまいます」
小さく肩を落とす。
そして、ちらりとこちらを見る。
その目が、ほんのわずかに揺れた。
だが次の瞬間、何かを決めたように頷く。
「……わかりました。打開案を練り、行動します」
一歩前へ出る。
「ただし、ギルドマスター」
その声音は、はっきりしていた。
「彼を道具のように扱うのはやめてください」
空気が張る。
「彼は一人の、この国の、この街の冒険者です」
そして、少しだけ表情を崩す。
「それと――私の給料も、ちゃんと上げてくださいね」
書類をまとめてギルドマスターへ手渡す。
豪快な男は一瞬ぽかんとした後、低く笑った。
「はは……肝の据わった受付だ」
部屋の空気が、わずかに緩む。
受付嬢は、今度は真っ直ぐこちらを見る。
先ほどまでの事務的な顔ではない。
個人的な、感情の乗った目。
「……それから」
一歩、近づく。
「絶対に、帰ってくると約束してください」
蝋燭の火が揺れる。
その問いは、契約でも義務でもない。
ただの――願いだった。




