病める時も健やかなる時も、命に替えても
「今日は、天気なのかしら…」
窓辺の椅子に座って外の様子を窺うが、晴れ間なのか曇りなのかはわからない。
目がほとんど見えなくなってからは、白と黒ほど変わらないと区別がつかなくなった。
息子のカインはとても可愛い。
出産の時から視力が落ちて、今や顔はぼんやりしている。
その手と、肌と、声と、匂いで、カインとわかるが、できることならもう一度顔が見たかった。
夫であり、貴族でありながら、魔物討伐隊の隊長でもあるエイベルは、私と離縁しようとしない。
目の見えない妻以外の女性をこの家のためにも嫁がせた方がいいのに、頑なに譲らない。
夫が応じないから、私も屋敷から出ることはない。
そもそも私1人でどうやって生活していけるのだろうか、とも思っているのも事実だ。
「はあ…、ままならないわね」
ぽそりと零した時、廊下の向こうからバタバタと音がした。
この足音は、エイベルだけど、それにしては落ち着きのない足取りね。
何かあったのかしら。
「クロエ!」
「あらあら、扉をそんな乱暴に開けてはダメよ」
「見つけたんだよっ、これでもう何も問題がない!」
慌てたように近づいてくる気配があった後、すぐに肩を掴まれてびっくりする。
「エ、エイベル?」
「君の目を見えるようにできる魔術医を探し出したんだ!もう離縁なんて言わせないからな!」
「………えっ」
エイベルの言葉に、理解が追いつかなくて、エイベルの顔がある方を見上げた。
「もう来ているから、早速見えるようにしてもらおう!」
「ま、待ってエイベル、えっ?」
「魔術医が言うには、片目しか難しいと言われたが、それでもいいかい?」
頭の中に言葉が響いて、エイベルの言ったことを繰り返した。
「目が見える…」
「そうだよっ!僕としては片目が限界なんだ、許してくれるかい?」
「許すも何も、片目でも見えるなら…!ああ、エイベル、私泣きそうよ」
「それは魔術が成功してからだ。そしたら一緒にお祝いしよう!」
エイベルの声に、何度も頷いて、涙は零さないように堪えた。
「左目でよろしいですね?」
「はい…」
魔術医は、私の左の瞼の上に魔法陣のようなものを描いた気がする。
間があった後、魔力が注入されていくのがわかった。
横でエイベルの苦しそうな息が漏れている気がして、手を伸ばした。
その手はエイベルの手に痛いほどに握られた。
そうして、長くて短い時間が経った。
「…どうぞ、ゆっくり開けてみてください」
魔術医の声に、私は、恐る恐る瞼を持ち上げた。
「…」
「見えませんか?」
「み、えて、います…」
見えている、左目だけ映るものの全てがくっきりしている。
視力が落ちる以前よりも見えている気がする。
瞬きをしても、景色は消えたりしなかった。
「では、失礼します」
魔術医は何の躊躇いもなく部屋を出ていき、止める隙もなかった。
「エイベル…、私本当に見え──。あなたっ、その目はどうしたの…!?」
隣にいるはずのエイベルを見ると、左目の色が変わっていた。
私と同じ、向日葵色の目になっていて、右目は紫のままだ。
エイベルは私の頬に手を伸ばすと、息を荒げて微笑んだ。
「見えているのかい?」
その左目は焦点が合っているようには見えなくて、私の方こそエイベルの両頬を包んだ。
その時、息子のカインが部屋に入ってくる音がした。
「とーたま、かーたま!」
「カイン!母様の目が見えるようになったんだよ!ほらクロエ、見ておやりよ」
「え、ええ…」
左目で久しぶりに見たカインは、想像していたよりも成長していた。
カインはくすぐったそうに抱かれながら、私の顔を覗き込んだ。
「かーたまのおめめ、とーたまとおそろい〜!」
無邪気なカインの声に、私は血の気が引いていくようだった。
「エイベルっ!鏡、鏡を取って!」
「クロエ、そんなに大声を出したらカインが驚くよ」
「鏡をちょうだいっ!」
私の金切り声が部屋中に響いた。
そこに映っている顔色の悪い私の目は、右は向日葵色で、左はエイベルの紫色だった。
「どういうこと…?」
「黒魔術なら、僕の目をあげられると」
「私の目と、交換したって言うの…?」
ぼやける視界の中のエイベルは、微笑むだけだった。
「かーたま、痛い?」
ぽたぽたと、カインの顔に涙が落ちていく。
「…ううん、痛くはないの。見えるのに、苦しいのよ…」
ぎゅーっと強くカインを抱き締めると、被さるようにエイベルに抱き締められた。
「…あなたの父様は、お馬鹿なのよ」
「君の目が見えるためにはこれしかなかったんだ」
「…だからって。あなたは、この家の当主で、国の戦士なのよ…?」
「その前に君の夫であり、カインの父親だよ」
見えない右目と、エイベルの目を移植された左目から、涙が止まらなかった。
数ヶ月して、片目だけ見えるのにも慣れてきた。
今までを取り戻すように、女主人としてテキパキ動いている。
カインの顔がいつでも見られるというのも、結局は嬉しい。
エイベルも最初はぎこちなくしていたが、数日もすると、剣の振り方に何も問題がなくなっていた。
しばらく説教をしたのだけれど、本人はケロッとしている。
『妻のためにできる限りのことをするのが、夫の務めだ』と言い張っている。
今更元に戻すことなど出来ないのだから、私はこの幸せを享受することにした。
エイベルにはお礼を言ったけれど、「僕の目を持つクロエも素敵だ」としか言わない。
もう放っておきましょう、あの人はああいう人なのよ。
「かーたま、だっこ」
「おいでカイン。そろそろ父様が帰ってくるから出迎えましょう」
「はーい」
そう言ってカインを抱き上げた時、屋敷が騒がしくなった。
「──奥様っ、奥様!」
執事が声を荒げて、走ってくるのが見えた。
「何事ですか?」
「奥様、落ち着いて聞いてくださいませっ。…旦那様が、討伐中に魔物にやられたと!」
「無事なのですか!?」
「息はあるそうですが、重傷だそうです…」
「…っ」
私は、一瞬立ちくらみそうだったのを踏ん張って、カインを抱き直した。
「医者を、医者を呼んできますっ!あと、神官も!」
「…ええ、そうして。あと、あの魔術医も呼んでちょうだい」
「あ、でも、あの人は…」
「本物の魔術医ではないのでしょう?」
私の鋭い声に、執事は気まずそうに頷いた。
後で調べてわかったことだが、魔術医はあんな奇妙な魔術は使わないそうだ。
黒魔術の使える野良の魔術師を、エイベルは見つけ出してきたんだろう。
「それでも腕は確かだわ。何かあってからでは遅いの。呼んでくれる?」
「…かしこまりました、奥様」
「かーたま…?」
「大丈夫よ、父様は何があっても助けるから」
主寝室に運ばれたエイベルは、胸を切り裂かれたような見るに耐えない傷を負っていた。
カインを乳母に預けて、私はエイベルのそばにいた。
医者も神官も、息の根が止まりそうなエイベルをどうすることもできなかった。
エイベルの手を握り、祈るしかなかった時、訪問者が現れた。
「…この傷は、治せません」
あの時の魔術医は、淡々とそう言った。
「報酬はなんでもお支払いします。何をしてもいいので、この人の命を助けてください」
私がそう言い切ると、魔術医の目が光った。
「何をしてもいいのですか?」
「この人を生きながらえさせてくれれば、何でも」
「いけません、奥様っ!」
「息子がまだ小さいの、今はまだ当主を失うわけにはいきません」
「今回の贄は、何に致しますか?」
「私の全てで」
「奥様…!」
「私の代わりはいるけど、この人の代わりはいないの。頼めるかしら?」
私は見える左目で、真っ直ぐに見据えた。
魔術医の口が弧を描いていくのが、ゆっくり見えた。
「では、あなたの寿命を10年ほど頂きましょう。魂の生命エネルギーを使えば、傷も治ってこれまで通り動けると思いますよ」
「お願いするわ…!」
「あなたの命の保証はできませんが、よろしいですか?」
「ええ、問題ありません」
私が頷くと、魔術医は可笑しそうに笑った。
私はそれを反射的に睨んだ。
「…ああ、すみません。馬鹿にしたわけではないのです。あなた方は同じこと言うのだと思って」
「同じ…?」
「ご主人に同じことを訊いた時も、あなたと同様に躊躇いなく了承されましたもので」
…泣きそうだった、でもここで泣くわけにはいかなかった。
「報酬は結構です」
「え…?」
「人間で実践させていただけるなんて、何よりの褒美ですので」
魔術医はそれだけ言うと、手早くエイベルの上に魔法陣を描いた。
私の時も、このような感じだったのだろう。
「あなたも座っておいた方がいいです。きっと苦しいでしょうから」
「わかりました」
「では、始めます」
手が翳されたと同時に、私の体中に激痛が走った。
「うっ、ぐっ、…ウェ!」
毛穴という毛穴から、何かが逃げていくのがわかる。
物凄い勢いで力が抜けていき、目の前が、黒、白、赤、と歪んでいく。
頭なのか、体なのか、ぐらぐらと回っていく。
…ああ、怖い!
死にたくない、エイベル…!
カインの顔をもう一度、焼き付けておけばよかったっ…。
ごめんなさいカイン、私この人を失えないの…!
誰か、私の体を抱き締めて!
声にもならない、力も入らない痛みに、エイベルも同じ痛みを味わったんだとわかって、頭の片隅で、やっぱりお馬鹿だわ…と思った。
喉が締まって、息が吸えなくて、頭が割れそうで、意識を手放しかけた時、急に激痛が体から引いていった。
私はそのままエイベルの寝ているそばに横たわった。
「成功しました。これで大丈夫ですよ。…あなたは生きていますか?」
「…私も、生きて、る、みたい」
「それならよかったです。お2人とも数日は安静に、では失礼します」
白んでいる視界の向こうで、魔術医が出ていくのが見えた気がした。
次に目を覚ました時には、隣でエイベルが起き上がっていた。
「エイベル、起きていていいの…?」
「クロエ…!僕は一体…、魔物の爪に裂かれたと記憶しているんだが…」
「そうね、そうだったわね…、でももう大丈夫だそうよ」
「どういうことだい?」
「さあ?エイベルの方がよくわかっているんじゃない?」
ぐったりして、起き上がる気力もない私は、それでも見せつけるように笑みを作った。
エイベルは不思議そうな顔をしていたけれど、何かに気づいたように顔が真っ青になっていった。
「あなた、顔色悪いわよ。今、執事か誰かを呼ぶから…」
「クロエっ、君は何をしたんだっ…!?」
焦ったように私の顔を覗き込んでくるエイベルが愛おしくて、手を伸ばしたかったけど力が入らなかった。
私は自然と笑みが零れていた。
「あなたと同じことよ」
私とお揃いの目はしばらく開かれていたが、そこからポタリと涙が落ちてくる。
「君は、何を…」
「それはこっちのセリフじゃない」
「馬鹿だよ、クロエ…。君がこんなふうになることなかったのに、…痛かっただろう?ごめん、ごめんよクロエ」
「あなたの嫁だからね、馬鹿なのよ…。あなたはもっと大馬鹿だわ」
「ああ、本当に僕は大馬鹿野郎だ、ごめん、クロエ…」
エイベルは私の体に気を遣いながら、優しく抱き締めてくれた。
…生きた心地がした。
その背中に手をまわすことが出来ずに、エイベルの肩に頬を寄せるのが精一杯だった。
「夫のためにできる限りのことをするのが、妻だもの。よかった…、あなたが助かって」
屈強で頼り甲斐のある夫が、私の肩口で静かに泣いている。
ああ、抱き締めてあげられたら…。
そう思って、優しく頭を合わせた。
「エイベル喜んで。私もあなたも生きているわ。こんな奇跡が他にあって?」
私は努めて明るい声を出したが、ガラガラ声でうまく出せていたかはわからない。
エイベルはそっと顔を上げて、私の顔を見た。
「エイベル、私のために、私とカインのために、また生きてちょうだい」
エイベルはようやく無理矢理笑みを作って、頷いた。
「今日からも君たちのために生きていく。ありがとう、クロエ」
私の夫が、隣で息をしている。
私の左目は見えていて、私の心臓は動いている。
…ああ、カインの顔が見たいわ。
目の端に見えた自分の髪が、白かった気がする。
私も涙が出てきて、エイベルの腕の中で、全てのことに感謝したのだった。
了
お読みくださりありがとうございました! 毎日投稿54日目。




